2022年08月01日

901 周防の防府天満宮訪問への下調べ 

901 周防の防府天満宮訪問への下調べ 

20210613

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 周防の国とは何なのか?周は周王朝の「周」ではないのか?と言った話は置くとしても…山口県の瀬戸内海側のほぼ真ん中に在る防府市周辺の神社を見て廻った事がなんどかあるのですが、防府市内でもまだ見ていない神社を少し潰して見たいと言う思いが募っています。

 それは、大分県の国東半島から防府に掛けての一帯が九州王朝の濃厚な痕跡が尚も残る地域だと思うようになってきたからです。

 前回の防府訪問では玉祖神社を軸に関連する神社56社を見たのですが、まだ、さわりだけと言った所で、今後もフィールド・ワークの必要性を感じているところです。

 この防府でその荘厳さ豪奢な造りという点では際立っている一社防府天満宮を見ていなかった事に気付き、これは見ておかなければならないと思い、神社の真相、古層…などと言った話は棚に揚げ、向こう任せで探索に入ろうと思ったのでした。

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「山口県神社誌」を掲示するのは容易ですが、まずは地元中心に情報を拾って見ましょう。


防府天満宮(ほうふてんまんぐう)は、山口県防府市松崎町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社

道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗る。かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが1873年に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称。戦後の1953年には防府天満宮と再び改称した。道真が宮中での権力争いで失脚し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、日本三大天神と言われている。

防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた都市であり、年間を通して天満宮の行事での来訪者が多い。また市外からの来訪者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録している。有名な祭りとしては2月の牛替神事(うしかえしんじ)と11月の御神幸祭(ごじんこうさい)が挙げられる。御神幸祭は別名裸坊祭(はだかぼうまつり)ともいい、約1トンある御網代(おあじろ)を引っ張って、行きは表参道の大階段を下り、帰りは表参道の階段を上っていくという危険なことをするために、毎年怪我人が絶えない。また牛替神事は、天神様の乗られる牛車を引く牛を取り替えるということでの儀式である。その他、83日から5日までは、道真の生誕を祝う御誕辰祭が行われる。夜には1000本あまりの蝋燭に火を灯した万灯祭献灯で表参道が飾られるほか、最終日には防府天満宮夏祭り大花火大会も行われる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210626 07:34より


まあ、我々百嶋神社考古学の者にとっては、この手の神社は道真逃亡をカモフラージュする偽装神社と考えており、ご本人は海路阿久根に上陸し薩摩の川内市の山奥の現藤川天神に落ち延びたと考えているのです。これについては以下をお読み下さい。

まあ、牛車が動かなくなって死んだなどと言った話を信じたい宣伝したい方はそれはそれで良いでしょう。


ひぼろぎ逍遥

603

菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神への

10人トレッキング準備資料 A

602

菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神への

10人トレッキング準備資料 @

19

道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!


スポット019改) 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!

20200731改訂(20131227

鹿児島県は薩摩川内市の山懐深く、旧東郷町藤川の北野の丘に藤川天神(菅原神社)が鎮座しています。

全国の村々に鎮座する天満宮の一つならば気にも留めないのですが、この菅原神社はただならぬものを感じさせます。

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かなり具体的に、九〇一年出水に上陸し阿久根市田代を経て藤川にたどり着き余生を全うしたとあります。

阿久根市田代経由なら横座峠の山越えのルートですね。千百年前なら非常な難路だったことでしょう。

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参道             お手植えの臥龍梅          


この神社の存在は以前から知っていましたが、「ひぼろぎ逍遥」スタートにあわせ、ご紹介するものです。

まず愕くことに、ここには墓所があります。太宰府は若い時の墓で、こちらが年取った後の墓という落語のような話はありえないので、当然ながらここで余生を過したことになります。

もちろん、太宰府天満宮は絶対に認めないでしょうが、これを裏付けるような話を複数知っていますので、改めてご紹介いたしましょう。

まず、大分県の九重町になりますか、法善寺温泉や川底温泉などがある一角から離れ、小国に抜ける途中の左手に大きな鳥居のある集落をご覧になった方もあるかと思いますが、そこが菅原です。

