2023年01月01日

931 河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼

931 河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼

20220310

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


“ヤマト(タケル)オグナの熊襲 猛退治として皆さん良くご存じの説話があります。

その現場はどうせ熊襲だから鹿児島か宮崎辺りの話だろうと思われているようですが、それは何と佐賀県の現佐賀市(旧大和町)佐賀大和インター辺りをその舞台としていたのです。

ただ、今回、この川上峡一帯の話には踏み込んでいません。これ自体びっくりする話なのですが、敢えてその後の話を先行させて頂きました。それはこの話の重要さから、何としても急いで伝え残しておきたいからでした(これについては、「川上」という130シートのパワー・ポイントを作っています)。

そうすると「古事記」「日本書紀」と、その尻尾に成り下がった人々の通説の実態が如何に信頼に値しないものと暴き出す事ができるからです。ではこの取り組みに入った切っ掛けに再度触れます。

我々、百嶋神社考古学により古代史の真実への道を開かされた者にとって、気掛りなことが一つだけありました。それは、生前の百嶋由一郎が講演中に話していた事です。

そこで、先行ブログではその後の河上 猛に関して「ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる」 として公開してきました。

その理由は、本文で触れられていますのでこれ以上は書きませんが、故)百嶋由一郎氏は、“河上 猛は誅殺されたのではなく、現神埼市=旧脊振村の広滝で許され、脊振山を北に越え福岡市早良区の某所に移り住み、彼らの名も分かっているが、可哀そう過ぎて話せない…”と言われていたのでした。

 この衝撃的な話は当会の主要メンバーは皆良く知っているのですが、そろそろ決着をつけなければいけないと、年末年始から手描きデータなどを洗い直し今回の報告となったのでした。

 一部個人名(姓のみ)も出ることにはなりますが、神代史、古代史の真実を残したいとの思いから失礼は覚悟の上今般敢えて公開することにしたものです。

 所詮は二千年も前の話であり、言わば神話の話としてお許し頂きたいと思うものです。

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百嶋神社考古学研究会グループのメンバーの「事代主のブログ」氏は以前以下の報告をしています。

 「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)も後で独自にアプローチしこの部分に別個に合流した事になります。

 以下は、数年前に書かれた「事代主のブログ」の一部です。

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兼大明神の由来

この大明神には 日本武尊と吉備武彦神が祭られています。

第十二代景行天皇の皇子 日本武尊がこの地に登られてみると賊の川上梟師の一党が大変な威勢を振るっていた 尊は天賦の智勇をもってこの賊を征伐された のち十六代仁徳天皇の御代に一社を創建し氏神とされた 氏子の崇敬が極めて厚く社殿は現地を中心に周囲に広がり大樹が生い繁っていたが 水害 道路要地等に削られ現状となった (脊振村誌より)

日本武尊は判りますが、吉備武彦神が何故祭神なのか理解できません。

吉備武彦

『新撰姓氏録』では、左京皇別 下道朝臣条・右京皇別 廬原公条で稚武彦命(第7代孝霊天皇皇子)の孫とし、右京皇別 真髪部条では稚武彦命の子とする。

子については、『日本書紀』景行天皇5184日条において、娘の吉備穴戸武媛が景行天皇(第12代)の妃となって武卵王(たけかいごのきみ)と十城別王(とおきわけのきみ)の2子を産んだと見える。

『日本書紀』景行天皇40716日条によると、日本武尊の東征にあたって、その従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられたという。また同年の是歳条によると、吉備武彦は途中で越国に視察のため派遣され、のち日本武尊と美濃で合流した。そののち日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされたという。 wikiより

 これだけ見ると吉備武彦は川上梟師の討伐以降に従者になったはずですが…

それとも川上梟師の配下にいて、討伐後従者になったのでしょうか?

神埼郡村誌(明治14年)によると、広瀧神社は天之忍穂耳命、兼(かね)大明神は日本武尊を祀っていた別の神社で、当時まではそれぞれの場所に鎮座していました。今は現在地に合祀されています。

地元では広滝神社とも兼大明神とも呼ばれているようです。すると吉備武彦は広瀧神社の天之忍穂耳命と関係があるのかもしれません。                   以上「事代主のブログ」より

このように、「事代主のブログ」氏、「宮原誠一の神社見聞諜」…と当会のメンバーは現場に入るのです。自分で調べもしない論者ばかりになれば真の古代史は開けないないと思うものです。川上峡一帯の話についての詳細は、以下のこの辺りからお読みください。


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淀 姫 C ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”

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淀 姫 B

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淀 姫 A

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淀 姫 @


また、パワー・ポイントも作成していますので希望される方には実費程度でお送りしてもおります。

この話は「旧大和町町史」にも採録されているもので、40年近く前にこの話を知って以来、「古事記」の河上 猛の説話の舞台はこの地で起きたことであり、その話を回収された故)百嶋由一郎氏はさらにタケルは許され、その一族は今も山を越えた福岡市早良区にまとまって住んでおられます。分かっているけど可哀そうで公表できないと語っておられたのですが、当時も抜け駆けして聴きだすことまではできず、他のメンバーもそれっきりにしていたのでした。

