2023年04月01日

951 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 上田市 生島足島神社 (下)

951 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 上田市 生島足島神社 (下)

常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった49.生島足島神社探検記(長野県上田市)からの転載

  20220908

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 信濃最奥部の神社調査に入りその記憶が残っている間にブログを書こうとしていますが、未だに上田の生島足島神社に停滞し続けており先に進めないでいます。

 基本的には故)百嶋由一郎氏、「常陸の国ふしぎ探検隊」氏の見解で良いかと思うのですが、引っ掛っているのは、947 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社 で取り上げた呉橋(現地の表現では神橋)の問題です。

 これは宇佐神宮の呉橋、古代官道(勅使道)の延長上にある薦神社の呉橋と同種のものであろうと考えています。

 この勅使道(古代官道)も何故か宇佐神宮から西に延びており近畿大和朝廷が造ったものではないと考えてきました。

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大善寺玉垂宮(久留米市三潴) 高良大社下宮(久留米市) 米ノ山峠 飯塚市大分(ダイブ)八幡宮 

香春宮(香春町、採銅所) 大富神社(勅使井戸あり 豊前市) 薦神社(呉橋あり中津市) 宇佐八幡宮(呉橋 古代九州王朝神宮) これも私だけが主張している仮説中の試験的仮説ですが、紀氏の地で知られる国東半島の付け根豊後高田の若宮八幡宮にもどう見ても勅使門としか思えない門がある若宮八幡宮が六郷満山国東王国の入り口にもあるのです この九州王朝古代官道の象徴が呉橋なのです

 ここにおいて、今回、上田市に 前山鹽田神社の神橋(呉橋)に加えて生島足島神社にも同様のものを見ると、これは只ならぬものであり、以前に但馬で遭遇していた兵庫県朝来市の粟鹿神社、赤淵神社(この二社は明らかに勅使門との表現を残している)と併せ考えなければ、生島足島神社の古層に存在する祭神も特定できないのではないかという新たなテーマが浮かびあがってきたのでした。


兵庫県朝来市に勅使門を持つ二つの神社がある 粟鹿神社 赤淵神社

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赤淵神社 カーナビ検索 兵庫県朝来市和田山町枚田2014

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これに加えて、生島足島神社と前山鹽野神社の神橋(呉橋)をどう考えるべきかを整合性を持って説明できなければ、同社の祭神は確定できない様に思えるのです。


無題.png 但馬の赤淵神社の創建は継体天皇25年(531年)とされ、常色元年(647年大化3年)と言う九州年号が書かれています。また、


赤淵神社

 赤淵神社の祭神は、大海龍王神、赤渕足尼神、表米宿彌神の三神です。赤渕足尼命 は表米宿彌命の祖神です。

 神社略記によると大化元年(六四五)、表 米宿彌命が丹後、白糸の浜に来襲した新羅 の賊を討伐した際、沈没しかけた命の船が、 海中から浮かび上がった無数のアワビに助 けられたので、命はそのアワビを持ち帰り、 赤淵神社に祭ったとされています。大海龍 王は海神で、アワビを使い難を救う神で ある といわれています。

 その後、赤淵神社の祭礼にはアワビの 神事が行われ、近隣では今でもアワビを 食べない風習が残っています。

赤淵神社由来記

仰 赤淵大明神 人皇始以来第九代開化天皇御代也 是時皇子四道将軍祀彦坐王  是粟鹿大社之流也 彦坐王為但馬國造子孫代々國造而 司神事執行政務開 拓國土劃治水振興農業以愛民生偉業烈烈恩澤普及 自是營一祠祀歴代國造赤淵 大明神是也


「赤淵神社由来記」は通説とは大きく異なる内容ですが、青枠の「常色元年」が九州年号である事がお分かり頂けますね…従ってこの時代に使われた九州王朝の天皇の一族とその勅使だけが使える門であろうとしか考えようがないのです。

佃収説によれば「常色」は九州王朝の天武王朝(天武の父)647年〜651年の白江戦大敗北に遡る10年前ほど前の物になるのです。

 しかも、彦坐王が出てくる以上、開化天皇の指揮下で行われた(神武僭称贈る崇神)四道将軍の時期と重なる以上、この勅使門は近畿大和朝廷期ではない九州王朝の最発展期の事績であると思われるのです。

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前山鹽野神社 カーナビ検索長野県上田市前山1681 上田市のホーム・ページの画像

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前山鹽野地区は雨が少ない地区との事で、古代には米が得られない豊かとは言えない土地に何故か県社が

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但馬から信濃の神社に痕跡を残す勅使殿、呉橋は何を意味するのか?

