2022年11月03日

922 2021年大晦日に遭遇した稲荷社に九州からの移動を見た “愛媛県伊予市伊予稲荷神社”(下)

922 2021年大晦日に遭遇した稲荷社に九州からの移動を見た “愛媛県伊予市伊予稲荷神社”(下)

20220107

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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伊豫稲荷神社 カーナビ検索 愛媛県伊予市稲荷1230


前ブログで書いた興奮が鎮まらぬ中、再び心を落ち着かせて社殿周辺を観て回ると、九州本土でも見掛けない凍結された古代が保存されている事に気付きました。それが僻地故か天領故かは分からずにいる。

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まずは境内の全貌を同社の案内板からご覧頂きましょう。

 一般的に、神社の神殿背後に何がしかの祠があった場合は、そちらの方が格上の神様であるというものがあります。よほど境内が手狭でもない限りは駆け出しの神様が背後に置かれることはないのです。

 そこに久美社があります。久美とは女性の名ですが、直ぐに京丹後市の久美浜町が頭に浮かびます。

 以前から、何故この地名がここに付されたかを気にしていましたが、糸口を掴んだ思いがしています。

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無題.png京丹後の久美浜温泉の周りにこれだけの稲荷があれば、久美浜「九尾」説は可能性があるかも知れません。

 丸田神社も宇氣母智命(豊受)であり、同一神ですので全体の三分の一は稲荷神である事が良く判ります。

 一般的には「クミ」「コミ」地名は海岸部に多く、混み上げる、人込みの一気に物が集まる場所、つまり水が集まる場所に付されるのですが、それらしき急河川もなくトンボロによる潟湖地形があるだけに不思議だなあと頻繁に通過する度に思っていたのでした。

 稲荷なら何も不思議ではありません。頭を過るのは「山海経」に描かれる金毛九尾の狐以外にはありません。


九尾の狐(きゅうびのきつね)または九尾狐(きゅうびこ)・九尾狐狸(きゅうびこり)は、中国に伝わる伝説上の生物。9本の尾をもつキツネの霊獣または妖怪である。

中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが泰平の世や明君のいる代を示す瑞獣とされる。『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であるとされる。

また、物語のなかでは殷の妲己や日本の玉藻前のように美女に変化して人々の世を惑わす悪しき存在の正体であるともされ、よく知られている。      ウィキペディア(Wikipedia20220107 13:48より


 では、もう一つの命婦社に話を移しましょう。

 命婦とは橘一族=縣の犬養の橘三千代〜奈良麻呂…(敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王=後の橘諸兄をはじ外を生む)に顕著な宮中の制度ですが、それ以前の九州王朝にも生きていたものと考えています。


命婦 命婦という言葉は、元は中国の『周礼』において内外の官として命夫・命婦の官が存在したことが記されており、ここに由来があると考えられている。ただし、日本における命婦はその名称のみを採用して、その内容も全く異なるものとなった(命夫にあたる男官・呼称については採用されなかった)。

命婦は『職員令義解』の中務省条に規定があり、五位以上の女性を内命婦(うちのみょうぶ)、五位以上の官人の妻のことを外命婦(げのみょうぶ)という。但し、命婦は官職ではなく、所属官司の職掌に奉仕する地位であり、官位相当や定員はなかった。また、女王の場合、五位以上の位階なくとも内命婦に列せられた。奈良時代までは宮中に仕える女性は命婦を含めて宮人と称したが、平安時代以降は宮人と命婦は区別されるようになる。

ウィキペディア(Wikipedia20220107 14:50より


橘氏 橘氏は、県犬養三千代(橘三千代)が姓を賜ったのち、子の葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)も橘宿禰の姓を賜ったことに始まる。

県犬養三千代は天武朝から命婦として仕えたほか文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代は初め美努王の妻となり、葛城王や佐為王を生んだ。694年に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年(708年)1125日、元明天皇の大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに「橘宿禰」の氏姓が賜与された。

橘三千代が天平5年(733年)に没すると、同8年(736年)1111日に三千代の子の葛城王と佐為王が橘宿禰の氏姓継承を朝廷へ申請し、同月17日に許された。葛城王は橘諸兄と改名し、佐為王は橘佐為を称した。諸兄は既に天平3年(731年)から参議に就いて議政官(公卿)を勤めていたが、天平9年(737年)には大納言へのぼると、翌10年(738年)には右大臣へ、同15年(743年)には左大臣へ昇進し、聖武・孝謙両天皇の治世期に太政官首班として政治に当たった。天平勝宝2年(750年)正月16日には朝臣の姓を賜り、これ以降、諸兄は「橘朝臣」を称した。橘氏の歴史の中で最も権勢を誇ったのがこの諸兄の時期である。

ウィキペディア(Wikipedia20220107 15:00より


 この命婦とは皇統護持を主眼に宮廷の婚姻、出産、育児、教育…を司る、つまり実の母親である后妃さえも凌ぐ大きな力を持ったもので、この命婦が事実上、天皇さえも左右する外戚としてつながる天皇家に妃を送込む一族でありその仕組みそのものでもあった訳です。まあ、後の多く古代版のようなものです。

 してみると、この稲荷神社の主である伏見稲荷=伊勢の外宮(豊受大神)=辛国息長大姫大目命(香春神社の主神=アメノウズメ)の子の細(クワシ)姫=卑弥呼宗女伊予も孝霊天皇の后となっており、事実上の命婦でもあった訳で、稲荷様自身にとってもその母親たる罔象女(ミズハノメ)を命婦社に祀っているのでしょう。

