2022年08月09日

904 筑豊から消された諏訪神社 B  “事代主命再考” 「事代主のブログ」氏と伴に

904 筑豊から消された諏訪神社 B  “事代主命再考” 「事代主のブログ」氏と伴に

20210831

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


事代主と言えば、島根県松江市美保関町美保関608が著名であり全国三千社と言われる恵比須神社の総本山が出雲の美保関にあります。美保神社です。この外に事代主神社、恵比須神社、西宮社…があります。

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故)百嶋由一郎氏も博多から北九州だけでも1000基近い恵比須さんが祀られているだろう…と言われていました。九州では直接鳥居、社殿を構えた恵比須系神社は少なく、大半は商売繁盛のシンボルとしての石像神が大半の様で、立派な社殿を持った神社は飯塚市の高宮八幡宮の境内社、国東半島、朝倉市甘木などで散見される程度です。

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まず、三穂津姫良くが分からないのですが、高御産巣日神の御子。『日本書紀』によると、出雲国譲りの後、高御産巣日神が大物主神に、 もし国神を妻とするならば、あなたが心を許していないと思う。 だから私の娘の三穂津姫をあなたの妻とし、八十万神をひきつれて、皇孫のために護り祀れと云った。”

敬愛する「玄松子」氏より

 高木大神から事代主への強烈な懐柔工作が行なわれているようなのですが、元々、事代主は土地を基盤としているのではなく、神社を中心に商を行なう通商民、商工業者集団であって、土地、国土には経済基盤を置いていない集団だったのです。

これで、事代主が高木大神系に寝返っている事が良く分かるのです。

 そもそも、三穂津比売自体がむしろスサノウとの関係が想定されるものであり、高木大神の子ましてや天津神系などというのは大嘘に思えるのです。

美保神社はウィキペディア氏が言われる様に単独祭祀が正しかったのでしょう。


美保神社 『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものと見られる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210815 10:07


さらに神屋楯比売命も厄介なのですが、国幣中社に列せられ戦後も別表神社なのですから無視する事はできないのです。


神屋楯比売命 『古事記』に登場する女神で、大国主神の妻の一柱。名前だけの記述で、親神や神格などは一切不明。

ただし『先代旧事本紀』では高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としているので、この伝承によれば多岐都比売命と同一神ということになる。また『日本書紀』には登場しない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210815 10:52


大国主命が市杵島姫と豊玉姫を妃にしていることは重々承知しており、それ以上に、往古、宗像大社は大国主命と少彦名命を祀る神社であった事も探査の重要ポイントとして各メンバーが苦闘されているのですが、神屋楯比売命までが大国主命の妃だったとは今までの認識を書き換えられそうです。これは一応は保留しますが、多岐都比売命となるとただ事ではなくなりそうです。それは、この女神こそが下賀茂神社の主神である鴨玉依姫に当るからです。

 さて、同社HPによれば、事代主命は神屋楯比売命こと鴨玉依姫と大国主命の子であるとされているのです。

 これも高木大神系の主張はいつも誇張が多く偽装が多いと言う印象を持ちますのでそのまま受け入れることはできないのです。

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依然として事代主の素性は不明です
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百嶋由一郎008イヨ神代系譜(部分)


どうも事代主という人物についてはハッキリした情報が少なく、これ以上の解析ができないのですが、易々と国譲りを受け入れてしまうなどやはり商売人という印象を拭えません。

 無題.pngこれも百嶋由一郎氏から聞いた話ですが、百嶋説では事代主は古古代ヘブライ系の人物で、元々、非常に古い時代(同氏の説では起源2000年前〜)に列島に入っている種族だった。 彼らは神農様を祭り、縁日などで物品を販売する権利を持つ集団だった。俗に的屋と言われるもので、固定した店舗での販売が多数派になるまで、縁日での販売による収益というものは非常に大きなものだったのです。そして、昔は良くこのテントの奥などに神農さまを祀っていたと言われていたのですが、最近はそれも減っているようです。この集団は「男はつらいよ」フーテンの寅にも散見されるものですが、古代から近代までかなりの影響力を持っていたのです。


的屋とは、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。 香具師、三寸とも呼ばれる。また、職業神として元々は中華文明圏より伝わり、神道の神となった「神農の神」「神農黄帝」を祀ることから、神農とも呼ばれる。


神農(しんのう)、炎帝神農(えんていしんのう)は、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたという。神農大帝と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。薬王大帝(やくおうたいてい)、五穀仙帝(ごこく無題.pngせんてい)とも。

神農は医療と農耕の知識を古代の人々に広めた存在であると伝承されており、その名は最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)の書名にも冠され残されている。

伝説によると神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。そのために薬草と毒草を見極めようと神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した。神農の体は頭部と四肢を除き玲瓏透明で、内臓が外からはっきりと見えたという。もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたという。その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まってしまい、最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという。四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだともされる。

