2023年01月09日

934 ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?(下) ❿

934 ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?(下) ❿

“宮原誠一の神社見聞牒(025)からの転載”    20220318

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宮原誠一の神社見聞牒(025)
平成29(2017)1006

No.25 神功皇后生誕の地・佐賀背振の野波神社

1.王家の谷の野波神社と下ノ宮

佐賀県背振山南麓は古代の王家の子を養育するのに適した地であった。嘉瀬川上流の川上渓谷、城原川上流の背振渓谷があり、それらの渓谷の上流は北山ダム付近に集まる。その背振渓谷は、往古、素戔嗚(スサノヲ)系の支配領域と言われた。
かつて、北山ダム湖に沈む前の「野波(のなみ)の里」は神功皇后生誕の地という伝承がある。そこには、神功皇后を祭神とする野波神社があり、皇后(息長足媛おきながたらしひめ)の両親を祭神とする下ノ宮があり、この地域に息長足媛の伝承が残っている。
息長足媛の系図を百嶋神社考古学神代系譜からみると、父・息長宿祢(おきながすくね)と母・葛城高額媛(かつらぎたかぬかひめ)となっており、息長宿祢は父・建南方(たけみなかた)と母・奈留多姫(なるたひめ)であり、建南方は父・天忍穂耳命(あめのおしほのみみのみこと)と母・瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)であり、瀛津世襲足姫は素戔嗚尊の子であり、息長宿祢は素戔嗚直系の血筋である。葛城高額媛も素戔嗚尊四世の孫である。息長足媛の父母は共に素戔嗚系の流れとなっている。
伝承からして、息長足媛は父母が住む佐賀背振の野波の里で生まれ育ったと考えることができる。
しかし、神社由緒には神功皇后伝説特有の付会がみられ、野波の里は皇后生誕の地として可能性があるに留め置き、関連神社を紹介します。

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ここ十年程で、二、三度訪問した経験がありますが、当時は「神功皇后伝承」には関心がなく、野波神社、下ノ宮の事は承知していましたが、他の問題(米田良三氏が「長谷寺」で書かれた三瀬村に長谷寺があったという提起との関係も不明なまま)、棚上げ状態にしていました。(古川)

場所が分かり難いと思いますので、お知らせしておきたいと思います。

福岡市から三瀬トンネルを抜け三瀬村に入ると、杉神社から大瀬の大桂に向かう一帯に、九州王朝倭国の長谷寺があり(杉神社正面の鏡神社に長谷寺への桟橋の橋脚が存在した)、現在の北山ダムに沿い東に進んだ辺りに野波神社があり、下ノ宮は北山湖の湖底に沈んだのでした。

 神功皇后は滋賀県米原辺りの息長氏の一族であろうとか、近江出身であろうなどと通説に沿ったデタラメがまかり通っていますが(これは後に九州から後裔氏族が滋賀県に移動したものと考えられます)、北部九州の神功皇后伝承は「紀」に合わない部分が多々ある事は知られていますし、どうやら、肥前の神功皇后伝承は唐津を除いて消されているようです。

 滋賀県の米原市には後裔氏族が住んだ史跡がありますので私も4年前に現地を踏んできました。

 神功皇后を含む欠史8代架空説を根拠なく主張するのが通説派ですが、仕方なく、琵琶湖周辺に後裔氏族らしきものが居るからどうせこの辺りの出身だろうとしているのです。

 神功皇后を追い求められる方もこのような明瞭な伝承が残されている事を知るべきでしょう(古川)。


無題.png息長氏(おきながし) 古代天皇家を支えた名族息長氏は、近江国坂田郡(米原・長浜両市域)の南部地域、現在の米原市近江地域付近の天野川(息長川)流域に本拠地を置いていた古代豪族です。息長の名前がはじめてあらわれるのは、現在最古の歴史書『古事記』と『日本書紀』。古事記では、開化(かいか)天皇段に「息長水依比売(おきながみずよりひめ)」の名が、日本書紀では仲哀(ちゅうあい)天皇条に「気長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功(じんぐう)皇后)」の名がみえます。その後も、息長氏は天皇家に后妃を入れ、天皇の親族として国政や修史事業に携わりました。

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神殿の千木は主祭神が女性神であることを示す。

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初瀬川が北山湖に注いでいます。長谷寺が存在した痕跡地名ですが、神功皇后の両親も知っていたのです

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これが、神功皇后のご両親を単独で祀る下の宮です。旧三瀬村(現佐賀市)


通説派の皆さん、全国に神功皇后のご両親を祀る神社なるものがあるのならば、是非ともご連絡いただきたいものです。

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米田氏は以下のように述べている。「『源氏物語』の舞台の中心は倭国の時代の九州であった。京は大宰府都城であり、京から出掛けた 初瀬の御寺 も奈良ではなく、九州北部にあったはずである。私は佐賀県神埼郡三瀬村にあったと考えている」