“白鳳年号から天武天皇より前の父の時期に造られたか前山鹽野神社の神橋(呉橋)+勅使殿”


 当初、「鹽」の文字が入っているだけで、鹽土翁=神皇産霊神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)若しくは、最低でもその近縁の神が祀られているとの思いが走りました。

神社研究からはそう思うのですが、問題は九州年号から考えるとその時代(百嶋由一郎氏が提案した)的な齟齬(2300年のズレ)の問題が残されているのです。

 佃収氏は民間の古代史研究者ですが、我々のグループの根幹は佃収説+百嶋由一郎神社考古学を根幹としています。元々は古田武彦九州王朝論の範疇に収まっていたのですが、天照、卑弥呼の邪馬台(壱)国

がそのまま近畿大和朝廷の時代の直前まで一系で繋がっているという立場とはそぐわない事象に遭遇し、1015年ほど前から接触が始まった佃収、百嶋神社考古学による多元的九州王朝論に移行したのです。

 恐らく、高良玉垂命(その揮下で行われた指導将軍)〜天武天皇に至る時代に最大版図を確立した九州王朝の痕跡が今目にしている勅使道=古代官道、勅使門、呉橋…であろうと考えています。

 そう考えれば、生島足島神社の神橋の存在も理解できる、決して近畿大和朝廷などのためのの物ではないのです。

 天武天皇(むしろ天武の父)こそが九州を拠点に唐、新羅連合軍と激突し白江(白村江)を戦った張本人です(天武も唐に占領された北九州を離れ奈良に移動したとしたのは佃収先生でした)。

 そして、唐の太宰府占領に対し北部九州を放棄し、既に占領、開拓、植民が始まっていた畿内に拠点を移したのが天武であり、従って壬申大乱も九州と畿内で起こっているのです。

 以下、佃収氏監修の一般向け講演資料 早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)

182183pをご紹介させていただきます。詳しくはネットで佃収と入力し佃収のHPに入って下さい。

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百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

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2023年04月03日

952 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査 “福岡県八女市大籠の正八幡宮”

952 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査 “福岡県八女市大籠の正八幡宮”

20220912

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


名は伏せますが、ご主人が八女市のご出身という某会社の社長夫人の照会からこの調査は始まりました。

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「福岡県神社誌」中巻 312313

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やせ仏本堂と正八幡宮との建物の配置を見る限り、江戸期の神宮寺と言ったものではないようです


当初、電話での照会を受けた時は、夫は東京生まれの東京育ちであり、同地の山にある痩せ仏堂についての記憶はあるものの、隣接する神社は管理もされておらず、放置されているのではないかといったご心配だったのですが、当日(日曜日の8時半に久留米IC付近に集合)9時過ぎに現地に入ると、痩せ仏お堂では、地元のご夫婦による掃除のご奉仕が行われており、隣接の神社の方も特別荒れた状態ではなく、参拝殿、神殿の埃は元より、落ち葉や蜘蛛の巣も無く、台風一過の爪痕も感じませんでした。

背後地の墓所も見ましたが、それほど荒れては無く、夏場にしては比較的通路は確保されていました。

年間500社に近い神社を訪れていた者から見れば、比較的良好な状態ではないかと思った次第です。

神奈川県からの有難いご心配ではあったのですが、この地についてはまだ良好であり、比較的どころか、今どきにしては中の上を下がることはない管理状況にはないと思ったところです。では、失礼な表現ながら、ここでこの神社の概略(素性)を百嶋神社考古学の立場から描いてみたいと思います。

無題.png参拝殿の神額を見る限り、まがうことなき正八幡宮ですが、並んで、祭神が書かれています。これを見ると現在は、応神天皇、比売大神、神功皇后の三神となっており、これは石清水八幡宮を経た鶴ケ丘八幡 宮の祭神に当たるようです。

この鶴岡八幡宮よりも50年古い縁起を持つとの説もある同名の神社が筑豊の田川郡香春町中津原にもあるのですが、こちらは御祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫命 創建 応永5(1398)正月17日…と。

康平6年(10638月、源頼義河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮)康平6年(1063年)8に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮

ここにも若宮が出現するのです。

どうも近年になり兼務神社となった時なのか、終戦間際のS19年に書かれた「福岡県神社誌」でも誉田尊 とあるものが、今や横並びの応神天皇、比売大神、神功皇后の三神に替わっているのです。

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通常は「神社誌」を引用されるだけでしょうが、我々神社考古学のものはそれで終わりにはしません。

まず、「神社誌」には祭神として誉田とだけ書かれています。「尊」を使うのは「日本書紀」ですので、藤原天皇制成立後の8世紀半ばの表現だろうと考えます。

それは一の殿から三の殿まで、応神、比女大神、神功皇后、応神、宗像三女神、神功皇后で祀る様になるのは後の事で、短期間ですが応神(誉田尊)だけが宇佐八幡宮の初期には祀られていたらしいのです。

これが辛島〜大神比義が宇佐を支配していた時代でしょうが、後に本来の祭神であった宗像三女神(実際には大国主の妃の市杵島姫、豊玉姫の二女神であった可能性もあるのですが…これについては当方のブログでも書いていますが宇佐市安心院の三女神社をお調べください)が加わり、最後に神功皇后が三の門に祀られる様になったのです。

従って、仮に同社が八幡宮だったとしても、誉田尊だけが単独で祀られている(面従腹背かも)事はその短い期間の宇佐の形式が持ち込まれたのではないかと推定が可能になるのです。

ちなみに、隣接する忠見村の正八幡宮(村社)は祭神を應神天皇、氣長足姫、武内宿禰、菅原道真の四柱としています。現在の宇佐八幡宮の祭神とは同一ではありませんが、このような一社三殿三神が後の形式であり一般的なのです。さて、ここから先は百嶋神社考古学を理解する方々にしか切り込めない問題ですが、宇佐八幡宮は近畿大和朝廷と共に立ち上がったものであり、それ以前は唐新羅連合軍を相手に白江戦激突を闘い敗北した九州の王権の神宮(宇佐神宮)だったのです。

そう考えると、俄かに現実味を帯びてくるのが神社誌に記述が残る若宮大明神です。

これを応神天皇の若宮(通説では応神の子が仁徳=オオササギなどとされていますが誤りと言うより阿蘇氏をルーツとする藤原による偽装なのです)などとするのは誤りを越える偽装に近いもので、筑後地方にお住まいの方ならお分かりの通り、久留米の高良大社の高良玉垂命の正当皇統の長子(シレカシノミコト)=藤原が応神の子とした仁徳天皇その人(母は仲哀死後の神功皇后)なのです。

従って、宇佐八幡宮成立以前の最古層には宇佐神宮が垣間見えているのです。

この古代宇佐神宮と新たに押し付けられてきた新参の宇佐八幡宮の圧力の時代に本物の八幡宮の意味で応神を受け入れなかったのが正八幡宮だったのです。

その名を留め、古い若宮神社を守ってきた大籠の正八幡宮には改めて敬意を表するものです。

ひぼろぎ逍遥

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行橋市の正八幡神社初見

やまちゃんブログ(愛知県の提携グループ)第七十六話 「贈応神天皇」(2)外をご参照ください。

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まず社名です。八幡とは元々は数多い大型の帆を張る古代の外洋高速船の意味で、実質的には必ず逃げ延びるか、追いつかれてしまう海賊船であり、倭寇船もバハン船とかハバン船と呼ばれていたのです。

その痕跡を留めるのが、破磐神社(兵庫県姫路市西脇1598)であり現存しています。

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 16世紀の倭寇の頭目王直の船団      ほぼ同時期のロイヤルネービーアルマダ海戦


八幡とは多くの幡の意であり古代に大きな旗を使ったのは神社の幟と大型帆船以外は無かったのです。

大陸の西の端のブリテン島も、古くはバイキングに席巻されたのですが、後には、スペイン船への海賊行為で名を馳せたキャプテン・ドレークが、最終的に副司令官としてアルマダ海戦でスペイン艦隊を撃破し七つの海を支配する最強国家にのし上がって行ったのです。イギリスとは海賊集団が作った国家です。

一方、古代の東アジアでも初期の権力を支えたのは海上交通権を握る人々であり、その首領の一人こそ博多の櫛田神社の主神の大幡主(カミムスビの神)「古事記」では神産巣日神、「日本書紀」では神皇産霊尊、「出雲国風土記」では神魂命(カモスの命)と呼ばれる造化三神の一人なのです。

