2022年11月01日

921 2021年大晦日に遭遇した稲荷社に九州からの移動を見た “愛媛県伊予市伊予稲荷神社”(上)

921 2021年大晦日に遭遇した稲荷社に九州からの移動を見た “愛媛県伊予市伊予稲荷神社”(上)

20220105

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当会のエース級ブロガーのS氏が“年末年始に掛けて愛媛に行き大三島の大山祗神社を見たい”との話を受け、ほいほい話に乗せられ数年ぶりに四国遠征に向かいました。

3111時の佐賀関〜三崎のフェリーに飛び乗りお昼には三崎から八幡浜市に入り交通量の少ない海沿いのサンセット・ライン 国道378号線で伊予に向かう事にしました。

風も収まり長閑な凪の伊予灘を見ながらの旅は快適そのもので、主要道の国道56号線を使おうとは思いません。

ただ、民俗調査、神社調査では内陸部が重要なのですが、開放的な海の風景を楽しみたいという欲望は抑えられませんでした。このため今回も大洲、内子はパスしてしまいました。

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非常に調子良くスタートした調査旅行でした。天候もまずまずで、交通渋滞とも逆向きの為、快適な旅で申し分なかったからです。ましてや、同行者が神社に明るい「事代主のブログ」氏なのですから、これほど良い随行者はそれほどないのです。

ただ、当初、愛媛県の調査ということから話に乗ったのですが、四国に渡ると計画変更が入りました。

結局、徳島に行きたいとの事で、いつの間にか徳島の調査が8割方占める事になっていたのでした。

それは、フォロアーからの調査地の提案に彼がほいほい乗ってしまったために、何時しか徳島調査が中心になってしまったのでした。

そんなことは聴いていない!と腹だたしかったのですが、もっと自分で調査地を調べておけとの気持ちを抑え、渋々徳島に向かうことになってしまいました。

私も長距離の遠征調査旅行は過去何度となくやって来てはいるのですが、一般に調査地を広げると移動に時間とコストをかけすぎることに成り、自ずと調査が散漫になって良いことはほとんどないという経験を何度となくしているからでした。このため極力調査地を絞り込み、記憶が鮮明なうちにリポートを書き上げるべきと言うのが鉄則と思っていたからでした。このため、多くとも往復4500キロ程度の行程が、徳島市の南まで入るとなると、往復1200キロという3倍近いものになり、事実上関西の神社調査のような話になってしまったからだったのです。グダグダと、愚痴が過ぎ読者の方にはご迷惑だったかも知れませんが、結果ながら、誤りがある時でも素晴らしい神社に遭遇することもあるものです。

前置きが長過ぎましたが、ここから伊予稲荷神社の話には入ります。

伊予の神社と言えば、松前市の延喜式内伊豫神社が良く知られていますが、こちらは5年ほど前に参拝しています。山の伊予神社もあるのですが、こちらは徳島との都合上次回以降に廻すことにしました。

「延喜式神名帳」の名神大社とされる松前町神埼のそれに対し伊予市上野にももう一社伊予神社があり式内社の論社となっているため、次回はそちらに向かう事にしたいと思います。

今回、その印象から伊予稲荷も見るべきだとの感が働いただけだったのですが、急遽、下調べしていた伊予稲荷にハンドルを切ることにしました。それが良かったのです。

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伊豫稲荷神社 カーナビ検索 愛媛県伊予市稲荷1230


伊豫稲荷神社とは愛媛県伊予市にある平安時代初期より祀られる神社である。主神を宇迦之霊大神とし、社格は県社。神紋は三つ火焔玉。 新四国曼荼羅霊場第49番札所。伊予七福神の恵比寿神も祀る。

ウィキペディア 20220105 14:07


もう一度伊予市の神社を確認すると、湊神社があり、三谷神社があり、オオサザキ神社があり、全部回りたい気がします。

最近、伊予には神社に関心を持たれる方で友人ができましたので、身一つで船に乗って全神社調査をやってみたくなりました。これなら一日でもなんとかやれそうですね。船は最終23時代まで有のです。