 これに対して、神殿左後方に田中社と四大神社と何れも一般には聞きなれない祠が置かれています。

 まず、田中社ですが、これについても故)百嶋由一郎氏が話しておりました。

久留米(福岡県)の高良大社の高良玉垂命=藤原が第9代として扱った欠史8代でも最も大きな業績を残した開化天皇(后は皇宮皇后命=仲哀亡き後の神功皇后)の後裔氏族そのものであり、五七桐紋を使う田中氏はその一族と考えられます(実は伏見稲荷の神殿内にも祀られています)。

 これについては当会メンバーの宮原誠一氏が詳細なリポートを書いておりますのでこちらをお読みください。勿論、そのルーツは九州でも筑後地方にあります。

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No.110 物部の地・福岡県瀬高町長島の釣殿宮 

No.143 篠栗町田中の田中八幡神社は開化天皇を祀るのではないか


 さて、稲荷神社に詳しい方でもあまりご存じにないのが四大神社(一応、シノオオカミシャとお読み下さい)です。

 全国の稲荷の総本社伏見稲荷である京都の伏見稲荷の神殿には五殿あり、その左端(向かって右端)に控えるのが我々が言うところの四公神社=四大神社なのです。

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只、そのルーツも田中社同様に九州でも東岸の福岡県豊前市の大富神社の境外摂社四公神社なのです。

 これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読み下さい。


ひぼろぎ逍遥 065 四公(シコウ)神社とは何か?

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実際には3社は確実にあるのですが、グーグルの地図では表示できません。興味がある方はご自分で探してみて下さい。さらに探索を進めればまだ幾つかはあると考えています。

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無題.png上の二社は豊前火力の正面、八屋地区の狭い路地を抜けたところにある四公神社です(八屋字汐入、八谷字浦町)。この場所を覚えておくことは非常に難しく、カーナビでポイントを押さえておかなければ、おいそれとは、なかなか、再訪できません。

事実、この場所を探して走り廻っている内に大冨神社に近い山田地区四郎丸に新たに別の四公神社を発見しました。

それが、左の神社です。

今は閉ざされている所が多く、オイソレトはその実体を確認できません。

もう三度ほど訪問していますが、この神社の意味を分かる方は少ないと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

293 大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

389 伊勢の外宮の豊受大神は伏見のお稲荷はん  “島根県雲南市吉田町吉田の兎比神社から”


三つの四公神社が確認できましたが、問題はその意味であり、誰が誰を祀ったのかです。

一応、インター・ネットで検索すると、豊前市による「神社一覧」があり、猿田彦、猿田彦+恵比寿神とされています。

実は、この「猿田彦説」も、百嶋先生が「まだ、豊前には四公神社が残されていますか?」と問い合わせされた際に、教育委員会側から逆に「誰が祀られているのかお教え願いたい」と言われ、「恐らく猿田彦=山幸彦が祀られているのではないかと考えている…」と答えられた事からのもののようなのです。

これについて百嶋先生の話を思い出すと、「猿田彦という意味自体に赤米研究田という意味がある…」「米の生産を進めその取り分を四公六民に定めたことから四公の意味が生じているのではないか…」「アマテラスオオミカミの依頼によってお米の古代米、赤米の研究をなさって、お子様のウガヤフキアエズまで継承されており…」 と言われていました。

まず、赤米です。民俗学では知られた話ですが、種子島の宝満神社のお田植え祭という神事に猿田彦が登場します。それ以外でも、鹿児島県の川辺町(現南九州市)辺りでも猿田彦が登場するお田植え祭りを見たことがあります。かなりの広がりを持っているのではないでしょうか?

ここで、良い加減な話を持ち込めば、そもそも猿田のサルは、シャリタのシャリであり、銀シャリのしゃりなのです。

ひぼろぎ逍遥 065 四公(シコウ)神社とは何か?から


従って、伏見稲荷の夫は 猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛 であり、伏見稲荷本体も アメノウズメであり、同一神である辛国息長大姫大目命も正式にはがウヅメと読むべきなのです。

それは、九州西岸一帯では沖縄三母音の影響を受け、O音はU音で代行されていた(古代九州標準語)のであり、大事=オオーゴトは鹿児島熊本福岡佐賀長崎などでは今でも一様にウーゴトなのです。

では、百嶋由一郎最終神代系譜などで神々の関係を再確認して下さい。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


伏見稲荷様は始めは海幸彦=草部吉見(ヒコヤイミミ)と夫婦になられますが、それは短期間に終わり、後はずうっと先まで山幸彦と一緒におられました。だから伊勢に猿田彦神社があるのです。

 その間に生まれたのがウマシマジと卑弥呼宗女イヨ=細姫であり、通説派の御用学者どもが架空とする孝霊天皇の后となられ、卑弥呼同様の祭政政治を行ったものと考えています。

 では、遅れましたが境内社をご覧いただきます。

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命婦社 久美社

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同社ご由緒


宇迦能御魂大神(伏見稲荷)、邇邇芸命(高木大神の息子)、伊邪那美命(イザナギはここでも排除されていますね)、菊理比売命(=白山姫これは天御中主命です)、大宮能売命は鴨玉依姫説と豊玉姫との混乱がありますが、豊玉姫=イヅノメで良いと思います。


故)百嶋由一郎氏が残された 神代系譜(80シート以上のスキャニング・データDVD340時間に及ぶ講演録音声CDMP3) 手書き資料スキャニング・データDVDを希望される方は09062983254まで連絡を

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記