2022年10月01日

911 彦山直下 添田町中元寺の諏訪神社は真実の出雲の国譲り=強奪を今に伝える

911 彦山直下 添田町中元寺の諏訪神社は真実の出雲の国譲り=強奪を今に伝える

20211004

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今まで多くの神社を巡り、多くの神社縁起、由緒書…を読んできましたが、これほど古い事を今に伝える立派な文書はあまり見たことがありません。

 このご由緒を読むためだけにも同社を訪れる価値があると思うのですが、今回はこの貴重この上ない田川郡の諏訪神社をお知らせしたいと思うものです。

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諏訪神社 カーナビ検索 福岡県田川郡添田町中元寺1461


自分で文章を書くのが良いのですが、ネット上にお知り合いのブロガーが書かれているのを見ると全文掲載したくなりました。

しかも要点はピシャリと押さられておられ。ここでは電話で話したことがあるきりの「美風庵だより」様の美文を引用させていただきます。


田川郡添田町中元寺 諏訪神社


鳥居の前には中元寺川が流れており、石段でおりて禊ぎが出来るようになっています。石段をおりて対岸に渡る小橋から、神社を見上げるように撮影してみました。現地案内板の一部を書き写してみましょう。
当神社は
大和時代前期より古事記に散見する豊前、豊後、筑前三国の水分中元司川(早瀬川)彦山川流域の開拓神として大国主命に従いて瀬成大神と合計りて治水、農耕開発・国土経営に当たらた出雲系氏族の氏神と崇められ延命長寿、子供達の守神、祖霊鎮守の御社と郷人々より御諏訪様・諏訪の大明神と称され氏子郷人の親愛の情深き尊崇敬神の誠により古来今に遷る事無き厚き護持により御鎮座す。
以前、
添田町津野地区の高木神社2社を取り上げました。そのとき、御神紋が両社とも柏紋であり、御祭神の顔ぶれが事代主とその母方の先祖を祀っていることに触れました。

おそらく添田町津野地区はおおむかし、事代主の拠点だったのでしょう。その後、天之忍穂耳を中核とした英彦山の勢力拡大により、過去の姿が上書きされて、現在に至ったものと考えています。

諏訪神社の由緒は、その傍証となりうるものです。ここでは、大国主(大己貴)の指揮下、事代主と建御名方が中元寺川流域を開拓したことがはっきりと記されています。
添田町津野から添田をはさんで中元寺一帯まで、現在でいう出雲の神々が最初の支配者であることが、あきらかになりました。

この神社は、或る意味 諏訪大社の原型とでもいうべき存在で、かように重要な神社が現代まで生き延びていることに、感激すら覚えます。

両社宮という名前も与えられてはいますが、正式な社名が諏訪神社という点も、地元の見識を感じます。
月読命(大山祇)の子 大己貴が、大幡主の入り婿となり印である亀甲紋を譲られて大国主となります。前王朝を支えたファミリーの広がりを感じさせず、一部の反逆者と思わせるための印象操作として、記紀では事代主と建御名方を実子として記載しました。
事代主は、母方の先祖が高木大神(
高皇産霊神)につながることから、早い段階で「転び」、(英彦山を源流とする)現王朝に迎合したものと考えられます。結果として、宮中に八重事代主として祀られ、全国各地に「えびす様」がみられるようになるまで大出世しました。
これを「悪い奴」とする評価もネットでは散見されます。けれどもその反面、彼が居なければもっと「出雲の神々」は歴史から抹殺されていたはずで、その点は評価すべきです。
かたや、迎合せず信州まで追い詰められた建御名方(とその一族)は、「逆賊」として不当に貶められることになりました。しかし、彼の真の功績をきちんと理解しているから、地元は正式社名を
諏訪神社としたと考えられ、いかに氏神として大事にされてきたかが、わかるのです。

繰り返しになりますが、諏訪大社の分社ではなく、諏訪大社の源流のひとつと考えて差し支えないでしょう。恐るべき古社にまたひとつ出会うことができました。

ここまで読んで「開拓に協力した瀬成大神とは?」と疑問を抱いたかたもおられると思います。この日記は基本的に訪問順で書いているため、瀬成大神が祀られている瀬成神社は、明後日取り上げる予定です。