 この部分は私を大いに刺激し、生まれて始めて長谷寺を訪れるきっかけとなった。現在の長谷寺の本堂、観音様は517年に完成し、721年に現在地に移築されたという米田説を信じた上での訪問である。訪れた時の印象は 感動 の一語に尽きる。時のたつのも忘れ、1時間以上大悲閣前の舞台でボーっとしていた。もちろん、現地の解説ボードを信ずればこうはならない。観音像は今までに6回焼失し、現在のものは室町時代に作られた7代目であり、本堂は江戸時代のものであると記されている。巨大木造彫刻十一面観音像の制作年代の説明に約1000年の開きがあるのだ。

 その後も先の引用部分のことが心の隅に引っかかり、2002年8月、三瀬村の観光協会に「村で一番古いお寺は?」と問い合わせたところ、反田という集落に長谷山観音寺という寺があったが、昭和38年、子供の火遊びが原因で焼けてしまったということであった。

 ネーミングからすると、幻の長谷寺は昔ここに建っていたに違いないと思い、2007年11月、日帰り弾丸ツアーで現地を訪れ、地元のお年寄りに焼失前の寺の様子を聞いた。

 この長谷山観音寺の件と、その西にある「宿」という名の集落がじつは椿市ではないか、と米田氏に電話したのだが、当時、氏は幻の長谷寺発見については著作で述べている程には意欲的ではないようであった。これほどまでに著者にプッシュし続ける自分は日本のシュリーマンになったような気分であった。

 後でわかったことだが、この寺は1521年、神代大和守勝利と言う人が伝説の長谷寺に憧れ創ったものであるらしく、私の努力は空振りに終わった。

 しばらくして、米田氏から倭国長谷寺の所在地が同定できたと連絡が入った。国土地理院の地図を凝視しているうちに閃いたというのだ。そこは「源氏物語画帖」玉鬘の巻、『枕草子』、『住吉物語』の描写にぴったりマッチするというのだ。

 ここで混乱しないように言っておかねばならないのは、3作品ともオリジナルは倭国の時代のものであるということである。『源氏物語』は一昨年「千年紀」と大騒ぎしていたが、正確には、もう350年ほど遡り、現代の作家が江戸時代初期の物語をパクるようなことが平安時代に行われていたのだ。

倭国長谷寺跡の発見 - AB&JC PRESSによる

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2.野波神社の吉田藤雄氏の神社案内板について

吉田藤雄氏の神社案内板の最後の部分の1月7日の「ドンド焼き」の記述では、仲哀天皇は神功皇后と武内宿弥の間に生まれた子と思わせるような記述であり、仲哀天皇が野波の里で生まれたかのようなっている。
しかし、野波神社の由緒、下ノ宮の由緒からすると、皇后の両親、息長宿祢と葛城之高額媛が野波の里におられ、皇后が1月7日の「ドンド焼き」の日に生まれたと、捉える方が自然ではなかろうか。また、1月7日の「ドンド焼き」の朝、皇后が産気づかれて、仲哀天皇が生まれたとされるのは、ほかの皇子とも取れるが、誉田別皇子が筑前宇美の地で出産された以外に信頼できる伝承はない。
別の考え方として、この話が新羅征討後のものであれば、周囲に大雀命・菟道穉郎子が祀られており、開化天皇と皇后の皇子の出産ととれ、九体皇子の内の三名?の皇子が野波の里で出産されたと考えることもできる。
また、新羅征討のおり、筑肥を通過とは、朝倉市蜷城の美奈宜神社の由緒からすると、筑後川の大善寺の往来と考えられるが、「筑肥通過の折、この地に寄られて・・・」という伝承は神功皇后伝説特有の付会ではなかろうか。また、神功皇后の時代に「ドンド焼き」の行事があったであろうか。どうも、神功皇后特有の伝説が神社由緒に記載されると、由緒の信頼度が落ちるような気がしてならない。
ということで、神社案内板の最後の部分は認識の誤りとみるが、この由緒の全てを否定するものではありません。