ここには、藤原の刺客を逃れて道真が隠れ住んでいたという話があります。

また、十数年前まで大濠公園付近で活動していた旧草ヶ江神代史研究会の某研究者から聞いた話ですが、この菅原集落に隠れ住んでいた時期に、恐らく地元の豪族の娘がお世話をしたのでしょうか?道真の血を受け継いだ人がおられ、今もその家系は数家族福岡市内の某地区に住まわれていると言うのです。

もしかしたら、このブログをご覧になって連絡しておいでになるかも知れません。

道真公の娘の血を引く家系(梅野家)は実際に現在もみやま市の女山辺りにおられますが、それ以外にも道真の直系の方々が世を憚って生きておられることになるのです。

どこの地区かまではお聴きしましたが、具体的にどなたか(複数)までは聴いてはいません。

安徳帝にしても入水したのはダミーでしかなく、実際には一旦対馬に逃げ、後で奄美に逃げたという話がありますし、久留米市には安徳姓の方が大量に存在します。


全国 181件 中、福岡県 106件、うち久留米市 64件 (HP「姓名分布&ランキング」調べ)


「薩摩に落ちた」という話は良く言われることですが、政変があるごとに、古代も含め、何度も何度も多くの政治犯、革命家、反乱者、避退者が薩摩に逃げ、さらに薩摩川内や串木野辺りから西へ、南へ、再び北へと逃げ続けたのではないでしょうか。

きっと薩摩にはそれを受け入れる海洋民族的な明るい大らかな気風があるのでしょう。

延喜3(903)年、道真は59歳をもって没した。遺骸を御笠郡内に埋葬しようとしたが、牛車が途中で動かなくなったことから、そこに埋葬したと伝えられ、それが安楽寺(天満宮)となった。

と言いますが、藤原家も知っていて逃がしたのかも知れません。死んだとなれば政治生命を失うことになり藤原家もそれで良しとしたのでしょう。

無題.pngもしかしたら、東郷町にも密かに菅原の血筋を持つ方がお住まいになっているのかも知れません。

話は変わりますが、経済的理由から地元の国立大学じゃないと進学できない。仮に東大に上がっても貧乏だから自宅から通える九大じゃないと進学できないといった優秀でも機会に恵まれない真面目な方は、こちらの道真公にお参りされてはいかがでしょう。道真公が合格させてくれるかも知れません。

なお、手持ちの高向嘉昭氏による「鹿児島ふるさと神社伝承」(南方新社)を読むと、土地の人がつたえるところによると、当初、道真公は上述のように、筑紫から薩摩に入り、出水を経て川内高城(たき)を過ぎ、この地に到着された。そして、当社の南六キロメートルばかりのところにある鳥嶺(とりごえ)の地から、この北野山の俗塵を離れた清らかな姿を望み、こここそが自分の終焉の地であると心に決められ、当社から三キロメートルばかり離れた小鷹というところに隠棲されたという。

その小鷹地区には宰府都(さいふと)というところがある。


読めないかもしれませんが、菅原道真公之墓(伝説地)と書かれています


また、この小鷹の中には宰府都というところがある。宰府都は当時道真公の従臣達が居住したところで、今に至るまでこの地の男女は眉目秀麗(びもくしゅうれい)で、醜い者は一人もいないといわれている。


と、あります。きっと、南北朝期の兼良親王の随行者五條家のような人達と逃げてきたのですね。

神社縁起によると、出水から田代ではなく、阿久根市の川内高城(タキ)温泉辺りから入り落ち着いたとなると、川内高城経由なら横座峠は通っていないかも知れませんね。


日本大百科全書(ニッポニカ)「防府天満宮」の解説


山口県防府市松崎町に鎮座。菅原道真(すがわらのみちざね)と、その祖天穂日命(あめのほひのみこと)・武夷鳥(たけひなとり)命・野見宿禰(のみのすくね)を祀(まつ)る。901年(延喜1)菅原道真は左遷され大宰府(だざいふ)へ向かう途中、当地勝間の浦に着船、時の周防(すおう)国国司土師信貞(はじのぶさだ)は同族であったので、これを迎え1日松崎の地に招いたことで、道真の薨後(こうご)すぐこの地に神廟(しんびょう)を建てたことに始まる。古くは松崎天神と称した。例祭125日、ほかに旧1015日の御神幸祭(裸坊(はだかぼう)祭)、2月節分日の牛替(うしかえ)神事など特殊神事が多く、紙本着色『松崎天神縁起』六巻(国の重要文化財)のほか、宝物も多い。                 [鎌田純一]