ただ、極めてロマンチックな話であり、私を含めどの氏族だろうと思い続けていたのです。

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兼大明神の由来


この大明神には 日本武尊と吉備武彦神が祭られています。

第十二代景行天皇の皇子 日本武尊がこの地に登られてみると賊の川上梟師の一党が大変な威勢を振るっていた 尊は天賦の智勇をもってこの賊を征伐された のち十六代仁徳天皇の御代に一社を創建し氏神とされた 氏子の崇敬が極めて厚く社殿は現地を中心に周囲に広がり大樹が生い繁っていたが 水害 道路要地等に削られ現状となった (脊振村誌より)

 まず、この川上峡の河上 猛の話は、佐賀市に編入された結果、実質的に閉じられた旧「大和町史」と付近の健福寺の伝承に僅かな記録があるのみで、教育委員会関係者、学芸員から郷土史会に至るまでこのような郷土の古代史、神代史にすら目を向けていないのです。

 この辺りが、在野の研究者によってしか真実への扉は開かれないと言っている意味で、結局、通説派に牙を剥く我々のようなものによってしか発掘できない事が再確認できるのです。

 しかし、不思議な事に旧脊振村の兼大明神には朧(オボロ)気乍らもヤマトタケルの登場と河上 猛の没落という話が奇跡的にも伝えられていました。百嶋神代系譜によれば、1800年近く前の話であるのにです。

 不思議ですが、河上 猛と日本武尊の話が、何故、旧脊振村の広滝に残っているのでしょうか?

 それは、百嶋由一郎氏が言われたように誅罰されたものの誅殺まではされていなかったという史実をこの神社は一身に伝えてくれていたのです。

 そして、凡そ百嶋由一郎氏がこの神社を知らなかったとは考えられず、恐らく数十年前だったのでしょうが、まだ、僅かながらもこの細い伝承を伝える人が当時はおられ、そこからの貴重な伝承を拾われたのでしょう。

 そして、そこから先の落ち延び先の福岡市早良区原の諏訪神社の話までも回収されていたのだと思います。

 その意味では、一旦は消えた神代の秘話を、我々のグループが発掘できたことは素晴らしいことであり、改めて、当会のメンバー各位の努力に感謝するものです。

私も、数か月で解決の糸口を掴めたことには望外の喜びを感じています。

やはり、百嶋神社考古学の力は偉大だと感心する事しきりなのです。では、ここから検証しましょう。

ここで周辺の氏族を理解するために百嶋由一郎最終神代系譜をご覧いただきます。

蛇足ですが、建御名方は高木大神が本拠地としていた彦山北麓の筑豊は田川郡から行橋市一帯の国土開発を行っていた(添田の諏訪神社の由緒)ようですが、この一帯では添田町の一社を除き、ほぼ諏訪神社が一掃されています。大国主の国譲りの話もそうですが、その臣下(子ではない)建御名方も九州の人なのです。

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さて、ここから本題に入ります。兼大明神の由来には、「第十二代景行天皇の皇子 日本武尊」と書かれています。通説もその通りですが、百嶋神代系譜を見ると日本武尊は景行の子ではないのです。

草部吉見=ヒコヤイミミとナガスネヒコの妹=オキツヨソ足姫の間に生まれた天足彦の子がヤマトタケルなのですが、それでは英雄扱できないため、辛国息長大姫大目命=アメノウヅメ=伏見稲荷=伊勢の外宮=豊受大神との間に生まれた子=御歳神の子の景行の子としている様に見えます。

 これもヤマトタケル=日本武尊として持ち上げる以上ナガスネヒコの一派の後裔とは書かなかった(自ら持ち上げた景行の子として描いている)という配慮があるように見えるのです。

もう一つの問題は、近畿大和朝廷にとっての熊襲とは何かという奇妙な話になります。

 以前も申し上げましたが、河上 猛、淀姫の母奈留多姫とは、阿蘇惟人(阿蘇初代大宮司家の祖)の姉か妹かの子であり、阿蘇家本流の一族になるのです。

 久留米の高良山にいた上筒男命ウガヤフキアエズ(ハツクニシラス崇神をカムヤマトイワレ神武に偽装するために神武の父などとしている通説派はこれも熊襲扱いするのでしょうか)を熊襲としないとすれば奈留多姫とその子らの一族が熊襲だったと言ってることになってしまうのです。

 ここで、九州王朝論者にとっては常識の「松野連系図」をご覧頂きましょう。

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松野連系譜(姫姓)日本の古代豪族。『中興系図』によると呉王夫差の後裔。夫差の子・忌が日本に渡って帰化人となり、筑紫国に至って、肥後国菊池郡に住んだという。さらにその子孫・松野連(まつの むらじ)が、筑紫国夜須郡松野に住して、姫姓から松野姓に変えたのが始まりという伝承がある。…

下野松野氏(藤原姓)下野松野氏は、藤原姓宇都宮氏族横田氏支流。鎌倉時代中期、宇都宮頼綱の子、頼業が横田氏を名乗り、横田氏の嫡流を時業が継いで弟の義業が下野国那須郡松野郷を所領し、松野を「家号」とした。所有した城は松野北城、南城(1602年の松野氏出羽国移住により廃城)。…

