2022年07月01日

891 彦山西方の神々を考える @ “福岡県旧小石原村”

891 彦山西方の神々を考える @ “福岡県旧小石原村”

20210526

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


九州でも彦山と言えば、国東、かつての求菩提山と並び神社研究者、神社ウォッチャー、神社フリーク…いずれもが無視する事のできない九州最大の山岳修験のメッカとも言うべき神の山でした。ただ、明治の神仏分離令、修験道への抑圧によって徐々に力が奪われ、経済的基盤を失い既に時が流れ去っています。

偶に中宮に上がると、それでも「上宮まで上って来ました…」という健脚の人を見掛けるのですが、彦山を支えた登山客も徐々にその数を減らした上に、追い打ちをかけるかのように水害が襲い、なけなしの日田彦山線の事実上の廃線化がとどめをさそうとしている様です。

暫く前までと言っても、198595年頃つまりバブル崩壊期までは、民陶ブームなるものが存在し、高取焼、隣県の小鹿田焼と併せ、バスで乗り付ける陶器購入者が週末になると押し寄せる現象が数十年程は続いたのでした。

その頃までは、敵意あるエヅラ・ヴォーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なるベスト・セラーを公開し、一時は東京都下の地価だけでも米国を買う事が出来ると言った馬鹿話が普通に飛び交っていたのでした。

ところが、中曽根内閣以来の米国による日本経済潰し、その完成としてのバブル崩壊から小泉竹中による日本の国民経済の破壊が凄まじく、所得の半減、郵(貯)政のアメリカ金融資本への売り飛ばし、外資の土砂降り的侵入…によって、日本経済は二度と立ち上がれないほどの犠牲を強いられたのでした。

その背後にはこれまで顕在化する事無く雌鶏を太らせ、一斉に首を刎ねた米国民主党の意図があったのでした。

もともと、マッカーサーの占領政策の下、日本が弱かった時代は放置され、経済復興によってアメリカ経済を脅かすようになれば、中曽根、小泉と言うアメリカのエージェントがアメリカの希望する政策を国内で実行し徹底的な破壊を行なったのでした。日本にとって最悪だったのはあの真っ黒いオバマでした。

結果、書道教室、華道の先生、お茶の先生、ピアノ教室、民陶教室、三味線、太鼓、お謡いのオッシサン(師匠)…が全ての糧を奪われ、ヤマハ・ピアノ教室などどこでも開店休業状態にあるのです。

国民の懐に余裕がある時には、各々の趣味に合わせ多くの購買力を示し、それで第五次産業とでも言うべき必ずしも必要ではないものへの消費が都市住民から向けられていたのですが、それらが全て吹き飛んだのが2000年以降の経済的大停滞だったのです。

要は必ずしも必要の無い様なものへの消費行動を産んだ国民所得の増大から激減が今日の民陶ブームの消失だったのでした。

今回、冒頭からなんでこんな話をしたかと言えば多少の理由があります。この彦山西麓の民陶の里小石原村の神社を書く必要が生じたからでした。それは、当会の神社トレッキングに最近参加された方にこの関係者がおられたからでした。民陶ブームの衰退は各窯元の経営にも深刻な打撃を与えている事でしょう。

ユニクロの様に労賃の安い大陸の労働力を利用し、デザインと色彩だけを指示するのであれば、真面目に生産する業者を一気に容易に出し抜けることになり、この抜け駆け生産ができればこの危機を一時的には乗り越えることができるのです。ただ、これは金のために職人から商売人に成り下がる事なのです。

事実、有田焼の陶器(ほとんど磁器ですが)市では、ほぼ、30年前から、中国の景徳鎮に発注したもので、国内生産の十分の一のコストで造られた有田焼なるものが並べられ始めていたのです。

無題.png勿論、全ての業者がそうやっている訳ではないのですが、騙されているのは有田焼のブランドを信じた上で従来程度の単価で買わされている一般客だけなのです。

しかし、彼らも所得が下っている以上お買い上げが低下している事は想像が着くのであり、いずれはこのユニクロ方式も効果が失われる事になるのです。

ましてや、民陶となるとさらに危機的で、中国に発注して作らせた手作りの味を持った陶器など有りえないのであって既に逃げ場が失われているのです。

この経済現象は、購買者の所得が竹中によって半減されたまま全く上がっていない事によって息が止められた事になっているのです。

既にそうでなくとも、プラスティック容器や発泡スチロール・トレイに電子レンジと鋏で食事をする新世代が登場する中、伝統的工芸品である陶器産業がそのまま生き残る事ができるとは思えないのです。家庭の団欒が失われれば民陶など生き残れないのです。

