2023年01月03日

932 早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

932 早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

20220315

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 早良の諏訪神社が河上 猛の一族が佐賀の川上峡からが移住した中心地だったと確信を持った後、改めて「福岡県神社誌」(上巻)を読み直しました。その意味では順番が逆になったかも知れません。

 何故なら、普通の方は書かれたものを第一義的に拝跪する方が多いはずです。

その意味では書かれたものをそのまま真に受けないという我々の悪い癖の様なもので、決してお勧めはしませんが、補足的な資料としか見ないのです。

ともあれ、神社誌を読むと、ただの推定仮説がかなり補強されました。

 今回は、そのことをお知らせしようと思います。

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文字が見辛い場合は上部メニューの表示を選択し拡大下してさい「福岡県神社誌」(上巻)90p


 高々「神社誌」を持ち出してそれだけでブログを書き上げようとするのは気が引けます。

ただ、こちらとしても「神社誌」さえ目を通していないのかなどと言われそうですので、慌てて予防線を張っただけなのですが、やはりかなり有益な情報が拾えて良かったと思っています。


神社誌から


 祭神が建御名方、菅原神とあります。冒頭に付近の二つの天満神社を大正期に合祀したものと書いてありますので、菅公はそれ以降のものの様に思えますが、「筑前國続風土記付録」を引用した後段では、祭神として建御名方、住吉、熊野三神とあり、それも真実を伝えているようです。

今でこそ、海から3キロ近く離れていますが、神功皇后征韓御凱旋に上陸…ともあり、海人族の領域であったことは一目であり、すぐ東には荒江の交差点があるように、古代にウヲーター・フロントであったことは疑いようがないのです。

 また、荒五郎社をも祀ると書かれていますが、この荒五郎については、当会メンバー「宮原誠一の神社見聞諜」を参照して頂ければ、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神の子豊玉彦=ヤタガラスとお分かりいただけるはずで、この点からも住吉の神を祀るものであったろうことも確実なのです。

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そもそも、河上 猛の母 奈留多姫は久留米の高良山にいたウガヤフキアエズの妃であり、そのウガヤの子が安曇磯羅=上筒男命なのですから海人族の巣窟のような場所でもあったろう事は間違いないのです。

その意味で、今でこそ住宅地としては一等地なのですが、表現は良くないものの古代には臨海部の雑駁でその手の人々が住み着くような場末の海浜地だったはずなのです。以下荒五郎をご紹介致します。


宮原誠一の神社見聞牒(005)
平成29(2017) 326

No.005 大橋町蜷川の片淵神社と荒五郎

蜷川の箱崎八幡神社は筑後川の近くにあり、旧浮羽郡田主丸町片ノ瀬のすぐ西に位置する。この村の最初の神社開基は「片淵神社」の水神社で、智僧B二年(566)。「大化」の年号より古く、「智僧」は九州年号である。古くは「荒霊宮」と称し、明治2年(1869)に片淵神社と改称し、大正元年(1912)に現在の箱崎八幡神社境内に移っている。現在、片淵神社は改築中で、社殿も鳥居もみることができない。

  箱崎八幡神社 福岡県久留米市大橋町蜷川字宮ノ前1012

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神社建立について
「片淵神社」は水神社で、「智僧二年(566)、蜷川村発祥の頃、氏神として初めて片淵に勧請す。」とある。古くは「荒霊宮」と称している。

【境内の案内札】片淵神社 祭神 弥都波能売神(みずはのめのかみ) 水神 荒霊大明神 筑後川水神縁起 智僧二年(566) 蜷川村発祥の頃、氏神として初めて片淵に勧請す。
初め、荒五郎大明神と崇め、荒霊宮と称したが、明治2年(1869)に至り、片淵神社と改称し、大正元年(1912)に現在所に移る。祭神は千歳川(筑後川)氾濫の元となる荒魂なり。
御神徳は能く水災を除き田畑の豊稔を司る農業神として尊崇さる。尚、祭神には水難と共に火災を防ぐ霊力あるため、古来、子供の守護と火災の除災招福の神として厚き信仰あり。…


では、今回最も有難いと思った部分をお話ししましょう。

 お分かりの通り、「早良郡宗廟住吉宮本殿再建本願主泉沙彌とあり(泉沙彌は宮司大神甚左衛門が高祖大明神の社職上原泉と共に仕えへし高祖隆種没落後剃髪せる号名なり)」とあり、大神氏が当時も宮司であり宮司家の筆頭者でもあった事が伺えたのでした。