「松野氏」ウィキペディア20220313 10:23による


この系譜はある幕末の研究者が回収したものとされ、現在は国立国会図書館に保管されています。

また、その一族とは、恐らく、熊本県山鹿市(旧菊花町)に本拠を置いていた 松野鶴平、雷蔵、頼久…の一族ではないかと考えられているのです(九州王朝論者の一部ですが…)。この系譜には三国誌の孫呉ではなく、呉越同舟の呉つまり狗呉の列島避退以降の系譜を書いているのです。

そして、この系譜に登場する二人の取石鹿文のうち第二系図の方が猛の名を貰った日本武尊であり、第一系図の方が誅罰された河上 猛であることが推定できるのです。

要するに、記紀の編集者は、阿蘇氏でもない呉の正当後裔氏族の可能性がある姫(紀)氏さえも熊襲扱いしているのです。

それは、藤原が応神を天皇に仕立て上げただけの紀氏とは縁もゆかりもない氏族だったからなのです。

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無題.png蛇足ながら、松野連系図には例の倭の五王がその後輩出しているとも書いているのです。

 関心を持たれたら、松野連系図については多くの論者がおられるので、古代の真実に繋がるエピソードだけにご自分でお調べいただきたいと思います。

 結論から言えば、近畿大和朝廷は、ヤマトタケルの熊襲退治なる宣伝を行いたかっただけであり、ヤマトタケルも畿内の人物などでは更々なく、この説話の実態は九州王朝の姫(紀)氏内部の内ゲバだっただけの事になるのです。


呉太伯はBC1000年頃の伝説上の人物と言われている。司馬遷の『史記』に記録されている。

 呉太伯の父は古公亶父(ここうたんぽ)といい、3人の子があった。長男が太伯(泰伯)、次男が虞仲(ろちゅう)、三男が季歴(きれき)といった。末子・季歴は英明と評判が高く、この子の昌(しょう)は、聖なる人相をしており後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されており、古公もそれを望んでいた。太伯、虞仲は季歴に後継を譲り南蛮の地、呉にながれて行った。呉では周の名門の子ということで現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み断髪し、全身に分身(刺青)を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないことを示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。<司馬遷『史記』「呉太伯世家」>

 太伯(句呉を建国)→虞仲→季簡→叔達→周章→熊遂→柯相→彊鳩夷→余橋疑吾→柯盧→周?→屈羽→夷吾→禽処→転→頗高→句卑→去斉→寿夢(BC585年国名を句呉から呉に改名)→諸樊→余祭→余昧→僚→闔閭→夫差(BC495 - BC473年)

 BC480年頃より、呉は越による激しい攻撃を受けていた。BC473年、ついに呉の首都姑蘇が陥落した。呉王夫差は付近にある姑蘇山に逃亡し、大夫の公孫雄を派遣して和睦を乞わせた。公孫雄は夫差の命乞いをし、夫差を甬東の辺境に流すという決断が下された。公孫雄は引き返して、夫差にその旨を伝えたが、夫差は「私は年老いたから、もう君主に仕えることはできない」とこれを断り、顔に布をかけて自害した。夫差は丁重に厚葬され、呉は滅亡した。

古代史の復元「呉太伯子孫渡来」より

 この系譜を正しいものとするならばですが、呉王扶差の後裔氏族が肥後に入り、そこから倭は呉の太白の裔と呼ばれたのであり、それを後の藤原は一時期熊襲とする必要性があったのです。

最後に、エピソード(挿話)を一つ。数年前、当会の事務局長のN氏が広滝から背振山頂に向かって伊福の辺りの探索を行い、現地でおばあさんと話をしていると、私は福岡の早良から嫁いで来とります…と言われたそうです。それを河上 猛が川上から早良に追放された事に短絡させることは早計かもしれませんが、古来、背振山を越え、嫁取り、婿取りの風習が成立していた名残ではないかと思うものです。


百嶋由一郎が残した、神代系譜スキャニングDVD、講演録音声CD、手書きメモ スキャニングDVDを必要な方は09062983254までご連絡ください。どの時間帯でも対応します。 以下928データ重複093


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年01月03日

932 早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

932 早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

20220315

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 早良の諏訪神社が河上 猛の一族が佐賀の川上峡からが移住した中心地だったと確信を持った後、改めて「福岡県神社誌」(上巻)を読み直しました。その意味では順番が逆になったかも知れません。

 何故なら、普通の方は書かれたものを第一義的に拝跪する方が多いはずです。

その意味では書かれたものをそのまま真に受けないという我々の悪い癖の様なもので、決してお勧めはしませんが、補足的な資料としか見ないのです。

ともあれ、神社誌を読むと、ただの推定仮説がかなり補強されました。

 今回は、そのことをお知らせしようと思います。

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文字が見辛い場合は上部メニューの表示を選択し拡大下してさい「福岡県神社誌」(上巻)90p


 高々「神社誌」を持ち出してそれだけでブログを書き上げようとするのは気が引けます。

ただ、こちらとしても「神社誌」さえ目を通していないのかなどと言われそうですので、慌てて予防線を張っただけなのですが、やはりかなり有益な情報が拾えて良かったと思っています。