神農は初代炎帝ともされる。初代炎帝は、古代中国の王で、姓は姜。120歳まで生き、長沙に葬られたといわれている。もしくは陳に置いていた都を魯に移し、140年間在位したとも伝えられている。『帝王世紀』には五弦の琴を発明し、また伏羲の作った八卦を2段に重ね、さらに研究して8x8の六十四の卦を作ったとある。神農の末裔たち炎帝神農氏は黄帝との衝突ののち合併・融合した。この子孫が後の漢族とみなされている。西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。

伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、『国語』には、炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったとある。また『帝王世紀』には、神農は、母が華陽に遊覧の際、龍の首が現れ、感応して妊娠し姜水で産まれ、体は人間だが頭は牛の姿であった。火の徳(木の次は火であること、南方に在位すること、夏を治めること)を持っていたので炎帝とも呼ぶ。とある。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210824 16:07


祭り、縁日とくれば、今は、焼きそば、綿菓子、烏賊焼き…が相場ですが、江戸期までは、作物の種、農薬、普通の薬、農耕用の鎌、鍬、鋤…などが中心で、まさに移動ホーム・センターの様な役割も持っていたのです。これがエベス様が商売繁盛の神様とされ、国譲りに抵抗した建御名方と異なり土地を奪われる事に執着しない理由だったのかも知れません。実は、9月にメンバーのS氏「事代主」のブログ管理者と出雲の美保ケ関の美保神社に行く予定を立てています。

 神社研究の専門家だけに一緒に行けるのはこの上ない機会であり、いつも行うトレッキングは下調べをしたうえでガイドを行なっているのですが、二人だけで機動的な調査を行なえることは有難い限りです。

 今回書いているものは下調べに近く、30年以上前に一度参拝しただけの神社ですので、実質は初見のようなもので、何か発見できればと思っています。勿論、私のテーマは、前述の以下の内容です。


神屋楯比売命 『古事記』に登場する女神で、大国主神の妻の一柱。名前だけの記述で、親神や神格などは一切不明。ただし『先代旧事本紀』では高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としているので、この伝承によれば多岐都比売命と同一神ということになる。


 大国主命は鴨玉依姫を妃にしていないという理解をしていましたので、それで良いかを確認する事がテーマになりそうです。

 ただ、国譲りにいともたやすく了解していることから、国譲りの現場は福岡県の旧朝倉郡と考えてはいますが、何らかの糸口でも掴めないかと思うものです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年08月12日

905 筑豊から消された諏訪神社 C  “事代主命再考” 大国主命の長子という振れ込みについて

905 筑豊から消された諏訪神社 C  “事代主命再考” 大国主命の長子という振れ込みについて

20210904

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


事代主命の素性はあまり知られてはいません。僅かながら百嶋由一郎氏の神代系譜(前ブログで公開していますが)にその片鱗を確認出来るものがありますので確認しておこうと思います。

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勿論、事代主神社として検索していますのでこれくらいの数でない事は確かであり、境内までの道を数百人が走り歳男を選ぶと言う有名な兵庫県の西ノ宮恵比須神社も事代主を祀る神社であることは言うまでもありません これもグーグルでは拾っていません


念のために恵比須神社でも福岡県の分布を見ておきたいと思います

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古古代ヘブライ系ですので、一応、東北も見ておきましょうこの一帯の主な恵比須神社の分布

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904 筑豊から消された諏訪神社 B  “事代主命再考”「事代主のブログ」氏と伴に に於いて、恵比須 様は古々古代ヘブライ系の民族であり、商売人であったという話をしました。

今日だからこそ多くの小売店、大型小売店が幅を効かすようになっていますが、古代、神代は元より江戸期まで都市部を除いて小売店などは少なく、祭りの縁日などに神社の参道での販売、購買が一般的で、そこでの売り上げと言うものは非常に大きく、神社もキックバックも得られ共存共栄の関係にあったのでした。

従って、この恵比須の一族は土地に根差した経済ではなく、ましてや国土開発などと言う物からは遠く離れた集団だったのです。

従って、商売の権益さえ保障(補償)され金儲けさえ認められれば、国がどうなろうが関係ない集団だったのです(まるで竹○平○の様な○国奴ですが…それは古くから列島にもいたのでした)。

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当然にも、美保ケ崎周辺にも恵比須神社は大きな分布を示しています。

 今回は、分布を確認するため図表だけになりましたが、では、何故、商売人としか思えない神代、古代以来の商人が鯛を脇に抱え込み釣竿を持ったスタイルで祀られ、しかも、大国主と並ぶ恵比須、大黒像が複合体としてセットで普及したのでしょうか?