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さて、我々百嶋神社考古学が書く神社リポートとは、町興し村興しのためのものでもなければ、通説派の話をそのまま垂れ流す神社解説でもなければ、スピリチュアル系の勝手な解釈でもありません。

この神社に感銘を受けたのは、近畿大和朝廷以前の九州の古代王権の痕跡を辿れる痕跡を見出せるからであり、その意味で気が付いた部分をご紹介してみたいと思います。始めに目に入ったのは藤棚でした。

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同社正面に置かれた藤棚

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「それがどうした」と言われそうですが、福岡県久留米市の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」にも藤大臣が出てきます。高良玉垂命は藤が好きだったと記録されており、この玉垂命(実は後の藤原氏が第9代開化天皇と扱った)こそが藤を愛した天皇だったのです。

九州では藤棚が多くの神社に認められますが、これこそが近畿大和朝廷に先行する九州王権の最盛期を示すシンボルでもあるのです。

そして、最も有名なのが、福岡県八女市黒木の藤棚であり、その近くには旧星野村までがあったのです。

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そこで境内を見せて頂く前に宮司邸の表札を見ると、なんと「星野」様だったのです。

我々九州に住む者にとって星野と言えば、それは八女市の奥、現大字星野(旧星野村)以外ありえないのです。

下を見ると非常に興味深い事が判ります。現在こそ群馬県が中心地のように見えますが、これはどう見ても日本海側(新潟県)から北関東、そして南関東に入っている様に見えるのです。

まさか群馬から伊予に入っているとお考えになる方もおられないと思うのですが、恐らく福岡県八女市星野(旧星野村)から北の朝倉郡に入った人々の移動と考えられそうです。それを裏付ける様に、今治市にも朝倉地名があるのです。

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「星」紋は北極星を意味し、妙見菩薩信仰に由来する。「三つ星」は「大将軍」と左右の将軍を意味するという。実は我が古川家も三唐草付き丸に三星紋です。           福岡県八女市HPより

問題はこの時期ですが、恐らく朝倉郡(葦原中津国)が高木大神系に奪われて以来の現象のはずで、大三島への大山祗=トルコ系匈奴の開封によるもののように思えるのです。

これについては、以下をお読み下さい。大国主命が奪われた葦原中津国とは福岡県朝倉郡だったのです。


ひぼろぎ逍遥

177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…

スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕の発見! A

無題.pngスポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した!

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

271 田神社(タノカンサー)は朝倉郡を中心に60社近く存在した

272 朝倉市(甘木)古賀の松尾神社は田神社(タノカンサー)だった!

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 


これについてはパワー・ポイントを作成しています。実費程度でお送りします。本ブログは、朝倉で起こった出雲の国譲り問題を捨象しましたので分かり難いものになりましたがご容赦下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年11月03日

922 2021年大晦日に遭遇した稲荷社に九州からの移動を見た “愛媛県伊予市伊予稲荷神社”(下)

922 2021年大晦日に遭遇した稲荷社に九州からの移動を見た “愛媛県伊予市伊予稲荷神社”(下)

20220107

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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伊豫稲荷神社 カーナビ検索 愛媛県伊予市稲荷1230


前ブログで書いた興奮が鎮まらぬ中、再び心を落ち着かせて社殿周辺を観て回ると、九州本土でも見掛けない凍結された古代が保存されている事に気付きました。それが僻地故か天領故かは分からずにいる。

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まずは境内の全貌を同社の案内板からご覧頂きましょう。

 一般的に、神社の神殿背後に何がしかの祠があった場合は、そちらの方が格上の神様であるというものがあります。よほど境内が手狭でもない限りは駆け出しの神様が背後に置かれることはないのです。