神社誌から


 祭神が建御名方、菅原神とあります。冒頭に付近の二つの天満神社を大正期に合祀したものと書いてありますので、菅公はそれ以降のものの様に思えますが、「筑前國続風土記付録」を引用した後段では、祭神として建御名方、住吉、熊野三神とあり、それも真実を伝えているようです。

今でこそ、海から3キロ近く離れていますが、神功皇后征韓御凱旋に上陸…ともあり、海人族の領域であったことは一目であり、すぐ東には荒江の交差点があるように、古代にウヲーター・フロントであったことは疑いようがないのです。

 また、荒五郎社をも祀ると書かれていますが、この荒五郎については、当会メンバー「宮原誠一の神社見聞諜」を参照して頂ければ、博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神の子豊玉彦=ヤタガラスとお分かりいただけるはずで、この点からも住吉の神を祀るものであったろうことも確実なのです。

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そもそも、河上 猛の母 奈留多姫は久留米の高良山にいたウガヤフキアエズの妃であり、そのウガヤの子が安曇磯羅=上筒男命なのですから海人族の巣窟のような場所でもあったろう事は間違いないのです。

その意味で、今でこそ住宅地としては一等地なのですが、表現は良くないものの古代には臨海部の雑駁でその手の人々が住み着くような場末の海浜地だったはずなのです。以下荒五郎をご紹介致します。


宮原誠一の神社見聞牒(005)
平成29(2017) 326

No.005 大橋町蜷川の片淵神社と荒五郎

蜷川の箱崎八幡神社は筑後川の近くにあり、旧浮羽郡田主丸町片ノ瀬のすぐ西に位置する。この村の最初の神社開基は「片淵神社」の水神社で、智僧B二年(566)。「大化」の年号より古く、「智僧」は九州年号である。古くは「荒霊宮」と称し、明治2年(1869)に片淵神社と改称し、大正元年(1912)に現在の箱崎八幡神社境内に移っている。現在、片淵神社は改築中で、社殿も鳥居もみることができない。

  箱崎八幡神社 福岡県久留米市大橋町蜷川字宮ノ前1012

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神社建立について
「片淵神社」は水神社で、「智僧二年(566)、蜷川村発祥の頃、氏神として初めて片淵に勧請す。」とある。古くは「荒霊宮」と称している。

【境内の案内札】片淵神社 祭神 弥都波能売神(みずはのめのかみ) 水神 荒霊大明神 筑後川水神縁起 智僧二年(566) 蜷川村発祥の頃、氏神として初めて片淵に勧請す。
初め、荒五郎大明神と崇め、荒霊宮と称したが、明治2年(1869)に至り、片淵神社と改称し、大正元年(1912)に現在所に移る。祭神は千歳川(筑後川)氾濫の元となる荒魂なり。
御神徳は能く水災を除き田畑の豊稔を司る農業神として尊崇さる。尚、祭神には水難と共に火災を防ぐ霊力あるため、古来、子供の守護と火災の除災招福の神として厚き信仰あり。…


では、今回最も有難いと思った部分をお話ししましょう。

 お分かりの通り、「早良郡宗廟住吉宮本殿再建本願主泉沙彌とあり(泉沙彌は宮司大神甚左衛門が高祖大明神の社職上原泉と共に仕えへし高祖隆種没落後剃髪せる号名なり)」とあり、大神氏が当時も宮司であり宮司家の筆頭者でもあった事が伺えたのでした。

 恐らくはこの宮司大神甚左衛門こそが栄えある河上 猛の後裔であったのではないかと思えるのです。

 少なくも、神社誌が当方が推定する仮説を真っ向から否定するものではなかったと考えるのです。

 蛇足ながら、同地の小字が小薗と書かれています。

 鹿児島在住者は良くご存じかと思いますが、宮園、前園、神園、大園…という姓と地名は鹿児島に集中するものです。

 建御名方の本拠地としてはこれ程相応しいものはなく、細やかな示唆を与えてくれています。

無題.png 最後は緊張を解く心が和む話で終わりにしたいと思います。

 さて、初め文中に「かめさ」が出てきて多少驚きました。

意味は亀で良いはずなのですが、博多でも福岡でも亀を「かめさ」と呼ぶことはないと思います。十年は住みましたが、これまで聴いたことはありません。

 ただ、かめさで直ぐに頭に浮かぶのは、上方落語の界の宝だった故)桂 米朝師匠の「亀佐」です。一部を再掲載します。これについても小稿を書いています。


ひぼろぎ逍遥 スポット173 亀屋佐京 20180323

太宰府地名研究会 古川 清久


今回、江州伊吹山の一帯に入った人々とは佐賀〜筑後の人々だったのではないかという仮説を掲げている事から、この手強いテーマの息抜きとしてお灸の話を取り上げることにしました。