3.神功皇后伝説

日本書記の神功紀で、荷持田村(のとりたのふれ)の羽白熊鷲(はしろのくまわし)討伐のおり、筑紫野を神功軍が通過時、「旋風がにわかに吹いて皇后の御笠が吹きとばされ、時の人はそこを名づけて御笠(みかさ)という」、「羽白熊鷲と層増岐野(そそきの)で戦闘となり、ついにこれを滅ぼした。皇后は近臣に'熊鷲を取ることを得て心安らかになった'と言ったので名づけて安という」の地名説話がある。
しかし、御笠地名の近くには御笠山(宝満山)があった。
戦闘勝利した「安」については、秋月の入口の旧安川村に「安川」が流れ、ここ一帯を「安野」といった。この時点では、熊鷲は討伐されていない。敗退して秋月盆地に陣を建て直している。旧安川村の中心付近にある老松神社の社伝では、ここを「御府の森」といい、この神社は大国主一人を祀る。この神社の近くの北の山裾の楢原に「奇志神社」という聞きなれない秘密めいた神社がある。大国主を主祭神とするが、社紋は神功皇后の紋があり、熊本県山鹿市の「志々岐阿蘇神社」と同じ神額の額縁を持っている。この志々岐阿蘇神社は大国主、建南方を主祭神とする。「奇志」の名は、この志々岐阿蘇神社の「志々岐」をもじったように見える。また、「志々岐」は「ししき」「そそき」と訛り転化しているようにも聞こえる。
この「岐」は「城、柵、木」と同意語で、志々の柵、そその柵、つまり、砦、陣所ではなかろうか。その「そそき野」で戦闘の激突があった。層増岐野は、ここ、旧安川村から続く旧甘木市一帯をいうのではなかろうか。
神功皇后伝説の「御笠」、「安」は語呂合わせで、後世の府会のように思えるのだが、ここでの私の話も語呂合わせと取られそうです。

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「志々岐」の名を持つ他の神社  志々岐神社 福岡市早良区内野


祭 神 神功皇后、十域別王命、稚武王命(二人は仲哀帝の弟でヤマトタケルの皇子)



1.野波神社、下ノ宮の概要

@ 野波神社

所在地 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは、中谷) 1358-41
祭 神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比淘蜷_(淀姫神)
由 緒(要約)
西暦268年に創立。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地に寄られたと云う。明治43年村内の無格社が整理統合され、祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。
昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。

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百嶋神代系譜・素戔嗚尊・神功皇后 神代系図(8)


A
下ノ宮
所在地 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭 神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
由 緒(要約)
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるが、本宮よりも上流に祀られ「下ノ宮」というが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に「下宮」となったのであろう。
野波神社の例祭時、当宮との間に皇后の御神輿の上り下りの行事が行なわれている。


5.資料・佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」HPから

@「三瀬村史」による野波神社
社号 野波大明神
祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比淘蜷_(淀姫神)
應神天皇の御代、西暦268年に勧請された神社で当地では最も古く、棟木札銘(昭和28年焼失)には次のような記録が残されていた。
 文中2(1373)再興。長禄2(1458)再建。元亀2(1571)再々建。宝永元年(1704)再々々建。
 天保14(18433月、1575年祭施行。今から1700余年前の古墳時代初期に勧請されたことになる。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。その御遺跡に御社を営み、古くから神埼佐賀七山の宗廟として崇め、上下の信仰が厚かった。七山というのは、杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山である。
室町時代、嘉吉2年(1442)の初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした。その後、天正年間(15731591)の頃には、神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれたという。降って江戸時代の延宝2年(16742月には、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった。
近代になって、明治61031日村社に指定され、同431013日に神饌弊帛料供進の指定を受けた。また、同年には村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。
昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。このとき焼失したもの。
「七山宗廟野波大明神」−拝殿入口の額「七山宗社」−弊殿入口の額「銚子」二、「瓶子」三、何れも木製
  「表札」−神社の伝説口碑を記したもの
御神体は古来「グミの木」と言われていたが、陶器製のものだけが焼け残っていた。
昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。海や河川にかかわりの深い祭神淀姫神の霊示が具現されたのであろうか、ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された。
淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。
和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。
野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。 出典:三瀬村史p710

A「三瀬村史」による「下ノ宮」
社号 下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭神 
息長宿祢命・葛城之高額媛命
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。
下宮が本宮よりも上流に祀られているところに不可解な点もあるが、祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるので、上流に祀られていても不思議ではない。
野波神社の例祭のときには、現今でも当宮との間に御神輿の上り下りの行事が行なわれている。
出典:三瀬村史p712


青字の明朝体は宮原誠一氏の原文、黒字のゴシック体は古川による挿入文、赤字の明朝体AB&JC PRESSによる。

この野波神社、下ノ宮の伝承が荒唐無稽な話として否定される方は多いでしょう。しかし、滋賀県からやってきているはずだとおっしゃっておられる高名な方々のお話に根拠があるとお思いでしょうか?只の推定でしかなく何もないのですよ!それならこの現地伝承が何かを御説明頂きたいものです。