福岡県神社誌:下巻202
[
社名(御祭神)]
諏訪神社建御名方命手力雄命、片倉辺命、蛭子命
[
社格]村社
[
住所]田川郡
添田町大字中元寺字宮ノ森
[
境内社(御祭神)]菅原神社(菅原道真公)、木森神社(木森右門充重頼)(2020.06.14訪問)

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以前一度だけ電話でお話したことがあります。

実に100パーセント賛同できる素晴らしい内容のブログをお書きになっています。

識見をお持ちの美風庵だより様にお会いし直接お話をしたいのですが、いつ電話を掛けても出られませんので、接触はそれ以上深まっていませんので残念です。

ともあれ相当に踏み込んだリポートをお書きになっており当方としてはありがたい限りです。

見逃せない内容は以下の通りです。


@  国主命に従いて瀬成大神と合計りて治水、農耕開発・国土経営に当たらた出雲系氏族の氏神と崇められ延命長寿、子供達の守神、祖霊鎮守の御社と郷人々より御諏訪様・諏訪の大明神と称され氏子郷人の親愛の情深き尊崇敬神の誠により古来今に遷る事無き厚き護持により御鎮座す。

A  両社宮という名前も与えられてはいますが、正式な社名が諏訪神社という点も、地元の見識を感じます。

B  月読命(大山祇)の子 大己貴が、大幡主の入り婿となり印である亀甲紋を譲られて大国主となります。

C  添田町津野地区の高木神社2社を取り上げました。そのとき、御神紋が両社とも柏紋であり、御祭神の顔ぶれが事代主とその母方の先祖を祀っていることに触れました。おそらく添田町津野地区はおおむかし、事代主の拠点だったのでしょう。その後、天之忍穂耳を中核とした英彦山の勢力拡大により、過去の姿が上書きされて、現在に至ったものと考えています。

D  事代主は、母方の先祖が高木大神(高皇産霊神)につながることから、早い段階で「転び」、(英彦山を源流とする)現王朝に迎合したものと考えられます。

E  諏訪大社の分社ではなく、諏訪大社の源流のひとつと考えて差し支えないでしょう。恐るべき古社にまたひとつ出会うことができました。


 特に、月読命(大山祇)の子 大己貴が、大幡主の入り婿となり印である亀甲紋を譲られて大国主となります。…などは、そもそも大山祇が月読命と同一神などというのは百嶋神社考古学以外では主張しない内容の上に、事代主は、母方の先祖が高木大神(高皇産霊神)につながることから、早い段階で「転び」、(英彦山を源流とする)現王朝に迎合したものと考えられます。などは、当方が書こうとしている内容でもあるだけに、実にすごい話をされる方がおられるものと思うばかりです。

 ただ、この事代主が妃としたのは活玉依姫でした。百嶋由一郎卑弥呼宗女伊予系譜もご覧いただきましょう。

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08 卑弥呼宗女伊予系譜(部分)


 ごらんのとおりですが、市杵島姫と草部吉見=ヒコヤイミミとの間に生まれた大山クイと鴨玉依姫の間に生まれた活玉依姫を妃としているのです。


百嶋由一郎の講演録音声CD、神代系譜スキャニングDVD、手書きデータを必要な方は09062983254まで

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年10月03日

912 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分秋分のラインに参道を置いていた(上)

912 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分秋分のラインに参道を置いていた(上)

20211004

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


去る21919日 当会と北九州に本拠地を置く丁巳歴史塾は、筑豊は田川郡添田町の諏訪神社+東峰村(小石原)へのトレッキングを行いました。

これは、春先から福岡県朝倉市の甘木を中心とする旧朝倉郡+筑前町に於いて行ったトレッキングに追加するトレッキングだったのです。

先行のトレッキングは朝倉郡内60社の田神社(埴安彦or埴安彦+埴安姫…=博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神)が一社を除き無各社に落とされている事(「県神社市誌」下巻無各社一覧)、隣接する筑紫郡筑前町弥永の大己貴神社(その背景には同じ弥永の田神社に「日隅宮」(現地ではウヅノミヤと呼ぶ)が今も残されており、国土調査が行われるまで実際に同名の字まで残されていた事を知ったからでした。

日隅宮とは高木大神が葦原中つ国の国譲りに際し建て直してやるとしたものであり、本当の出雲とはこの旧朝倉郡一帯から、もしかしたら彦山北麓の田川郡〜行橋市の地だったのではないかとの感触を得たからでした。

その後、若き大国主命を幼名で祭る大己彦社(春日市商工会敷地の伯玄社)へのトレッキングを重ね、今回の添田町から旧小石原村へのトレッキングを行ったのはこの出雲の国譲りの真相(深層)の発掘が命題だったのです。

これらについては先行ブログをお読み下さい。


ひぼろぎ逍遥

スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕の発見! A

スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した! 