 古代史一辺倒の方には全くお役に立てませんのでその向きにはお読み頂く必要はありません。

 伊吹山を頭に浮かべる時、姉川、妹川や息長氏の事よりも、真っ先に過ったのはこの亀屋佐京の事でした。

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合同会社亀屋佐京商店 カーナビ検索

滋賀県米原市柏原2229番地 0749-57-0022


切りもぐさの唄

この唄を吉原に来る全てのお客様に歌い聞かせてください。宴の時に語ってください。と吉原の人達に

頼み、承諾してもらいます。すると、江戸中に伊吹もぐさの名前が広がっていきました。当時の吉原は、

町人から大名まで集う、華やかな江戸文化を象徴する街としてその成熟期を迎えています。この街で

伊吹もぐさの宣伝をすれば通常以上の効果が得られると考え、誰にでも口ずさむ事の出来る簡単な唄を

使ったこの妙案こそ、まさに、CMソングの先駆けといえるのではないでしょうか。


掲載記事・内容等を許可なく転載することを禁じます。と、ありますのでここまでに留めますが、敢て場違いなもぐさ屋の話を取り上げたのは、地味な噺ではありますが、上方落語の名人中の名人 桂 米朝師匠の「亀佐」が直ぐに頭に浮かんだからでした。

半世紀も前の昔になりますか?そのころまでは、まだ、たまに目にした事もあったのですが、巷では鍼灸の「灸」については鍼灸院以外では目にすることがなくなりました。

身体に鍼や灸による刺激を身体に加えて疾病への治療を行うのが鍼灸医療ですが、一般的には、大陸の戦国期〜後漢期に掛けて鍼灸理論が成立したと言われています。

この技術を持ち込んだのも弘法大師との話があり、何やら丹生地名、製鉄、お灸といった繋がりが見えて来るようでもあります。

さて、亀屋佐京のホーム・ページには“CMソングの先駆け”と書かれていましたが、桂 米朝全集の「亀佐」にはこの売り声が記録されています。

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今日もこの説教の出て来るお噺でございますが「亀佐」といぅのは亀屋佐京といぅ、今でもございます、滋賀県に名代の艾(モグサ)屋さんですなぁ。

関西では灸(やいと)、東京のほぉではお灸と言ぃますが、あのすえる時のモグサ、あれだけ専門に売ったはるといぅ、それで何百年も続いてるといぅ、えらいおうちでございますが。

伊吹山は今は薬草の本場みたいなとこやそぉですなぁ、漢方薬が近年見直されましてね「鍼(はり)やヤイトも効果がある」て、浮かび上がってきましたが、ハリはともかくヤイトはこの痕(かた)が付きますのでね、嫌がる人が多いです。

ところがこの頃のヤイトはね、ホンマに小さい小さいモグサでございまして、チョンとツボさえきしッと乗ってりゃ、あれで効くらしぃ。すぐ消えてしまいますし、昔ほど熱いことないよぉに思います。痕なんかもちろん残らしまへん。

ところが昔は大きなヤイトをすえたんでね、痕が残りました。なかには懲らしめのためにすえるお灸なんてのがある。別に病気やないんですなぁ「また寝ションベン垂れしとるなぁ」てなこと言ぅて、寝ションベンに効くヤイトすえてんねんやろけど、丁稚なんかもぉ線香とモグサ隠し回ったそぉでございます。

この「亀屋佐京」が東海道を上り下りする人に宣伝をしはった。面白い節でこの伊吹モグサを売って歩いたんですなぁ。


♪ ご〜〜しゅ〜 いぶきやまのほとり   ♪ かしわばらほんけ〜〜 かめや〜〜さきょ〜

♪ く〜すりもぐさよろ〜〜〜し っちゅう、こぉいぅ節でずっと売って歩いた。わたしら、もちろん知りませんが南天さんなんて人はこの真似が得意で、よぉ真似したはりました。

それが東海道で流行りましてね、子どもなんかに売り回らしたらこの節のほぉが流行ってしもぉて、大阪あたりまではもちろんのこと、名古屋から浜松、ズ〜ッと江戸まで「亀屋佐京の薬モグサ」が売れたんやそぉでございますが、ちょっと面白いもんですなぁ。

♪ ご〜〜しゅ〜 いぶきやまのほとり ♪ かしわばらほんけ〜〜 かめや〜〜さきょ〜

♪ く〜すりもぐさよろ〜〜〜し ちゅうて、別に真似してもらわんでもよろしぃねんけど。これはね、ちょっとやってみとなるよぉな節があります。まぁまぁ、そんな昔の噺でございまして、お坊さんが前に大勢の人を集めてお説教をやってなはる。●ご同行(どぉぎょ〜)、南無阿弥陀仏を唱えるといぅことはな、これはもぉどなたでもおっしゃることじゃ。しかし、ただ唱えりゃえぇといぅもんではないぞ。念仏宗は「ただ南無阿弥陀仏さえ言ぅてりゃ救われる」と、それはちょっと心得違いじゃ。

●ある老婆がおりましてな、このお婆さんが朝起きると「南無阿弥陀仏」ご飯を食べるあと先に「南無阿弥陀仏」道を歩いてても「南無阿弥陀仏」腰を下ろして「南無阿弥陀仏」腰を上げても「南無阿弥陀仏」日が暮れると「南無阿弥陀仏」と、毎日朝から晩までお念仏を唱えておった。

