2023年01月15日

936 ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

936 ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

   20220326

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この講演会は、久留米で行った講演会に参加できなかった熊本のメンバー56人を対象に再度、勉強会を開くものです。この話は「古事記」「日本書紀」の嘘話を暴く格好のテーマでもあるため。少し無理やりの話ではあるものの、無理してお集まり頂こうと企画したものです。

今の時代は一度に沢山のメンバーを集めて一機に話を進めるという訳には中々旨く行かないものです。

しかし、小規模集会だけによりキメの細かい突っ込んだ議論も行える訳で、実際には期待してもいるのです。

実は先行して佐賀でも小規模な勉強会を行いましたが、徐々に活気が出てきた印象を持っています。

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熊本神代史研究会2022(西阿蘇分散勉強会)



415日(金)1230〜 於:熊本県西原村萌えの里手前の伊藤研修所(仮称)


テーマ:「ヤマトオグナの熊襲退治により許された河上 猛は福岡市早良区に落ち延びた〜」


@  熊襲退治の現場は佐賀市(旧大和町)長崎自動車道佐賀大和IC 川上峡温泉付近

A  河上 猛は神埼市(旧脊振村広瀧)で誅殺を免れその中枢一族は福岡市早良区の某所に移動している

B  その場所と名前が判明しました

C  仮説)この一族が大分県豊後大野の緒方三郎惟栄、阿蘇大蛇伝説の大神惟基になるのではないのか

D  祖母山の意味とはそして、ウガヤフキアエズ王朝説とは

E  琵琶湖北岸の伊吹山と姉川と妹川…そして脊振村の川下にも姉川がある


参加費+資料代:600円(70p資料代) 駐車場は問題ありません 当日連絡 09062983254


提出者:太宰府地名研究会編集員 古川 清久

無題.png会場:

手打ちそば 平田庵 俵山湧水そば

熊本県阿蘇郡西原村大字小森1805-8正面の旧宅

駐車スペースは十分にあります

昼食は萌の里の弁当が安くて美味

修了は遅くも16:00

今年の23月は少し異常な事が起こっています。そもそも年末年始頃から百嶋神社考古学の神代系譜などを希望する方が目立って増えており、3月の半ばの一週間に4050代の男女4人からトレッキングに参加したい、百嶋神社考古学の資料を欲しいとの要望があったのです。加えて80代の僧籍の方からもと…、ここ3年妙なウイルスに邪魔されながらも活動を継続してきたからか、時代の閉塞感、不安感が自らが何者であるかを知りたい…といった現れなのか今のところ良く分かりません。新年度からは大っぴらに活動できれば良いのですが。まあ、現在の売●政権ではどうせダメなのでしょう。

今回の河上 猛と日本武尊の話は単に福岡佐賀だけの話にとどまらず、新たな展開を見せてきました。

先走った話になりますが、ここでは簡単な予測というか簡潔に仮説を提出しておきたいと思います。


@  ヤマトオグナ(後の日本武尊)の熊襲猛退治の話はつとに有名ですが、お伽噺のように扱われ何処の話か分からなくなっています。しかし、これについては佐賀市(旧大和町)長崎自動車道佐賀大和IC 川上峡温泉付近であったとの伝承や痕跡があり、旧大和町史、熊本市在住の故)平野雅廣氏の指摘や付近の寺の記録があるのです。

ただ、今回はこの話を飛ばし、早良に落ち延びた河上 猛の話を中心に行います。

A  河上 猛の一族とは久留米の高良山に盤踞したウガヤフキアエズと阿蘇初代宮司家の奈留多姫の間に生まれた相当に重要な氏族でした(百嶋由一郎最終神代系譜)

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Bこれを誅殺したとされるヤマトオグナも近畿大和朝廷から派遣された皇子などというのは大嘘で、熊襲内の傍流の一派でした。(国立国会図書館所蔵「松野連系図」参照)

C  百嶋由一郎の神代系譜と松野連系図とを併せ考えると、肥後の一帯に居た別派が九州王朝の一流れを撃った内ゲバに等しいもので、だからこそ誅殺(テロ)隊程度の存在で決着が着いたのでした。

(黄色枠と緑枠の対立)

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平野雅廣(日+廣)「火ノ国山門」2021pより(以下倭五王に続く)


D  恐らく背景にあるのは海幸彦系と山幸彦系の対立構造であり、河上 猛の父はウガヤフキアエズ(山  幸彦と豊玉姫の間に生まれた)、母は奈留多姫(海幸彦=草部吉見とその弟健磐龍の両派の本流を汲む雨宮姫の娘)を草部吉見と神武に敵対し敗残したナガスネヒコの妹=オキツヨソ足姫の孫に当たるのがヤマトオグナ(出身地は肥後の山門)後のヤマトタケルなのです。百嶋由一郎系譜参照

E  河上 猛はそれほどの一族であったが故に容易には誅殺できなかったのかもしれません。何故ならば、ヤマトオグナの一族とは逆族ナガスネヒコの血を汲む一族だったからです。松野連系図参照

F  八坂刀売を祀る福岡市早良区原の諏訪神社の周りには6つのO姓の家が在り、そのうちの一軒はかつては宮司家でもあったのです。とすると、百嶋由一郎が言い残した河上 猛の一族とはO姓の一族以外には考えようがありません。もしかしたら家伝さえも残っているのではないでしょうか?

