2022年08月18日

907 筑豊から消された諏訪神社 D  “事代主命再考” 永留久恵の「海神と天神」から

907 筑豊から消された諏訪神社 D  “事代主命再考” 永留久恵の「海神と天神」から

20210905

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


まだ、詳しくは聴いていないのですが、メンバーの「事代主のブログ」氏から気になる情報が流れてきました。

 それは、“恵比須の正体が分かった。対馬の和多都美神社の宮司(元の宮司?)の話として「恵比須」とはウガヤフキアエズの称号で歴代襲名されていたものだった”といった話だったのです。

 いずれ、添田〜小石原でのトレッキングで逢うので、詳しい資料は貰えるのですが、それを待たずに、故)永留久恵先生の「海神と天神」から同社の部分を読み直すと確かにこの話に繋がる内容が書かれているのです。

この部分は数十年前に読んではいるのですが、まだ、神社研究にはさらさら踏み込んでもいなかった事から、さらさら気付きもせずに読み飛ばしていたのです。

無題.png

以下同著38pをお読みください。

無題.png

永留先生の文章でもウガヤフキアエズorアズミノイソラが何故「恵比須」とされたかについては言及がありません。

 無題.png従って、ここではそういう事実が存在していた事を確認するのみで引き下がらざるを得ません。

 この事実だけをもって、事代主がウガヤフキアエズやアズミノイソラだかの別名であると決めつけるのは早計と考えるのですが、宮司が語る家伝とか社伝となると、憚られてか危険性からか書くことはできなかったから口伝として残したとも考えられ、待ち遠しい限りです。

 「わたつみのいろこのみや」というフレーズも“いろこ”は鱗(うろこ)の古形ですし、それっぽいのですが、一方の恵比寿=事代主に爪とか棘とか鱗とか尾、鰭などといったものが全くない事から直ちに結びつけるのは困難ではないかと思うものです。

 デッド・ロックにぶつかった為、少しネット検索を行うと、ウガヤフキアエズ王朝説論者の方の話にウガヤと蛭子が同一神との話が出てくるのです。以下…。


11代マガキルツルギヒコ天皇

エビス様とは、外国の神様ではなく、実はヒルコ(蛭子)のことです。

今回は、そのエビス様から直接教えを受けて、それを熱心に全国に広めた天皇のお話しです。

実は、「エビス信仰」には、深い深い教義が存在していたのであり、単なる「商売繁盛」の神様ではありませんでした。

そして、それはなぜ封印されたのでしょうか?

そもそもヒルコとは?

ヒルコは、イザナギ・イザナミの最初の子供でしたが、生まれたとき息をしていなかったため、箱舟で流されて北海道に辿り着き、ここでエビス様と呼ばれました。

⇒記紀が説くように、不惧者でも水子でもありませんでした。【攻撃1

『ウエツフミ』によると、スサノオが北海道を訪れたとき、謎の翁が釣竿を持って鯛を釣りあげ、スサノオにふるまいながら、こう告げます。

「我は、汝の兄である。北海道を造り固めるため魚釣りをしている」

そして、その鯛があまりにも美味しかったので、スサノオは「妙魚(たえな)」と叫び、これが「鯛魚(たいな)つまり鯛」の語源であると説明されています。

⇒原文はこちら

この頃、北海道は「恵美(えみ)の国」と呼ばれていました。

つまり、正式には「恵美の国の主であるヒルコ」であり、省略されて「恵美主」となったようです。

同様に「蝦夷(えみし)」の語源も、「恵美の国の氏()」なのかもしれません。

つまり、もともとは「恵美子(えみし)?