●この老婆があの世へまいります。ついに定業(じょ〜ごぉ)が尽きて冥土へ赴いて、閻魔大王の前でお裁きを受けることになったなぁ。閻魔さんが「これ老婆、そちの罪はどぉじゃ?」と言ぅと「わたくしは生涯にどれほどのお念仏を唱えたか分かりません。その念仏の功徳(くどく)によって、どぉぞ極楽へ送ってくだされ」と言ぅ。

●そこで閻魔大王が「それっ」と合図をすると、鬼が、この老婆が生涯に唱えた山のよぉなお念仏を車に乗せて運んで来ましたなぁ。

●「こりゃ、老婆。お前が生涯に唱えたお念仏は斯く山の如しじゃが……」と、篩(トォシ)を持ち出して、これを振るい掛けたなぁ。と、山のよぉなお念仏はことごとく網の目から下へ落ちて、あとに残ったは今際(いまわ)の際に唱えた「南・無・阿・弥・陀・仏」ただ一つであったといぅ。

■グァォ〜ッ●数さえ多ければよいといぅものではないぞ■グァォ〜ッ●心のこもらぬお念仏が山ほどあろぉとも■グァォ〜ッ……

●かなんなぁこれ、説教のあいだあいだへ鼾(いびき)が入るじゃないかいな。

講中(こぉじゅ〜)の皆さん何をしてござる。鼾があっては邪魔になる、説法の邪魔になるでな、気ぃ付けてもらわんと困るで講中の皆さん。

▲おっすぁんそれがねぇ。鼾かいてるのんあれ、講中の一人でんねや●えぇ、だ、誰じゃいな?▲亀屋佐兵衛さんが鼾かいてまんねやがな●亀屋佐兵衛さんちゅうたら頭はげらかして、もぉえぇ歳やないかいな。そんな人が念仏の邪魔をしてはいかん。お説教の邪魔になりますで、早よ止めなされ。

▲ちょっと、佐兵衛さん。亀屋佐兵衛さん。念仏の邪魔なる言ぅたはりますがな■グァォ〜〜ッ▲あんた、講中やろ。頭はげらかして、鼾が邪魔んなる言ぅてはりまっせ■グァォ〜ッ▲難儀やなぁ……

♪ こぉ〜〜じゅ〜〜 いびきじゃまのあたり♪ かしらはげ、あんた本家じゃ、ほんけかめや〜〜さへぇさん、これッ!♪ ゆ〜すりおこすえ〜〜〜ぇ

▲おっすぁん、まだ起きまへんがなぁ……

【上方落語メモ第3集】その108 亀佐による 以下は省略しますので検索しお読みください。


 もう5年前になりますが、滋賀県〜岐阜県への神社調査に入りました。ついでに亀屋左京にも足を延ばしましたが信じられないような大邸宅(今でいえば大製薬会社の社長宅ですね)だった事を今も思い出します。

 そもそも滋賀県とは志賀島の海人族=安曇族(ウガヤフキアエズの子)が入ったから滋賀県と呼ばれるのであり、その証拠に、しばらく前まで安曇川町があり安土城が造られたのも、安曇族、安曇川のアヅ、アドが反映されているからなのです。

しかも、河上 猛を誅罰したヤマトオグナ=日本武尊(ヤマトタケル)は伊吹山に入った事になっていますね。

このため、亀屋左京に思考が移っても奇妙では決してなかったのです。

 しかも、博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神=カミムスビ)の神紋は三盛り亀甲紋なのです。

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大幡主の一族=白族への入婿となった大国主命の神紋(右)も亀甲紋ですね。勿論、大幡主の神紋(左)が先ですが。

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百嶋由一郎が残した、神代系譜スキャニングDVD、講演録音声CD、手書きメモ スキャニングDVDを必要な方は09062983254までご連絡ください。どの時間帯でも対応します。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年01月06日

933 ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?(上) ❾

933 ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?(上) 

20220318

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部はどのような土地だったのか? と妙なタイトルにしましたが、結論から言えば、これも故)百嶋由一郎氏が言っていた“久留米高良山に移動する前の九州王朝の本拠地は佐賀の久保泉から背振に掛けての一帯でした”という話の後追いをしたいと思うのです。

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かつては高良(甲羅)とも呼ばれていた


以前、ひぼろぎ逍遥066 において以下の小稿を書いています。再掲します。

066 葛城のナガエソツヒコは神埼市(旧脊振村)桂木にいた 大宰府地名研究会 古川 清久 20140428


063 神埼の櫛田宮内の二つの稲荷神社の祭神 に於いて、


太宰府地名研究会は、去る419日、「東肥前の神々」として、25人規模の現地トレッキングを行いました。“テーマは旧神埼郡(旧脊振村)に葛城(桂木)、一言主神の故地を探る“(旧脊振村には現在も桂木、永江、長江という字が残ります)というものでしたが、各々の参加者はそれぞれ得るものがあったと思います。