特に10年前からの懸案だった添田町中元寺の諏訪神社の旧仮名字体を残した由緒書には出雲などではなく筑豊の地にもかかわらず大国主命、少彦名命に従い国土開発を行ったと書かれているのです。

そしてこの一帯には九州では普通に見かける諏訪神社がこの一社を除き全く存在しないのです。

この事実はどう考えても彦山南北の一帯を、天照大御神(列島大率呉の大伯の後裔と高木大神の叔母の子)、正勝吾勝…草部吉見=ヒコヤイミミ(高木大神の次女タクハタチジヒメを妃とする)、勿論、高木大神はもとより、この三悪人等よって出雲の国譲り(他人が開発した土地を奪うのだから国ユスリであり犯罪行為に等しい)が発動され、彦山南北の48大行事社体制が成立したとしか言いようがないのです。

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高木神社 カーナビ検索 福岡県東峰村小石原宮山


ともあれ、この延長上に今回のトレッキングが行われたのでした。


2021919日(日) 建御名方を祀る諏訪神社から小石原の神々を探るトレッキング (案)

20210626

太宰府地名研究会 古川 清久


  オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


午前1030に 道の駅 歓遊舎ひこさん に集合し、筑豊唯一の添田町の諏訪神社に向かいます。

2021919日(日)10:3016:00 

当日雨天の場合は数ケ月後に延期します(参加は要連絡)御杖代 古川 清久(太宰府地名研究会事務局)

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集合:道の駅 歓遊舎ひこさんP( 福岡県添田町野田1113-1) お賽銭は各自ご用意下さい!

@ 諏訪神社     福岡県添田町中元寺1461   筑豊唯一の諏訪神社 最重要の一社! 

昼食休憩   仮 案  道の駅となり        バイキング・レストランが可能かも!

A 高木神社(小石原)福岡県東峰村小石原      高木神社の基層に田神社があった

B 秋葉社 (小石原)福岡県東峰村 ゞ       古層の神(金山彦+大山祗)を発見した!

C TAO      福岡県東峰村 ゞ        日本と遠賀川源流が中国に奪われる! 

D 彦山中宮(希望で)福岡県添田町英彦山1240   モノレール稼働中かは不明!  (予備)

@ 諏訪神社 福岡県添田町中元寺1461 駐車場問題なし


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良く知られた出雲の国譲りの舞台とは島根県の話ではなく朝倉郡から田川郡で起こったものであり、彦山の高木大神系が朝倉、田川郡一帯を奪い、彦山の南北の沃土に高木神社=48大行事社制を敷く為の争いだったのではと考えたのでした。


今回、三回シリーズで甘木〜春日の神社調査を経てその延長上に小石原村の神代を考えるのですが、前の二回のトレッキングをご存じない方には全く何のことだかお分かり頂けないであろう事は当然です.

詳しくは、二本のパワー・ポイント(計300シート)を見て頂けれ理解は進むと思うのですが、最も重要なポイントをお話しておこうと思います。きっかけはこうでした。

「福岡県神社誌」下巻の無格社一覧に依れば、旧朝倉郡には夥しい数の「田神社」なるものがある事に気付きました(実際にカウントすると60社に登り、草水地区の村社が一社だけあるものの残りが全て無格社となっている)。これは異常な事で、何らかの政変=支配構造の変化に依る物であろう事は明らかでした。

田神社の代表的なものは旧甘木市の甘木公園の中に置かれる金毘羅神社の参拝道階下の田神社が象徴的でしょう。

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以下省略しますが、この夥しい数の田神社は国譲りの結果生じたのではないかと考えたのでした。

この田神社の祭神は埴安彦、埴安姫、埴安命…であり、博多の櫛田神社の大幡主とその妹などなのです。

 この神こそ彦山のタカミムスビと並ぶカミムスビ神であり、天御中主命の甥、姪でもある神代のスターなのです。そして、西の筑前町には天の安川を思わせる夜須町があり夜須高原もあり、三輪山を思わせる三輪町まであるのです。天照が岩戸隠れをした時、八百万の神々が集い談合したのが天の安河あたりです。