 そこに久美社があります。久美とは女性の名ですが、直ぐに京丹後市の久美浜町が頭に浮かびます。

 以前から、何故この地名がここに付されたかを気にしていましたが、糸口を掴んだ思いがしています。

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無題.png京丹後の久美浜温泉の周りにこれだけの稲荷があれば、久美浜「九尾」説は可能性があるかも知れません。

 丸田神社も宇氣母智命(豊受)であり、同一神ですので全体の三分の一は稲荷神である事が良く判ります。

 一般的には「クミ」「コミ」地名は海岸部に多く、混み上げる、人込みの一気に物が集まる場所、つまり水が集まる場所に付されるのですが、それらしき急河川もなくトンボロによる潟湖地形があるだけに不思議だなあと頻繁に通過する度に思っていたのでした。

 稲荷なら何も不思議ではありません。頭を過るのは「山海経」に描かれる金毛九尾の狐以外にはありません。


九尾の狐(きゅうびのきつね)または九尾狐(きゅうびこ)・九尾狐狸(きゅうびこり)は、中国に伝わる伝説上の生物。9本の尾をもつキツネの霊獣または妖怪である。

中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが泰平の世や明君のいる代を示す瑞獣とされる。『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であるとされる。

また、物語のなかでは殷の妲己や日本の玉藻前のように美女に変化して人々の世を惑わす悪しき存在の正体であるともされ、よく知られている。      ウィキペディア(Wikipedia20220107 13:48より


 では、もう一つの命婦社に話を移しましょう。

 命婦とは橘一族=縣の犬養の橘三千代〜奈良麻呂…(敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王=後の橘諸兄をはじ外を生む)に顕著な宮中の制度ですが、それ以前の九州王朝にも生きていたものと考えています。


命婦 命婦という言葉は、元は中国の『周礼』において内外の官として命夫・命婦の官が存在したことが記されており、ここに由来があると考えられている。ただし、日本における命婦はその名称のみを採用して、その内容も全く異なるものとなった(命夫にあたる男官・呼称については採用されなかった)。

命婦は『職員令義解』の中務省条に規定があり、五位以上の女性を内命婦(うちのみょうぶ)、五位以上の官人の妻のことを外命婦(げのみょうぶ)という。但し、命婦は官職ではなく、所属官司の職掌に奉仕する地位であり、官位相当や定員はなかった。また、女王の場合、五位以上の位階なくとも内命婦に列せられた。奈良時代までは宮中に仕える女性は命婦を含めて宮人と称したが、平安時代以降は宮人と命婦は区別されるようになる。

ウィキペディア(Wikipedia20220107 14:50より


橘氏 橘氏は、県犬養三千代(橘三千代)が姓を賜ったのち、子の葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)も橘宿禰の姓を賜ったことに始まる。

県犬養三千代は天武朝から命婦として仕えたほか文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代は初め美努王の妻となり、葛城王や佐為王を生んだ。694年に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年(708年)1125日、元明天皇の大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに「橘宿禰」の氏姓が賜与された。

橘三千代が天平5年(733年)に没すると、同8年(736年)1111日に三千代の子の葛城王と佐為王が橘宿禰の氏姓継承を朝廷へ申請し、同月17日に許された。葛城王は橘諸兄と改名し、佐為王は橘佐為を称した。諸兄は既に天平3年(731年)から参議に就いて議政官(公卿)を勤めていたが、天平9年(737年)には大納言へのぼると、翌10年(738年)には右大臣へ、同15年(743年)には左大臣へ昇進し、聖武・孝謙両天皇の治世期に太政官首班として政治に当たった。天平勝宝2年(750年)正月16日には朝臣の姓を賜り、これ以降、諸兄は「橘朝臣」を称した。橘氏の歴史の中で最も権勢を誇ったのがこの諸兄の時期である。

ウィキペディア(Wikipedia20220107 15:00より


 この命婦とは皇統護持を主眼に宮廷の婚姻、出産、育児、教育…を司る、つまり実の母親である后妃さえも凌ぐ大きな力を持ったもので、この命婦が事実上、天皇さえも左右する外戚としてつながる天皇家に妃を送込む一族でありその仕組みそのものでもあった訳です。まあ、後の多く古代版のようなものです。