鎌田氏がお書きになっている通り、この神社の本質はカミムスビの第二世代、豊国主=豊玉彦=ヤタガラス、豊日別 の後裔氏族によって建てられた神社(氏子6000戸)なのです。

故)百嶋由一郎氏はヤタガラスの分流を神代系譜として残しておられます。

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百嶋由一郎004ヤタガラス系譜原本 百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この防府天満宮は天穂日命(あめのほひのみこと)〜武夷鳥(たけひなとり)命に繋がるナガスネヒコ系の神社であり、この天満宮を支える6000戸の氏子の相当数がこの系統の人々であろうとの推測が付くのです。

ちなみに鳥子の一族は武夷鳥、鳥子大神の二系統であり、直接的にこの天満宮は武夷鳥の流れを汲む一流だった事になるのです。

正しく、この防府、佐波の一帯はヤタガラスの支配する国だったのです。

「山口県神社誌」と「鳥取県神社誌」は非常に見やすく非常に使い易い良い編集ですが、いかんせん直ぐに調査に行ける場所でもなく、中々活用できない事が悩みです。

防府天満宮に関してはこの5倍の分量があり全てを掲示できませんが、周防の最奥中心部とも言うべき防府が如何なる国であったかが改めて理解できるように思うのです。

末尾掲載の地理院地図をご覧になれば、多々良山があり蹈鞴=多々良地名が拾えます。これも武夷鳥の曾祖父にあたる金山彦が製鉄神であった事を良く表しています。金山彦の子孫が代々製鉄を行なってきた事が良く分かるのです。

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境内神社について愛宕社が不明とされていますが、イスラエル系(秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ)金山彦=カグツチであり、武夷鳥にとっては曾祖父にあたる人物なのです。

それを打ち消してまで、防府天満宮を防衛しなければならなかった事は悲しむべき事ですが、玉祖神社の祭神が忘れられ(博多の櫛田神社の主神大幡主=カミムスビ)、同社の祖である金山彦が忘れられる事に歴史の悲哀を感じるばかりです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年08月03日

902 筑豊から消された諏訪神社 @ “福岡県添田町諏訪神社の由緒には大国主はこの地で開拓したと”

902 筑豊から消された諏訪神社 @ “福岡県添田町諏訪神社の由緒には大国主はこの地で開拓したと”

20210811


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 現在、筑豊でも彦山の北麓に鎮座する筑豊で唯一と言っても良い諏訪神社(添田町)と彦山南麓(旧朝倉郡:甘木+朝倉+杷木…)に於ける60社近い田神社の無格社への格下げ(ここでも一社が村社として残されている)事実上の消失との奇妙な付合を考えています。

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この図面は福岡県 諏訪神社 をグーグルで検索し表示させたものです。

一見すると福岡県を万遍なくカバーしている様に見えますが、大きな空白がある事に気付きませんか?

 青枠のエリアがその空白地帯なのです。

 その中心部にあるのが添田町の諏訪神社ですが、この一社を外せば完全な空白地帯が出現するのです。

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この事に気付いたのはつい最近でした。初めて参拝したのは10年近く前の事でしたので、やはり経験を積まないとこういうことは分からないものなのでしょう。

 ともあれ、この一帯には大国主命の臣下として(決して次男などではないのです)国土の開発に尽力した建御名方系の人々がいたはずなのです。

彼らは大国主命国命の譲りの結果、肥前や(長崎供日の諏訪大社は元より佐賀県も諏訪神社が多い所です)日向に逃げ(特に鹿児島県は南方神社が異常に集中しているのです 勿論、諏訪神社もあり知り合いの宮司もおられます)たように見えるのです。

 ただ、神話では信州諏訪の四つの諏訪社があまりにも有名で、諏訪から出ない事を条件に許されたなどとされているのです。

 これは、一部この一帯に逃れた人々が居た(建御名方もそうかも知れません)事は間違いがないと思うのですが、大半の民衆は陸路で逃げる範囲に逃げるしかなかったのです。

 故)百嶋由一郎氏も彼らは球磨川以南に逃げたと言われていました。


無題.png朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。

ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。

文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。

中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

ひぼろぎ逍遥 スポット 041(前) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

 私は県神社誌で村社と書かれていましたので、一社を除き…としたのですが、甘木の「美風庵だより」氏によるとこれも無格社とのことで、現在確認作業をしています。地元の方ですので間違いはないとおもいますので、愕然としています。この草水の村社田神社は美風庵だより氏が言われるものとは違うのかも知れません。