何れにせよ、神功皇后の母君が旧脊振村(現神埼市)、父君が旧三瀬村(現佐賀市)一帯に住んでいた事は否定できないはずです。そうすると、ヤマトタケルの子である仲哀がこの地にこそ居たという可能性どころか必然性すら感じるのです。(古川)。

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研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年01月12日

935 櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について

935 櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について

   20220326

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 佐賀県の伊万里〜有田と言えば焼物=磁器生産で知らぬ人のない近世の工業都市ですが、その有田から伊万里へと流れる有田川の右岸に唐船山(城)があります。

 海人族、倭人、倭寇、後の松浦党…と、各々、重なり、別れ、再度、結びつくといった目まぐるしい動きを示し、中世にまで遡れば、倭国であれ日本国であれ、彼らの働きや関与ががなければ民族の移動はあり得なかったのです。

 その意味では、鎌倉末期から室町末期(戦国時代)に掛けてこの地域にも松浦党の影響が強く反映されているのですが、その松浦党とここに鎮座する山田神社が直接重なっているのかと言えば、単純にそうとも言えないように思うのです。ただ、予断は止め自らの目で確認することにしましょう。

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ご覧の通り三ツ星(実はカシオペアの三ツ星)の紋章が打たれています これが旧倭寇の後裔松浦党のシンボルなのです そして私の一族(古川家)も〇に三ツ星に三本の唐草が付されています


私は佐賀県内の某自治体職員を生業としていたのである時期にはこの辺りも頻繁に通過していました。

 また、海釣りでも最短ルートではありませんでしたが、この道を良く帰路として通っていました。

そのつど、見た目にも印象的な砦状の地があり、最低でも伊万里と有田方面、若しくは佐世保方面への交通路を遮断できる地点であると思いながら走っていました( 無題.png )。下図では、上(北)が有田川の下流伊万里焼の伊万里市になります。

八天宮ですが、豊前の求菩提山の八天狗系統人々(イスラエル系)が住んでおられるのです。

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今回何故、この唐船城直下の山田神社を調べる事になったかと言えば、ご高齢ながら当会のトレッキングにも参加いただいているO氏からこの神社が何かを解いて欲しいとの要請があったからでした。

 まずは、非常に使い勝手が悪い、「佐賀県神社誌要」からご覧に入れます。

無題.png
無題.png

佐賀県神社誌要」240p


 ただ、最後尾の祭神「松浪森」は見当が付きません。基本はお手上げですが、大山祇系の後裔氏族かも知れません。そもそもしばらく前までは大山村ですので。

無題.pngかなり怪しいと思っていると、以下のサイトに遭遇しました。

無題.png です。


山田神社

松浦党の党祖、源太夫判官久公の第三子、有田三郎源栄公が建保6年(1218)に唐船城を築城し、ここに松浦市今福の「年の宮」を勧請した。(「年の宮」は現松浦市今福の「歳の宮」で草部吉見 古川注)

「年の宮」は嘉穂元年(1094)近江国一の宮諾冉二尊を祀る多賀明神を勧請したもので、松浦党が篤い崇敬を寄せた古社である。永禄四年(1561)六月二十六日に飯盛城主 松浦 親(まつうら ちかし)と その養子で後の唐船城主 有田 盛(さこう)の支援により、当時の圓満寺住職 阿泉(あせん)を勧請責任者とし、 本宮(年の宮)に熊野本宮から八坂社加賀白山から白山社の二社を加え、 山田野三所大権現の鎮祭を行い、両城主および山谷地区の鎮守神としました。

神仏習合により圓満寺住職が歴代の宮司を兼任。明治になり神社は国家管理となり、 山田神社と改称し、大正81127日村社に昇格した。『佐賀県神社誌要』(大正十五年)には、

無題.png御祭神

伊奘諾尊・大山祗命・武甕槌命・大己貴命・瀬織津比当ス

少彦名命・宇賀魂命・菅原道真・天照皇大神・松浪森 

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唐船城跡

平安末期からこの地を領有していた松浦党有田氏の城址です。正確な築造の年代はわかっていませんが 建保6(1218)が有力とされています。

松浦党の始祖とされる源久の曾孫栄が 有田郷を与えられたことに始まっており、元和元年の徳川幕府による一国一城令により 唐船城は廃城となりました。鎮座地 佐賀県西松浦郡有田町山谷牧甲2322-5

大正時代無題.pngまで『瀬織津姫』を祀っていた【山田神社】佐賀県西松浦郡有田町


無題.png



じゃあ、それで良いじゃないかと思われる方が多いでしょうが、神社の世界はそう単純なものではなく、祭神の入れ替え、隠蔽など政治情勢の変化によって一変します。特に、祭神が何度も変化する、若しくは増え交代する神社はそこまで掘り下げなければ本質は掴めてこないのです。