 してみると、この稲荷神社の主である伏見稲荷=伊勢の外宮(豊受大神)=辛国息長大姫大目命(香春神社の主神=アメノウズメ)の子の細(クワシ)姫=卑弥呼宗女伊予も孝霊天皇の后となっており、事実上の命婦でもあった訳で、稲荷様自身にとってもその母親たる罔象女(ミズハノメ)を命婦社に祀っているのでしょう。

 これに対して、神殿左後方に田中社と四大神社と何れも一般には聞きなれない祠が置かれています。

 まず、田中社ですが、これについても故)百嶋由一郎氏が話しておりました。

久留米(福岡県)の高良大社の高良玉垂命=藤原が第9代として扱った欠史8代でも最も大きな業績を残した開化天皇(后は皇宮皇后命=仲哀亡き後の神功皇后)の後裔氏族そのものであり、五七桐紋を使う田中氏はその一族と考えられます(実は伏見稲荷の神殿内にも祀られています)。

 これについては当会メンバーの宮原誠一氏が詳細なリポートを書いておりますのでこちらをお読みください。勿論、そのルーツは九州でも筑後地方にあります。

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No.110 物部の地・福岡県瀬高町長島の釣殿宮 

No.143 篠栗町田中の田中八幡神社は開化天皇を祀るのではないか


 さて、稲荷神社に詳しい方でもあまりご存じにないのが四大神社(一応、シノオオカミシャとお読み下さい)です。

 全国の稲荷の総本社伏見稲荷である京都の伏見稲荷の神殿には五殿あり、その左端(向かって右端)に控えるのが我々が言うところの四公神社=四大神社なのです。

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只、そのルーツも田中社同様に九州でも東岸の福岡県豊前市の大富神社の境外摂社四公神社なのです。

 これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読み下さい。


ひぼろぎ逍遥 065 四公(シコウ)神社とは何か?

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実際には3社は確実にあるのですが、グーグルの地図では表示できません。興味がある方はご自分で探してみて下さい。さらに探索を進めればまだ幾つかはあると考えています。

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無題.png上の二社は豊前火力の正面、八屋地区の狭い路地を抜けたところにある四公神社です(八屋字汐入、八谷字浦町)。この場所を覚えておくことは非常に難しく、カーナビでポイントを押さえておかなければ、おいそれとは、なかなか、再訪できません。

事実、この場所を探して走り廻っている内に大冨神社に近い山田地区四郎丸に新たに別の四公神社を発見しました。

それが、左の神社です。

今は閉ざされている所が多く、オイソレトはその実体を確認できません。

もう三度ほど訪問していますが、この神社の意味を分かる方は少ないと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

293 大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

389 伊勢の外宮の豊受大神は伏見のお稲荷はん  “島根県雲南市吉田町吉田の兎比神社から”


三つの四公神社が確認できましたが、問題はその意味であり、誰が誰を祀ったのかです。

一応、インター・ネットで検索すると、豊前市による「神社一覧」があり、猿田彦、猿田彦+恵比寿神とされています。

実は、この「猿田彦説」も、百嶋先生が「まだ、豊前には四公神社が残されていますか?」と問い合わせされた際に、教育委員会側から逆に「誰が祀られているのかお教え願いたい」と言われ、「恐らく猿田彦=山幸彦が祀られているのではないかと考えている…」と答えられた事からのもののようなのです。

これについて百嶋先生の話を思い出すと、「猿田彦という意味自体に赤米研究田という意味がある…」「米の生産を進めその取り分を四公六民に定めたことから四公の意味が生じているのではないか…」「アマテラスオオミカミの依頼によってお米の古代米、赤米の研究をなさって、お子様のウガヤフキアエズまで継承されており…」 と言われていました。

まず、赤米です。民俗学では知られた話ですが、種子島の宝満神社のお田植え祭という神事に猿田彦が登場します。それ以外でも、鹿児島県の川辺町(現南九州市)辺りでも猿田彦が登場するお田植え祭りを見たことがあります。かなりの広がりを持っているのではないでしょうか?