彼らは北部九州の天然の良港博多を拠点に、半島、大陸、インドシナ…との交易を行っていたのです。

シンドバットの話まで広げる必要はありませんが、古代史に関わる話としては、インドのアユタヤから伽耶の国へ来たと言われる首露王妃の話も、こうした古代航路の存在があったればこそなのです。

勿論、インド洋を支配していたのは、ダウ船を駆使するインドの商船隊でしたし、インドシナから大陸、列島、半島を股にかけ交易を行っていたのは、広東省、福建省、浙江省(それに平戸、台湾)の倭人でした。

倭寇時代の王直は平戸を根城にしていましたし、後の対明国、対清国への抵抗運動を続けた鄭成功(国姓爺合戦)も平戸松浦藩の松浦水軍の有力者の娘を母にしていたのです。

古代に大量の物資と人員を運べるのは船以外にはありませんでした。

この人々が、古代王権の根幹を支えていたわけであり、どこの馬の骨とも分からぬ応神ごときを受け入れなかったのが博多の櫛田神社の大幡主を奉斎する人々だったのです。

従って、この大籠村で良いのでしょうか、この神社を奉斎した人々には歴史の変遷の中、私には重層的な三つの祭祀の存在その時代が不鮮明ながら浮かんでくるのです。

それは、高良大社の高良玉垂命と仲哀死後の神功皇后を妃として生まれた五人の皇子の長子シレカシノミコト(後の仁徳天皇 普通はオオササギ)こそが筑後にも色濃く残る若宮神社であり、江戸期には神仏混交により若宮大明神と呼ばれたのでした。その後、宇佐の勢力が勢いを増し、仕方なく受け入れたのが多くの八幡社であり、それに抵抗したのが正八幡宮だったのです。この大籠にはその痕跡が見て取れ、渋々誉田尊を受け入れたものの、社名だけにはその痕跡を残した神社の一つが正八幡宮なのです。

その意味から若宮〜現在までを繋ぐ間に存在したのが抵抗を続けた栄えある正八幡神社だったのです。


若宮神社 → 正八幡宮(宇佐八幡宮を受け入れなかった時期) → 正八幡宮として応神を単独で受け入れ


私が若宮にことさら拘る理由は、この神社においては古い祭祀が残されていると感じているからです。

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境内社への参道石段の配置から、これが高良の若宮=仁徳と考えられそうですが、お后を連れて鎮座されています。スキャンダルもあり多くの妃もお持ちでしたが、正妃の磐之媛と考えるの順当で、髪長姫とか黒日売…ではないでしょう。 右は「高良玉垂宮神秘書」から

鏡しか置かれていない本殿に対して境内社に木造があるのは応神を受け入れた結果なのでしょうか?邪魔になった若宮は神殿からは出されたのでしょう。さて、参拝殿正面上の神紋に注目して下さい。

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その痕跡を留めるものが残されていたのです。それはが同社神殿上部に打たれていた五七の桐紋でした。紛うことなき五七の桐紋ですが、では、何故、この紋章が許されているのでしょうか?

それは、呉の太伯の血統をひく高良玉垂命の長子であり、聖帝として知られる正当皇統の天皇であったからなのです。

古い時代には、九七の桐紋が存在した時代もあったのですが、通常、五七の桐紋は天皇家の一族が、三五の桐紋は天皇家と姻戚関係を結んだ一族だけに許されるもので、本来、この紋章に相当する方が祀られていたはずなのです。神功皇后は天皇のお后とされています。仮に仲哀を天皇とすればですが、それでも三五の桐紋に過ぎません(仲哀死後の神功皇后は第9代とされた開化の正妃だったのです)。

応神がいるではないかと言われるでしょうが、彼は別王(ワケ王)であって正当皇統ではない阿蘇氏=藤原氏が呼び込んだ一族です。

そもそも、応神を祀る普通の八幡宮を参拝し五七の桐紋など見たことも聴いたこともないのです。

唯一、可能性があるのは、高良玉垂皇子=開化天皇の直系の若宮こと仁徳以外にはありえないのです。

これだけのことを理解できる人物が、この神社の氏子集団の中におられた事が推定できるのです。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