あるいは、単純に「蛭子」が「エミシ」と読まれたのかもしれませんが、誰かが意図的に「変な当て字攻撃」を仕掛けているとしか思えません。【攻撃2

このことは最後の結論につながってきますので、よく覚えておいてください。

そして、「西の宮」に対して、「東の宮」が存在していたこともほぼ間違いありません。

それが北海道の江差地方なのです。【攻撃3

⇒「江差岳」という地名しか書かれていないのでその場所は特定できず。

ヒルコから直接教えを受けた天皇

無題.pngさてさてその後、このエビス様に教化されて熱心に信仰した天皇がいました。

それが第11代ウガヤフキアエズ天皇マガキルツルギヒコでした。

この天皇は、不思議なご縁で鶴と亀に導かれて北海道に渡り、そこでエビス様に遭遇します。

つまりエビス様から招かれたのです。

このとき11代はまだ赤ん坊だったので、父とその摂政の二人が同行します。

江差の岳に、綿帽子をかぶったエビス様が登場して、こう告げます。

「我が子孫たちよ、よく来たなあ。まあここに座れ。おまえに会いたいから使いをやったのだ」 と、そばに招き、 病弱だった父の第10代には健康法を教え、 赤ん坊の第11代と摂政に対して、自分の教えを語り始めます。

⇒原文はこちら


どちらにせよ、メンバーでも先行する「宮原誠一の神社見聞諜」「事代主のブログ」のお考えが理解できれば、この事代主問題にも光が刺してくるかも知れません。

困ったときには敬愛する「玄松子」としますので、少し参考のために事代主を探ってみましょう。


事代主 『古事記』に、大国主命と神屋楯比売命との婚姻によって生れた神。『先代旧事本紀』では、大己貴神と高津姫神との婚姻によって生れた神。

出雲国譲りの際に、事代主命は、鳥遊・取魚をしに出雲国美保ヶ崎へ行っていたため、 天鳥船神によって呼びもどされ、建御雷神に問われ、 「この国は天津神のお子様に差し上げましょう」と言って、 すぐに乗ってきた船を踏み傾け、天の逆手を打って船を覆して青柴垣に変え、 その中に隠れた。

出雲国譲りの際に、大国主神に代わって国譲りの言葉を述べたため、託宣の神。

出雲国譲りの際に、大国主神に代わって国譲りの言葉を述べたため、皇室の守護神。

神功皇后の三韓征伐で、この神の神徳があった。 『出雲國造神賀詞』では宇奈提に祀り、皇孫命の近き守り神とされた。

『古語拾遺』によると、神武天皇が即位の時、天照大御神と高皇産霊尊の勅に従って、 神籬を建てて祀った八神の中に一柱。後に宮中神祇官の八神殿において御巫に齋き祀られている。

『延喜式神名帳』宮中神の条に、「御巫祭神八座」とあって、 「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」の神名を掲げている。

ただし一説に、この事代主神は出雲とは無関係で、純粋な言葉の神とする。

出雲国譲りの際に、釣りをしていた神として、恵比須神と同神と考えられている。

三島神社に祀られる伊豆諸島の造立神・三島大神は、事代主神であるとする説が広く信じられている。


恵比須 漁業の神。市の神。商売の神。七福神の一人。

蛭子をエビスと読むことから、恵比須神を伊邪那岐神・伊邪那美神の御子・水蛭子尊とする説がある。

また、釣竿を持った姿から、恵比須神を大国主神の御子・事代主神とする説がある。

また、龍宮へ行って海神の法力を得た山幸彦(彦火火出見尊)とする説がある。

また、海のかなたの常世国へ戻ったためか、あるいは大国主神(大黒様)と協力して国土経営を行い、ともに祀られることが多いせいか、少彦名命を恵比須とする説もある。

エビスとは、異郷から来臨して幸をもたらす客神(まれびとがみ)。

ここから、海難者の水死体や、海中から拾い上げた石、漂流物を御神体とする場合がある


蛭子 『古事記』によると、伊邪那岐神と伊邪那美神は天の御柱を建て、まず伊邪那岐神が御柱の左より、伊邪那美神が右より廻り、 先に伊邪那美神が「ああ、いい男よ」と言い、次に伊邪那岐神が「ああ、いい女よ」と言った。 言い終った後、伊邪那岐神は「女から先に言うのはよくない」と告げるがそのまま契りを結び、 このときできたのが水蛭子で、葦船に乗せて流したとある。

