2022年11月18日

927 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか?

927 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? 

20220206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、ビアヘロ版190192でヤマトタケルの熊襲退治の舞台が佐賀市の佐賀大和インターチェンジ付近で起こった事だったという話を書いてきました。

ところが、この話の延長上にもしかしたら阿蘇大蛇伝説で知られ豊後大野、豊後竹田一帯に盤踞した三つ鱗紋(後に左三つ巴紋に収斂)を使った大神一族もこの河上猛の後裔氏族ではないかと言うイメージが過ったのでした。

無題.png

今回、ほとんど理解されないまでも、先行ブログ3本で、何とか河上 猛の後裔氏族が「大神」姓を名乗っていた可能性があることに気付きました。

 一つは現地探訪によるものですが、もう一つは「福岡県神社誌」上巻(90p)にも同社宮司家として大神氏が同社を所収されていたことが確認できたからでした。


「社記によれば往昔は當地海濱にして神功皇后征韓御凱旋の砌姪濱に御上陸鳥飼への行啓の御途上に當りたるに因み住吉神を祭ると伝う社蔵の慶長五年の棟札に早良郡原村宗廟住吉宮本殿再建本願主泉沙禰とあり(泉沙禰は宮司大神甚座左衛門が高祖大明神の社職上原泉と共に仕へし高祖原田隆種没落後剃髪せる号名なり)貞享五年の棟札に早良郡原村産神諏訪宮本殿再建祠官藤無題.png上氏周継とあり。」


もし仮に、大神氏が河上 猛 に端を発する一族だったとしましましょう。すると面白いことが見えてくるのです。それは祖母山です。以下高千穂の神話と伝説」より。

無題.png

この話に入る前に、僭越ながら先にちょっとコメントを加えておきます。

山頂の祭神の 健男霜凝日子神、豊玉姫命、彦五瀬命 については、百嶋神社考古学としてはそのまま受け入れられないのです。それは祭神が重複しているからです。

それは健男霜凝日子神と彦五瀬命とは同一神だからなのです。この誤りが何故生じたかは不明です。

山頂から下宮にかけて10社とは言いませんが豊後竹田を中心に56社はあり、一応全て参拝させて頂きましたが、実際にはエリアが広く大変です。では百嶋先生の通称金神系譜(部分)をご覧ください。

無題.png

通常、神武皇兄五瀬命を義理の兄として扱うのは本物の神武天皇(藤原が捏造した神武僭称贈る崇神ではないと言う意味で…)の本物のお妃だったアイラツ姫(宮崎県日南市油津)の実兄が五瀬命だったからです。

 では、話を戻しますが、何故、祖母山と呼ばれているのでしょうか?それは言うまでもなくそれは誰かの祖母だったからなのです。

 まったくでたらめな話なのですが、百歩譲ってその説を説明すれば、それは、彼らにとっての「神武天皇」の祖母が玉依姫(実は神玉依姫ではなく鴨玉依姫)だからなのだ!と言っているのです。これには二重三重の誤りが転がっているのですが、真実が隠されてしまうと言いたい放題になってしまっているのです。ほとんど漫画ですね。

 これが宮崎のインチキ神話の底流に流れる錯誤というか偽装なのです。

しかし、それに悪乗りするのが阿蘇系の後の藤原だったために嘘に嘘が輪を掛け闊歩したのでした。

無題.png
無題.png
無題.png

神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)の母神は確かに玉依姫と呼ばれる鴨玉依姫でした。

後の藤原は自らの一族を過大宣伝し、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の母神が神玉依姫であることに気づき、畿内制圧に成功した崇神(これも久留米高良大社にいた高良玉垂命=開化天皇+正妃神功皇后=皇宮皇后の指揮下で四道将軍を送ったのですが)は初代神武以上の功績を持つ藤原の祖先を神武に仕立てようとしたのでしょう。