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現地で鳥居の扁額を眺めると、「天満宮」です。どうやらここも、この周辺の神社同様、あとで菅公を勧請して「天満宮」に衣替えしているようです。おそらく、埴安命(大幡主)の記憶が薄れ、有名な菅公を前面に出すようにしたのでしょう。周囲には無題.png石仏や観音様を安置した御堂が建ち並んでおり、神仏が併せ祀られているかのような雰囲気です。[福岡県神社誌(抄)] 下巻413頁

[社名(御祭神)]田神社(埴安命)[社格]無格社 [住所]朝倉郡蜷城村大字鵜木字屋敷 [境内社(御祭神)]記載なし


 ともあれ、当方は ひぼろぎ逍遥 スポット 041(前) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @ で書いたように、残党の管理のために一社は残すのが定策と考えたとすれば、正しく添田の中元寺の諏訪神社もそのような性格を帯びた一社だったのではないかと考えているのです。

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当神社は大和時代前期与利より古事記に散見須留する豊前、豊後、筑前三国の水分中元司(早瀬川)彦山川流域の開拓神登志氐として大国主命尓に比氐いて瀬成大神と合計利氐治水、農耕開発・国土経営当良礼多られた出雲系氏族の氏神と崇米良礼められて…

と、大国主命は国土開発を彦山周辺で行っていた事を同社縁起は奇跡的に伝えてくれていたのでした。

 正しく感動的ですが、タカミムスビ系彦山48大行事社の専制下にありながら良くこの縁起を残してくれたものだと感服するものです。

 尚、「福岡県神社誌」によれば、田川郡内にはもう一社の諏訪神社(旧赤池村上野今殿)があります。

これは現福智町上野にあるのだと思いますが、これについては実踏していないため、中元寺が唯一と言

った勝手な表現をしています、逸る思いとご了解して頂きたいと思うものです。

 それほど中元寺の諏訪神社は立派かつ衝撃的であり、これは大国主命が現出雲の人ではなかった事を今に伝える証言と考えます。頭の片隅には残して頂きたいと思って止みません。


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「福岡県神社誌」下巻199p


一応、祭神についても説明しておきますが、建御名方命は良いとして、手力雄命はスサノウですし、蛭児命も事代主で良いでしょう。

分からないのが、片倉邊命です。聞かない神様です。失礼ながら、通常「片」が付くと恵比須系の人物である可能性が高く、もしかしたら事代主の別名を誤って取り込んでおられるのではないかと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

192

豊前の諏訪神社(添田町中元寺)への興奮


 この諏訪神社については6年前に訪問していましたが、当時は出雲の国譲りの話が九州で起こった事であるとまでは理解できていなかったため、何故、物部ニギハヤヒ軍団の本拠地に諏訪神社が孤立して在るのかと分かっていませんでした。

 この問題について初見の方は、以下をお読み頂きたいと思います。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

900

彦山西方の神々を考える個別編 E “小石原山上湖幻想と

高木神社の基層に国譲りを見た”


899

彦山西方の神々を考える個別編 D “小石原村で消された三つの無格社”

894

彦山西方の神々を考える個別編 C “彦山の祭神も

再確認しておきましょう”

893

彦山西方の神々を考える個別編 B “福岡県旧小石原村の

無格社3社”

892

彦山西方の神々を考える個別編 A “福岡県旧小石原村

中心部の高木神社(大行事社)”

891

彦山西方の神々を考える @ “福岡県旧小石原村”

768

出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対して

どうしたら関心をもって頂けるかと…A

767

出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対して

どうしたら関心をもって頂けるかと…@

762

出雲(旧朝倉郡)の国譲りの背景を考える

   

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

ビアヘロ022 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

ビアヘロ 101 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…

 次号では大国主命の国譲りが何故生じたかを考えることにしたいと思います。

 追補)

最後に建御名方が大国主の子などではない事を百嶋由一郎氏の金神神代系譜からご説明させて頂きます。

無題.png

百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


あくまで百嶋神代系譜によればですが、建御名方は草部吉見=海幸彦=ヒコヤイミミと自らが滅ぼした金山彦(イスラエル)系ナガスネヒコの妹=瀛ツヨソ足姫(武内足尼)との間に産まれた彦坐王の弟であり、その子が息長宿祢王になるのです。