『日本書紀』に一書では、淡路洲の次に蛭児が生まれたとも、 日の神、月の神に続いて蛭児が生まれ、三年たっても足が立たなかったので 天の磐櫲樟船に乗せて放流したともある。

名前から、手も足もない蛭のような形をした不具の児か、手や足はあっても骨なしの児と思われる。

『古事記』では、蛭子神の次に「淡島を生みたまいき、是も子の例に入らず」とあり、 淡島の淡は水泡のことで蛭子神にひっかけたものとも考えられる。

一説には、蛭子は、初子・長子という説がある。

また大日孁貴(おほひるめのむち:天照大神)に対しての日子、彦(ヒコ)だとする説がある。 太陽神を船に乗せて流すという神話は、多くの民族にもあるらしい。

また、ヒル神(蛹・蛾をヒル・ヒルルなどと呼ぶので、生れかわり形を変えて人間に利益をもたらす蚕をヒル神・ヒラ神として一種の神格を与えている)信仰の片鱗だとする説がある。

葦船に入れて流され、摂津国・西宮に流れ着いた蛭子神を養い奉じた西宮の土民が夷三郎殿と号したことから、 夷三郎大明神、夷神(恵比須)と崇められ、漁業の神・市場の神・商業神として信仰された。


では、百嶋由一郎神社考古学の者の立場から確認できる範囲で最終神代系譜を見ておきましょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年08月21日

908 「宮原誠一の神社見聞牒」(176)からの転載 “荒木しず姫(五十鈴姫)の地は荒木の日吉神社か”

908 「宮原誠一の神社見聞牒」(176)からの転載 “荒木しず姫(五十鈴姫)の地は荒木の日吉神社か”

20210907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今般、メンバーの宮原誠一氏の新ブログが興味深い為掲載をさせて頂くことにしました。

実は、私の隠れ家(ミ・レフューヒョ)の付近にも五十鈴姫を祀る神社が在るからです。

 その話は後回しにするとして、まずは、宮原提案をお聴きする事にしましょう。


No.176 荒木しず姫(五十鈴姫)の地は荒木の日吉神社か

宮原誠一の神社見聞牒(176)

令和3年(2021)0701


本山天満宮がある上津の西は荒木です。荒木しず姫(五十鈴姫)ゆかりの荒木です。

ですが、ここ久留米市荒木町には荒木しず姫(五十鈴姫)を祀る神社はありません。地名の「荒木」が存在するのみです。

五十鈴姫は崇神天皇の皇后であり、日本書記の手前、近畿の人であり、九州の筑後に、その事蹟が残されていたのではまずいのでしょう。

荒木町荒木の古賀には、領主の荒城朝臣関係の日吉神社が一社あるのみです。荒城氏がここ荒木に日吉神社を建立することは、荒木しず姫ゆかりの荒木ということになります。

現代の荒木には歌手の松田聖子(本名蒲池法子)さんの出身校の荒木中学校があり、近くに荒城氏ゆかりの日吉神社です。聖子さんは旧柳川城の城主だった蒲池氏のご子孫となります。


日吉神社 福岡県久留米市荒木町荒木(古賀)1811番地

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拝殿の唐破風には「右三巴紋」「十六菊紋」で


日吉神社由緒

福岡県久留米市荒木町荒木(古賀)1811番地の1

御祭神 大山咋命(主祭神)

  相殿 素盞鳴命・應仁天皇・大己貴命(大国主)

由緒天慶9(946)

朱雀院の御宇承平中(931937)領主荒城朝臣、大三輪明神を安置し、大宮明神と斎き祭りしが、後花園院の御宇新に社地を相し、創建大宮区十二社と称す。後又慶長中(15961614)郡司辻重勝、代官中島一誠の拝殿再建あり。

 由来、御種蒔御田植の神事あり、又、領主は神領地を寄進し尊崇厚かりきと。

 明治3(1870)社名を日吉神社と改む。

 明治6(1873)310日村社の社格に列す。

 神饌幣帛供進指定大正8(1919)1113日。(境内由緒書案内板)


