921 2021年大晦日に遭遇した稲荷社に九州からの移動を見た “愛媛県伊予市伊予稲荷神社”(上)
20220105
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
当会のエース級ブロガーのS氏が“年末年始に掛けて愛媛に行き大三島の大山祗神社を見たい”との話を受け、ほいほい話に乗せられ数年ぶりに四国遠征に向かいました。
31日11時の佐賀関〜三崎のフェリーに飛び乗りお昼には三崎から八幡浜市に入り交通量の少ない海沿いのサンセット・ライン 国道378号線で伊予に向かう事にしました。
風も収まり長閑な凪の伊予灘を見ながらの旅は快適そのもので、主要道の国道56号線を使おうとは思いません。
ただ、民俗調査、神社調査では内陸部が重要なのですが、開放的な海の風景を楽しみたいという欲望は抑えられませんでした。このため今回も大洲、内子はパスしてしまいました。

非常に調子良くスタートした調査旅行でした。天候もまずまずで、交通渋滞とも逆向きの為、快適な旅で申し分なかったからです。ましてや、同行者が神社に明るい「事代主のブログ」氏なのですから、これほど良い随行者はそれほどないのです。
ただ、当初、愛媛県の調査ということから話に乗ったのですが、四国に渡ると計画変更が入りました。
結局、徳島に行きたいとの事で、いつの間にか徳島の調査が8割方占める事になっていたのでした。
それは、フォロアーからの調査地の提案に彼がほいほい乗ってしまったために、何時しか徳島調査が中心になってしまったのでした。
そんなことは聴いていない!と腹だたしかったのですが、もっと自分で調査地を調べておけとの気持ちを抑え、渋々徳島に向かうことになってしまいました。
私も長距離の遠征調査旅行は過去何度となくやって来てはいるのですが、一般に調査地を広げると移動に時間とコストをかけすぎることに成り、自ずと調査が散漫になって良いことはほとんどないという経験を何度となくしているからでした。このため極力調査地を絞り込み、記憶が鮮明なうちにリポートを書き上げるべきと言うのが鉄則と思っていたからでした。このため、多くとも往復4〜500キロ程度の行程が、徳島市の南まで入るとなると、往復1200キロという3倍近いものになり、事実上関西の神社調査のような話になってしまったからだったのです。グダグダと、愚痴が過ぎ読者の方にはご迷惑だったかも知れませんが、結果ながら、誤りがある時でも素晴らしい神社に遭遇することもあるものです。
前置きが長過ぎましたが、ここから伊予稲荷神社の話には入ります。
伊予の神社と言えば、松前市の延喜式内伊豫神社が良く知られていますが、こちらは5年ほど前に参拝しています。山の伊予神社もあるのですが、こちらは徳島との都合上次回以降に廻すことにしました。
「延喜式神名帳」の名神大社とされる松前町神埼のそれに対し伊予市上野にももう一社伊予神社があり式内社の論社となっているため、次回はそちらに向かう事にしたいと思います。
今回、その印象から伊予稲荷も見るべきだとの感が働いただけだったのですが、急遽、下調べしていた伊予稲荷にハンドルを切ることにしました。それが良かったのです。

伊豫稲荷神社 カーナビ検索 愛媛県伊予市稲荷1230
伊豫稲荷神社とは愛媛県伊予市にある平安時代初期より祀られる神社である。主神を宇迦之霊大神とし、社格は県社。神紋は三つ火焔玉。 新四国曼荼羅霊場第49番札所。伊予七福神の恵比寿神も祀る。
ウィキペディア 20220105 14:07
もう一度伊予市の神社を確認すると、湊神社があり、三谷神社があり、オオサザキ神社があり、全部回りたい気がします。
最近、伊予には神社に関心を持たれる方で友人ができましたので、身一つで船に乗って全神社調査をやってみたくなりました。これなら一日でもなんとかやれそうですね。船は最終23時代まで有のです。

さて、我々百嶋神社考古学が書く神社リポートとは、町興し村興しのためのものでもなければ、通説派の話をそのまま垂れ流す神社解説でもなければ、スピリチュアル系の勝手な解釈でもありません。
この神社に感銘を受けたのは、近畿大和朝廷以前の九州の古代王権の痕跡を辿れる痕跡を見出せるからであり、その意味で気が付いた部分をご紹介してみたいと思います。始めに目に入ったのは藤棚でした。

同社正面に置かれた藤棚

「それがどうした」と言われそうですが、福岡県久留米市の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」にも藤大臣が出てきます。高良玉垂命は藤が好きだったと記録されており、この玉垂命(実は後の藤原氏が第9代開化天皇と扱った)こそが藤を愛した天皇だったのです。
九州では藤棚が多くの神社に認められますが、これこそが近畿大和朝廷に先行する九州王権の最盛期を示すシンボルでもあるのです。
そして、最も有名なのが、福岡県八女市黒木の藤棚であり、その近くには旧星野村までがあったのです。

そこで境内を見せて頂く前に宮司邸の表札を見ると、なんと「星野」様だったのです。
我々九州に住む者にとって星野と言えば、それは八女市の奥、現大字星野(旧星野村)以外ありえないのです。
下を見ると非常に興味深い事が判ります。現在こそ群馬県が中心地のように見えますが、これはどう見ても日本海側(新潟県)から北関東、そして南関東に入っている様に見えるのです。
まさか群馬から伊予に入っているとお考えになる方もおられないと思うのですが、恐らく福岡県八女市星野(旧星野村)から北の朝倉郡に入った人々の移動と考えられそうです。それを裏付ける様に、今治市にも朝倉地名があるのです。



「星」紋は北極星を意味し、妙見菩薩信仰に由来する。「三つ星」は「大将軍」と左右の将軍を意味するという。実は我が古川家も三唐草付き丸に三星紋です。 福岡県八女市HPより
問題はこの時期ですが、恐らく朝倉郡(葦原中津国)が高木大神系に奪われて以来の現象のはずで、大三島への大山祗=トルコ系匈奴の開封によるもののように思えるのです。
これについては、以下をお読み下さい。大国主命が奪われた葦原中津国とは福岡県朝倉郡だったのです。
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これについてはパワー・ポイントを作成しています。実費程度でお送りします。本ブログは、朝倉で起こった出雲の国譲り問題を捨象しましたので分かり難いものになりましたがご容赦下さい。