2022年06月28日

ビアヘロ197 阿蘇大蛇伝説と祖母山の謎を解く熊本神代史研究会豊後トレッキングのご紹介

ビアヘロ197 阿蘇大蛇伝説と祖母山の謎を解く熊本神代史研究会豊後トレッキングのご紹介

2022710日(日) 2022年初夏祖母山北麓に大蛇伝説を探るトレッキング資料から)

20220510

熊本神代史研究会 古川 清久


ようやく祖母山とは何か?何故、祖母山なのか?そして誰が祖母山と名付けたのか?

それがこの間の 河上 猛とヤマトオグナ(後の日本武尊)の話の探求からようやく分かってきました。

今回はこれを現場で確認するトレッキングです。

無題.png 西原村


集合場所:高森町 スーパー・アスカAsuka 1000 (雨天延期2回まで)昼食+お賽銭:各自持参


  オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


連絡 090-4518-3207(田上) 090 6298 3254(古川)

訪問予定地 : 穴森神社 → 健男霜凝日子神社(天気次第で現地で昼食) → 宇田姫神社 → 岡城址


梅雨明けしているかどうかも分かりませんが(雨天延期)、この間取り上げてきた河上 猛 の末裔が大神一族となったのではないかと言う仮説の集大成として現地トレッキングを行う事としました。

今回のトレッキングの前提(予備知識)とテーマは幾つかあります。当然、雨天順延、再順延あり


  ヤマトオグナ(後の日本武尊)の熊襲(河上猛)退治の舞台は佐賀県の佐賀大和IC付近だった

  誅殺されたはずの河上 猛は神埼市(吉野ヶ里町西隣)の旧脊振村で許され福岡市早良区に落ち延びた

  この話は故人)百嶋由一郎から聴かされていた どこに落ち延びたか名前も分かっているそれもまとまって住んでおられる…とまでは言っていたが、可哀そうだからとしてそれ以上を語らなかったし、我々も問い詰めてはいけないとしていたが、そのまま鬼籍に移られた

  この謎をそのままにはしておけないと思い、手掛かりを探し手書き資料を探っていると分かってきた それ以降の話はブログとして公開するのでお読み頂きたい 遅くも秋口には公開する

  そこで色々と考えていると その一族の名が大神(オオガミ)と分かったことから阿蘇の大蛇伝説の大神(オオガ)ではないのか?という事に思い至り、応神登場の謎まで見えてきたのだった


以下ひぼろぎ逍遥(跡宮)から オンエア公開は盆明けか?

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ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも

行います ⓫

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ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?下 ❿

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ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?上 ❾

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早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

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河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

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続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

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大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

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「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向け

に用意したレジュメ ❹ 

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福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々の

ご出身地を知りたい ❸ 

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福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が

住み着いた現地を確認した ❷

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ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今も

その一族は福岡市早良区に住んでいる ❶


分量が多いためゆっくりお読み下さい。

熊本神代史研究会トレッキング(太宰府地名研究会)202267月のスケジュール


梅雨明け710日に大分県竹田市〜豊後大野市の3社に掛けてトレッキングを行います。何故、この神社を選んだかと言えば、この間取り上げてきたヤマト・オグナの熊襲退治の一方の主人公である河上 猛が、この祖母山北麓の穴森神社と健雄霜凝日子神社に関連する阿蘇大蛇伝説を創った大神一族ではなかったのか…という仮説と繋がってきたのです。それこそが百嶋由一郎が残した示唆が導いてくれたのでした。

河上猛は阿蘇大神氏なのです。

22710日(日)10時に熊本県高森町スーパーASUKA:熊本県高森町大字高森1978-2集合(弁当持参)

テーマ:祖母山の祖母とはなにか? 一体誰の祖母なのか? では祖母の孫とは誰なのか?

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 穴森神社 カーナビ検索 大分県竹田市神原1432番地 祭神:穴森大明神 嫗嶽大明神とも…延喜式内社 豊後國直入郡 健男霜凝日子神社とも…  ※ お賽銭は各自でご準備下さい(オープン参加)。

➋ 健男霜凝日子(タケオシモゴリヒコ)神社神幸所(里宮) カーナビ検索竹田市神原2447

➌ 宇田姫神社 カーナビ検索 豊後大野市清川町三玉1493 御祭神   華ノ本姫

➍ 岡 城址 カーナビ検索大分県竹田市竹田2889                     お杖代09062983254(古川)

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今回、佃収先生の熊本(和水町)講演が急遽決まりました。このため、準備不足ながら8日間に2度もの講演会を行うことになりました。日々追われる皆様にはご迷惑をお掛けしますが、逆に言えば最良かつ念願の講演者のお二人をお迎えすることになります。時間に余裕がなく宣伝できませんが最大の取り組みを行います。

皆さん宗像市に何故 かのこの里、かのこゆり と二つもの施設(道の駅)があるかお分かりになりますか?