ここで、良い加減な話を持ち込めば、そもそも猿田のサルは、シャリタのシャリであり、銀シャリのしゃりなのです。

ひぼろぎ逍遥 065 四公(シコウ)神社とは何か?から


従って、伏見稲荷の夫は 猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛 であり、伏見稲荷本体も アメノウズメであり、同一神である辛国息長大姫大目命も正式にはがウヅメと読むべきなのです。

それは、九州西岸一帯では沖縄三母音の影響を受け、O音はU音で代行されていた(古代九州標準語)のであり、大事=オオーゴトは鹿児島熊本福岡佐賀長崎などでは今でも一様にウーゴトなのです。

では、百嶋由一郎最終神代系譜などで神々の関係を再確認して下さい。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


伏見稲荷様は始めは海幸彦=草部吉見(ヒコヤイミミ)と夫婦になられますが、それは短期間に終わり、後はずうっと先まで山幸彦と一緒におられました。だから伊勢に猿田彦神社があるのです。

 その間に生まれたのがウマシマジと卑弥呼宗女イヨ=細姫であり、通説派の御用学者どもが架空とする孝霊天皇の后となられ、卑弥呼同様の祭政政治を行ったものと考えています。

 では、遅れましたが境内社をご覧いただきます。

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命婦社 久美社

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同社ご由緒


宇迦能御魂大神(伏見稲荷)、邇邇芸命(高木大神の息子)、伊邪那美命(イザナギはここでも排除されていますね)、菊理比売命(=白山姫これは天御中主命です)、大宮能売命は鴨玉依姫説と豊玉姫との混乱がありますが、豊玉姫=イヅノメで良いと思います。


故)百嶋由一郎氏が残された 神代系譜(80シート以上のスキャニング・データDVD340時間に及ぶ講演録音声CDMP3) 手書き資料スキャニング・データDVDを希望される方は09062983254まで連絡を

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年11月06日

923 ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる 

923 ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる 

20220110

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は、百嶋由一郎氏が残された手書きスキャニング・データ 百嶋神社考古学(逸文@)から採題させて頂きます(新ひぼろぎ逍遥共通掲載)。

故)百嶋由一郎氏の手書きデータには解析が必要なものどころか貴重極まりない重要なものが多々ありますが、知識も資金も不足しているアマテュアの片手間作業でやっている程度ではなかなか追いつきません。今後、少しづつでも今までとは異なった側面からアプローチを加えたいと思います。

これは有名なヤマトタケル(日本武尊)に誅殺されたとされた河上 猛のその後に関する話です。


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“河上 猛のその後に関する話です”としましたが、ヤマト・オグナに誅殺された…はずの熊襲猛のその後の話…?と訝しがる方が多いかも知れません。この話を一から説明していては全く先に進めませんので、この部分を読みたい方は、以下のひぼろぎ逍遥〜新ひぼろぎ逍遥をお読み下さい。


554

淀 姫 C ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”

553

淀 姫 B

552

淀 姫 A

551

淀 姫 @


また一般には、熊襲猛だからこの鹿児島だか宮崎の蛮族を誅伐するなどと理解されている話の舞台が、実は有明海最北部の佐賀県佐賀市(旧大和町)の川上峡温泉(佐賀大和IC)一帯での話しである事についてパワー・ポイントも作成していますので希望される方には実費程度でお送りしてもおります。

この話は「旧大和町町史」にも採録されているもので、40年近く前にこの話を知って以来、「古事記」の河上 猛の説話の舞台はこの地で起きたことであり、その話を回収された故)百嶋由一郎氏はさらにタケルは許され、その一族は今も山を越えた福岡市早良区にまとまって住んでおられます。分かっているけど可哀そうで公表できないと語っておられたのですが問い詰めることまではできず、他のメンバーもそれっきりにしていたのでした。