所得水準を上げ(池田内閣の所得倍増政策こそ要求されますが)国民の懐を豊かにしない限り復活は有りえないのです。当然にもGDPを押し上げ、所得の維持ではなく増大させるべきなのです。

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既に、日本人の経済的余裕と連動する文化的生活の一切が消失しつつあるのです。

それを象徴するのが不要なピアノの買い取りを行なう業者の繁盛ぶりです。

祖母、母が使っていたピアノでしたが、本人は家族の所得の低下によってピアノ教室に通わせてもらえず、邪魔になり埃を被っていたピアノが財津一郎あたりの業者の宣伝にのった回収(殆ど無料に近い)によって、シンガポール、インドネシア、ベトナムなどに持って行くと560万円でボロ儲けできるのです。

結局、ユニクロの裏バージョンなのですが、いずれにせよ日本文化の裏と表の両面から破壊が進行しているのです。

“今回、冒頭からなんでこんな事を書いたかと言うと、この彦山西域の民陶の里小石原村の神社を書いて見ようと思ったからでした。とりわけ神社トレッキングに最近参加された方にこの関係者がおられたからでした。

民陶ブームの衰退は各窯元の経営にも深刻な打撃を与えている事でしょう“と前述しましたが、今回のプロジェクトは、この沈滞著しい小石原村の再生を願う陶芸家の思いに多少ともお手伝いできるかもしれないと考えたものでした。この地が如何なる場所であり、如何なる人々が住み着いた土地であるかを浮き上がらせることができれば目的は半ば達成されるのであり、その程度の論考としてお考え下さい。

小石原の陶器の起源については幾つかの説があるようですが、戦前までは小さな窯元が幾つかあっただけで、それまでは彦山詣での帰りに何がしかの焼き物が売られていただけと言われています。

戦後も昭和30年代辺りから始まる民陶ブームまではこれほどまでの規模にはなっていなかったのです。

ただ、多くの窯元が国道そばに大きな駐車場を設え、増大する在庫を受入れる倉庫兼販売所を造るに及び、陶器が流れるように売れたのは昔の話であって、今や建物の維持にも窮する状態になっているのです。

一部には、嘉麻峠に近い遠賀川源流に近い某窯元の販売所が中国資本がバックにいる団体(孔子学院の二番煎じの道教=TAO)に買われている始末で、北海道と同じ現象が既に結実し水源が抑えられているのです。

このように危険な国際情勢の変化もさることながら、長期的に陶器が売られ続けられる環境が保たれるのかと考えると、将来性はどのように考えてもかなり難しいと思わずにはいられません。

日本経済の再生=国内循環の復活頼みとしか思えないのです。これについては新たな光が既に刺し始めており、いまだ顕在化しつつある段階ですが、この動きが効奏するかどうかは微妙で予断を許しません。

それは、戦前のような軍需生産への復帰であり、民需を抑制し、軍需シフトを採るだけで良いのです。

簡略化して言えば、海軍工廠、陸軍工廠の復活であり、航空廠、宇宙廠の新設なのです。

ともあれ、まず小石原の神社をどう考えるかを概観してみましょう。


彦山連峰西域の小石原の神々について


彦山と聴いて誰が祀られているかを即座に思い浮かべられる人はなかなかいないでしょう。

もし、僅かおられたとしても、修験道の山神仏混交のイメージで留まられる方が大半ではないでしょうか?ただ、小石原にそれほどの神社がある訳ではなく、バラエティに富んだ地域でもないのです。ただ、実際には殺伐としています。それは彦山山岳修験の影響が余りにも強く、それ以外の神があまり拾えないからです。それでも実際の現場は違うかも知れないので徐々にフィールド・ワークを重ねたいと思います。

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まず、白石山が目立ちますね、これは小石原焼が磁器生産に進もうとして挫折した事に因む物なのか、石灰岩の目立つ山なのか憶測が過ぎますが意味が分かれば面白いとは考えています。

普通に考えればこの山名は南の朝倉郡から付されたものなのでしょう。

一方、かなりの水田稲作の面積もあり、いわば彦山の食糧倉庫と言った場所なのかも知れません。

小石原村の神社をグーグル・マップで見ればお分かりの通りで、高木神社=大行事社が制圧している事は一目瞭然であって、これが私もこの地域の神社を見て廻ろうと思わなかった理由なのです。