承平中(931937)に領主荒城朝臣が大三輪明神を安置し、大宮明神と斎き祭る」とあります。大三輪明神は事代主ですが、大宮明神と祀っています。大宮明神は豊玉姫です。

後の後花園院の御宇(1465年頃)に社地名を「大宮区十二社じゅうにそう」と改めています。

十二社(じゅうにそう)の地名は、室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎(中野長者)が応永年間(1394-1428)に熊野三山から十二所権現を祀り、その西新宿四丁目近辺の旧地名を十二社(じゅうにそう)と称したのが起源とされます。

明治3(1870)に社名を日吉神社と改めています。

荒城氏が当初祀った神は大宮売神の豊玉姫と大三輪明神となります。

大物主と三輪の神の関係ですが、一般に言われる大物主は大国主ではなく、本当の大物主は大山咋神です。


一般に言われる大物主は三人おられ、三人の関係を次のように扱っています。

大国主を「義理の大物主」、大山咋を「真の大物主」、事代主を「代理の大物主」。


 1.大国主 大己貴・八千矛神 義理の大物主 大神(おんが)大明神

 2.大物主 大山咋・天葺根命  真の大物主 大神(おおが)大明神

 3.事代主 少名彦・恵比須神 代理の大物主 大神(おおみわ)大明神


おおみわ明神は事代主となります。が、奈良県の三輪山のおおみわ明神となれば大山咋神となります。社号の日吉神社と一致します。しかし、大宮売神とは直に繋がりません。

大三輪明神は事代主、大山咋神のどちらでしょうか?

崇神天皇の皇后は五十鈴姫であり、別名、荒木しづ姫です。その荒木しづ姫の父親が荒木武彦であり、荒木武彦は事代主となります。事代主の母が豊玉姫(田心姫)であり、荒木氏が事代主の子孫であることを考えると、荒城朝臣が久留米市荒木町荒木に、その先祖である事代主と豊玉姫を祀ることは自然です。


三輪明神大神神社(おおみわじんじゃ)

奈良県桜井市三輪1422

主祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命 大山咋)

配祀神 大己貴神(おおなむちのかみ 大国主)

     少彦名神(すくなひこなのかみ 事代主)


十二社(じゅうにそう)

東京都新宿区西新宿四丁目近辺の旧地名

東京都新宿区西新宿二丁目にある熊野神社は新宿総鎮守

室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎(中野長者)によって応永年間(1394-1428)に創建されと伝えられている。鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。

鈴木九郎は当初自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。(Wikiから要約)

江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれた。


十二所権現

熊野三社に祀る12の権現。

三所権現(本宮、新宮、那智の熊野三社)

五所王子(小守の宮・児の宮・聖の宮・禅師の宮・若王子)

四所明神(一万の宮または十万の宮・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛童子)


熊野三所権現

熊野本宮大社 和歌山県田辺市本宮町本宮     家津御子大神(けつみこ)には阿弥陀如来

 熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮        速玉大神(はやたま)には薬師如来

熊野那智大社 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山 牟須美大神(むすび)には千手観音


祭神の一般名称

熊野本宮大社 主祭神・磐長姫(いわながひめ=阿加流姫・耀姫 あかるひめ)

熊野速玉大社 主祭神・速玉男命(はやたまお=大幡主 おおはたぬし)

熊野那智大社 主祭神・熊野夫須美命(ふすみ=元伊弉冉尊 いざなみ)

阿須賀神社  主祭神・事解男命(ことさかお=金山彦 かなやまひこ)


■境内社

境内社は、本殿の左に粟島神社(少名彦神=事代主)、本殿の右に天満神社(菅公)が配置されています。粟島神社と天満神社は摂社の配置です。右手の摂社天満神社が格上となります?

境内右手に社日神社(しゃにちしゃ 祭神・大幡主)、薬師神社(大国主)と事代主ファミリーが祀られています。境内社では天満神社が格上となります、おかしいです。天満神社の祭神は本当に菅公でしょうか?菅公ご先祖の天穂日命(豊玉彦=豊玉姫の父)では?

