2022年11月12日

925福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい 

925福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


凡そ明治のころまでは、皇室、大名家、高級官僚…といった高位の人々を除き、県を越えて嫁を貰ったり、養子婿を貰ったりするという事は無かったと言われていました。

 だからと言って、犬や狸のように半径一〜二キロからと言うこともなく、うちの一族は決まってどこどこの集落から嫁嬢さんを貰う習慣があり、間違っても通婚の習わしの無い集落からは嫁取り婿取りはしなかったという事は普通に理解される事だったのです。

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今までこそフリッピンやブラジルなどからお嫁さんを貰ったり、息子がオーストラリア留学でイタリア人のお嬢さんを連れてきてしまった…と言った話がありますが、百年前までは1001000人に1人もない事だったのです。

 なんでそんな話を持ち出したのかと言うと、もしかしたらこの神社氏子の方々の全部とは言わないものの、1700年以上も前にかなり纏まった数の方達が背振山を越えてやってきたのではないかと考えているからです。

 情報が限られた中、それでも河上 猛の末裔の一族が山を越え、この地に辿り着いたのではないかという神代史の消された事実を発掘できるかも知れないという淡い希望性を探ろうとしているからです。

 ここまで言えば罵声が飛んできそうですが、そういう方たちは通説派の学芸員などが言うご追従説を聞いて信じ込んでいれば良いだけでこのような方々には真実の発掘など決してできないだけの事なのです。

 まず、江戸期の藩政時代に百姓は姓が無かったなどと平然と語る方々がおられますが、仮に百姓身分だったとしても本家が武家の場合は分家は百姓身分で無名になっていたのですし、そもそも滅ぼされ敗残した武家はお家再興を目指し、荒野の開拓を行いながらも家名を持ち続けた人々もいたのです。

 つまり、幕藩体制下では、百姓は氏姓を持たない、使わない事にしていただけだったのです。

 勿論、最下層に落とされた土地を持たない小作人も居たでしょうし、逃散した人々も居たでしょう。

 だからと言って明治以前の百姓が一切姓を持っていなかったなどと考えるのは早計過ぎるのです。

 ただ、我々が考える3世紀の背振を挟んだ佐賀、福岡のかなりの有力な人々に共通する姓氏を探ろうとすることは無謀と言われる事には理がある訳で、暴走は承知の議論なのです。

 仮に河上 猛の一族が早良に移動したとしましょう。

 彼らは追放された川上(河上)猛に近い一族(首謀者)だけで移動しているはずで、佐賀県の旧大和町一帯にこの地と繋がりのある人々がいたはずで、娘や婿のやり取りは間断なく行われていたのではないかと思うのです。

 すると、明治になり大ぴらに氏姓を主張できるようになったならば、山を挟んでどの名を採用するかは同族付き合いの中で、自ずと決められたのではないかとまでは言えそうなのです。

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そこで、昭和61年にこの壽和会に名を連ねられた30人ほどの長老の方々の姓が佐賀とどれぐらいの対応を示しているかを見てみたいと思います。

 まず、筆頭の大神 様です。河上 猛の母君である奈留多姫とは明らかに阿蘇系の人物です。

 百嶋由一郎最終神代系譜で考えても阿蘇の初代統領とされる惟人の妹か姉なのですから、後の藤原が阿蘇家を起点としている事を考えれば、有力な家系である事は言うまでもないでしょう。

 また、大神一族は、阿蘇大蛇伝説で知られる豊後大野の緒方三郎惟栄(緒方、尾形、大神…)に繋がり、宇佐神宮焼討ちなど「平家物語」にもその名を轟かす豪族でもあったのです。

 ちなみに荒城の月の岡城も本来は大神城であり、義経を招き入れ、頼朝と一戦やらかそうとした剛の者だったのです。

 当然、佐賀にも大神姓はあり、大賀と合わせ、有力家系である事は言うまでもありません。

 それほど多くはありませんが、早良の真南の様な場所に大神さんはおられるのです。

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大蛇の末裔という伝説をもつ大神(おおが)惟基の子孫です。
惟基は大和国大神(おおみわ)氏が下向し土着したとも、宇佐八幡宮創始に関わった
宇佐大神(おおが)氏ともいい、代々大野郡の郡司であったと考えられています。

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平氏の大宰府掌握後、惟栄は重盛(清盛嫡男)と主従関係を結び、緒方荘の荘官から豊後武士団の棟梁となり、優れた指導力を発揮しますが、九州に支配力を強めていた平家に反発し、頼朝挙兵後、重盛の家人でありながら兵を挙げ、反平氏の中心的人物として目覚ましい活躍をしました。
 緒方荘は祖母山北西一帯にあり、中世には108村を併せ持つ大領でした。

平家物語・義経伝説の史跡を巡る

次に、武田姓を考えましょう。

関東武士団武蔵7党などにも武田があるのですが、古くは熊本の小国にいたと思っています。

海援隊の武田鉄矢氏のご母堂は北里柴三郎の生家の北側の領地を持つ大地主だったと聴いており、家勢を失った後、母君が博多に出て来て育てられたため海援隊では武田姓を名乗ったとされているので、甲斐姓も含め、甲信に覇を競った武田氏も熊本起源ではないかと考えています(これは何れ別稿としなければなりませんね)。

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最も興味深いのは、槙 姓です。

 槙とは古くは有力者の棺をこさえる素材であり、それだけで身の引き締まる思いのする樹種(高野槙)ですが、この槙姓を持つ方が、早良の南に大量に居られるのです。

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真っ赤になっており50家を拾えますが、佐賀市から神埼市そして吉野ヶ里町と古代でも要地に分布されておられ、その意味で、ヤマトタケルの伝承の残る 白角折(オシトリ)神社 佐賀県神埼市の神社がある一帯でもあり、非常に興味深いところです。

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小田姓も佐賀にはたくさんお住まいですが、明らかに系統が異なると思われる真鍋姓も佐賀県には多いのです。有名な那珂川町(当時)の真鍋大覚(九州帝国大学物理学)の真鍋姓です。

 真鍋大覚は自らイスラエル系と自ら言っていた様ですし、ここでは対象外かも知れません。

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全てを取り上げても良いのですが、ここらでやめておきましょう。

 諏訪神社の氏子の壽和会の方々は、福岡市の中心部で戸建て住宅をお持ちなのですから、それこそ地方の人々から見れば垂涎の的ともいえる資産家の方々ですから、1700年の時を経て平安を得たのでしょうか?

 探索はまだまだ続きます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記