 その意味でも周辺の神社の調査が必要で、元々この地に住んでいた人々がどのような人達であるか、この土地の背景を調べる神社がありますので、まずは三社ほどご紹介しておきます。編集上図面が前後しますが、有田川を挟んだ西側丘陵地帯に、八天四方萬神社(金山彦)、秋葉大権現(愛宕と併せ秋葉も金山彦系です)。そして特に、この地には稲荷社が数多く祀られているのです。

ただ、山田神社にこれほど祭神が弄られるのは一目異常な感じがします。まず明治以降でも、…

 仮に「九州神社巡り」様に従えば、大正時代まで『瀬織津姫』を祀っていた【山田神社】佐賀県西松浦郡有田町のですから。その理由は簡単に推測できそうです。

 それは、『瀬織津姫』では村社昇格がおぼつか無かったからに外なりません。

 何故かと言えば、瀬織津姫とは櫛稲田姫(クシナダヒメ)の別名であり、スサノウとの間に本物の(神武僭称贈る崇神=ハツクニシラスではない)カムヤマトイワレヒコ=神武天皇に盾を突き弓を引いたとされるナガスネヒコを生んでいます。このためクシナダヒメを祭神にしていては村社昇格などはできなかったはずなのです。こうして、村社昇格のためには祭神を変えるしかないとのレールが敷かれたのだと考えられます。一般的に、瀬織津姫様を探るグループもあるほどの人気の女神さまですが、所詮は藤原が造った祓戸神であり、百嶋由一郎最終神代系譜をご覧になれば、右端にそれを表示しています。

 私にはこの地区に多くの金山彦系の人々が住んでいた形跡があるのですが、結果として、関東武士団の松浦 久が多賀を持ち込んだ結果、最初の変更が生じているのです。


無題.png

速佐須良姫もスサノウの後にヤタガラスと一緒になって生まれたのが鴨玉依姫なのですから、123は全て金山彦の直系のファミリーであり、ナガスネヒコに近接する人々であったからなのです。

 実はそれを裏付ける神社がありそうなのです。

 全国に山田神社と称するものがかなりあります。        は当方が訪問した神社です


山田神社   茨城県常陸太田市西三町2091  大山津見神(ここも6年前に参拝しています)

山田神社   大阪府枚方市山之上4丁目1536号 

(この山田神社は大阪府枚方市山之上にあり旧社格は村社。 素盞嗚尊と稲田姫命を祀る)

山田神社   広島県府中市荒谷町1145  月夜見尊、上筒男命、中筒男命、底筒男命を祀る。

山田神社   香川県観音寺市 柞田町乙1982  山田大娘神 大己貴神 素盞嗚神 月讀神(玄松子)

山田神社      佐賀県有田町 山谷牧甲23225

山田神社   熊本県山江村 大字山田1514

山田神社   宮崎県都城市山田町山田7506  瓊々杵尊、木花咲耶姫尊、彦火火出尊、豊玉姫尊、鸕鷀葺不合尊、玉依姫の六神であったがのち月夜見尊、上筒男命、中筒男命、底筒男命の四神を合祀した。

山田神社   宮崎県西都市大字山田1343 

伊弉冉諾尊(イザナミ)金山彦の妹=後にイザナギと別れ大幡主(カミムスビ)の妃に

山田神社   大阪府枚方市田口1丁目6618 菅原道真公素盞嗚尊と稲田姫命を祀る。

山田神社   鳥取県東伯郡三朝町大字山田380 祭神不詳

山田神社   鳥取県八頭郡八頭町山田352 祭神不詳


念のために「神社探訪狛犬見聞録・注連縄の豆知識」様も見ておきましょう

山田神社

御祭神 伊弉諾尊・伊弉冊尊・素盞鳴尊・白山比当ス

由緒

松浦市今福に坐す「年の宮」は近江国一の宮諾冊二尊を祀る多賀明神を勧請するもの松浦党から篤い崇敬を寄せた古社である。

党祖源久公嫡直公その弟三子を栄とす。公有田郷文知唐船城を築き年の宮を勧請す。当神社の創祀なり。(平安末期或は建保(12131219)頃とも)。鎌倉中葉蒙古来寇す。松浦党はその采、地を侵され惨禍至大。敵風涛に敗走するも再寇必至に備えて、寧日なき建治2(1276)城内に円満寺を建つ。戦没家臣鎮魂の意趣も含むか。4代有田給公第2子守をして専ら神仏に奉仕せしむ。爾来72023代他姓を雑えず。

戦国乱世は名神大社も社領を失い、困窮す。修験御師を諸国に派し、霊験を説き大いに財を募る。特に熊野は山岳信仰に補陀落渡海浄土に向うの仏説を加えて、熊野分霊勧請を奨めて周到なれば、之に應ずるもの30社を超す。