当然、他の神社は排除され、或いは祭神が入れ替えられるなりしているはずで、何よりも排斥された神々その末裔であるはずの人々を哀れに思わざるを得なかったからです。以下は「福岡県神社誌」です。

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「福岡県神社誌」中巻41p


  これ以外にも神社があるはずなのですが、「神社誌」も採録していません。全く頼れないのです。

  とりあえず動員できる手掛かりとなる資料はこの程度で、後は村史などを調べ個別に見て行きます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年07月03日

892 彦山西方の神々を考える個別編 A “福岡県旧小石原村中心部の高木神社(大行事社)”

892 彦山西方の神々を考える個別編 A “福岡県旧小石原村中心部の高木神社(大行事社)”

20210531

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


早速個別の神社探査に入りましたが、意外と早く我々の観点での発見がありました。

 小石原村の道の駅周辺については皆さんも良くご存じかも知れません。

しかし焼物の本当の中心部は少し奥まった皿山地区にあり、通りすがりの方には、ご存じない方が多いかも知れません。

今回ご紹介するのは、皿山地区までは入らない添田町と嘉麻市への分岐点に近い高木神社(大行事宮)に関するリポートです。

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祭神 高皇産霊命、伊弉諾命、伊弉冊命

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祭神、境内神社は神社誌のとおりですが、型通りの境内神社とは別に参道階段の右手に三つの神様が祀られていました。これは、藤棚がある事に気付いた時から(久留米高良大社の高良玉垂命の影響下にあったエリアは藤棚がおかれているのです)、もしかしたら…と思っていたら正しくそのとおりでした。

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水の神はカミムスビ系と見るならば天御中主命、市杵島姫、大山祗と見れば神大市姫=ミヅハノメになりそうです。

  尚、粟島神社は天族のスクナヒコナノミコトで良いでしょうから、山の神と一緒ではおかしいのですが…入らなかったため一緒に入れたものとしても普通でしょう。

次に庚神さまをどう見るかですが、普通は三宝荒神を置き換えたもので、製鉄神の金山彦系ナガスネヒコ…と見るべきではないでしょうか。

いずれにせよ、彦山が専横を振るうようになる以前の小石原村の神々とはこの三つの祠の神様だった可能性が極めて高いのです。


祭神はご覧の通りです。しょっちゅう通る道でしたので何時でも行けるとパスするばかりの神社にこれほどの神様が揃っておられるとは、しょっぱなから素晴らしいものに遭遇できました。

小石原村はどこにいっても大行事社=高木神社ばかりじゃ見る気にならないと敬遠していたのでしたが、やはりどえらい神様がお隠れになっていたのでした。

正しく高木大神(彦山)系が専横を振るう以前(つまり藤原が権力を握り近畿大和朝廷の側に立った勢力、宇佐、彦山の新興勢力が九州を制圧する前の=恐らくAC750年前後)の支配的な神々が何であったかがこれほど鮮明に浮かび上がるとは思っても見ませんでした。

とすれば、この小石原村に住む人々も等しく彦山系統の方々なのかと早とちりしていたのであり、明らかな誤りであることがが見えてきたのです。一方、小石原焼の起源はそれほど早くないともされています。

ただ、 考えれば当たり前なのですが、豊後国境とは言えるもののこの地は筑紫の国、筑前のエリアなのであって、宇佐八幡宮、阿蘇神宮直系でもなければ、彦山の強大な影響力が及んでいたとはいえ、700年辺りまで勢力を保持していた久留米高良大社に象徴される領域だったはずなのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)一応区分けをします。赤枠が彦山系、青枠が高良大社系とします


では、何故ここに田神社(田の神)が残されているのでしょう。その前に田神様とは誰なのでしょう?

