893 彦山西方の神々を考える個別編 B “福岡県旧小石原村の無格社3社”
20210603
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
旧小石原村で高木神社をもう一社実見し加えて無格社に落された数社を見たいと思うのですが、まずは、鼓地区の窯元蔵人から登った所に在るもう一つの高木神社(鼓978-8)を訪れようと思います。
さらに、上手く見つけられれば「福岡県神社誌」(下巻)無格社一覧405p塔載の 搭の瀬の山の神=大山祗神社(大山祗神)、搭の瀬中山の秋葉神社(軻遇突智)、鼓の釜床の神明宮(天照皇天神)を実見し、現代まで続く、高木大神系の支配的現層とそれ以前(つまり彦山占領下以前)の古層の神々(釜床の神明宮がそう言えるかは見るまではなんとも言えません)を見たいと思っています。

「福岡県神社誌」(下巻)無格社一覧405p塔載
搭の瀬の 山の神の 大山祗神社(大山祗神) 田の神と併せ鹿児島の「タノカンサー」犠身体へ
搭の瀬の 中山の 秋葉神社(軻遇突智) 火の神 金山彦 を意味し鬼塚、鬼丸と対応する
鼓 釜床の 神明宮(天照皇天神) 高木大神の叔母と呉太白後裔の間に産まれたのが天照
山の神(大山祗)様は高木大神の息子のニニギが求婚した美女コノハナノサクヤの親神として良く知られていますが、ニニギの義理の父神でもある事から彦山大行事社側としても排除はし難かったのではないかという印象を持っています。
この点、朝倉市北側の飯塚市、嘉麻市などにも多くの大山祗神社があるのが目立ちます。
秋葉神社と言ってもご存じない方が多いと思いますが、軻遇突智(カグツチ)とくれば製鉄神の金山彦だと理解できると思います。当然、製鉄が行われる場所は燃料が豊富で(木炭が重用ですが)谷地の風が得られる(できれば北西方向に谷が広がる方が冬場の製鉄にはベストでその点、東峰村は逆ですが)立地がベストなのです。
彼らの蹈鞴場が廃業を余儀なくされた場合、瓦生産、焼物(陶磁器)生産に向かうのは自然な成り行きで、こういった例には個人的にも何度も遭遇しています。
鞴に通じる福井、伊福など、鬼塚など鬼○…、敢て説明するべくもなく多々良姓、兼川、金山、芋川、妹川などと言う姓は製鉄神、カグツチの末裔である可能性が極めて高いのであり、製鉄炉、製鉄技術の再利用、延長上の民生品製造こそが瓦生産、陶磁器生産だったのです。
ただ、木炭生産は元々製鉄とは並行して存在していましたので同一には扱えないでしょう。
従って、小石原、小鹿田、高取焼の関係者にもこの古代蹈鞴製鉄関係者が多かったと考える価値はあるのです(実際には半数は移入でしょうが)。
最後の蹈鞴製鉄は戦後まで残るのですが、その後目まぐるしく推移したエネルギー転換によって、風呂は、薪(五右衛門)風呂から石炭風呂さらにガス風呂、プロパン風呂を経て現在の給湯スタイルへと変化します。
この流れの中、炭焼き生産が終了し、今尚、今後も続発し多くの被害を齎し続けている林野庁による人工林の乱発の時代と並行し、いまや命脈が断たれんとする民陶ブームが起こった事を思い出して頂きたいのです。
この蹈鞴製鉄従事者は北部九州から中国地方の山岳地帯に分布していますが、見た所二系統があるようです。
一つは半島新羅の金武官伽耶辺りから大邱(テグ)に展開し、列島に入って来た韓鍛冶(カラカヌチ)と、もう一つはイスラエル系とも言われ秦の始皇帝ともその同族性から姻戚関係を結んだ金山彦系(吉備の中山が有名)の製鉄神と二系統があったはずなのです。
これをこの地に発見し(まだ実踏していませんが)やはりと思ったのでした。
実は私の後輩に中山君がおり、現在もかなりの歴史を持つ中堅大手の鉄鋼所を経営しています。また、かつて、地名研究会のメンバーでもあった伊福さんがおられ、現在も平戸市で鉄鋼所をやっておられるのです。
これに加え芋川氏も伊福氏と同じく出身地から、蹈鞴製鉄が盛んに行われていた浮羽(ウキハ…これも吹羽かも知れない)だったのです。
その意味では、中山峠が搭の元近くに在り、小石原中心部の皿山にも中山地名がある事は、製鉄神に象徴される同地の人々がが陶磁器生産に乗り出したと推定する事も可能になるのです。