 恐らくはこの宮司大神甚左衛門こそが栄えある河上 猛の後裔であったのではないかと思えるのです。

 少なくも、神社誌が当方が推定する仮説を真っ向から否定するものではなかったと考えるのです。

 蛇足ながら、同地の小字が小薗と書かれています。

 鹿児島在住者は良くご存じかと思いますが、宮園、前園、神園、大園…という姓と地名は鹿児島に集中するものです。

 建御名方の本拠地としてはこれ程相応しいものはなく、細やかな示唆を与えてくれています。

無題.png 最後は緊張を解く心が和む話で終わりにしたいと思います。

 さて、初め文中に「かめさ」が出てきて多少驚きました。

意味は亀で良いはずなのですが、博多でも福岡でも亀を「かめさ」と呼ぶことはないと思います。十年は住みましたが、これまで聴いたことはありません。

 ただ、かめさで直ぐに頭に浮かぶのは、上方落語の界の宝だった故)桂 米朝師匠の「亀佐」です。一部を再掲載します。これについても小稿を書いています。


ひぼろぎ逍遥 スポット173 亀屋佐京 20180323

太宰府地名研究会 古川 清久


今回、江州伊吹山の一帯に入った人々とは佐賀〜筑後の人々だったのではないかという仮説を掲げている事から、この手強いテーマの息抜きとしてお灸の話を取り上げることにしました。

 古代史一辺倒の方には全くお役に立てませんのでその向きにはお読み頂く必要はありません。

 伊吹山を頭に浮かべる時、姉川、妹川や息長氏の事よりも、真っ先に過ったのはこの亀屋佐京の事でした。

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合同会社亀屋佐京商店 カーナビ検索

滋賀県米原市柏原2229番地 0749-57-0022


切りもぐさの唄

この唄を吉原に来る全てのお客様に歌い聞かせてください。宴の時に語ってください。と吉原の人達に

頼み、承諾してもらいます。すると、江戸中に伊吹もぐさの名前が広がっていきました。当時の吉原は、

町人から大名まで集う、華やかな江戸文化を象徴する街としてその成熟期を迎えています。この街で

伊吹もぐさの宣伝をすれば通常以上の効果が得られると考え、誰にでも口ずさむ事の出来る簡単な唄を

使ったこの妙案こそ、まさに、CMソングの先駆けといえるのではないでしょうか。


掲載記事・内容等を許可なく転載することを禁じます。と、ありますのでここまでに留めますが、敢て場違いなもぐさ屋の話を取り上げたのは、地味な噺ではありますが、上方落語の名人中の名人 桂 米朝師匠の「亀佐」が直ぐに頭に浮かんだからでした。

半世紀も前の昔になりますか?そのころまでは、まだ、たまに目にした事もあったのですが、巷では鍼灸の「灸」については鍼灸院以外では目にすることがなくなりました。

身体に鍼や灸による刺激を身体に加えて疾病への治療を行うのが鍼灸医療ですが、一般的には、大陸の戦国期〜後漢期に掛けて鍼灸理論が成立したと言われています。

この技術を持ち込んだのも弘法大師との話があり、何やら丹生地名、製鉄、お灸といった繋がりが見えて来るようでもあります。

さて、亀屋佐京のホーム・ページには“CMソングの先駆け”と書かれていましたが、桂 米朝全集の「亀佐」にはこの売り声が記録されています。

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今日もこの説教の出て来るお噺でございますが「亀佐」といぅのは亀屋佐京といぅ、今でもございます、滋賀県に名代の艾(モグサ)屋さんですなぁ。

関西では灸(やいと)、東京のほぉではお灸と言ぃますが、あのすえる時のモグサ、あれだけ専門に売ったはるといぅ、それで何百年も続いてるといぅ、えらいおうちでございますが。

伊吹山は今は薬草の本場みたいなとこやそぉですなぁ、漢方薬が近年見直されましてね「鍼(はり)やヤイトも効果がある」て、浮かび上がってきましたが、ハリはともかくヤイトはこの痕(かた)が付きますのでね、嫌がる人が多いです。

ところがこの頃のヤイトはね、ホンマに小さい小さいモグサでございまして、チョンとツボさえきしッと乗ってりゃ、あれで効くらしぃ。すぐ消えてしまいますし、昔ほど熱いことないよぉに思います。痕なんかもちろん残らしまへん。

ところが昔は大きなヤイトをすえたんでね、痕が残りました。なかには懲らしめのためにすえるお灸なんてのがある。別に病気やないんですなぁ「また寝ションベン垂れしとるなぁ」てなこと言ぅて、寝ションベンに効くヤイトすえてんねんやろけど、丁稚なんかもぉ線香とモグサ隠し回ったそぉでございます。

この「亀屋佐京」が東海道を上り下りする人に宣伝をしはった。面白い節でこの伊吹モグサを売って歩いたんですなぁ。


♪ ご〜〜しゅ〜 いぶきやまのほとり   ♪ かしわばらほんけ〜〜 かめや〜〜さきょ〜

♪ く〜すりもぐさよろ〜〜〜し っちゅう、こぉいぅ節でずっと売って歩いた。わたしら、もちろん知りませんが南天さんなんて人はこの真似が得意で、よぉ真似したはりました。

それが東海道で流行りましてね、子どもなんかに売り回らしたらこの節のほぉが流行ってしもぉて、大阪あたりまではもちろんのこと、名古屋から浜松、ズ〜ッと江戸まで「亀屋佐京の薬モグサ」が売れたんやそぉでございますが、ちょっと面白いもんですなぁ。

