2023年01月06日

933 ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?(上) ❾

933 ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?(上) 

20220318

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部はどのような土地だったのか? と妙なタイトルにしましたが、結論から言えば、これも故)百嶋由一郎氏が言っていた“久留米高良山に移動する前の九州王朝の本拠地は佐賀の久保泉から背振に掛けての一帯でした”という話の後追いをしたいと思うのです。

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かつては高良(甲羅)とも呼ばれていた


以前、ひぼろぎ逍遥066 において以下の小稿を書いています。再掲します。

066 葛城のナガエソツヒコは神埼市(旧脊振村)桂木にいた 大宰府地名研究会 古川 清久 20140428


063 神埼の櫛田宮内の二つの稲荷神社の祭神 に於いて、


太宰府地名研究会は、去る419日、「東肥前の神々」として、25人規模の現地トレッキングを行いました。“テーマは旧神埼郡(旧脊振村)に葛城(桂木)、一言主神の故地を探る“(旧脊振村には現在も桂木、永江、長江という字が残ります)というものでしたが、各々の参加者はそれぞれ得るものがあったと思います。


…としました。では、その旧脊振村鹿路の桂木バス停と鹿路神社をご覧いただきましょう。

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そもそも日本書紀によれば、神功皇后は夫(とされる)仲哀天皇と供に、反乱を起こした九州の熊襲を成敗しょうと筑紫にやってきますが、仲哀は急死します。
 武内宿禰と六男の長江曽都昆古(ナガエソツヒコ)後の葛城襲津彦(カツラギソツヒコ)の協力もあり熊襲を討とうとするのですが、彼らを支援していた朝鮮の新羅を討つ為に、妊娠中にもかかわらず皇后は出産を遅らすために石を布で腹に巻き、武内宿禰親子を従え渡海して新羅を攻撃し滅ぼし、百済、高句麗は戦いもせず平伏させ凱旋し応神を産むのですが、その後皇后は幼少の応神を摂政として助けたとされています。
 また、その治世においては半島との交流を進めるとともに、百済からは王仁博士が鍛冶工や服織工を率いて移住し、論語十巻、千文字一巻を献上し儒教を伝えたとします。

まず、神埼市の吉野ケ里丘陵の西には王仁神社があるのですが、それについては別稿とするとして、旧脊振村腹巻には永江という字が、鹿路神社がある鹿路地区には桂木という地名が今も確認できるのです。

 では、曽都(襲津)は?と問われそうですが、あえて言えば、佐賀市の西の牛津がソツに当たりそうです。まず、古代、お隣の三根郡には葛城郷がありました。


三根郡  太宰管内志

葛木 一言主神社 葛木郷 物部經津主神 物部郷 漢部郷 米多郷 千栗郷 千栗八幡社

〔雄略天皇紀〕身狭村主青の記事、〔和名抄九巻〕三根郡千栗物部米田財部葛木 

三根郷と葛城郷 角川 日本地名大辞典 佐賀県より もどる

当町(三根町)は海抜34mの沖積層からなる平地部のため史跡は乏しい。石井・持丸・本分などに貝塚があり,出土品としては石器・土器などが発見され,本文遺跡からは甕棺・紡錘車・石包丁や獣骨などが出土している。弥生時代は海岸線であったと思われる。

  三根の地名は「肥前国風土記」に「同じき天皇(景行天皇)行幸しし時,(中略)此村に宿りましき。天皇,勅りたまひしく,〈夜裏は御津甚安穏かりき。此の村は天皇の御寝安の村と謂ふべし〉とのりたまひき。因りて御寝と名づく。今は寝の字を改めて根と為せり」とあるところから呼ばれるようになったと思われる。古来,この里は平和で豊かな人間味あふれる至誠の民の住むところであったと伝えられている。また,「肥前国風土肥」にみられる景行天皇の征伐説話は三根にも及び,この地方に対する大和朝廷の勢力を物語るものとして注目される。

  嶺県主の存在は,大和朝廷の勢力圏にあったと思われる。また,「肥前国風土記」「延喜式」「和名抄」などによると,神埼郡は三根が分離しないころは,15郷からなる最大のものであり,筑紫米多国造の勢力基盤であったといわれている。そして三根は県主の勢力圏の上に成立していたといわれている。三根郡司に海部直鳥の名が推定される。米倉二郎氏が「肥前国風土肥(ママ)」の各郡の復原条里数を推定したものによると,三根は530里となっている。これは条里区画が漸進的に開発され,その田数が増加したものであるといわれる。…

「和名抄」には三根郡葛城郷が見え「三代実録」貞観15年(873916日の条に葛木一言主神のことが見え,筑後川に近い天建寺宇土居内に祭祀されていた式外社の1つであることから,当郷は天建寺一帯に比定される。一言主は大和国(奈良県)葛城山の神で,のち葛城神社となった。

葛城神社〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

  三養基郡三根町大字天建寺字土居内にある神社。旧村社。祭神は葛木一言主命。創建年代不明。貞観15916日に正六位上から従五位下となっている(三代実録)。一言主命は大和国葛上郡葛城山の神であり,当地にいたとされる葛城部によって勧請されたと伝えられる。明治6年村社となる。なお,当社から天建寺一帯が,「和名抄」に記す葛木郷であったといわれている。

葛木郷〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

〔古代〕平安期に見える郷名。「和名抄」三根郡五郷の1つ。刊本の訓は「加都良木」,伊勢本の訓は「加津良木」。式外社の葛木一言主神が三根町天建寺に祭祀されていることから,天建寺付近に比定される。また郷名から葛城部の存在が考えられる。「肥前国風土記」によれば,漢部郷に忍海漢人を連れてきて兵器を製造させたと記すが,忍海漢人と葛城氏との深い関連を考えると,忍海漢人と葛城氏が同時に移住してきた可能性が強い。「九州の山と伝説」より(当時菊池地名研究会メンバーの牛島稔太のHPより)