 詳しく知りたい方でも急がれる方はひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下の3本ほどをお読み頂くとして、

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

ビアヘロ022 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

かつて旧朝倉郡一帯には60社近い田神社が存在していたはずです(勿論、元は主神として崇められていたはずです)。ところが現在も存在はしているものの、1社を除き全てが無格社扱いとなっているのです。

小石原村では無格社に落された田神社はありませんが、直ぐ下の、松末村星丸字木地星瓜生迫には埴安彦を祀る田神社が1社、立にも埴安命、事代主、猿田彦命、同大山字畔高にも埴安命を、同山神にも埴安命を祀る神社が無格社として現存しています。

 この延長に小石原の田の神様を考えると、彦山、宇佐八幡が台頭し、高良山が没落する時期辺りに元々存在していた田神社が潰され、大行事宮に入れ替わり、それでも奉斎する民がいたからこそ残され、参道右手に残されたものと考えられそうです。そして彦山と宇佐は共に手を携え久留米高良山の九州王朝を攻撃したはずです。また、彦山=高木大神、宇佐八幡宮=阿蘇(草部吉見系)VS高良大社だったはずです。


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以上「高良玉垂宮神秘書」同紙背70pほか


田神社の主神 埴安彦 埴安命…とは一般にタカミムスビ神と称せられ彦山の高木大神に対し天御中主命と並ぶ神産巣日神の事であり、所謂造化三神に相当する神です。

そして、その実体は博多の櫛田神社の主神大幡主命その人なのです。

 言わば高木大神に匹敵する列島開闢の神であり、かつては旧朝倉郡全域に主神、主鎮守として地域を支配する神だったのです。

 現筑前町には現在も旧県社格の大巳貴神社がありますが、実は大国主命は出雲の人などと言うのは大嘘で、山の神様=大山祗と埴安姫(カミムスビ=埴安命の妹)の間に生れた神大市姫、大国主命、木花咲弥姫の三兄弟姉妹の一人で九州で産まれた人物なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


田の神             水の神       山の神

カミムスビ (天御中主、市杵島姫、神大市姫=ミヅハノメのいずれか) オオヤマツミ


あくまでも当グループが師と仰ぐ百嶋由一郎氏の神代系譜によればですが、山の神(オオヤマツミ)が大国主命の父神にあたり、田の神(カミムスビ)については、大幡主の子であるアカルヒメの子市杵島姫を大国主命が妃としている事から、大山祗、大幡主にとっても入婿、姻戚関係による義理の子に相当する事がお分かり頂けると思います。

当時、タカミムスビ(高木大神)は彦山〜高千穂〜島原半島一帯に本拠地を置き、対するカミムスビ=大幡主(博多の櫛田神社の主神)も博多から朝倉郡などを本拠地としていたと考えています。

 一方、彦山の北域の筑豊では物部氏でも山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒが勢力を拡げ、添田、田川、香春…には建御名方(大国主の臣下であり決して次男などではない)が大きな勢力を持っていたはずです。

 ところが、ここでは諏訪神社が添田の1社を除きほとんど消えているのです。

 つまり、北では大国主命の国譲り反対派の建御名方と南では大国主命管理下の旧朝倉郡が奪われているのです。

 その痕跡が朝倉郡の多くの田神社であり、添田町の諏訪神社なのです。そして、出雲の国譲りの現場が彦山の南北の大穀倉地帯だったのです。筑前町の天の安川に何故大巳貴神社が在るのか見えてきました。

1社目で本命に出くわしたため暴走してしまいましたが、神代史の謎の解明の糸口を得た思いがします。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年07月06日

893 彦山西方の神々を考える個別編 B “福岡県旧小石原村の無格社3社”

893 彦山西方の神々を考える個別編 B “福岡県旧小石原村の無格社3社”

20210603

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


旧小石原村で高木神社をもう一社実見し加えて無格社に落された数社を見たいと思うのですが、まずは、鼓地区の窯元蔵人から登った所に在るもう一つの高木神社(鼓978-8)を訪れようと思います。

 さらに、上手く見つけられれば「福岡県神社誌」(下巻)無格社一覧405p塔載の 搭の瀬の山の神=大山祗神社(大山祗神)、搭の瀬中山の秋葉神社(軻遇突智)、鼓の釜床の神明宮(天照皇天神)を実見し、現代まで続く、高木大神系の支配的現層とそれ以前(つまり彦山占領下以前)の古層の神々(釜床の神明宮がそう言えるかは見るまではなんとも言えません)を見たいと思っています。

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「福岡県神社誌」(下巻)無格社一覧405p塔載


搭の瀬の 山の神の  大山祗神社(大山祗神)  田の神と併せ鹿児島の「タノカンサー」犠身体へ

搭の瀬の 中山の    秋葉神社(軻遇突智)   火の神 金山彦 を意味し鬼塚、鬼丸と対応する

鼓 釜床の        神明宮(天照皇天神)   高木大神の叔母と呉太白後裔の間に産まれたのが天照


山の神(大山祗)様は高木大神の息子のニニギが求婚した美女コノハナノサクヤの親神として良く知られていますが、ニニギの義理の父神でもある事から彦山大行事社側としても排除はし難かったのではないかという印象を持っています。