天満神社の祭神は天穂日命(豊玉彦)だったり、埴安彦(大幡主)だったりします。かならずしも菅公とはかぎりません。

明治になり、崇神天皇の父であり大物主の大山咋神が主祭神となり、社名を日吉神社と改めています。主祭神が大宮売神の豊玉姫から大山咋神へと様変わりしたことになります。

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https://ameblo.jp/kenbuncho2017/image-12683081452-14963682778.html右手は薬師神社(大国主) 左は社日神社
薬師神社は医薬の神様とありますので、祭神は大国主でなく事代主では?右手は九州新幹線高架です

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本殿右から神門を見る、左は社日神社

  

■右三巴紋と十六菊紋

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荒木家の家紋は五三桐紋で、大幡主か神功皇后に関係しますが、事代主の流れから大幡主に関係します。
鬼瓦の社紋は「右三巴紋」で由緒に記載の應仁天皇の紋ではありません。正八幡・大幡主の紋章でしょうか。または、荒木家の表家紋でしょうか?
その下には「半菊に波紋」です。紋章の所有者がわかりません。
参考までに「半菊に一字紋」は一言主(七郎天神・事代主)の紋章です。
拝殿の唐破風には「右三巴紋」「十六菊紋」です。十六菊紋は豊玉姫の紋章の可能性があります。

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領主荒城朝臣が承平年中(931937)に大宮明神(豊玉姫)を祀り創建しています。筑後の神社の創建時期としては比較的新しい神社になります。

 荒木は古代から開けたところです。西に大善寺玉垂宮、御塚・権現塚古墳があります。南は広川が流れ、広川丘陵は八女古墳群です。

 荒木しず姫は西暦300年後半の人です。荒城氏の日吉神社の前に荒木しず姫を祀る古宮があってもおかしくありません。荒木しず姫の痕跡を見つけることはできませんでした。

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https://ameblo.jp/kenbuncho2017/image-12683081452-14963855850.html

久留米市荒木町荒木の航空写真(1961-1969)

  

■荒木・日吉神社の神門前の門神様

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https://ameblo.jp/kenbuncho2017/image-12683081452-14963683249.html

門神社の日吉宮(左側 大山咋)と山王宮(右側 猿田彦)


日吉神社にしては珍しく門神社が配置されています。神門手前の両側に門神社が対面して配置されていました。山王宮と日吉宮の門神社(もんがみしゃ)です。長田の山王宮日吉神社(福岡県朝倉市長田)の「山王宮日吉神社」の名称は、この門神社から来ていました。
荒木の日吉神社も同様の由来でしょうか。本殿の主祭神を大山咋神とすると祭神がタプッテ祀られていることになります。主祭神を大宮売神の豊玉姫とすると自然です。
門神社の代表例は大善寺の玉垂宮に見られます。

大善寺玉垂宮の楼門前の東西坂本社(門神社)

無題.png

門神社は坂本神社の一部です。
坂本本社 坂本命
東坂本社 櫛岩窓命(くしいわまど) → 日吉神() → 大山咋の神(海幸彦の子)
西坂本社 豊岩窓命(とよいわまど) → 山王神() → 猿田彦大神(山幸彦)


百嶋神代系譜・天忍穂耳命・崇神帝・五十鈴姫 神代系図2

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■思いっ切り仮説
日吉神社由緒の祭神「大宮明神」を大宮売神の豊玉姫としました。
それで、本殿の主祭神は大三輪明神(事代主)と母の豊玉姫となりますが、「大宮明神」を大宮五十鈴姫と考えたならば、本殿の主祭神は事代主と五十鈴姫であり、五十鈴姫は荒木しづ姫であり、その荒木しづ姫の父親が荒木武彦であり、荒木武彦は事代主となります。
結果、本殿の主祭神は荒木武彦(事代主)と荒木しづ姫(大宮五十鈴姫)の親子を祀ることになります。
荒木氏が事代主の子孫であることを考えると、荒城朝臣が久留米市荒木町荒木に、その先祖である事代主と大宮五十鈴姫を祀ることはなお自然となります。

