901 周防の防府天満宮訪問への下調べ
20210613
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
周防の国とは何なのか?周は周王朝の「周」ではないのか?と言った話は置くとしても…山口県の瀬戸内海側のほぼ真ん中に在る防府市周辺の神社を見て廻った事がなんどかあるのですが、防府市内でもまだ見ていない神社を少し潰して見たいと言う思いが募っています。
それは、大分県の国東半島から防府に掛けての一帯が九州王朝の濃厚な痕跡が尚も残る地域だと思うようになってきたからです。
前回の防府訪問では玉祖神社を軸に関連する神社5〜6社を見たのですが、まだ、さわりだけと言った所で、今後もフィールド・ワークの必要性を感じているところです。
この防府でその荘厳さ豪奢な造りという点では際立っている一社防府天満宮を見ていなかった事に気付き、これは見ておかなければならないと思い、神社の真相、古層…などと言った話は棚に揚げ、向こう任せで探索に入ろうと思ったのでした。

「山口県神社誌」を掲示するのは容易ですが、まずは地元中心に情報を拾って見ましょう。
防府天満宮(ほうふてんまんぐう)は、山口県防府市松崎町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、「日本最初に創建された天神様」を名乗る。かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが1873年に近代社格制度のもとで県社に列格し、松崎神社と改称。戦後の1953年には防府天満宮と再び改称した。道真が宮中での権力争いで失脚し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並んで、日本三大天神と言われている。
防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた都市であり、年間を通して天満宮の行事での来訪者が多い。また市外からの来訪者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録している。有名な祭りとしては2月の牛替神事(うしかえしんじ)と11月の御神幸祭(ごじんこうさい)が挙げられる。御神幸祭は別名裸坊祭(はだかぼうまつり)ともいい、約1トンある御網代(おあじろ)を引っ張って、行きは表参道の大階段を下り、帰りは表参道の階段を上っていくという危険なことをするために、毎年怪我人が絶えない。また牛替神事は、天神様の乗られる牛車を引く牛を取り替えるということでの儀式である。その他、8月3日から5日までは、道真の生誕を祝う御誕辰祭が行われる。夜には1000本あまりの蝋燭に火を灯した万灯祭献灯で表参道が飾られるほか、最終日には防府天満宮夏祭り大花火大会も行われる。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210626 07:34より
まあ、我々百嶋神社考古学の者にとっては、この手の神社は道真逃亡をカモフラージュする偽装神社と考えており、ご本人は海路阿久根に上陸し薩摩の川内市の山奥の現藤川天神に落ち延びたと考えているのです。これについては以下をお読み下さい。
まあ、牛車が動かなくなって死んだなどと言った話を信じたい宣伝したい方はそれはそれで良いでしょう。
ひぼろぎ逍遥
603 | 菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神への 10人トレッキング準備資料 A | |
602 | 菅原道真が落ち延びた鹿児島県薩摩川内市の藤川天神への 10人トレッキング準備資料 @ | |
19 | 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! | |
スポット019改) 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!
20200731改訂(20131227)
鹿児島県は薩摩川内市の山懐深く、旧東郷町藤川の北野の丘に藤川天神(菅原神社)が鎮座しています。
全国の村々に鎮座する天満宮の一つならば気にも留めないのですが、この菅原神社はただならぬものを感じさせます。

かなり具体的に、九〇一年出水に上陸し阿久根市田代を経て藤川にたどり着き余生を全うしたとあります。
阿久根市田代経由なら横座峠の山越えのルートですね。千百年前なら非常な難路だったことでしょう。