不十分ながら、初見の未踏の神社を乱暴に概観してみました。

今後、色々な情報が入り、隣接する忠見の正八幡宮の現地リポートなどを加え、多くの知見を併せ再度書く時もあるでしょうが、短期間で書けるのは所詮この程度でしかありません。

今夏、二週間を掛けて三度目の信州、甲斐の神社調査を行ってきました。最終的には山中湖湖畔の友人の別荘で休養し帰路に就いたのですが、グーグルで信濃、甲斐の若宮八幡神社の検索を行いました。

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これは長野県の若宮八幡神社の拾い出しですが、画面に収まりません。16社は数えられますが、実際にはこれ以上拾えます。この傾向は山梨県、新潟県でも顕著で、静岡県では30社近くが拾えます。

九州では筑後地方に痕跡を留める程度にまで消された感のある同社ですが、今後の課題です。

この古代、八女市の中枢部であったと考えられる同地については、元々、源平期から百嶋由一郎氏のご先祖の一族が黒木の支配層として居住されていた土地です。

このため当グループも何かを調べて発表するなどという事は気恥ずかしくてあまり手を付けず、水害などもあったためこの間敬遠してきました。

ただ、我々も百嶋神社考古学との接触から15年近くなり、会の存続と、研究者の確保、データの継承を考えると、この八女の中枢部についてもそろそろ手を着ける必要を感じており、取っ掛かりとしてこの二つ正八幡宮とN事務局長によるガイドで新たなトレッキングを企画したいと相談しています。

まだ、信州、甲斐の調査報告も半ばであり、気もそぞろというところですが、突発的に色々なテーマが出現するものです。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

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2023年04月06日

953 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査神 “福岡県八女市忠見の正八幡宮”

953 神奈川県への移住者の照会から始まった神社調査神 “福岡県八女市忠見の正八幡宮”

20220912

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


隣接する集落の正八幡宮についても見ておく必要があると向かったのは忠見の正八幡宮でした。

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「福岡県神社誌」中巻 312313


大籠正八幡宮よりは低地の星野川沿いの一角に同社はあります

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同社の由緒によれば


正八幡宮由緒 御神祭 応神天皇、神功皇后、武内宿禰


この神社は、治承四(西暦一一八〇)年に八女市山内の犬尾城主・川崎定宗が大隅国桑原郡の正八幡宮(現・鹿児島神宮)を勧請し、川崎の荘の鎮守としたものです。…


とあります。一方、百嶋由一郎氏からは別の話を聴いております。バックナンバーをお読みください。」


ひぼろぎ逍遥(跡宮)218 鹿児島県の大隅半島に橘神紋を探る! “大根占の河上神社” 20160314


久留米地名研究会(神社考古学研究班)当時 古川 清久


今回の神社探訪は、神武天皇の本当のお妃であるアイラツヒメの伝承を求めて宮崎県日南市油津の吾平津神社を見た後、大隅半島の錦江湾側の鹿児島県旧大根占町(現錦江町)の河上神社を見ることが目的でした

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カーナビ検索 鹿児島県肝属郡錦江町城元2088


祭神鵜草葺不合尊 神武天皇 五瀬命 稲飯命 三毛入野命


無題.pngHP「八百万の神」による

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同社の縁起          参拝殿とあまり見かけない石造りの壇(天壇?)


祭神を見るとウガヤフキアエズ(実はニギハヤヒの息子)が筆頭に神武天皇が最後尾に掲げられているという特殊性が際立っています。

 こういった場合、最後の神武は、格下の神武僭称 贈)崇神であることが多いのですが、百嶋神社考古学では、三毛沼命、三毛入命は贈)崇神としますので、重複することになります。