では、この本物の神武天皇の母神とはどなたなのでしょうか?これも最終神代系譜に書かれています。

無題.png

お分かりでしょうか?大幡主ことカミムスビの姉=ヤタガラスの伯母 様に当たる方なのです。

大体、ウガヤフキアエズの子が神武天皇=サノノミコトなどといった話を吹聴される方は何も分かっちゃいないと思われて間違いありません。では、再び話を戻しましょう。

 あくまでも百嶋由一郎によればですが、ご覧のとおり祖母山の神豊玉姫は河上 猛にとって祖母である事は明らかですね、さらに言えば、ウガヤフキアエズ(当時久留米の高良山に居たのですが)は父になるのです

実際には、祖母嶽(ソボタケ、ウバタケ)神社が置かれ、日子穂 穂出見命(ヒコホホデミノ)とそのお妃である豊玉姫命(トヨタマヒメ)が祀られているのですが、祖母山は「祖母」の由来の神武天皇の祖母、豊玉姫が祭られていますなどと解読されています。

この神武が本物の初代神武であるカムヤマトイワレヒコでないことは明らかで、藤原が拵えた神武僭称贈る崇神ことハツクニシラススメラミコト(黒枠)なのです。

この人物は久留米高良山にいたウガヤフキアエズと第9代扱いとなっている呉太伯の血を惹く本物の天皇高良玉垂命(ワカヤマトネコヒコ)開化天皇(后は仲哀死後の神功皇后)の臣下でしかない阿蘇系の人物(阿蘇系の大山咋=具体的にはヒコヤイミミと市杵島姫との間に生まれた国造神社様)だったのです。

ただ、その阿蘇系が藤原氏として最後の勝利者となったことから、崇神を神武に見立て、ヒコホホデミやウガヤフキアエズが神武の父などというとんでもない大嘘をでっちあげてしまい宮崎のインチキ神話がこさえられてしまったのでした。

 これが通説派の欠史8代架空説などと言うほとんど漫画でしかない歴史が偽造されてしまったのでした。実に嘆かわしい限りであり、「古事記」の95パーセントが嘘という百嶋説に従うべきなのです。

 ネット上にはウガヤフキアエズ王朝複数のサイトが出店されています。ここで敬意を表し特筆大書させていただきましょう。


祖母山大明神の正体とは? - ウガヤフキアエズ王朝実在論


 ただ、彼らが持ち上げる大神一族がウガヤフキアエズの後裔氏族であったであろうことは疑いようがありません。


 そこで、一気にそこに踏み込みたいのではありますが、その前に、阿蘇大蛇伝説と大神一族(大賀、緒方、尾形…)と祖母山、姥ケ嶽(岳)の関係を簡単にお話しておき、その後に触れたいと思います。

阿蘇大蛇伝説と大神一族


 大分県でも辺境に位置する豊後竹田から豊後大野、臼杵、佐伯…と、この一帯が頭に浮かばない方が多いのは致し方ありませんが、祖母山の西に延びる尾根の北麓に穴森神社という非常に印象的な神社あります。何度となく参拝していますが、何時行っても迷いそうになります。

無題.png

大分県 九州の神社 より

無題.png

無題.png他に比べ、このサイトは当方が書こうとしていた部分を正確に書かれており是非お読みいただきたいと思います。

 まず、一部ですが、本文を掲載し、勝手かつ僭越ながらコメントを加えさせて頂くことにします。

無題.png
無題.png

当地の伝承では、上記の『平家物語』で語られた内容と共に、一部の微細違いと共により詳細が伝承されています。

祖母山大明神(健男霜凝日子神社)の化身である蛇神(穴森神社の神)の子を宿やどしたのは、豊後大野市清川町宇田枝(地図)に在した華御本姫とされています。華御本姫は、藤原伊周の娘で、父君薫育により和歌などの国風に堪た能であったことから歌媛様と称されていました。草木も眠る丑満時になると、その華御本姫のもとに端麗な若者が風の如く寝所を訪れ、未明には煙の如く、所も言わず名も語らず去るのでした。

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記