その筑前町の東の端に大巳貴神社があり、大字弥永には今も田神社(天神社)があり、日隈(ヒスミノミヤ=現地ではウヅノミヤ)なる祠が残されているのです。 

大国主大神様が国づくりによって築かれた国は、「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強く在る国でした。大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。

と申されました。こうして大国主大神様は目に見えない世界を司られ、天照大御神様の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、大国主大神様のために宇迦山の麓に壮大なる宮殿が造営されました。そして大国主大神様は永久にお鎮まりになって人々の幸福のために慈愛をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をお受けになっています。                      出雲大社HP


@ 今年の春先から甘木一帯で延べ67回(最近は皆が一度に集まれる日時を選定できないため)、当日参加できない方を対象に追加で30数名を案内いたしました。

 これらは、大国主命を祀る筑前町弥永の大己貴神社が神功皇后が兵員を集めただけの神社ではなく、大国主の国譲りに関わる代替えの神社ではないかを考えるトレッキングだったのです。

A 次に春日市周辺に大国主命をその幼名オオナビコで祀る伯玄社と大国主命の協力者であったスクナヒコナノミコトが居たと考えられる須久岡本遺跡一帯を探索しました。これから彼らが元々は幼馴染みであったことが分かるのです。

無題.pngB そして、今回の添田から小石原に掛けての神社トレッキングは、大国主命の国譲りとは、小石原も朝倉郡であり、甘木、朝倉、把木と同様に、本来は彦山系とは異なる旧朝倉郡の祭祀が在り、彼らとは異なる人々が住む地だったのではないか、そして、異なる神々を祀る人々が住んでいたのではないかというテーマで行うものであり、添田に関しては、田川郡〜行橋市に掛けて諏訪神社が極端に少ない事から、建御名方が国譲りに抵抗した地とは田川郡一帯だったのではないかと言うトンデモない仮説を検証するものなのです。

実は、この日隅宮が大巳貴神社の数百メートル下手にある田神社に小さな祠が残され、実際に国土調査が完了するまで(50年前まで)、ウヅノミヤという小字が存在していた事が法務局や県立図書館の資料で確認できたのでした。

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筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)


@ 筑豊唯一の諏訪神社(添田町) カーナビ検索福岡県添田町中元寺1461


無題.png建御名方  (大国主御二男) とするが、百嶋神社考古学ではそれを認めない

多力雄命  実はスサノウ

片闇邊命  実は事代主命で重複ではないか?

蛭子命   事代主命であるも大国主御長男とされるが、これも百嶋神社考古学では認めない)。

由緒では「古事記」にも全く記述のない「彦山一帯の大国主による開拓という」事実を伝えています。

朝倉のトレッキングで日隅宮と60社もの無格社に落された田神社の解析から大国主命の国譲りの現場は旧朝倉郡だったのではないかとしましたが、これに連動し、筑豊でも大国主命の代理者として活動していたと思われる建御名方が追放されたのではないかと考えるところまで辿り着きました。それを裏付けるかのように筑豊一帯ではこの神社以外、諏訪神社が消えているのです。同社の御由緒書きは非常に立派で、それだけでも感銘します。



無題.png「当神社ハ、大和時代前期ヨリ古事記ニ散見セル豊前、豊後、筑前ノ水分中元司川(早瀬川)彦山川流域ノ開拓神トシテ大国主命ニ従ヒテ瀬成大神ト合計リテ治水、農耕開発・国土経営ニ当タラレタ出雲系氏族ノ氏神ト崇メラレ延命長寿、子供達ノ守神祖霊鎮守ノ御社、郷人々ヨリ御諏訪様・諏訪大明神ト称サレ」…

と、「古事記」にも全く記述のない「彦山一帯の大国主による開拓という」事実を記録しています。



A 小石原村大行事社(高木神社)

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高木神社(小石原)福岡県東峰村小石原  高木神社の基層に田神社があった


  朝倉のトレッキングで確認した田ノ神外をご確認下さい

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その他の境内社稲荷神社、志賀神社、須佐神社は書き留められているにも拘らず、田ノ神は消されているのです。そこで、無格社3社を確認する必要に迫られ確認してきました。愛宕神社です。

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神社誌では秋葉神社と書かれていますが同一です。

「福岡県神社誌」でも小石原村で3社が無格社に落されていました。

神明宮は某高取焼宗家の屋敷神である上に、移入されている事から古層の神とは言えませんが、山上平野の搭ノ瀬地区には山の神と秋葉神社=金山彦が祀られていました。この事は、彦山大行事社が旧郡の朝倉郡まで進出した際に、地域の祭祀権を奪い取ったものと考えられます。