 恐らくこの人物が、佐賀県佐賀市の(旧三瀬村)北山ダムに沈められ、二度の移転を経て残った野波神社の由緒に書かれる神功皇后の父神であり、大国主命の子などでは全くないのです。

 列島最古の古代王朝などと出雲神話に憧れるのはご自由ですが、ほとんど漫画でしかないのです。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

543

近江散歩 E 佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に

移動した人々について (縮刷版)


スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族 スポット173 亀屋佐京 などを…

903 筑豊から消された諏訪神社 A “彦山南北安定化作戦こそ三悪神葦原中津国制圧だった”に続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年08月06日

903 筑豊から消された諏訪神社 A  “彦山南北安定化作戦こそ三悪人による葦原中津国制圧だった”

903 筑豊から消された諏訪神社 A  “彦山南北安定化作戦こそ三悪人による葦原中津国制圧だった”

20210811

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


始め(初回の参拝時)は気付かなかったのですが、甘木〜朝倉〜杷木〜小石原の全体像が分かって来るに連れ、大国主命の国譲りとは、それを率先した天照大御神、正勝吾勝…こと草部吉見=海幸彦、タカミムスビこと高木大神という三悪人による葦原中津国=甘木〜朝倉〜杷木〜小石原に加え、大国主命の彦山北麓の筑豊の巨大穀倉をも確保し、彦山を中心として置かれた48大行司社による支配を企図したものだった事までもが見えてきたのでした。

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つまり、彦山の南北麓を安定化させ未来永劫北部九州全域を支配せんと企図した事までが見えてきたのです。48大行事制がいつ確立したかは不明ですが、その流れへの基本構造は見えてきたのです。私も20弱の大行事社を巡りましたが、以下は添田町作成と思われる彦山解説から48大行事社をご覧下さい。

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添田町  無題.pngより


カミムスビ VS タカミムスビ 戦争


皆さん異論をお持ちになる方が多い事は容易に想像できますが、“彦山の南北安定化作戦こそ三悪人による葦原中津国制圧だった”と前述しました。

何故、そう言えるかと言うと、出雲の国譲りの張本人である、天照大御神とその実行部隊であった武甕槌がどのような背景を持った人物(神々)であるかが理解できれば、葦原中津国の召し上げとは神代でも多くの勢力間でも特定の勢力による領土の奪い合いだった事が見えてくるのです。

 高木大神=カミムスビの神は良いとして、まず、天照大神、初期は大日靈貴(オオヒルメムチ)と呼ばれていましたが、彼女の父神が列島大率姫(ジー)氏は良いとして母神は高木大神の淑叔母であると百嶋先生は言われていました。

 この女神様は、現在も兵庫県姫路市の西数十キロの内陸部に在る佐用(サヨウ)町の佐用都比売神社の境内地内神殿裏手の最奥部に、天照御祖(アマテラスミオヤ)神社として祠が残されています。

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上)百嶋由一郎神代系譜イヨ系譜 下)百嶋由一郎極秘神代系譜(いずれも部分)

無題.png

詳しくは以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

725

佐用都比賣神社(兵庫県佐用町)の奥の院伯母宮は天照大御神の母神を祀る


つまり、天照大御神とは高木大神系の人物であり、頼りがいのない神武天皇に替わり神聖政治を仕切ったのでした その背後に居たのは高木大神だったのです


では、祭神の天忍穂耳命はどうでしょうか?非常に大仰な名で呼ばれていますが、「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」というのが正式名の神様で、天照大神の日継の御子であり、天孫ニニギノ命の父神にあたるとされています。

アマテラスの子でありニニギの父神という振れ込みになっていますが、正勝吾勝勝速日天之忍穂命の語尾に耳という尊称が付されていますので直ぐに阿蘇系氏族の一人であることが丸わかりとなっています。

カミヤイミミ、カムヌナカワミミ、ヒコヤイミミ…と良く知られた神様がおられますが、全て阿蘇に進入した中国大陸に展開していた黎族であり最期は雲南省麗江に追い詰められた、旧九黎族(苗ミャオ族もそうですが)の一派だったのです。