♪ ご〜〜しゅ〜 いぶきやまのほとり ♪ かしわばらほんけ〜〜 かめや〜〜さきょ〜

♪ く〜すりもぐさよろ〜〜〜し ちゅうて、別に真似してもらわんでもよろしぃねんけど。これはね、ちょっとやってみとなるよぉな節があります。まぁまぁ、そんな昔の噺でございまして、お坊さんが前に大勢の人を集めてお説教をやってなはる。●ご同行(どぉぎょ〜)、南無阿弥陀仏を唱えるといぅことはな、これはもぉどなたでもおっしゃることじゃ。しかし、ただ唱えりゃえぇといぅもんではないぞ。念仏宗は「ただ南無阿弥陀仏さえ言ぅてりゃ救われる」と、それはちょっと心得違いじゃ。

●ある老婆がおりましてな、このお婆さんが朝起きると「南無阿弥陀仏」ご飯を食べるあと先に「南無阿弥陀仏」道を歩いてても「南無阿弥陀仏」腰を下ろして「南無阿弥陀仏」腰を上げても「南無阿弥陀仏」日が暮れると「南無阿弥陀仏」と、毎日朝から晩までお念仏を唱えておった。

●この老婆があの世へまいります。ついに定業(じょ〜ごぉ)が尽きて冥土へ赴いて、閻魔大王の前でお裁きを受けることになったなぁ。閻魔さんが「これ老婆、そちの罪はどぉじゃ?」と言ぅと「わたくしは生涯にどれほどのお念仏を唱えたか分かりません。その念仏の功徳(くどく)によって、どぉぞ極楽へ送ってくだされ」と言ぅ。

●そこで閻魔大王が「それっ」と合図をすると、鬼が、この老婆が生涯に唱えた山のよぉなお念仏を車に乗せて運んで来ましたなぁ。

●「こりゃ、老婆。お前が生涯に唱えたお念仏は斯く山の如しじゃが……」と、篩(トォシ)を持ち出して、これを振るい掛けたなぁ。と、山のよぉなお念仏はことごとく網の目から下へ落ちて、あとに残ったは今際(いまわ)の際に唱えた「南・無・阿・弥・陀・仏」ただ一つであったといぅ。

■グァォ〜ッ●数さえ多ければよいといぅものではないぞ■グァォ〜ッ●心のこもらぬお念仏が山ほどあろぉとも■グァォ〜ッ……

●かなんなぁこれ、説教のあいだあいだへ鼾(いびき)が入るじゃないかいな。

講中(こぉじゅ〜)の皆さん何をしてござる。鼾があっては邪魔になる、説法の邪魔になるでな、気ぃ付けてもらわんと困るで講中の皆さん。

▲おっすぁんそれがねぇ。鼾かいてるのんあれ、講中の一人でんねや●えぇ、だ、誰じゃいな?▲亀屋佐兵衛さんが鼾かいてまんねやがな●亀屋佐兵衛さんちゅうたら頭はげらかして、もぉえぇ歳やないかいな。そんな人が念仏の邪魔をしてはいかん。お説教の邪魔になりますで、早よ止めなされ。

▲ちょっと、佐兵衛さん。亀屋佐兵衛さん。念仏の邪魔なる言ぅたはりますがな■グァォ〜〜ッ▲あんた、講中やろ。頭はげらかして、鼾が邪魔んなる言ぅてはりまっせ■グァォ〜ッ▲難儀やなぁ……

♪ こぉ〜〜じゅ〜〜 いびきじゃまのあたり♪ かしらはげ、あんた本家じゃ、ほんけかめや〜〜さへぇさん、これッ!♪ ゆ〜すりおこすえ〜〜〜ぇ

▲おっすぁん、まだ起きまへんがなぁ……

【上方落語メモ第3集】その108 亀佐による 以下は省略しますので検索しお読みください。


 もう5年前になりますが、滋賀県〜岐阜県への神社調査に入りました。ついでに亀屋左京にも足を延ばしましたが信じられないような大邸宅(今でいえば大製薬会社の社長宅ですね)だった事を今も思い出します。

 そもそも滋賀県とは志賀島の海人族=安曇族(ウガヤフキアエズの子)が入ったから滋賀県と呼ばれるのであり、その証拠に、しばらく前まで安曇川町があり安土城が造られたのも、安曇族、安曇川のアヅ、アドが反映されているからなのです。

しかも、河上 猛を誅罰したヤマトオグナ=日本武尊(ヤマトタケル)は伊吹山に入った事になっていますね。

このため、亀屋左京に思考が移っても奇妙では決してなかったのです。

 しかも、博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神=カミムスビ)の神紋は三盛り亀甲紋なのです。

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大幡主の一族=白族への入婿となった大国主命の神紋(右)も亀甲紋ですね。勿論、大幡主の神紋(左)が先ですが。

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百嶋由一郎が残した、神代系譜スキャニングDVD、講演録音声CD、手書きメモ スキャニングDVDを必要な方は09062983254までご連絡ください。どの時間帯でも対応します。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記