なお、この秦の始皇帝と親戚関係を結んだイスラエル系金山彦の話は過去何度か取り上げていますので以下をお読み下さい。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
54 | 秦の始皇帝と市杵島姫 |
106 | 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” |
263 | 東瀛遊 |
384 | 国東半島の秋葉様 “国東市国東町来浦の市杵島神社” |
888 | 市杵島姫が秦の始皇帝の贏政の「贏」 瀛津嶋姫と書かれる“朝倉市 佐田町高木神社の境内摂社” |
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一部再掲載 054 秦の始皇帝と市杵島姫 20150117
奇妙な題名に見えるかも知れませんが、だんだんとお分かりになってくる事と思います。
秦の始皇帝と言えば古代史どころか歴史一般に関心を持たれない方でもご存じの中国古代史上最大のスーパー・スターですが、その名前はと言えば答えに窮する方が続出するのではないでしょうか?しかし、
1. 【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ) または秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した
と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。
ところが、この秦の始皇帝嬴(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。
宗像大社の瀛津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。
そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。
市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと
筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。
一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。
瀛州(えいしゅう)は、
古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱•方丈)の一つ[1]。
転じて、日本を指す[2]。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。
魏晋南北朝時代の487年から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。
では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。
これについても百嶋先生はお話をされていました。
古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方にある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃまぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイスラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというところです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレキサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。
相良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをもらって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれたうちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さんも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というのは日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなったかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わないのですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。
以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより
お分かりいただけたでしょうか?
百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。
紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。
その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し「瀛」を姓としたのでしょう。
ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。
この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。
ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこの瀛の一族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。ただ、瀛氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉姫(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。
一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5〜6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。
日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。
政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
この始皇帝の姓名「臝政」(インチョン)と関連する文字が使われている非常に珍しい現場をご案内しましょう。それが、朝倉市佐田の高木神社でした。
実は、大国主命の国譲りの現場が福岡県朝倉市一帯の旧朝倉郡であった事の背景に彦山を拠点とした高木大神系の本拠地の安堵が国譲りの原因であった事が見えて来たからでした。
彦山48大行司社は彦山の南北に実質的な行政機関を置き、高木大神系の支配領域を確定させたのでした。
国譲りを強要した大幡主=カミムスビ+大国主命(大幡主系:宗像3女神の2神を妃とした)3●人こそ高木大神=タカミムスビ、天照大神(高木大神の叔母と列島大率姫氏の子)、阿蘇高森草部吉見(高木大神の次女タクハタチヂヒメを妃とした実質的な入婿)であり、国譲りとはタカミムスビ系とカミムスビ系との代理戦争だったとも言えるのです。
今回は、その代表的な出先機関の一つに朝倉市佐田町の高木神社があった事から案内したのでした。
ついでに同社境内にある市杵島姫(草部吉見のお妃)祭祀があることから再度公表する事としました。
ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”
159 秦の始皇帝と市杵島姫
同(跡宮) 106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”
054 秦の始皇帝と市杵島姫
「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、始皇帝は臝政(エイセイ=インチョン)と呼ばれていました。
対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿馬毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。
彼らは秦が滅びる前に海を渡り列島に入っていることから、三水偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。一方「東瀛」と言う言葉もありますが、これも大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものも意味しているのです。始皇帝の一族も政治的な変化によりその一族は列島に避退してきているようです。列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役小角の一族がそれに当たるのです。
宗像大社の市杵島姫も本来の表記は「瀛津嶋比売」ですね。
このように久留米高良山、太宰府四王子山、三笠山、宝満山、彦山一帯には多くの渡来系氏族が大量に入っているのです。
この事が、大量に入って来た豊前の秦氏と併せ、九州の政治情勢を著しく変化させたであろう事は想像に難くないのです。
そして、その彦山西麓に旧小石原村が存在しているのです。

小石原村直下の朝倉市佐田の高木神社の境内摂社に秦の始皇帝と同系の文字で書かれるの瀛津嶋比賣命
本ブログの任務から通説から離れ、実際に起こったと思われる出来事を推定中心に描きましたが、このような歴史、神社一つにしてもその神々が、何故、崇められ、若しくは崇めることを強制されてきたかを推定して見ました。このような村の歴史を語らずして、自らが祀る神社への尊崇の念は生まれず、育たず、引き継がれはしないのです。現在、小石原に留まらず、列島の多くの神社が十年を待たずして半減どころか十分の一減するとさえ言われているのです。
学芸員や神社庁から彦山一辺倒の話を聴くのも良いでしょうが、それでは神社の本当の歴史を語った事にはならず、神社への尊崇の念、従って地域への共感の念も生まれず、中国資本(TAO)などに売り飛ばされる事になってしまうのです。
何よりも伝えるべきは、また、語るべきは、真実であり、朝倉郡(小石原は威嚇的軽微ですが、隣接する松末地区は無残です)を壊滅させつつある人工林(今後も存在する限り続く)を無制限に導入した林野庁、県林業課…の無責任極まりない悪行への反省無くしては、地域を捨て新たなる流民を生み出す事にしかならないのです。
とは言え、まず、無格社とされた3社を見たいと思います。只の祠かも知れませんし、既に失われているかも知れません。しかし、その作業無くしては真実は探れないのです。
掲載対象外のメモ
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鬼丸フミアキ:翁明窯 0946-74-2231
搭の瀬の 中山の 秋葉神社(軻遇突智) 火の神 金山彦 を意味し鬼塚、鬼丸と対応する
神輿の松村営住宅の彦山祠
鼓 釜床の 神明宮(天照皇天神) 高木大神の叔母と呉太白後裔の間に産まれたのが天照
高取青山窯の敷地の入口高取さんがお祀り神明宮 080-5208-2029