ただ、ロマンチックな話であり私を含めどの氏族だろうと思い続けていたのです。

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阿須波神 あすはのかみ……阿須波神は大年神の御子神。

『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。

奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。

これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。

阿須波神は足盤、足場の神・足下の神。足で踏んで立っているところを守る神とされ、 『万葉集』巻二十・防人の歌にも「庭中の阿須波の神に木柴さし、吾は斎はむ帰り来までに」と詠まれている。 4350

延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。

生井(いきいきした井)・福井(栄える井)・綱長井(生命の長い井)の三神は井の神。ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。 これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神と言った。

「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」とある通りである。

敬愛する「玄松子」氏による


以下、百嶋手書きメモより


アスハは、長脛彦叛のあの事に心が揺れて道行に✓失礼、道ゆきに(ママ)為に、外宮サマに連れられて、八咫烏下鴨サマに詫びの為山城を訪ねられました。その頃の名残のアスハ社は、(ごまかしのために下鴨ではなくて)上鴨の神紋の前に…。今もございます。


ナガスネヒコの叛乱の折に建御名方(草部吉見と豊受大神=外宮との間に生まれているにも拘わらず)はナガスネヒコの側に立って動いたようなのですが、彦山南麓の旧朝倉郡一帯の大国主の葦原中津国を奪われる際に、彦山北麓の自ら開いた筑豊の開拓地をタカミムスビ=高木大神から同時に奪われた事もあってか(これについては、以下をお読み頂きたいのですが、911914は半年後に公開しますので、それまではそれ以下をお読み下さい)、彼らはナガスネヒコの一派に与したようなのです。ともあれ先生が書かれているのは、外宮様に連れられて、八咫烏=下鴨に詫びを入れているというのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

914

出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に掛けての

旧田川郡、行橋市一帯で起こった

913

福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は

春分秋分のラインに参道を置いていた(下)

912

福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は

春分秋分のラインに参道を置いていた(上)

911

彦山直下 添田町中元寺の諏訪神社は真実の出雲の

国譲り=強奪を今に伝える

ひぼろぎ逍遥

260

若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る

“春日市の白玄社”への再訪!

177

大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越

ながらも…

176

少彦名命とは何か?


スポット 041オオナムチの移転先@ スポット042オオナムチの移転先A

スポット 050「日隅宮」の発見は何を意味しているか

ビアヘロ 023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

ビアヘロ101 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…

などをお読みください。

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左)須波神社 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境内摂社  右)阿須波神社 千葉県市原市


周囲(旧字の圑)から世話をしてもらった、“妻”奈留多姫は、八坂刀売と変名して、二人の新天地=信州諏訪へ赴れました。

奈留多ヒメは一族(※熊襲及びゆかりの人達 阿蘇家)を、福岡市早良区にのこしてゆかれました。


この同園は不明です。「同」ではないのかも知れません(初は周囲の旧字と分からずにいましたが…)。

ただ、奈留多姫は阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミの娘(母は高木大神の次女タクハタチヂヒメ)である天豊ツ姫と健磐龍の間に生まれた雨宮姫と、大山咋(日枝神社、山王神)との間に生まれた人で、阿蘇宮司家の初代である惟人の妹か姉であるため、阿蘇系の人物である事は間違いないと思われます。

実は、当の阿蘇宮司家は速甕玉(阿蘇北山国造神社の主神)との間に生まれたのが惟人としますが。

結局、河上タケルは母方を見れば、阿蘇系(それを持って「古事記」は熊襲猛と呼んだのでしょうが…惚けた話です)なのでしょうが、父方から考えれば、草部吉見=ヒコヤイミミ=海幸彦の対極である彦火々出見=山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦の子であるウガヤフキアエズであるため、福岡市早良区に残された河上猛の一族は、諏訪神社、建御名方、阿蘇氏、淀姫などをキー・ワードに探る価値があると思うのです。

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ここで周辺の氏族を理解するために百嶋由一郎最終神代系譜をご覧いただきました。