日吉神社由緒の「荒城朝臣、大三輪明神を安置し、大宮明神と斎き祭り」の「大宮明神」は大宮五十鈴姫だったのです。十六菊紋は皇后の五十鈴姫紋章となります。
すると、この日吉神社は事代主ファミリーを祀る神社となってすっきりします。
そして、崇神天皇の皇后は五十鈴姫であり、別名、荒木静姫です。久留米市立荒木中学校

無題.png

荒木には歌手の松田聖子(本名蒲池法子)さんの出身校の荒木中学校で、近くに荒城氏ゆかりの日吉神社の近くです。聖子さんは旧柳川城の城主だった蒲池氏のご子孫です。
 「蒲池法子」名の校門寄付者名盤があります。


紙数の問題からここでは転載のみとして、次ブログでコメントを加えます。(古川)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年08月24日

909 松田聖子姫は初代神武天皇のお妃の後裔か “九州王朝論者でも誰も知らないお話” 上〜

909 松田聖子姫は初代神武天皇のお妃の後裔か “九州王朝論者でも誰も知らないお話” 上〜

20210907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この話は、前ブログ 908 「宮原誠一の神社見聞牒」(176)からの転載 “荒木しず姫(五十鈴姫)の地は荒木の日吉神社か”の続編とお考えになって結構です。

 宮原氏の緻密なお話に続けてこれからお話するのはオチャラケた好い加減な話に受け取られるのは転載させて頂いた手前同氏に申し訳ないのですが、最後はかなり重要な内容に繋がりますので、ご辛抱の上お読み頂ければと考えています。

宮原誠一氏は“久留米市荒木町には荒木しず姫(五十鈴姫)を祀る神社はありません”とされています。

 それはそれで良いのですが、実は百嶋神社考古学の研修所がある大分県日田市の中川駅と天瀬温泉駅(JR九大線)の間に筑後川の支流玖珠川の川沿いにこの五十鈴姫を祀る神社があるのです。

 これについては以下で書いておりますので興味がおありの方はお読み下さい。以下、部分を再掲載


 ひぼろぎ逍遥

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贈)崇神天皇のお妃五十鈴姫を祀る神社が日田市天瀬町にある



福岡県の久留米市から大分県日田市を抜け別府、大分方面に向かう久大線沿いに走る国道210号線の傍らに五十鈴姫神社があります。

無題.png
無題.png

無題.png伊勢の五十鈴川は知られていますが、古代史に五十鈴姫が登場します。


ヒメタタライスズヒメ

ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)は、神武天皇の皇后である。

神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになった。

『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記し、別名、「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)としている。

皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹きを指したり、その時に用いられる道具を示す場合もあり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある東部出雲(島根県松江市、安来市、奥出雲町を含む)地域であったことを物語っていると考えられている(加藤義成『古事記参究』素行会(1986年)など)

ウィキペディア20170131 19:20 によ


無論、百嶋神社考古学の洗礼を受けた者が、このような神代系譜を真に受けている訳ではないのですが、この系譜に登場する初代(1)神武天皇に第10代贈)崇神天皇を偽装したい藤原の意図が透けて見える構造となっているのです。