…としました。では、その旧脊振村鹿路の桂木バス停と鹿路神社をご覧いただきましょう。

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そもそも日本書紀によれば、神功皇后は夫(とされる)仲哀天皇と供に、反乱を起こした九州の熊襲を成敗しょうと筑紫にやってきますが、仲哀は急死します。
 武内宿禰と六男の長江曽都昆古(ナガエソツヒコ)後の葛城襲津彦(カツラギソツヒコ)の協力もあり熊襲を討とうとするのですが、彼らを支援していた朝鮮の新羅を討つ為に、妊娠中にもかかわらず皇后は出産を遅らすために石を布で腹に巻き、武内宿禰親子を従え渡海して新羅を攻撃し滅ぼし、百済、高句麗は戦いもせず平伏させ凱旋し応神を産むのですが、その後皇后は幼少の応神を摂政として助けたとされています。
 また、その治世においては半島との交流を進めるとともに、百済からは王仁博士が鍛冶工や服織工を率いて移住し、論語十巻、千文字一巻を献上し儒教を伝えたとします。

まず、神埼市の吉野ケ里丘陵の西には王仁神社があるのですが、それについては別稿とするとして、旧脊振村腹巻には永江という字が、鹿路神社がある鹿路地区には桂木という地名が今も確認できるのです。

 では、曽都(襲津)は?と問われそうですが、あえて言えば、佐賀市の西の牛津がソツに当たりそうです。まず、古代、お隣の三根郡には葛城郷がありました。


三根郡  太宰管内志

葛木 一言主神社 葛木郷 物部經津主神 物部郷 漢部郷 米多郷 千栗郷 千栗八幡社

〔雄略天皇紀〕身狭村主青の記事、〔和名抄九巻〕三根郡千栗物部米田財部葛木 

三根郷と葛城郷 角川 日本地名大辞典 佐賀県より もどる

当町(三根町)は海抜34mの沖積層からなる平地部のため史跡は乏しい。石井・持丸・本分などに貝塚があり,出土品としては石器・土器などが発見され,本文遺跡からは甕棺・紡錘車・石包丁や獣骨などが出土している。弥生時代は海岸線であったと思われる。

  三根の地名は「肥前国風土記」に「同じき天皇(景行天皇)行幸しし時,(中略)此村に宿りましき。天皇,勅りたまひしく,〈夜裏は御津甚安穏かりき。此の村は天皇の御寝安の村と謂ふべし〉とのりたまひき。因りて御寝と名づく。今は寝の字を改めて根と為せり」とあるところから呼ばれるようになったと思われる。古来,この里は平和で豊かな人間味あふれる至誠の民の住むところであったと伝えられている。また,「肥前国風土肥」にみられる景行天皇の征伐説話は三根にも及び,この地方に対する大和朝廷の勢力を物語るものとして注目される。

  嶺県主の存在は,大和朝廷の勢力圏にあったと思われる。また,「肥前国風土記」「延喜式」「和名抄」などによると,神埼郡は三根が分離しないころは,15郷からなる最大のものであり,筑紫米多国造の勢力基盤であったといわれている。そして三根は県主の勢力圏の上に成立していたといわれている。三根郡司に海部直鳥の名が推定される。米倉二郎氏が「肥前国風土肥(ママ)」の各郡の復原条里数を推定したものによると,三根は530里となっている。これは条里区画が漸進的に開発され,その田数が増加したものであるといわれる。…

「和名抄」には三根郡葛城郷が見え「三代実録」貞観15年(873916日の条に葛木一言主神のことが見え,筑後川に近い天建寺宇土居内に祭祀されていた式外社の1つであることから,当郷は天建寺一帯に比定される。一言主は大和国(奈良県)葛城山の神で,のち葛城神社となった。

葛城神社〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

  三養基郡三根町大字天建寺字土居内にある神社。旧村社。祭神は葛木一言主命。創建年代不明。貞観15916日に正六位上から従五位下となっている(三代実録)。一言主命は大和国葛上郡葛城山の神であり,当地にいたとされる葛城部によって勧請されたと伝えられる。明治6年村社となる。なお,当社から天建寺一帯が,「和名抄」に記す葛木郷であったといわれている。

葛木郷〈三根町〉  角川 日本地名大辞典 佐賀県より                       もどる

〔古代〕平安期に見える郷名。「和名抄」三根郡五郷の1つ。刊本の訓は「加都良木」,伊勢本の訓は「加津良木」。式外社の葛木一言主神が三根町天建寺に祭祀されていることから,天建寺付近に比定される。また郷名から葛城部の存在が考えられる。「肥前国風土記」によれば,漢部郷に忍海漢人を連れてきて兵器を製造させたと記すが,忍海漢人と葛城氏との深い関連を考えると,忍海漢人と葛城氏が同時に移住してきた可能性が強い。「九州の山と伝説」より(当時菊池地名研究会メンバーの牛島稔太のHPより)


無題.png 普通は奈良から勧請されたとでも書かれそうですが、あたかも、葛城氏はこの地から奈良に移動したかのような書きぶりです。

ただ、この地は古代には明らかに海の底と思える場所で、もっと内陸部に葛城の故地があると探していました。

みやき町天建寺土居内の葛城神社 天建寺橋で筑後川を渡ると直ぐのところにあります。「九州の山と伝説」でも「神埼郡は三根が分離しないころは,15郷からなる最大のものであり,筑紫米多国造の勢力基盤であったといわれている。」と書いているように、旧脊振村(現神埼市)に葛城があっても決しておかしくはないのです。最早、疑うべくもありません。