 この点、朝倉市北側の飯塚市、嘉麻市などにも多くの大山祗神社があるのが目立ちます。

 秋葉神社と言ってもご存じない方が多いと思いますが、軻遇突智(カグツチ)とくれば製鉄神の金山彦だと理解できると思います。当然、製鉄が行われる場所は燃料が豊富で(木炭が重用ですが)谷地の風が得られる(できれば北西方向に谷が広がる方が冬場の製鉄にはベストでその点、東峰村は逆ですが)立地がベストなのです。

彼らの蹈鞴場が廃業を余儀なくされた場合、瓦生産、焼物(陶磁器)生産に向かうのは自然な成り行きで、こういった例には個人的にも何度も遭遇しています。

鞴に通じる福井、伊福など、鬼塚など鬼○…、敢て説明するべくもなく多々良姓、兼川、金山、芋川、妹川などと言う姓は製鉄神、カグツチの末裔である可能性が極めて高いのであり、製鉄炉、製鉄技術の再利用、延長上の民生品製造こそが瓦生産、陶磁器生産だったのです。

無題.pngただ、木炭生産は元々製鉄とは並行して存在していましたので同一には扱えないでしょう。

 従って、小石原、小鹿田、高取焼の関係者にもこの古代蹈鞴製鉄関係者が多かったと考える価値はあるのです(実際には半数は移入でしょうが)。

 最後の蹈鞴製鉄は戦後まで残るのですが、その後目まぐるしく推移したエネルギー転換によって、風呂は、薪(五右衛門)風呂から石炭風呂さらにガス風呂、プロパン風呂を経て現在の給湯スタイルへと変化します。

この流れの中、炭焼き生産が終了し、今尚、今後も続発し多くの被害を齎し続けている林野庁による人工林の乱発の時代と並行し、いまや命脈が断たれんとする民陶ブームが起こった事を思い出して頂きたいのです。

 この蹈鞴製鉄従事者は北部九州から中国地方の山岳地帯に分布していますが、見た所二系統があるようです。

 一つは半島新羅の金武官伽耶辺りから大邱(テグ)に展開し、列島に入って来た韓鍛冶(カラカヌチ)と、もう一つはイスラエル系とも言われ秦の始皇帝ともその同族性から姻戚関係を結んだ金山彦系(吉備の中山が有名)の製鉄神と二系統があったはずなのです。

 これをこの地に発見し(まだ実踏していませんが)やはりと思ったのでした。

 実は私の後輩に中山君がおり、現在もかなりの歴史を持つ中堅大手の鉄鋼所を経営しています。また、かつて、地名研究会のメンバーでもあった伊福さんがおられ、現在も平戸市で鉄鋼所をやっておられるのです。

これに加え芋川氏も伊福氏と同じく出身地から、蹈鞴製鉄が盛んに行われていた浮羽(ウキハ…これも吹羽かも知れない)だったのです。

 その意味では、中山峠が搭の元近くに在り、小石原中心部の皿山にも中山地名がある事は、製鉄神に象徴される同地の人々がが陶磁器生産に乗り出したと推定する事も可能になるのです。

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なお、この秦の始皇帝と親戚関係を結んだイスラエル系金山彦の話は過去何度か取り上げていますので以下をお読み下さい。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

54

秦の始皇帝と市杵島姫

106

白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

263

東瀛遊

384

国東半島の秋葉様 “国東市国東町来浦の市杵島神社”

888

市杵島姫が秦の始皇帝の贏政の「贏」 瀛津嶋姫と書かれる“朝倉市

佐田町高木神社の境内摂社”


一部再掲載 054 秦の始皇帝と市杵島姫  20150117


奇妙な題名に見えるかも知れませんが、だんだんとお分かりになってくる事と思います。

秦の始皇帝と言えば古代史どころか歴史一般に関心を持たれない方でもご存じの中国古代史上最大のスーパー・スターですが、その名前はと言えば答えに窮する方が続出するのではないでしょうか?しかし、


1.  【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ) または秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した無題.png


と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。


無題.png市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ[1]

転じて、日本を指す[2]東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方にある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃまぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイスラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというところです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレキサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。

相良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをもらって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれたうちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さんも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というのは日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなったかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わないのですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。

以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより


お分かりいただけたでしょうか?