 つまり、朝倉郡で田神社60社が無格社に落されている構造が、この小石原でも最も中心的な大行事社(高木神社)に於いて上記5柱が境内社扱いもされずにただ置かれていたのでした。

しかも、地名が中山であり、金山彦系集落に頻繁に見かける地名であることから(岡山の吉備の中山が最も著名です)、この地に定着し製鉄を行なっていた可能性を強く意識させます。

 大山祗は朝倉郡でも山手の土地に数多く祀られていますが、ここ小石原も朝倉郡であり、その傾向の一例とは言えそうです。

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 特に興味を魅かれたのは金山彦祭祀です。

 製鉄集団、鍛冶屋といった人々が、燃料と風を求めて山上の地を住処としていた事が読み取れます。

 こうして、現場で失われた神々を蘇らせることができたことに感動をさえ呼び起こされます。

 そこで、少し変わったアイデアが浮かびました。

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この小丘から北を望むと意外と大きな平地が在る事に気付きました。元は浅い湖があったのでは?つまり、水中での水平堆積と池の決壊、若しくは切り込みによる平地の造成こそこの地の国造だったのです。

どおでも良い話ではあるのですが、小石原村の道の駅辺りから中国による国土買収(遠賀川源流の土地買収)の可能性のあるTAOから嘉麻峠の方面に走ると、意外と平地が広がりあたかも山上平地(高天原)から水田が広がっている事に気付きます。

十和田湖が奥入瀬渓谷に水が落ちている事は皆さん良くご存じでしょうが、この小石原の推定山上湖からも小石原川(搭ノ瀬渓谷)が落ちており、元々オーバー・フロー(若しくは伏流水路)する小河川が存在していた可能性もあるのですが(それが小石原の語源かも)、何時しか水田稲作が重要になると(例えば彦山の穀倉)湖を切落し、多くの平地が造りだされたのではないかとも思うのです。

このイメージは、元々、地形と搭ノ瀬地名だけで書いただけですのでその範囲で理解して下さい。

地名を見ると水田稲作地帯に見える場所に奥畑があり、稗畑(ここも水田に替わっていますね)がある一方、奥畑の東には原(ハル)という開墾地地名=ハル、ハリ、パル、パリが拾えるため、元々、蹴破りが起こる前は畑作地帯でしかなかったはずなのです。アイヌ語でトウは湖を意味します(「遠野物語」)。

 これらは地名と地形からだけのアイデアでしかないのですが、ロマンチックなイメージだけは膨らみます。蹴破りの主要な地点は、赤丸の地でしょうが、何か所か切られているかも知れません。


913 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分秋分のラインに参道を置いていた(下)に

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年10月06日

913 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分秋分のラインに参道を置いていた(下)

913 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分秋分のラインに参道を置いていた(下)

20211004

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


去る21919日 当会と北九州に本拠地を置く丁巳歴史塾は、筑豊は田川郡添田町の諏訪神社+東峰村(小石原)へのトレッキングを行いました。

これは、春先から福岡県朝倉市の甘木を中心とする旧朝倉郡+筑前町に於いてトレッキングを行っていますが、これは朝倉郡内60社の田神社(埴安彦or埴安彦+埴安姫…=博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神)が一社を除き無各社に落とされている事(「県神社市誌」下巻無各社一覧)、隣接する筑紫郡筑前町弥永の大己貴神社(その背景には同じ弥永の田神社に「日隅宮」(現地ではウヅノミヤと呼ぶ)が今も残されており、国土調査が行われるまで実際に同名の字まで残されていた事を知ったからでした。

日隅宮とは高木大神が葦原中つ国の国譲りに際し建て直してやるとしたものであり、本当の出雲とはこの旧朝倉郡一帯から、もしかしたら彦山北麓の田川郡〜行橋市の地だったのではないかとの感触を得たからでした。

その後、若き大国主命を幼名で祀る大己彦社(春日市商工会敷地の伯玄社)へのトレッキングを重ね、今回の添田町から旧小石原村へのトレッキングを行ったのはこの出雲の国譲りの発掘が命題だったのです。

これらについては先行ブログをお読み下さい。


ひぼろぎ逍遥

スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕の発見! A

スポット 050 筑前町に「日隅宮」を発見した! 