 これについてはまだ目途が付いていませんが、「メンバーの事代主のブログ」氏から新たな情報が入りました。その内容は百嶋神社考古学から外れ、グループとしては容易に受け入れがたいものではあるのですが、さらに掘り下げる価値ある物になるのかも知れません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年08月15日

906 中国山地の奥深く息づく謎の神社への下調べ “周南市須万秘密尾の氷見神社”

906 中国山地の奥深く息づく謎の神社への下調べ “周南市須万秘密尾の氷見神社”

20210828

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


北九州市を中心に活動を続ける丁巳歴史塾との接触からもうすぐ二年になろうとするのですが、当会のメンバーであり百嶋神社考古学研究の同志でもあるS氏(「事代主のブログ」編集者)と出雲崎の美保神社への調査旅行の計画が持ち上がりましたので、私の希望を入れ周南市の氷見神社を見たいと思い下調べを始めることにしました。

無題.png この神社は丁巳歴史塾のメンバーである夢野良平氏の著書(海鳥社)に出てくるもので、私も彼の二著を読んではいたのですが、「旅に出て考える」の51ppに半ページほどしか出てこない神社であることから、夢野氏と電話で話していてこの神社の事が出て来てもとっさには思い出せずにいたのでした。

 当然、未踏の山深い集落のそのまた奥にある神社であることから、出雲崎への道すがら見に行こうと思いたったのでした。

 S氏の了解も得た事から、この怪しげな名の地区にある神社を調べることにした訳です。

 まあ、怪しげなとは言ったものの、氷見神社が氷見ツ尾(ツは所有の格助詞の一つ)に在るとされるのは理がある事で、普通は氷見という現地地名から氷見神社とするのですが、氷見とは能登半島の氷見のはずであり、社名の起源はここに在るはずなのです。

 従って、秘密尾とは氷見神社のある谷程度の意味で、それを謎めかして秘密尾と呼んだか、ある種禁制の地としたかであるでしょう。

 とは言ったものの、現在、石川県の氷見市に氷見神社はなく、始めから決め付けるのは早計であるはずです。まずは、現地を見てからとさせては頂きますが、何とウィキペディアにもこの僻陬の地の神社の情報が書かれていたのです。まあ、これほど山深い神社の情報がアップされている事は、周防ではかなり重要な神社であるのかも知れないのです。そう考えると全国(埼玉、川越、富山)に氷見神社が分布している事にも多少は合点が行くのです。


氷見神社(ひみじんじゃ)は、山口県周南市須万秘密尾(すまひみつお)にある神社。祭神は、闇於加美神ほか。平安時代の歴史書にもその名を残す由緒ある神社で、貞観9年(856年)に須万村秘密尾に創建されたと言われている。旧鹿野町東部の秘密尾にあり、標高1000m級の中国山地に抱かれている。「露嶋宮」とも呼ばれ、若宮のほかに、山の中腹に中宮があり、山全体を上宮としている。上宮である奥社は今でも女人禁制である。禊の行場としても有名で、明治時代には神道家の川面凡児がここに籠り、神道の修行法を編み出したと言われている。現在でも山口県下の神官たちの禊ぎ行場として使われている。 2月に元旦祭、4月に春大祭、祈年祭、7月に夏祭、11月に秋季例大祭、新嘗祭が行われる。伊勢神宮同様、「遷宮祭」も20年ごとに行なわれており、二つの御社地の宮を交互に建て替えている。山口県下で遷宮を行なっているのは氷見神社だけである。前回の遷宮祭の時はすでに過疎化が始まっていたが、出身者が集まって遷宮を取り行なった。

20210828 11:36による

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手元には「山口県神社誌」もあり、本来はこれを優先するべきでしょうが、まずは夢野氏の全文からご紹介しました。

 次は「山口県神社誌」411pからですが、クラオカミ(スサノウの姉)だけではなく、アシナヅチ+テナヅチの夫婦神が祀られています。

 これで、神社の性格が非常に鮮明になりました。

 このお二人は、製鉄神であるアシナヅチ=金山彦(カグツチ)、テナヅチ=埴安姫(博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ)でその娘が櫛稲田姫になる訳で、スサノウのお妃になるのです。

 ただ、これは象徴であって、実際には山陽、山陰の製鉄地帯の三宝荒神に繋がる神武天皇に楯ついたナガスネヒコ(スサノウの子=金山彦の孫にあたるイスラエル系製鉄集団)までを見るべきなのです。

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ここで面白いのは、この氷見神社の鎮座地が周防の旧都濃郡であることです。もうお分かりかも知れませんが、この都濃郡とは北に延びた日向の一の宮都農神社(宮崎県児湯郡)でもあることです。

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都農神社(日向の児湯郡)の表面的な主祭神は大国主命(大山祗の子であり櫛稲田姫の兄)

 氷見神社(周防の都濃郡)の主祭神は神俣姫(実は蘇民将来伝承に登場するクラオカミでありイザナミ、イザナミの娘でスサノウの姉)

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百嶋由一郎最終神代系譜(上)、005アイラツヒメ神代系譜(下)

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氷見神社 カーナビ検索 山口県周南市鹿野須摩秘密尾


未踏の神社ですので当然にも写真はありません。

 こちらも良く利用させて頂く 無題.png の記事「氷見神社 山口県周南市須万秘密尾」の現地動画から切出させて頂きました。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記