百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。

紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。

その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し瀛」を姓としたのでしょう。

ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。

この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。

ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこの瀛の一族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。ただ、氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉姫(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。

 一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も56歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。

 日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。

 政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この始皇帝の姓名「臝政」(インチョン)と関連する文字が使われている非常に珍しい現場をご案内しましょう。それが、朝倉市佐田の高木神社でした。

実は、大国主命の国譲りの現場が福岡県朝倉市一帯の旧朝倉郡であった事の背景に彦山を拠点とした高木大神系の本拠地の安堵が国譲りの原因であった事が見えて来たからでした。

彦山48大行司社は彦山の南北に実質的な行政機関を置き、高木大神系の支配領域を確定させたのでした。

国譲りを強要した大幡主=カミムスビ+大国主命(大幡主系:宗像3女神の2神を妃とした)3●人こそ高木大神=タカミムスビ、天照大神(高木大神の叔母と列島大率姫氏の子)、阿蘇高森草部吉見(高木大神の次女タクハタチヂヒメを妃とした実質的な入婿)であり、国譲りとはタカミムスビ系とカミムスビ系との代理戦争だったとも言えるのです。

今回は、その代表的な出先機関の一つに朝倉市佐田町の高木神社があった事から案内したのでした。

ついでに同社境内にある市杵島姫(草部吉見のお妃)祭祀があることから再度公表する事としました。

ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

 159 秦の始皇帝と市杵島姫

同(跡宮)   106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

054 秦の始皇帝と市杵島姫

「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、始皇帝は臝政(エイセイ=インチョン)と呼ばれていました。

対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿馬毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。

 彼らは秦が滅びる前に海を渡り列島に入っていることから、三水偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。一方「東瀛」と言う言葉もありますが、これも大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものも意味しているのです。始皇帝の一族も政治的な変化によりその一族は列島に避退してきているようです。列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役小角の一族がそれに当たるのです。

宗像大社の市杵島姫も本来の表記は「瀛津嶋比売」ですね。

 このように久留米高良山、太宰府四王子山、三笠山、宝満山、彦山一帯には多くの渡来系氏族が大量に入っているのです。

 この事が、大量に入って来た豊前の秦氏と併せ、九州の政治情勢を著しく変化させたであろう事は想像に難くないのです。

 そして、その彦山西麓に旧小石原村が存在しているのです。

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小石原村直下の朝倉市佐田の高木神社の境内摂社に秦の始皇帝と同系の文字で書かれるの瀛津嶋比賣命


本ブログの任務から通説から離れ、実際に起こったと思われる出来事を推定中心に描きましたが、このような歴史、神社一つにしてもその神々が、何故、崇められ、若しくは崇めることを強制されてきたかを推定して見ました。このような村の歴史を語らずして、自らが祀る神社への尊崇の念は生まれず、育たず、引き継がれはしないのです。現在、小石原に留まらず、列島の多くの神社が十年を待たずして半減どころか十分の一減するとさえ言われているのです。

学芸員や神社庁から彦山一辺倒の話を聴くのも良いでしょうが、それでは神社の本当の歴史を語った事にはならず、神社への尊崇の念、従って地域への共感の念も生まれず、中国資本(TAO)などに売り飛ばされる事になってしまうのです。

何よりも伝えるべきは、また、語るべきは、真実であり、朝倉郡(小石原は威嚇的軽微ですが、隣接する松末地区は無残です)を壊滅させつつある人工林(今後も存在する限り続く)を無制限に導入した林野庁、県林業課…の無責任極まりない悪行への反省無くしては、地域を捨て新たなる流民を生み出す事にしかならないのです。

とは言え、まず、無格社とされた3社を見たいと思います。只の祠かも知れませんし、既に失われているかも知れません。しかし、その作業無くしては真実は探れないのです。


掲載対象外のメモ


「福岡県神社誌」(下巻)無格社一覧405p塔載


搭の瀬の 山の神の  大山祗神社(大山祗神)  田の神と併せ鹿児島の「タノカンサー」犠身体へ


鬼丸フミアキ:翁明窯 0946-74-2231


搭の瀬の 中山の    秋葉神社(軻遇突智)   火の神 金山彦 を意味し鬼塚、鬼丸と対応する


神輿の松村営住宅の彦山祠


鼓 釜床の        神明宮(天照皇天神)   高木大神の叔母と呉太白後裔の間に産まれたのが天照


高取青山窯の敷地の入口高取さんがお祀り神明宮 080-5208-2029

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記