松浦本宗相浦飯盛神社、次で当神社も亦之に倣う。八坂白山の2社を加え、山田野三所大権現の鎮祭を行う。時に永禄4(1561)6月。大檀主は松浦本宗源親公、並唐船城主有田盛公。大導師は円満寺八世阿泉法印とす。八坂社は熊野本宮の、白山社は加賀白山の勧請神なり。

戦国争覇唐船城主有田氏も有田系又龍造寺系に承継。江戸初期、佐嘉に移館す。松浦系家臣は有田氏被官に名を列ぬのみ。帰農して神社を守り万治(16581660)・享保(17161735)・文化(18041817)・嘉永(18481853)と改修にも十全を尽くす。

江戸時代当地は鍋島藩の治政に入る。藩は東部原野に牧場を設く。軍馬生産の祈願祭事を当社にて行い、藩吏参向通例たり。

明治諸政一新、神社は国家管理となり、山田神社と改称し、郷社格の申請をするも、資料不備却下。大正期平戸、大村、佐賀に史実を探ねて再申。811月、村社列格、由緒正しきの証。神饌幣帛料供進の指定あり。同年明治に牧公の唐船山一帯のうち北面2町歩の譲渡を受け社殿をその中央に移し、荒地を拓き、神苑を造成し櫻を植え、その余は神社基本財産の神社林とす。

14年より神社維持講を経営す。神社及氏子の縁故を探ね北松方面を開拓、1200口を募る。毎月講会落札者より多くの献金を得て、神社の整備更に充実す。特に丹後橋架設に出資して「飛び石」徒渉の苦患を改称す。尚、将来に期する処大なるも支那事変、兵馬倥偬の故を以て早期清算の要請にて、そのこと己む。

無題.png昭和20(1945)8月、神社は公の営造物の地位を脱し、一般宗教法人に列するも「地域和合の原点」「民族文化の源泉」たる本質は不変、氏子又八百年来奉護の至誠に懈怠なし。


これで不十分ながらも概略は把握できたかと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(分布)

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今回改めて再再度参拝し桜満開の境内で同社の由緒を収めてきました(読み辛らければ表示で拡大を)


次は普段あまり公開しない002百嶋系図(極秘)003込ですが、大幡主=カミムスビがイザナミと一緒になっていますね その子が正当継承者豊玉彦=ヤタガラスなのです

百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254までご連絡ください

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「日本書紀」の一書に曰く

一書曰、伊弉諾尊、追至伊弉冉尊所在處、便語之曰「悲汝故來。」答曰「族也、勿看吾矣。」伊裝諾尊、不從猶看之、故伊弉冉尊恥恨之曰「汝已見我情。我復見汝情。」時、伊弉諾尊亦慙焉、因將出返、于時、不直默歸而盟之曰「族離。」又曰「不負於族。」


それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず

「別れましょう」と言いました。イザナギは「負けない!」と言いました。古代史の復元」様より

最後に、松浦党の祖と言われる松浦 久についてふれます。この人物は元々平安時代後期の武士渡辺綱の曾孫と言われ単純に倭寇、海賊上がりなどではありません。久は松浦郡宇野御厨(現松浦市)の荘官となり、松浦、彼杵郡及び壱岐国の田およそ2230町を領有して梶谷(松浦市今福に近い梶谷城)を拠点とし松浦を名乗ったのです。検非違使にも補され、従五位に叙されるのです。この辺りについて、昔の研究会仲間で佐世保市に在住する神尾正武氏(最近ユーチューブ動画を月産4本アップされています)彼は九州王朝論者ではない通説派の研究者ですが、そのこともあり私は彼の書いた「松浦党戦旗」「続松浦党戦旗」を友人にかなり薦めておりもうかれこれ20組ぐらいは手渡していると思います。今般、この山田神社に絡んで、改めて松浦 久に関する部分を読んでみました。

 残念にも唐船城から山田神社については彼も触れていないと言いましたが、冒頭の17p辺りからこの久の事について触れてあります。続編と併せ、正に全編血沸き肉躍る面白い本で、是非お読みいただきたいと思います。要は倭寇の海人族の連中が久を神輿に担いだのです。

そしてそれが松浦党だったのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年01月15日

936 ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

936 ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

   20220326

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この講演会は、久留米で行った講演会に参加できなかった熊本のメンバー56人を対象に再度、勉強会を開くものです。この話は「古事記」「日本書紀」の嘘話を暴く格好のテーマでもあるため。少し無理やりの話ではあるものの、無理してお集まり頂こうと企画したものです。