 この人物は阿蘇を弟の健磐龍に任せ東に北に進出しますが、彦山の高木大神に見込まれ、次女の栲幡千千姫命(タクハタチジヒメ)を妃とします。このことは人気が全くなかった息子のニニギに代わり事実上の高木大神系の後継者となった事を意味したのです。

 ただ、注意すべき点があります。本来ならば、建御名方は阿蘇系の人物と言えない事もないのです。

 それは、草部吉見=海幸彦とオキツヨソ足姫(神武に弓を引いたナガスネヒコの妹)との間に産まれた人物で、母が逆賊、朝敵の子としても父が草部吉見であることから彦山の高木大神も心配していなかったのかも知れません。

 ところが、彼は大国主命に心酔したのか実力に敬服したのか、大国主命の次男とまで言われる様になったようです。

 そうすると、彦山の南北の裾野は大国主系に占拠されてしまう事にもなりかねず、俄かに危険にさらされる事になったのでした。

 恐らく、この事が葦原中国=旧朝倉郡を日嗣(日継)の御子(皇子)である息子(勿論息子でもなんでもないのですが)のアメノオシホミミが支配するべき土地である…などと無理難題を持ち出したのでした。 

 何やら九段線を偽造し南シナ海の大半を自らの領域と主張するどこやらの国の様な事を言い出したのでした。

 お分かり頂けたでしょうか?これが葦原中国簒奪彦山三悪人説の大まかな根拠なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)下も同様


 では、もう一枚神代系譜をご覧頂きましょう。

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前述の通り、建御名方は草部吉見=海幸彦とオキツヨソ足姫(神武に弓を引いたナガスネヒコの妹)との間に産まれた人物で、本来、阿蘇系の人物のはずなのですが、ナガスネヒコの血がそうさせたのか、卑弥呼宗女イヨやウマシマジなどの筑豊の物部勢力との関係を強めた様に思えるのです。

 国譲りの結果、自らが開拓した筑豊を奪われるのですから、筑豊を最大拠点としていたニギハヤヒ(山幸彦)の後継者ウマイマジと繋がるのは理の当然であり、建御名方は事実上の物部氏を背後に背負って彦山に対抗したのではないかと想像するのです。

 無題.png建御名方に尊称としての大国主命の「主」が付されないのは、彼が大幡主系の人物では無かった事がそれだけで分かります。対して、兄とされる事代主には「主」の尊号が付されています。その理由は恐らく、事代主=大直根子、生井神が大山咋と鴨玉依姫との間に産まれた活玉依姫を妃としたことその姻戚関係に依って大幡主系氏族とされたからと考えられます。

 この「主」の称号を貰えない建御名方と貰えた事代主とが兄弟ではない事はそれからも推定可能ですが、そもそも事代主は、古々代ヘブライ系の人物であると百嶋先生からは聴いていました。

 トルコ系匈奴としての大国主命も、市杵島姫、豊玉姫という大幡主系のプリンセスを妃とした事によって「主」という称号を使っているはずなのです。

 この二人が兄弟であるなどと言った嘘話はもう好い加減にして頂きたいものだと思うばかりです。

 ただ、好色だった大国主の事ですから多くの側室はいたはずで、その意味では腹違いの兄弟かも。

無題.png

百嶋由一郎008イヨ神代系譜(部分)


今回、サブタイトルを“彦山南北安定化作戦こそ三悪人による葦原中津国制圧だった”としました。

 通常このような表現は避けるのですが、この出雲の国譲りによって高木大神系の天照、タカミムスビ、マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ=阿蘇高森草部吉見神、という高木大神系の三神が葦原中津国の国譲りを強要したと言う話はあまりにも横暴であり、その意味で三悪人と言う表現をしただけの事で、それ以上の意味はないのです。

 この考えは、自ら努力する事無く他人が多くの労力を投下し開発した土地を、単に自らの子が治めるべき国であるとして取り上げるなどという事は到底認められないのであって、中国共産党が南沙、西沙を勝手に埋立て、元々数百年も関心も実効支配もしていない土地を急に自らの国土と主張するのと同様になるでしょう。

無題.png

彦山川流域開拓神登志氐大国主命比氐


彦山川流域開拓神として大国主命いて

してみると、その北に宗像大社があり百嶋神社考古学では本来の祭神は大国主命(お妃は市杵島姫と豊玉姫)だったとするの符合するのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記