建御名方は高木大神が本拠地としていた彦山北麓の筑豊は田川郡から行橋市一帯の国土開発を行っていた(添田の諏訪神社の由緒)ようですが、この一帯では添田町の一社を除き、ほぼ諏訪神社が一掃されています。

多分、争いがあり高木大神系=天照大神系=阿蘇系の勢力に土地を強奪されたのだと思います。

この遺恨があってか 建御名方の一族は南や西(佐賀県も諏訪神社が多い)に逃げ(日向に南方神社が多い理由はこのためです)、それが後に諏訪神社と呼ばれた理由は、恐らくこの酷い目に合ったもの同士の奈留多姫と建御名方の道行以降の社名なのでしょう。

遡れば、建御名方はイスラエル系の金山彦(櫛稲田姫)の娘を妃とした〜スサノウ系〜ナガスネヒコの妹のオキツヨソ足姫の恨みがあったからこそ、その子孫として与したのではないかとも考えられます。

もう一つは系譜です。直上の系譜の〇円内の拡大図をご覧頂くと、二本線と一本線が建御名方に繋がれていることがお分かりいただけると思います。

無題.pngこの建御名方は草部吉見=海幸彦とオキツヨソ足姫との間に生まれているのですが、母親=伊勢の外宮様の流れがそうさせたのか、ヒミコ宗女イヨ、山幸彦=ニギハヤヒの子であるウマシマジなどとの義理の兄弟になっている事が判るのです。

これこそが、阿蘇系であり高木大神、天照大御神系であるにも関わらず、心が揺れた背景の様に思えるのです。

そして、河上 猛と淀姫の母=奈留多姫は、冷や飯を食わされた者同士手で手を取って建御名方と諏訪に旅立ことになったとのです。   

そこでヤマト・オグナから許された熊襲 猛の一族が母共々早良に入っているとすれば、第一義的には、早良で奈留多姫を祀る神社を探すべきですが(これについては福岡市の西隣の糸島市に産宮神社があり、奈留多姫が主神として祀られているのですが、残された一族の移動によるものではないでしょうか)、都合が良い事に福岡県でもそれほど多くもない諏訪神社が一社早良区 の原(ハラ)にあるのです。千葉の市原と対応していますね。

このため、この諏訪神社を軸に奈留多姫+建御名方の背景を探れば、熊襲猛の一族が探れる事に成ると考えるのです。


阿波須神社 市原市五井3389 (平成261223)無題.png

東経1400603.79秒、北緯353010.62秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】R五井駅より南東に約1kmの道路左側に鎮座しています。近くにケーズ電気、イトーヨーカドーあり。

阿須波神社を探していたのに阿波須神社と勘違いして辿り着いてしまった神社です。この辺りには両方の神社があるので要注意ですね。ちなみに阿波須神社は古事記にも出てくる神社だそうです。また阿須波神社は旅立の際に安全を祈願して参拝した神社だそうです。


御祭神 天乃比理刀当ス  由緒 治承4年、源頼朝が安房より上総を経て東上の際、同年9月29日当所に阿波須権現を勧請され、武運長久を祈られたという。時に家僕岡崎某が、石橋山の戦に公を失い追慕の情止み難なく陸路より公の行方を追跡したところ、図らずも当所阿波須権現の森林中において会見できたという。宝治元年社殿を改造。以後建武2年〜宝暦元年までの400余年間に5度の社殿改造を施され、近年に入っては明治34年9月29日改造、現今の社殿は昭和60年9月新修造された。(以上 神社のひろば 神社探検隊より抜粋) 注:ここまでは引用文本文です。


普通、古事記を軸に、阿須波神(アスハノカミ)を考えれば、…竃神(足場・足下の神・旅の神)の総称である坐摩神(イカスリノカミ)の中の一柱で、摂津国一宮・坐摩(イカスリ)神社が著名です。