今の時代は一度に沢山のメンバーを集めて一機に話を進めるという訳には中々旨く行かないものです。

しかし、小規模集会だけによりキメの細かい突っ込んだ議論も行える訳で、実際には期待してもいるのです。

実は先行して佐賀でも小規模な勉強会を行いましたが、徐々に活気が出てきた印象を持っています。

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熊本神代史研究会2022(西阿蘇分散勉強会)



415日(金)1230〜 於:熊本県西原村萌えの里手前の伊藤研修所(仮称)


テーマ:「ヤマトオグナの熊襲退治により許された河上 猛は福岡市早良区に落ち延びた〜」


@  熊襲退治の現場は佐賀市(旧大和町)長崎自動車道佐賀大和IC 川上峡温泉付近

A  河上 猛は神埼市(旧脊振村広瀧)で誅殺を免れその中枢一族は福岡市早良区の某所に移動している

B  その場所と名前が判明しました

C  仮説)この一族が大分県豊後大野の緒方三郎惟栄、阿蘇大蛇伝説の大神惟基になるのではないのか

D  祖母山の意味とはそして、ウガヤフキアエズ王朝説とは

E  琵琶湖北岸の伊吹山と姉川と妹川…そして脊振村の川下にも姉川がある


参加費+資料代:600円(70p資料代) 駐車場は問題ありません 当日連絡 09062983254


提出者:太宰府地名研究会編集員 古川 清久

無題.png会場:

手打ちそば 平田庵 俵山湧水そば

熊本県阿蘇郡西原村大字小森1805-8正面の旧宅

駐車スペースは十分にあります

昼食は萌の里の弁当が安くて美味

修了は遅くも16:00

今年の23月は少し異常な事が起こっています。そもそも年末年始頃から百嶋神社考古学の神代系譜などを希望する方が目立って増えており、3月の半ばの一週間に4050代の男女4人からトレッキングに参加したい、百嶋神社考古学の資料を欲しいとの要望があったのです。加えて80代の僧籍の方からもと…、ここ3年妙なウイルスに邪魔されながらも活動を継続してきたからか、時代の閉塞感、不安感が自らが何者であるかを知りたい…といった現れなのか今のところ良く分かりません。新年度からは大っぴらに活動できれば良いのですが。まあ、現在の売●政権ではどうせダメなのでしょう。

今回の河上 猛と日本武尊の話は単に福岡佐賀だけの話にとどまらず、新たな展開を見せてきました。

先走った話になりますが、ここでは簡単な予測というか簡潔に仮説を提出しておきたいと思います。


@  ヤマトオグナ(後の日本武尊)の熊襲猛退治の話はつとに有名ですが、お伽噺のように扱われ何処の話か分からなくなっています。しかし、これについては佐賀市(旧大和町)長崎自動車道佐賀大和IC 川上峡温泉付近であったとの伝承や痕跡があり、旧大和町史、熊本市在住の故)平野雅廣氏の指摘や付近の寺の記録があるのです。

ただ、今回はこの話を飛ばし、早良に落ち延びた河上 猛の話を中心に行います。

A  河上 猛の一族とは久留米の高良山に盤踞したウガヤフキアエズと阿蘇初代宮司家の奈留多姫の間に生まれた相当に重要な氏族でした(百嶋由一郎最終神代系譜)

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Bこれを誅殺したとされるヤマトオグナも近畿大和朝廷から派遣された皇子などというのは大嘘で、熊襲内の傍流の一派でした。(国立国会図書館所蔵「松野連系図」参照)

C  百嶋由一郎の神代系譜と松野連系図とを併せ考えると、肥後の一帯に居た別派が九州王朝の一流れを撃った内ゲバに等しいもので、だからこそ誅殺(テロ)隊程度の存在で決着が着いたのでした。

(黄色枠と緑枠の対立)

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平野雅廣(日+廣)「火ノ国山門」2021pより(以下倭五王に続く)


D  恐らく背景にあるのは海幸彦系と山幸彦系の対立構造であり、河上 猛の父はウガヤフキアエズ(山  幸彦と豊玉姫の間に生まれた)、母は奈留多姫(海幸彦=草部吉見とその弟健磐龍の両派の本流を汲む雨宮姫の娘)を草部吉見と神武に敵対し敗残したナガスネヒコの妹=オキツヨソ足姫の孫に当たるのがヤマトオグナ(出身地は肥後の山門)後のヤマトタケルなのです。百嶋由一郎系譜参照

E  河上 猛はそれほどの一族であったが故に容易には誅殺できなかったのかもしれません。何故ならば、ヤマトオグナの一族とは逆族ナガスネヒコの血を汲む一族だったからです。松野連系図参照

F  八坂刀売を祀る福岡市早良区原の諏訪神社の周りには6つのO姓の家が在り、そのうちの一軒はかつては宮司家でもあったのです。とすると、百嶋由一郎が言い残した河上 猛の一族とはO姓の一族以外には考えようがありません。もしかしたら家伝さえも残っているのではないでしょうか?