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故)百嶋由一郎は、河上 猛の一族は旧脊振村(現神埼市)の中心部広滝で許され福岡市早良区原に移り住んでおられます。名前も、場所も分かっているが、可哀そうで言えない…と言い残し亡くなられました。1800年も前の話にも関わらず、今も纏まって住んでおられますとは聴きましたが、正直言って6軒もの方がおられたとは思いもよりませんでした。

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G  そうだとすると、次に頭を過るのは阿蘇大蛇伝説の大神一族とは河上 猛の一族だったのではないかという驚くような想定です。この現場、豊後竹田の穴森神社と豊後大野の宇田姫神社に纏わる祖母山の大蛇伝説から「平家物語」にもその名を遺す大神惟基(阿蘇の重要な家系は「惟」を通字とします)、義経を呼び込み頼朝とも決戦を準備したその後の大神(緒方)惟栄の一族、宇佐神宮に八幡神を持ち込んだ大神比義の一族もこの河上 猛の一族であったようなのです。

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H話はこれだけに留まりません。通説では神功皇后の出身地は琵琶湖北岸の米原辺りなどされていますが、佐賀県佐賀市(旧三瀬村杠)には野波神社があり、神功皇后が主神として祀られており、その直ぐ近くには父の息長宿祢、母の葛城高顙媛をだけを祀る下の宮があるのです。詳しくはひぼろぎ逍遥と野波神社でダブル検索を試みてください。当然、伝承もあり息長宿祢は現北山ダムの底に野波神社が存在し、そこから二度の移転が行われ現在の地に鎮座しているのです。神埼市(旧)脊振村には母の葛城氏の一族が、佐賀市(旧)三瀬村には父の息長氏の一族が居たのです。


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I  そこでお考え下さい、日本武尊は琵琶湖北岸の伊吹山に向かいますね、佐賀県神埼市の旧脊振村にも伊福(これが伊吹山になった?)という集落があります。旧脊振村の中心部の広滝には広滝神社があり、由緒には河上 猛と日本武尊についてのだけの伝承が書かれているのです。さらに川を下れば、ヤマトオグナが拠点としたとの話がある白角折(オシトリ)神社までがあるのです。どうも神埼市側から少人数の部隊が佐賀市側に侵攻しているのです。日本武尊の東国進出の一つ琵琶湖の北岸の名山伊吹山がありますが、その裾野に姉川があり織田、徳川が浅井、朝倉を攻めた戦国期の激戦の舞台があるのです。

J  面白い事にこの神埼市には姉川という地名があります。JR長崎本線の神埼駅と佐賀駅の間に伊賀屋駅があります。その傍が姉川地区なのです。実は、滋賀県の姉川の上流には支流として妹川(草野川)があります。恐らく神埼にも妹川もあったと思いますが、ほ場整備や国土調査が行われると地名が消えてゆきます。現在、明治期の全国小字調べに当たっていますが、確実にあるのが、福岡県久留米市の東隣のうきは市には浮羽町妹川地区があります。この地では製鉄が行われていました。

そうです。鋳物師(イモジ)の川だったのです。

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佐賀県神埼姉川 と 福岡県うきは市妹川


K  そして、恐らく風を求めて神埼市の妹川は浮羽に移動したのです。それを思わせるものがあります。それは、佐賀市にも、うきは市、久留米市に巨勢川が流れているのです。そもそも、神埼市には的と書きイクワと呼ばれる大字があります。このイクワが、生葉となりうきは、浮羽に変っているのです。

L  では、琵琶湖の北の伊吹山の麓に流れる姉川と妹川をご覧いただきましょう。

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この高野川が別名妹川ですが、長浜市の中心部、姉川の下流で北流し姉川と別れるのです。

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神埼市と言えば吉野ケ里遺跡に隣接する佐賀市の東隣の市ですがそこに姉川地区があるのです


ひぼろぎ逍遥スポット131 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!

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伊吹山が歴史上での初見は古事記ですが、伊吹山の呼称には「膽吹山」、「伊服岐能山」、「夷服岳」、「伊布貴」、「伊福貴」、「五十葺」、「異吹」、「意布貴」、「伊夫岐」、「伊服岐山」など実に沢山あります。                  日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) の伝説」より


まさか、ヤマトタケルが退治に出かけた伊吹山の荒ぶる神とかも背振の下の伊福の話ではないでしょうね。まだまだびっくりする話があり続きますが、ここで止めます。このような話に展開して行くのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記