子安神社、天神社、稲荷神社、大杉神社、阿夫利神社、四社大神、白山宮、愛宕社等が祀られています。

百嶋神社考古学といってもここまで細部に亘って定説がある訳ではないのですが、百嶋由一郎手書きメモに 建南方 → 阿須波 → 建御名方 とはっきり書いている以上、鹿児島に南方神社集中しているのは武甕槌=草部吉見によって敗残した熊襲の軍団が薩摩に落ち延びたと考えるべきで(元々そこが本願地ですが)、その後の時期が奈留多姫と伴に諏訪に入り諏訪の神となって以降の呼称と考えるべきなのでしょう。

そして、建御名方と呼ばれたのであって、やはり、諏訪に逃れて以降諏訪神社と呼ばれるようになったのではないかと考えています。

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市街地で要路が集中考査していますので、駐車スペースも見つけ難いと思いますが、近くにはイオン原店(今はドンキホーテ)もありますのでお買い物のついでに同社を見に行かれてはと思います。

許された熊襲猛の一族がまとまって住んでおられる地区を探りたいのですが、失礼になってもいけないため心して探索を進めたいと考えています。まだまだ、取り掛かったかりですので、情報をお持ちの方はご一報下さい09062983254

百嶋神社考古学に携わるメンバーでもこの問題はかなり関心を引くテーマであり、フィールド・ワークにほとんど参加されない方々の中でも、O女史は、これについて別の仮説を提案されています。

詳しくは申し上げませんが、同じ早良区にある杉山神社です。

まあ、奈留多姫のお祖母さんにあたる草部吉見の娘の天豊ツ姫(この呼称は阿蘇の健磐龍の妃だった時のものです)は、天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀刀iアマノヒリトメ)→寒川姫→杉山姫と名を変えます。

この<お騒がせ姫> は建御名方ではなく最後にヤタガラスのお妃となって以降の呼称なのです。ともあれ、今後の問題です。


杉山神社 カーナビ検索 福岡県福岡市早良区10


既に主神として奈留多姫を祀る産宮神社が福岡市の西の糸島市にあるとしました。

これは、残された一族が奈留多姫を偲んで奉斎する神社だと思うのです。これについては、新ひぼろぎ逍遥に “732 産の宮神社に見る藤原氏の影 “福岡県 ... - 書いていますが、今回の視点を全く欠いた深みの無いリポートであり、念のためにこれもご紹介しておきます。いずれにせよ、会内部で多くの説が提案され議論される環境があることこそが研究会の生命です。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

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と、ここまで書いてブログ一本を書き上げ閉じたところ、「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原さんから連絡が入りました。それは、ありがたいことに古川説を補強する内容でした。それは、諏訪神社の境内に祠があり、1500年代に諏訪神社から勧請されたものがあり、八坂刀を祀っているというのです。

この名は、阿蘇ツ姫ではなく孫の奈留多姫が建御名方と一緒になって以降の名であり、奈留多姫=八坂刀唐祀る祠であった事が判るのです。恐らく、その祠の裏にはこれを諏訪から持ってこられた氏子の有志が居られるはずで、その方々こそ栄えある熊襲 猛の後裔氏族である可能性が非常に高いのです。

宮原さんはネット情報でこれを拾われたようですが、O女史もさることながら、万葉集の専門家であるI女史、宮原誠一氏、事務局の中島氏…の共同研究によって百嶋先生が敢えて伏せられた真実に迫る話も蘇るかも知れません。次報をお待ちください。改めて現地を踏み改めて報告をさせて頂きます。

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かつて熊本に孤高の九州王朝論者の平野雅廣先生が居られました。師の「倭国史談」の49pには河上猛の墓所があり(健福寺の元寺)現健福寺の時報にも記録があるというものでした。旧大和町史にも採録されていますが、当方のパワー・ポイントにも引用しています。特に古田武彦亡き後、何の研究もおこなわない堕落しきった福岡の九州王朝論者の方々是非お読み頂きたいと思うのですが、まあ、無駄でしょうね。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記