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故)百嶋由一郎は、河上 猛の一族は旧脊振村(現神埼市)の中心部広滝で許され福岡市早良区原に移り住んでおられます。名前も、場所も分かっているが、可哀そうで言えない…と言い残し亡くなられました。1800年も前の話にも関わらず、今も纏まって住んでおられますとは聴きましたが、正直言って6軒もの方がおられたとは思いもよりませんでした。

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G  そうだとすると、次に頭を過るのは阿蘇大蛇伝説の大神一族とは河上 猛の一族だったのではないかという驚くような想定です。この現場、豊後竹田の穴森神社と豊後大野の宇田姫神社に纏わる祖母山の大蛇伝説から「平家物語」にもその名を遺す大神惟基(阿蘇の重要な家系は「惟」を通字とします)、義経を呼び込み頼朝とも決戦を準備したその後の大神(緒方)惟栄の一族、宇佐神宮に八幡神を持ち込んだ大神比義の一族もこの河上 猛の一族であったようなのです。

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H話はこれだけに留まりません。通説では神功皇后の出身地は琵琶湖北岸の米原辺りなどされていますが、佐賀県佐賀市(旧三瀬村杠)には野波神社があり、神功皇后が主神として祀られており、その直ぐ近くには父の息長宿祢、母の葛城高顙媛をだけを祀る下の宮があるのです。詳しくはひぼろぎ逍遥と野波神社でダブル検索を試みてください。当然、伝承もあり息長宿祢は現北山ダムの底に野波神社が存在し、そこから二度の移転が行われ現在の地に鎮座しているのです。神埼市(旧)脊振村には母の葛城氏の一族が、佐賀市(旧)三瀬村には父の息長氏の一族が居たのです。


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I  そこでお考え下さい、日本武尊は琵琶湖北岸の伊吹山に向かいますね、佐賀県神埼市の旧脊振村にも伊福(これが伊吹山になった?)という集落があります。旧脊振村の中心部の広滝には広滝神社があり、由緒には河上 猛と日本武尊についてのだけの伝承が書かれているのです。さらに川を下れば、ヤマトオグナが拠点としたとの話がある白角折(オシトリ)神社までがあるのです。どうも神埼市側から少人数の部隊が佐賀市側に侵攻しているのです。日本武尊の東国進出の一つ琵琶湖の北岸の名山伊吹山がありますが、その裾野に姉川があり織田、徳川が浅井、朝倉を攻めた戦国期の激戦の舞台があるのです。

J  面白い事にこの神埼市には姉川という地名があります。JR長崎本線の神埼駅と佐賀駅の間に伊賀屋駅があります。その傍が姉川地区なのです。実は、滋賀県の姉川の上流には支流として妹川(草野川)があります。恐らく神埼にも妹川もあったと思いますが、ほ場整備や国土調査が行われると地名が消えてゆきます。現在、明治期の全国小字調べに当たっていますが、確実にあるのが、福岡県久留米市の東隣のうきは市には浮羽町妹川地区があります。この地では製鉄が行われていました。

そうです。鋳物師(イモジ)の川だったのです。

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佐賀県神埼姉川 と 福岡県うきは市妹川


K  そして、恐らく風を求めて神埼市の妹川は浮羽に移動したのです。それを思わせるものがあります。それは、佐賀市にも、うきは市、久留米市に巨勢川が流れているのです。そもそも、神埼市には的と書きイクワと呼ばれる大字があります。このイクワが、生葉となりうきは、浮羽に変っているのです。

L  では、琵琶湖の北の伊吹山の麓に流れる姉川と妹川をご覧いただきましょう。

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この高野川が別名妹川ですが、長浜市の中心部、姉川の下流で北流し姉川と別れるのです。

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神埼市と言えば吉野ケ里遺跡に隣接する佐賀市の東隣の市ですがそこに姉川地区があるのです


ひぼろぎ逍遥スポット131 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!

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伊吹山が歴史上での初見は古事記ですが、伊吹山の呼称には「膽吹山」、「伊服岐能山」、「夷服岳」、「伊布貴」、「伊福貴」、「五十葺」、「異吹」、「意布貴」、「伊夫岐」、「伊服岐山」など実に沢山あります。                  日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) の伝説」より


まさか、ヤマトタケルが退治に出かけた伊吹山の荒ぶる神とかも背振の下の伊福の話ではないでしょうね。まだまだびっくりする話があり続きますが、ここで止めます。このような話に展開して行くのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記