特に10年前からの懸案だった添田町中元寺の諏訪神社の旧仮名字体を残した由緒書には出雲などではなく筑豊の地にもかかわらず大国主命、少彦名命に従い国土開発を行ったと書かれているのです。

そしてこの一帯には九州では普通に見かける諏訪神社がこの一社を除き全く存在しないのです。

この事実はどう考えても彦山南北の一帯を、天照大御神(列島大率呉の大伯の後裔と高木大神の叔母の子)、正勝吾勝…草部吉見=ヒコヤイミミ(高木大神の次女タクハタチジヒメを妃とする)、勿論、高木大神はもとより、この三悪人等よって出雲の国譲り(他人が開発した土地を奪うのだから国ユスリであり犯罪行為に等しい)が発動され、彦山南北の48大行事社体制が成立したとしか言いようがないのです。

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その一週間後のことでした。

 大阪の内倉武久先生(元朝日新聞記者「太宰府は日本の首都だった」ミネルヴァ書房他3著)から電話が掛かり、南島原まで行くのでそちらに行くとの事でした。

 用件が済み、一日の余裕ができたことから、添田町の諏訪神社と小石原村の高木神社をご案内することになったのですが、偶然ながら夕方5時半でいたか6時でしたか高木神社にご案内し、参道階段を降り鳥居から西の境外地の写真を撮ろうとすると、正に参道線に沿って太陽が沈んで行く姿に遭遇したのでした。

 実に感動的で、しかも二人揃ってこの事実を確認したのですから偶然とは恐ろしいもので、来年の今頃また同じ現象を見る事になるのです。

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まさしく、上方落語風(この噺については桂春団治の「代書屋」)に表現すれば、秋の彼岸の中日の明けの日の夕暮れの話しですが、恐らくは西日を意識し、太陽の運行を知る人によってこの参道ラインが決定され、この現在の嘉麻峠へと向かう道路さえもが左右されているというのですから、千何百年という年月を経て継承されている時代の積み重ねを再認識したのでした。

来年と言わず春の彼岸の日にも同様の現象が認められるのであり、小石原村のご先祖様達の知恵と偉さと自然への畏怖の念を感じて頂きたいものです。

 問題はご先祖様達のこの英知が今や忘れ去られているという今の日本の恥ずべき在り様なのです。

 そこで、この手の話しに精通している伊藤まさ子女史に尋ねると、「依然調べた古代祭祀線の一本がそれに当たりそうですね」と早速の朗報を得たのでした。

 これについての詳報は後に廻すとしても、概略は彦山の北谷を通り、宇佐神宮を見下ろす御許山を通り和歌山県の熊野本宮大社の本宮に届くと言うのです。

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そこでさらに話を進めるのですが、ではこの祭祀線は一体どういう人々が創ったのだろう?という問題に突き当たるのです。

 まず、高木神社だからといって彦山山岳修験の人々がこの参道を造ったとは思えません。

 何故ならば彦山自体に背を向けているからであり、彦山が日子山であると主張するのであれば、朝日の方向なりに置きそうなものだからです。

 従って、熊野本宮大社へと向かい、九州王朝の神宮であったはずの宇佐を通過する同社は、どう見ても彦山以前の旧朝倉郡(出雲の国譲り以前の)祭祀だったのではないかとの推定が浮かびあがってくるのでした。

 この点は内倉武久先生も同意見であり、実に衝撃的な瞬間に遭遇したとの思いを深めているこの頃です。

 そこまで行くと、やはり彦山修験が覆いかぶさってきた結果彦山南北を取り囲む48大行事社に支配される体制が出来上がったのではないかと考えるのです。

 国土地理院の地図を見ると分かるのですが、この道路は何故か南北に交差しています。

 勿論、道路には重層的にバイパスが加わってきます。従って、旧道そのものが春分、秋分の太陽の運行を意識した人々によって街並みさえも造られたのでしょうか?元々は自然地形に沿った自然の道があり、ある時代に古代のバイパスが造られ、それに沿って現在の道ができたのでしょうか?