参道 お手植えの臥龍梅
この神社の存在は以前から知っていましたが、「ひぼろぎ逍遥」スタートにあわせ、ご紹介するものです。
まず愕くことに、ここには墓所があります。太宰府は若い時の墓で、こちらが年取った後の墓という落語のような話はありえないので、当然ながらここで余生を過したことになります。
もちろん、太宰府天満宮は絶対に認めないでしょうが、これを裏付けるような話を複数知っていますので、改めてご紹介いたしましょう。
まず、大分県の九重町になりますか、法善寺温泉や川底温泉などがある一角から離れ、小国に抜ける途中の左手に大きな鳥居のある集落をご覧になった方もあるかと思いますが、そこが菅原です。
ここには、藤原の刺客を逃れて道真が隠れ住んでいたという話があります。
また、十数年前まで大濠公園付近で活動していた旧草ヶ江神代史研究会の某研究者から聞いた話ですが、この菅原集落に隠れ住んでいた時期に、恐らく地元の豪族の娘がお世話をしたのでしょうか?道真の血を受け継いだ人がおられ、今もその家系は数家族福岡市内の某地区に住まわれていると言うのです。
もしかしたら、このブログをご覧になって連絡しておいでになるかも知れません。
道真公の娘の血を引く家系(梅野家)は実際に現在もみやま市の女山辺りにおられますが、それ以外にも道真の直系の方々が世を憚って生きておられることになるのです。
どこの地区かまではお聴きしましたが、具体的にどなたか(複数)までは聴いてはいません。
安徳帝にしても入水したのはダミーでしかなく、実際には一旦対馬に逃げ、後で奄美に逃げたという話がありますし、久留米市には安徳姓の方が大量に存在します。
全国 181件 中、福岡県 106件、うち久留米市 64件 (HP「姓名分布&ランキング」調べ)
「薩摩に落ちた」という話は良く言われることですが、政変があるごとに、古代も含め、何度も何度も多くの政治犯、革命家、反乱者、避退者が薩摩に逃げ、さらに薩摩川内や串木野辺りから西へ、南へ、再び北へと逃げ続けたのではないでしょうか。
きっと薩摩にはそれを受け入れる海洋民族的な明るい大らかな気風があるのでしょう。
延喜3(903)年、道真は59歳をもって没した。遺骸を御笠郡内に埋葬しようとしたが、牛車が途中で動かなくなったことから、そこに埋葬したと伝えられ、それが安楽寺(天満宮)となった。
と言いますが、藤原家も知っていて逃がしたのかも知れません。死んだとなれば政治生命を失うことになり藤原家もそれで良しとしたのでしょう。
もしかしたら、東郷町にも密かに菅原の血筋を持つ方がお住まいになっているのかも知れません。
話は変わりますが、経済的理由から地元の国立大学じゃないと進学できない。仮に東大に上がっても貧乏だから自宅から通える九大じゃないと進学できないといった優秀でも機会に恵まれない真面目な方は、こちらの道真公にお参りされてはいかがでしょう。道真公が合格させてくれるかも知れません。
なお、手持ちの高向嘉昭氏による「鹿児島ふるさと神社伝承」(南方新社)を読むと、土地の人がつたえるところによると、当初、道真公は上述のように、筑紫から薩摩に入り、出水を経て川内高城(たき)を過ぎ、この地に到着された。そして、当社の南六キロメートルばかりのところにある鳥嶺(とりごえ)の地から、この北野山の俗塵を離れた清らかな姿を望み、こここそが自分の終焉の地であると心に決められ、当社から三キロメートルばかり離れた小鷹というところに隠棲されたという。
その小鷹地区には宰府都(さいふと)というところがある。
読めないかもしれませんが、菅原道真公之墓(伝説地)と書かれています
また、この小鷹の中には宰府都というところがある。宰府都は当時道真公の従臣達が居住したところで、今に至るまでこの地の男女は眉目秀麗(びもくしゅうれい)で、醜い者は一人もいないといわれている。
と、あります。きっと、南北朝期の兼良親王の随行者五條家のような人達と逃げてきたのですね。
神社縁起によると、出水から田代ではなく、阿久根市の川内高城(タキ)温泉辺りから入り落ち着いたとなると、川内高城経由なら横座峠は通っていないかも知れませんね。
日本大百科全書(ニッポニカ)「防府天満宮」の解説
山口県防府市松崎町に鎮座。菅原道真(すがわらのみちざね)と、その祖天穂日命(あめのほひのみこと)・武夷鳥(たけひなとり)命・野見宿禰(のみのすくね)を祀(まつ)る。901年(延喜1)菅原道真は左遷され大宰府(だざいふ)へ向かう途中、当地勝間の浦に着船、時の周防(すおう)国国司土師信貞(はじのぶさだ)は同族であったので、これを迎え1日松崎の地に招いたことで、道真の薨後(こうご)すぐこの地に神廟(しんびょう)を建てたことに始まる。古くは松崎天神と称した。例祭12月5日、ほかに旧10月15日の御神幸祭(裸坊(はだかぼう)祭)、2月節分日の牛替(うしかえ)神事など特殊神事が多く、紙本着色『松崎天神縁起』六巻(国の重要文化財)のほか、宝物も多い。 [鎌田純一]
鎌田氏がお書きになっている通り、この神社の本質はカミムスビの第二世代、豊国主=豊玉彦=ヤタガラス、豊日別 の後裔氏族によって建てられた神社(氏子6000戸)なのです。
故)百嶋由一郎氏はヤタガラスの分流を神代系譜として残しておられます。

百嶋由一郎004ヤタガラス系譜原本 百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
この防府天満宮は天穂日命(あめのほひのみこと)〜武夷鳥(たけひなとり)命に繋がるナガスネヒコ系の神社であり、この天満宮を支える6000戸の氏子の相当数がこの系統の人々であろうとの推測が付くのです。
ちなみに鳥子の一族は武夷鳥、鳥子大神の二系統であり、直接的にこの天満宮は武夷鳥の流れを汲む一流だった事になるのです。
正しく、この防府、佐波の一帯はヤタガラスの支配する国だったのです。
「山口県神社誌」と「鳥取県神社誌」は非常に見やすく非常に使い易い良い編集ですが、いかんせん直ぐに調査に行ける場所でもなく、中々活用できない事が悩みです。
防府天満宮に関してはこの5倍の分量があり全てを掲示できませんが、周防の最奥中心部とも言うべき防府が如何なる国であったかが改めて理解できるように思うのです。
末尾掲載の地理院地図をご覧になれば、多々良山があり蹈鞴=多々良地名が拾えます。これも武夷鳥の曾祖父にあたる金山彦が製鉄神であった事を良く表しています。金山彦の子孫が代々製鉄を行なってきた事が良く分かるのです。

境内神社について愛宕社が不明とされていますが、イスラエル系(秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ)金山彦=カグツチであり、武夷鳥にとっては曾祖父にあたる人物なのです。
それを打ち消してまで、防府天満宮を防衛しなければならなかった事は悲しむべき事ですが、玉祖神社の祭神が忘れられ(博多の櫛田神社の主神大幡主=カミムスビ)、同社の祖である金山彦が忘れられる事に歴史の悲哀を感じるばかりです。