この花は市杵島姫が愛した花との伝承があるのですが、彼女が幼少期を過ごしたと思われる飯塚市鹿毛馬の無題.png厳島神社の鎮座地が田島(宗像の辺津宮)でその隣接する大字が佐與(サヨ)なのです。ここに住んでいたから別名が作用姫(兵庫の佐用町佐用津姫神社)になっているのですが、これが古代中国語ではユリを意味していたようなのです。赤間、東郷は市杵島姫の実在を思わせます。そしてこの花は鹿児島県いちき串木野市(市杵島姫が地名に反映していますね)、薩摩川内市の沖に浮ぶ甑島が列島でも最大の群生地なのです。百嶋神社考古学では阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミと市杵島姫とは夫婦で、先生からも神武巡行に随行し甲府から戻り、薩摩の阿多の村主(スグリ)になっていると聴いています。これが甲府の天津司神社の舞として残り、徳島の二つの天都賀佐比古神社として痕跡をとどめているのです。してみると甑島に鹿島町があったことも分かってきます。の鹿島も草部吉見=ヒコヤイミミ(藤原氏の祖神)なのです。彼女も共に。


 穴森神社 カーナビ検索 大分県竹田市神原1432番地 祭神:穴森大明神 別名嫗嶽大明神とも…

昼食場所:延喜式内社 豊後國直入郡 健男霜凝日子神社
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嫗岳(うばだけ)大明神の化身である大蛇が住んでいた厳窟が御神体。宇田姫神社の御神体である穴と通じているという説がある。国民的古典『平家物語』緒環の章に登場する由緒ある社殿と洞窟。

物語は広く中国や東南アジア、そして日本の大和三輪山に類似する神婚伝説、大蛇伝説の英雄物語で、また男女出会いの恋物語です。

穴森神社にある洞窟こそ名曲『荒城の月』で有名な竹田市のシンボル『岡城』築城主、緒方三郎惟栄のふるさとなのです。今では恋と出会いの場所となり参拝者も多く、洞窟内の小石ひとつを持ち帰ると子宝に恵まれるとのいい伝えがあります。願いが叶ったら小石をそっと元の洞窟へ。   竹田市HPより


➋ 健男霜凝日子(タケオシモゴリヒコ)神社神幸所(里宮) カーナビ検索竹田市神原2447


では、健男霜凝日子とは一体誰なのでしょうか?

ここでは結論のみ申し上げます。実は神武高兄五瀬命なのです。

 金山彦と大山祗の姉オチノヒメ(母=天御中主命、父=ウマシアシカビヒコヂ 金 越智)の兄が五瀬命、妹がアイラツ姫(神武の妃)だから三五の桐紋(天皇家姻族)を使うことができるのです。

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この延喜式内小社は豊玉姫を崇神=神武天皇として描いていますが、阿蘇初代宮司家として知られる惟人の姉か妹である奈留田姫と当時久留米の高良山に居たウガヤフキアエズとの間に生まれたのが河上 猛だったのです(百嶋由一郎最終神代系譜)。奈留田姫は八坂刀女と名を改め建御名方と共に諏訪に道行となるのです。奈留田姫とウガヤフキアエズとの間に生まれたのが河上 猛だったのです。

無題.png通説の嘘が見えてきました。祖母山と名付け山頂に姥岳神社までを置いたのは、崇神天皇の一族だとでも強弁するのでしょうか。私には、大神の一族こそが相応しいと思います。

阿蘇宮司家は惟人が継ぎ、誅伐された大神氏=河上 猛の一族は傍系となったはずです。

だからこそ新天地を求め東へ進出したのです。

恐らく、豊玉姫と姥岳神社(鴨玉依姫)を祖母山山頂に祀ったのは大神一族以外には考えようがありません。その鬱積した思いこそが祖母山の御使いとしての大蛇伝説を生み出し、自らを祖母山の豊玉姫の孫にあたると自称した人こそ河上 猛もしくはその後裔なのですが 改竄と偽装の書故これ以上の追及は困難を極めます。

何れにせよ、後の崇神を神武天皇として描こうとしたのは阿蘇氏の一派の藤原であったのであり、そこから神武天皇がウガヤフキアエズの子としてに生まれたという宮崎のインチキ神話が生まれるのです。

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➌ 宇田姫神社 カーナビ検索豊後大野市清川町三玉1493 御祭神   華ノ本姫


大蛇と華御本姫(はなのおもとひめ)の伝説は平家物語第八巻緒環の章に登場しています。

平家物語の本文には「華御本姫」とは記載されず、「豊後国の片山里に昔、女ありけり。ある人の一人娘、夫もなかりけるがもとへ」と書かれています。大分県豊後大野市から気ままなblogより

無題.pngこの華御本姫こそが穴森神社から通ってきた祖母山の使い大蛇との間に産んだのが大神惟基との説話が生まれ、阿蘇大神一族は大蛇の子孫と称し、辛島氏と共に宇佐神宮に応神を持ち込んだ大神比義となるのです。

 では、この大神の一族とは誰なのでしょうか?このため博多の櫛田神社の花の本も芭蕉の俳号などではないのです。それに一つの仮説を与えたのがヤマトオグナの熊襲退治の説話でした。そして、後の日本武尊に誅伐されたとされた「河上 猛」の後裔氏族無題.pngだったのだと考えるのです。


➍ 岡 城址 カーナビ検索大分県竹田市竹田2889


大神惟基から数代降り世は鎌倉政権成立期を迎えます。後の頼朝、義経の兄弟不和は良く知られていますが、後白河法皇に唆され義経は豊前、筑前、肥前を与えるとして九州へと向かう途中海没したとの説があります。

 これを受け入れ義経を総大将に九州を平定し、頼朝と一戦を構えようとしたのが

平家が集結しているとして宇佐神宮焼き討ちを行い義経を堅牢な岡城(大神城)に盾て籠もろうとしたのが後裔の大神惟栄(コレヨシ)なのです。

参加希望の方は 09062983254まで(古川)

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:43| Comment(0) | ビアヘロ