無題.png 普通は奈良から勧請されたとでも書かれそうですが、あたかも、葛城氏はこの地から奈良に移動したかのような書きぶりです。

ただ、この地は古代には明らかに海の底と思える場所で、もっと内陸部に葛城の故地があると探していました。

みやき町天建寺土居内の葛城神社 天建寺橋で筑後川を渡ると直ぐのところにあります。「九州の山と伝説」でも「神埼郡は三根が分離しないころは,15郷からなる最大のものであり,筑紫米多国造の勢力基盤であったといわれている。」と書いているように、旧脊振村(現神埼市)に葛城があっても決しておかしくはないのです。最早、疑うべくもありません。

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葛城氏は後に奈良にも移動、展開したのでしょうが、彼らの故地は、現在の佐賀県三養基郡、神埼郡の地であり、九州王朝を支えた最重要の氏族だったのです。

肥前には武内宿祢の父親とされる屋主忍男武雄心命が主神として祀られる武雄神社(武雄市)があり、母親の山下影姫を祀る黒尾神社、黒尾岳が、その北東4キロに(ちょうど夜這いで行ける距離)現存しています。

この山下影姫を祀る黒尾神社は武雄市内に4社はあり、三養基郡と並び、紀氏とも言われる母方の故地のように見えます。そもそも、武内宿祢の出身地とされる紀州には、影姫を祀る神社はないのです。

母親を祀る神社がなければ、出身地のはずがないのです。ここまで考えてくると、葛城氏、紀氏はこの一帯に広く展開していたようです。してみると、葛城襲津彦どころか、蘇我石河麻呂、巨瀬小柄臣、木角臣…などもいた可能性が考えられます。佐賀市には今も巨勢川が流れ、神埼郡吉野ケ里町には石河を思わせる石動(イシナリ)という地区があるのです。

朝鮮語では川はナリと呼び、久留米市の大善寺玉垂宮正面を流れる広川は古くはアレナリ(川)と呼ばれたのです。

恐らく、葛城襲津彦の兄弟達もこの一帯にいたのです。それを意味するかのように、葛城を思わせる香月姓は、福岡県に723件(全国1位)、佐賀県内に362件(全国2位)存在し(ちなみに3位は大阪府の69件)、佐賀県では圧倒的に神埼郡、佐賀市に集中しているのです(HP「姓名分布&ランキング」)。

東京オリンピック当時の佐賀県知事は香月氏でしたが、彼も恐らく葛城氏の末裔だったのでしょう。

司馬遼太郎も取り上げた大和朝廷に先行する葛城王朝については、なお、定説を見ませんが、決して、奈良から始まったのではなく、脊振山系の南麓に端を発したのです。

ちなみに、我が神社考古学の師、百嶋由一郎氏は、「ここの桂木には、高良(甲羅)という地名表示も残っていました」と言われていました。ようやく、その意味が少しは分かってきたように思います。

どうやら、「古事記」、「日本書紀」を金科玉条とする間の抜けた畿内説論者はただの無知と思い込みから無自覚に、記紀で偽装した藤原一派は、意図的に徹底して紀氏や葛城氏の歴史を隠そうとしたようです。マキムクで馬鹿騒ぎをする邪馬台国畿内説論者の愚かさには改めて驚かされます。

さて、このことに気付くまでに、糸島市の写真家松尾紘一郎氏から重要なアドバイスを頂いていました(資料添付)。

また、独立系の九州王朝論者の佃収氏の関連文書も読ませて頂きました。当然にも、百嶋先生からも数年前にこれについてのサジェスチョンを口頭で得ていました。

この、三者の先行する研究者の示唆により、葛城氏の故地を発見できたのです。皆さんに改めて深謝!

最期になりましたが、最近、製鉄遺跡として近年有名になった九大移転地の元岡遺跡のそばにも桂木というバス停があり、付近には六所神社があることを松尾紘一郎氏から教えて頂きました。

氏(ひぼろぎ逍遥のトップ画面の写真提供者でもある)は、「ロク」という音と桂木には関連があると言われていました。

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脊振の桂木がある場所が、鹿路(ロクロ)地区でしたし、糸島の桂木のそばにもロクショ神社があるのです。氏の慧眼には改めて驚かされます。

もしかしたら、川上の淀姫神社よりさらに50年古い縁起(1650年)を持つ上無津呂の淀姫神社が鎮座する佐賀市(旧富士町)の最奥部の上無津呂、下無津呂の無津呂の意味も、鹿路と同様にロクロと読むべきなのかもしれません。

なぜならば、武内宿祢の身代わりとなった壹岐眞根子(イキノマネコアタイ)を思わせる真名子という集落が隣接しているからです。以下は松尾紘一郎氏からのアドバイス。      以上全文再掲載。

さて前置きが長過ぎましたが、ヤマトタケル(後に日本武尊と書かれた)の子は仲足彦(藤原が仲哀天皇扱いした)であり、そのお妃は神功皇后(百嶋神社考古学では、後に高良玉垂命=第9代開化天皇の后となり、後に仁徳天皇とされた長子シレカシノミコト以下四人の皇子を産む)ですね。実は、この神功皇后のご両親は脊振山系南麓の山内(サンナイ)に居たのです。これについては、当方が書いたブログもあるのですが、メンバーの宮原誠一氏によるリポートがありますので、こちらをご覧頂きたいと思います。

スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”20171010(神社考古学研究班)古川 清久 をお読みください。ここではその主要部分をご紹介しておきます。次ブログを…。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記