 無論、民陶の街並みは皿山という地区があり、それは現在の道の駅付近より山沿いに存在しています。

 しかし、たまたまの偶然なのか郵便局前の道が東西線そのものであり、直行する道に沿って宿場もできているのですから、その頃まではこれが秋分、春分のラインにあるという意識があったはずで、これが現在、人々の意識からすっぽり消え失せている事そのものに、明治以降の山岳修験の人々の知恵が顧みられなかった、若しくは、その基層にある彦山以前の支配層の保持していた文化そのものの喪失が存在するのかは今となっては辿ることは不可能でしょう。

 少なくとも、この小石原の地は筑紫郡、朝倉郡、豊後の日田から嘉麻、田川、行橋への越えねばならぬ交通の要衝であり、ここを制圧する事は権力者にとっては最重要事だったはずで、現在こそ高木神社=大行事社が制圧しているとはいえ、その基層にはその前の勢力が見え隠れしています。

 それは、田神社+山神社に象徴される朝倉郡のカミムスビ系→大国主系勢力、それ以前には愛宕神社、秋葉権現に象徴される金山彦系の勢力までもが見えてくるのです。

 私が小石原村に入り最初に意識したのは、鬼丸という窯元が複数存在する事でした。

 神社、地名、人名の追求を続けていると多くの姓がどの民族、氏族と関係するかが見えてきます。

 この鬼丸、鬼崎、鬼木、鬼山…といった地名、姓氏名は経験的に金山彦系であろうという事だけは分かりました。鬼丸瓦に象徴される瓦製造者にもこの姓を持つ方が多いのは不思議ではありません。この

 この人々こそは、今は無各社に落とされている(「福岡県神社誌」下巻無各社一覧)秋葉権現、愛宕神社を奉斎していた人々のはずで、この小石原の地に住み着いた最も古い製鉄集団の末裔であり、その民需、民生転用としての陶器製造で生き延びてこられた人々であろうと最初のイメージが沸いたのでした。

 恐らく、梶原窯も目につきますが、誤解を恐れずに言えばこの梶原の梶も鍛冶屋の梶なのです。

 鬼丸窯、梶原窯だけでも小石原の相当の勢力であることは明らかで、それらのご先祖様達は、きっと鉄生産、刀剣生産に関わる人々だったはずなのです。

 では、何故、この地が焼物の里になったのでしょうか?

 それは半農半陶、半農半鍛冶の民は農事の閑忙期である冬場に仕事をします。

 その時、北西からの風を強く得られる嘉麻峠から彦山脊梁の最頂上部に掛けて風を得られる様に窯口を北西に向けていたはずなのです。

 では、そうする必要性を最も強く意識したのは如何なる勢力だったのでしょうか?

 彦山山岳修験の人々はいつでも風を凝縮して得られる谷を持っていたはずです。

 対して朝倉郡の人々は、馬見山から彦山へと東西に延びる脊梁によって風を遮られるため、どうしても風を求めて小石原に進出せざるを得なかったはずなのです。

 これにはパルチザン戦に長けた彦山勢力との衝突を覚悟せざるを得なかったはずですが、それでも強い北西の風なくしては生きる糧を得られなかったはずなのです。 

 こうして鬼丸、梶原といった元々は製鉄、冶金の民が勇気をもってこの地で風を利用する業を技を磨いてきていたはずなのです。

 これこそが民陶以前の小石原の姿であり、決して単なる小石原焼だけの里ではなかったと考えるのですが、ここまで考えだすと根拠の薄い思考の暴走に過ぎるかもしれません。

 かくして小石原とは古代から中近世を通じて、生きてきたハイテク産業としての製鉄、冶金、瓦生産、陶器生産の村ならぬ町であり街であった事が見えてきたのです。

 しかし、以前にも触れたような、小石原の推定山上湖のイメージだけは古代を現代に投影する水鏡に思えてくるのです。

 この想定小石原湖から見える北方の下界を含めた風景は何とも優雅で美しく心を古代へと誘うのでした。

ここで、百嶋神社考古学の立場から登場してきた神々の概略をご紹介し本ブログを閉じることにします。

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簡単に言えば彦山南北を制圧する出雲の国譲りとはカミムスビ+大国主命VSタカミムスビ+草部吉見+天照大御神三悪人との国土争奪戦であり、敗残した建御名方は泣く泣く諏訪、肥前、日向に逃亡したのでした。

 ここまで高木大神がここまでの強硬手段をとった背景にはかつて高良山を奪われ逃げざるを得なかったという苦い経験があったからだと思うのですが、土地を奪われる人々は悔しくも、さらにみじめで残念だったと思うのです。

これを国譲りなどと平和裏に行われたかのような大嘘を書き連ねているのが偽書「古事記」なのです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記