 その話に踏み入る前に、まず、境内を見回すと、何故か花梨の木が二本神木宜しく植えられていました。

 また、他地区からの持ち込みの可能性もあるのですが、久留米水天宮(天御中主命)、お稲荷さん、密教法具を持った僧形の像も置かれていました。

無題.png

この水天宮、稲荷が元々の祭神だった可能性もあるのですが、今のところ何とも言えません。

まず、この五十鈴姫は初代神武天皇のお妃などでは全くなく、贈)崇神のお妃と考えています。

無題.png贈)崇神の息子に豊城入(ニュウ)彦がいます。当然、豊の国にいたのです。百嶋先生は、“後に、久留米市豊城に入って住んでいた”と、話されていました。

そして、大分と久留米を繋ぐ街道筋に、その母(義理?)であり、贈)崇神のお妃を祀る神社があってもおかしくはないのです。

そして、元々あった水天宮や豊受大神(稲荷さん)を押し退けても、これまた、おかしくはないのです。

現段階では現地の神社の聴き取り作業ができていないためこれ以上の事は書けませんが、百嶋先生が作成された「荒木の静チャン+チビッ娘鮎チャン系譜」を見て頂きましょう。

少し小さい場合は縮尺を150%に上げて見て下さい。

無題.png

百嶋由一郎「八女津姫系譜」A


豊城入彦の母親とは違いますが、同じく贈)崇神のお妃である五十鈴姫(別名荒木の静チャン)は、事代主(古々代ヘブライ系)と活玉依姫(母=鴨玉依姫、父=大山咋)の間に産れているとします。

この五十鈴姫の娘国片姫も開化の側室になり、九躰皇子の四人を産んでいるようで、今のところ、この系統が後の九州王朝の正統皇統仁徳天皇など九躰皇子の五人の系統を脅かしていったのではないかと考えています。

系譜を見られれば分かる事ですが、この五十鈴姫をお妃とした贈)崇神(所謂神武僭称偽神武)はニニギの系統の古計牟須姫と贈)孝安天皇との間に産れた三沼君(三潴)の妹チビッ娘鮎チャンも妃としていますし、「景行紀」に登場する八女津姫について“いつも山中におられます”と言う猿大臣(海)=大海姫も妃としているのです。

チビッ娘鮎チャンとか荒木の静チャンとかおちゃらけた名称で馬鹿にされる方もおられるかも知れませんが、まず、郷土史、神社伝承と言ったもので、そのように呼ばれていたというものを知らないため、これ自体は、百嶋先生のおふざけかなとも考えています。ただ、後でこの事だったのかと気付かされるところが多いため、何らかの根拠がある可能性も捨て切れません。

チビッ娘鮎チャンは子供の頃の愛称としても、百嶋先生が、五十鈴姫を何故「荒木の静チャン」と呼んでいたかについては、この間考えあぐねていましたが、最近になって、当会の百嶋研究に精通したU女史が一つのヒントを与えてくれました。

それは、「静チャンをズズー弁で言って見たら分かりますよ…」だったのです。

「シズ」は「スンズ」ですね、それが、後に、五十鈴姫の「スズ」に置き換わった可能性、若しくは、元々、久留米市荒木周辺でも「スンズ」と呼ばれていた事さえも考えても良いのかも知れません。

当然ながら、雲州、伯州、つまり、島根県、鳥取県の辺境部を中心に東北の所謂ズズー弁に相当する言語特性が確認されている事はかなり知られています。

さらに、百嶋先生の講演録にも天草の一部に、ズズー弁に近いものがあったような話もされており、普通は、荒木の「シズ」チャンが、畿内から東日本で「スズ」チャンに置き換わったと考える方が合理的ではあるのですが、九州にもかつてズーズー弁が存在した可能性を鼻から排除する気にもなりません。

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百嶋由一郎「八女津姫系譜」 @


無題.png今回は、初代神武天皇を僭称する贈)崇神天皇の一人の妃(五十鈴姫)の子=国片姫が九州王朝の高良玉垂命(開化)の妃として入り九躰皇子の四人(側室腹)を産んでいる可能性がある事を知って頂くだけにしておきます(百嶋先生は、崇神は神功皇后、開化よりかなり高齢の臣下だったと話されていました)。なお、関東にも五十鈴姫神社がかなりあるようです。

さて、ここから宮原誠一氏も取り上げられた歌手の松田聖子姫のお話にしたいのですが、残念ながら紙面が不足します。


九州には蒲地姓の方がおられますご覧のとおり「姓名分&ランキング」でも歴然としています

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蒲地は「カモチ」とも「カマチ」とも呼ばれますが暫く国会でも耳目を集めた鴨池さんもその流れかも

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どう見ても九州の氏族であり、松田聖子さんも生粋のそれも九州王朝の本拠地の一つ久留米市の名家の出自であることが分かるのです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記