2023年04月01日

951 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 上田市 生島足島神社 (下)

951 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 上田市 生島足島神社 (下)

常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった49.生島足島神社探検記(長野県上田市)からの転載

  20220908

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 信濃最奥部の神社調査に入りその記憶が残っている間にブログを書こうとしていますが、未だに上田の生島足島神社に停滞し続けており先に進めないでいます。

 基本的には故)百嶋由一郎氏、「常陸の国ふしぎ探検隊」氏の見解で良いかと思うのですが、引っ掛っているのは、947 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社 で取り上げた呉橋(現地の表現では神橋)の問題です。

 これは宇佐神宮の呉橋、古代官道(勅使道)の延長上にある薦神社の呉橋と同種のものであろうと考えています。

 この勅使道(古代官道)も何故か宇佐神宮から西に延びており近畿大和朝廷が造ったものではないと考えてきました。

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大善寺玉垂宮(久留米市三潴) 高良大社下宮(久留米市) 米ノ山峠 飯塚市大分(ダイブ)八幡宮 

香春宮(香春町、採銅所) 大富神社(勅使井戸あり 豊前市) 薦神社(呉橋あり中津市) 宇佐八幡宮(呉橋 古代九州王朝神宮) これも私だけが主張している仮説中の試験的仮説ですが、紀氏の地で知られる国東半島の付け根豊後高田の若宮八幡宮にもどう見ても勅使門としか思えない門がある若宮八幡宮が六郷満山国東王国の入り口にもあるのです この九州王朝古代官道の象徴が呉橋なのです

 ここにおいて、今回、上田市に 前山鹽田神社の神橋(呉橋)に加えて生島足島神社にも同様のものを見ると、これは只ならぬものであり、以前に但馬で遭遇していた兵庫県朝来市の粟鹿神社、赤淵神社(この二社は明らかに勅使門との表現を残している)と併せ考えなければ、生島足島神社の古層に存在する祭神も特定できないのではないかという新たなテーマが浮かびあがってきたのでした。


兵庫県朝来市に勅使門を持つ二つの神社がある 粟鹿神社 赤淵神社

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赤淵神社 カーナビ検索 兵庫県朝来市和田山町枚田2014

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これに加えて、生島足島神社と前山鹽野神社の神橋(呉橋)をどう考えるべきかを整合性を持って説明できなければ、同社の祭神は確定できない様に思えるのです。


無題.png 但馬の赤淵神社の創建は継体天皇25年(531年)とされ、常色元年(647年大化3年)と言う九州年号が書かれています。また、


赤淵神社

 赤淵神社の祭神は、大海龍王神、赤渕足尼神、表米宿彌神の三神です。赤渕足尼命 は表米宿彌命の祖神です。

 神社略記によると大化元年(六四五)、表 米宿彌命が丹後、白糸の浜に来襲した新羅 の賊を討伐した際、沈没しかけた命の船が、 海中から浮かび上がった無数のアワビに助 けられたので、命はそのアワビを持ち帰り、 赤淵神社に祭ったとされています。大海龍 王は海神で、アワビを使い難を救う神で ある といわれています。

 その後、赤淵神社の祭礼にはアワビの 神事が行われ、近隣では今でもアワビを 食べない風習が残っています。

赤淵神社由来記

仰 赤淵大明神 人皇始以来第九代開化天皇御代也 是時皇子四道将軍祀彦坐王  是粟鹿大社之流也 彦坐王為但馬國造子孫代々國造而 司神事執行政務開 拓國土劃治水振興農業以愛民生偉業烈烈恩澤普及 自是營一祠祀歴代國造赤淵 大明神是也


「赤淵神社由来記」は通説とは大きく異なる内容ですが、青枠の「常色元年」が九州年号である事がお分かり頂けますね…従ってこの時代に使われた九州王朝の天皇の一族とその勅使だけが使える門であろうとしか考えようがないのです。

佃収説によれば「常色」は九州王朝の天武王朝(天武の父)647年〜651年の白江戦大敗北に遡る10年前ほど前の物になるのです。

 しかも、彦坐王が出てくる以上、開化天皇の指揮下で行われた(神武僭称贈る崇神)四道将軍の時期と重なる以上、この勅使門は近畿大和朝廷期ではない九州王朝の最発展期の事績であると思われるのです。

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前山鹽野神社 カーナビ検索長野県上田市前山1681 上田市のホーム・ページの画像

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前山鹽野地区は雨が少ない地区との事で、古代には米が得られない豊かとは言えない土地に何故か県社が

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但馬から信濃の神社に痕跡を残す勅使殿、呉橋は何を意味するのか?

“白鳳年号から天武天皇より前の父の時期に造られたか前山鹽野神社の神橋(呉橋)+勅使殿”


 当初、「鹽」の文字が入っているだけで、鹽土翁=神皇産霊神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)若しくは、最低でもその近縁の神が祀られているとの思いが走りました。

神社研究からはそう思うのですが、問題は九州年号から考えるとその時代(百嶋由一郎氏が提案した)的な齟齬(2300年のズレ)の問題が残されているのです。

 佃収氏は民間の古代史研究者ですが、我々のグループの根幹は佃収説+百嶋由一郎神社考古学を根幹としています。元々は古田武彦九州王朝論の範疇に収まっていたのですが、天照、卑弥呼の邪馬台(壱)国

がそのまま近畿大和朝廷の時代の直前まで一系で繋がっているという立場とはそぐわない事象に遭遇し、1015年ほど前から接触が始まった佃収、百嶋神社考古学による多元的九州王朝論に移行したのです。

 恐らく、高良玉垂命(その揮下で行われた指導将軍)〜天武天皇に至る時代に最大版図を確立した九州王朝の痕跡が今目にしている勅使道=古代官道、勅使門、呉橋…であろうと考えています。

 そう考えれば、生島足島神社の神橋の存在も理解できる、決して近畿大和朝廷などのためのの物ではないのです。

 天武天皇(むしろ天武の父)こそが九州を拠点に唐、新羅連合軍と激突し白江(白村江)を戦った張本人です(天武も唐に占領された北九州を離れ奈良に移動したとしたのは佃収先生でした)。

 そして、唐の太宰府占領に対し北部九州を放棄し、既に占領、開拓、植民が始まっていた畿内に拠点を移したのが天武であり、従って壬申大乱も九州と畿内で起こっているのです。

 以下、佃収氏監修の一般向け講演資料 早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)

182183pをご紹介させていただきます。詳しくはネットで佃収と入力し佃収のHPに入って下さい。

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百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記