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葛城氏は後に奈良にも移動、展開したのでしょうが、彼らの故地は、現在の佐賀県三養基郡、神埼郡の地であり、九州王朝を支えた最重要の氏族だったのです。

肥前には武内宿祢の父親とされる屋主忍男武雄心命が主神として祀られる武雄神社(武雄市)があり、母親の山下影姫を祀る黒尾神社、黒尾岳が、その北東4キロに(ちょうど夜這いで行ける距離)現存しています。

この山下影姫を祀る黒尾神社は武雄市内に4社はあり、三養基郡と並び、紀氏とも言われる母方の故地のように見えます。そもそも、武内宿祢の出身地とされる紀州には、影姫を祀る神社はないのです。

母親を祀る神社がなければ、出身地のはずがないのです。ここまで考えてくると、葛城氏、紀氏はこの一帯に広く展開していたようです。してみると、葛城襲津彦どころか、蘇我石河麻呂、巨瀬小柄臣、木角臣…などもいた可能性が考えられます。佐賀市には今も巨勢川が流れ、神埼郡吉野ケ里町には石河を思わせる石動(イシナリ)という地区があるのです。

朝鮮語では川はナリと呼び、久留米市の大善寺玉垂宮正面を流れる広川は古くはアレナリ(川)と呼ばれたのです。

恐らく、葛城襲津彦の兄弟達もこの一帯にいたのです。それを意味するかのように、葛城を思わせる香月姓は、福岡県に723件(全国1位)、佐賀県内に362件(全国2位)存在し(ちなみに3位は大阪府の69件)、佐賀県では圧倒的に神埼郡、佐賀市に集中しているのです(HP「姓名分布&ランキング」)。

東京オリンピック当時の佐賀県知事は香月氏でしたが、彼も恐らく葛城氏の末裔だったのでしょう。

司馬遼太郎も取り上げた大和朝廷に先行する葛城王朝については、なお、定説を見ませんが、決して、奈良から始まったのではなく、脊振山系の南麓に端を発したのです。

ちなみに、我が神社考古学の師、百嶋由一郎氏は、「ここの桂木には、高良(甲羅)という地名表示も残っていました」と言われていました。ようやく、その意味が少しは分かってきたように思います。

どうやら、「古事記」、「日本書紀」を金科玉条とする間の抜けた畿内説論者はただの無知と思い込みから無自覚に、記紀で偽装した藤原一派は、意図的に徹底して紀氏や葛城氏の歴史を隠そうとしたようです。マキムクで馬鹿騒ぎをする邪馬台国畿内説論者の愚かさには改めて驚かされます。

さて、このことに気付くまでに、糸島市の写真家松尾紘一郎氏から重要なアドバイスを頂いていました(資料添付)。

また、独立系の九州王朝論者の佃収氏の関連文書も読ませて頂きました。当然にも、百嶋先生からも数年前にこれについてのサジェスチョンを口頭で得ていました。

この、三者の先行する研究者の示唆により、葛城氏の故地を発見できたのです。皆さんに改めて深謝!

最期になりましたが、最近、製鉄遺跡として近年有名になった九大移転地の元岡遺跡のそばにも桂木というバス停があり、付近には六所神社があることを松尾紘一郎氏から教えて頂きました。

氏(ひぼろぎ逍遥のトップ画面の写真提供者でもある)は、「ロク」という音と桂木には関連があると言われていました。

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脊振の桂木がある場所が、鹿路(ロクロ)地区でしたし、糸島の桂木のそばにもロクショ神社があるのです。氏の慧眼には改めて驚かされます。

もしかしたら、川上の淀姫神社よりさらに50年古い縁起(1650年)を持つ上無津呂の淀姫神社が鎮座する佐賀市(旧富士町)の最奥部の上無津呂、下無津呂の無津呂の意味も、鹿路と同様にロクロと読むべきなのかもしれません。

なぜならば、武内宿祢の身代わりとなった壹岐眞根子(イキノマネコアタイ)を思わせる真名子という集落が隣接しているからです。以下は松尾紘一郎氏からのアドバイス。      以上全文再掲載。

さて前置きが長過ぎましたが、ヤマトタケル(後に日本武尊と書かれた)の子は仲足彦(藤原が仲哀天皇扱いした)であり、そのお妃は神功皇后(百嶋神社考古学では、後に高良玉垂命=第9代開化天皇の后となり、後に仁徳天皇とされた長子シレカシノミコト以下四人の皇子を産む)ですね。実は、この神功皇后のご両親は脊振山系南麓の山内(サンナイ)に居たのです。これについては、当方が書いたブログもあるのですが、メンバーの宮原誠一氏によるリポートがありますので、こちらをご覧頂きたいと思います。

スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”20171010(神社考古学研究班)古川 清久 をお読みください。ここではその主要部分をご紹介しておきます。次ブログを…。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記