 してみると、この神武は本物であり繰下げた可能性も全く否定はできないかも知れません。

さらには稲飯命については、ウガヤフキアエズと海神の娘であるタマヨリビメの子とする説もある事から、ここでは、安曇磯良を祀っているのかも知れません。

結論から言えば、贈)崇神と山幸彦=ニギハヤヒ系の子のウガヤフキアエズ、その子の安曇磯良を奉祭する物部の匂いの強い配神の神社であると言えそうです。

参拝殿、神殿は至って質素ですが、正面の天壇かとも錯覚するような石造りの壇が印象的です。

参拝殿に入ると光り輝く橘の神紋が眼に飛び込んで来ました。

 今回は、これを確認するために長駆、単騎の遠征をしてきたのでした。

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紛うこと無く橘一族の拠点の神社という事になるでしょう


先に、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮) 215 鹿児島の大隅半島大根占の河上神社と福岡県八女市黒木の猫尾城が繋がった で、九州王朝の中枢領域を支えた黒木一族の一流が、根占から入ってきている事を確認したとして、「最近、百嶋神社考古学勉強会メンバーのN氏が持ち込んできた旧黒木町の「郷土の文化財」を読んでいると、百嶋神社考古学神代系譜(ヤタガラス系譜)に何故、鹿児島の大隅半島の大根占にある河上神社の事が強調されていたかの理由が少し分かって来たような気がしてきました。

最低でも、根占の河上神社の神紋と黒木の一族との繋がりが発見できた事にはなるようです。

勿論、百嶋先生も栄えある南朝方として橘の神紋を使う河上神社を奉祭する一族であり、九州王朝に仕えた臣下だった事が垣間見えて来たのでした。」としました。

今のところ、八女の黒木と根占の河上神社との関係については暗中模索といったところです。

いずれ、この橘の神紋の重要性が分かるかも知れませんが、まだまだ探索は続きそうです。

一つだけ分かった事がありますが、九州の南朝方として戦い続けた菊池氏、阿蘇氏、五條家、黒木の一党…その中心となった懐良親王が、始めは鹿児島に上陸し、後に矢部を本拠地としたという事実に関係していたのが黒木助能に繋がる一族だったのです。

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誤解が生じない様に補足します。「結論から言えば、贈)崇神と山幸彦=ニギハヤヒ系の子のウガヤフキアエズ、その子の安曇磯良を奉祭する物部の匂いの強い配神の神社であると言えそうです。」としましたが、それが直接に橘の神紋と繋がる訳ではなく、あくまでも橘は石清水八幡系の紀氏の系統のもので、基本的には豊玉彦=ヤタガラスの系統を意味するものであり、その配下で活動していた一派にニギハヤヒの系統があったという意味なのです。

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その後、橘の一部を椿に替えるなど分解も生じているのです。

最後にこの薩摩半島の錦江湾側の先端に近い佐多に田之崎港があり、対岸の薩摩半島の先端、開聞岳の西に同じく田ノ崎港がある事から、この一帯は、薩摩から大隅、大隅から薩摩へと移動する要地、つまり、九州の東岸と西岸を繋ぐ要衝であった事も見えるのです。


黒木は熊襲の一派だったのです  無題.png 百嶋神社考古学初期01220813)大根占川上神社

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百嶋由一郎氏の先祖のルーツも八女の黒木でありここの人々は大山祗系(アーリア=トルコ系匈奴)と…


 黒木のルーツは一先ず置くとして、次に進みましょう。この参拝殿にも五七の桐紋が打たれています。

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無題.pngこちらは16葉菊紋ですね


無題.png社日神にはあまりなじみがない方が多いと思いますが、ここの境内にはあります。一応、伊勢の外宮こと豊受大神と理解しています。

ここで注意を要する事があるように思います。

 黒木と八女中心部を同列に考えるべきかの問題があります。

 黒木と八女が長期間に亘って政治的に同じ歩調を歩んでいたのかどうかも不明ですが、黒木が根占から入って来た氏族として、八女中心部はどうだったのかは知識を持ちません。

 我々はと言うより、私は中近世に関心が無い為見当もつかないのですが、どなたかお手伝い頂きたいぐらいです。

 百嶋由一郎の根占のメモと、猫尾城(猫は開化天皇の和風諡号ワカヤマトネコヒコのネコを意味するという話が我々内部では常識になっていますが…)で始まる文章が根占の話と鹿児島神宮の話とごちゃごちゃになっていますが、私も良く分からないまま、いずれにせよ熊襲起源の人々が八女にも入っていた事実を認識するところまで進んできたと思うところです。

 参拝殿の写真が良く撮れてなかったのでネットから無断借用し、ここらで終わりたいと思います。画像は「ちくごさるく」様です。

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最後のページを利用し、途中で出てきた鳥子系図を出しておきます。ヤタガラスの後裔氏族です。

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百嶋由一郎が残した神代系譜90枚、講演録音声 CD340時間9枚、手書きデータ・スキャニング・データを必要な方は、09062983254までご連絡ください。フルセットを11,500円程度でお送りできます。

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