886 朝倉市の原田八幡宮の前身は正八幡のはずで本来は田神社であったのではないか
20210511
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
朝倉市の原田八幡宮と言ってもご存じない方がほとんどだと思います。
神社ウォッチャーと呼ばれる方にも取り立てて議論する神社とは理解されていないようです。

甘木インター南3〜4キロといったところですか
一見すると普通の鎮守の八幡宮にしか見えない神社ですが、当会の神社ウォッチャーなどメンバーの方々には別のものが見えてくるのです。
まず、私達も何度か足を運び色々な側面から観察する余裕が出てくると見えてくるものがあるのです。
今回はそのような観点から神社をどう見るのかという事をお話ししたいと思います。
神社の場合、最初に目に入るのは鳥居の神額です。
鮮明ではありませんが、多少、鳥文字の様相もあり、正八幡神社だったようにも見えるのです。
右はこれこそ鳥文字といった典型的なものを示したものですが、あまりにも露骨な鳥文字は目立ち過ぎになりますので、何とか正八幡宮の痕跡を伝えたいと思う場合は、それとなく痕跡を残そうとするものなのです。

この話は後に引き継ぐ事にして、早速この神社を考えることにしましょう。
表向きは普通の八幡宮であり、応神天皇、武内宿祢、神功皇后というありふれた祭神となっています。
ところが、神社誌にも書かれてはいないものの境内には田神社が置かれています。
田神社とは旧朝倉郡を甘木、朝倉、把木の一帯に60社近く分布する無格社であり、何らかの政治的な処分が行われ正規の神社が大量に無格社に貶められているのです。
「福岡県神社誌」(下巻無格社一覧)を見ましたが同社境内の田神社はこの中には登載されていない様なのです。
しかし、境内にはきちんと残されているのです。

田神社の祭神には幾つかのバリエーションがありますが、埴安彦or埴安彦+埴安姫or埴安命というものが一般的です。
この埴安彦というのが博多の櫛田神社の主神である大幡主(=カミムスビ)のことなのですが、この神社がほ場整備などで移設された物なのか、始めから会ったものかは不明です。
しかし、付近にあったことは間違いがないはずで、原田八幡宮は本来大幡主命を祀る正八幡宮であった可能性が高くなるのです。
そこで、境内を見ると八幡宮御神幸所跡という奇妙な標柱が立っていました。
この神社が八幡宮であるのに、何故、神殿から10メートル程度の場所に御神幸所があるのでしょうか?
一同が不思議に思いましたが、意味が分かりました。

それは、筑後川を挟んだ対岸の浮羽町の正八幡神社からの来訪だったのではないかと言う仮説が浮かび上がったのでした。

古代には有明海が日田市の手前まで入っていたはずで、うきはの正八幡宮(うきは市浮羽町西隈上618)から船での御神幸が行われていた可能性がありそうなのです。だから小隈と名乗っているのです。

古代には参道下には船着き場があったのでしょう。発掘すれば石組みさえ出るかも知れません
以下は「福岡県神社誌」中巻27〜28p

なお、八幡宮御神幸所跡の横に置かれた「いがわさま」なる標柱の意味も多少の見当が着きます。
これについてはひぼろぎ逍遥(跡宮)の以下の二本で仮説を出しこれとの関連を考えています。再掲
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
853 | 伊川とは何か? “福岡県飯塚市 伊岐須に注ぐ伊川” A “陝西省渭水盆地” |
852 | 伊川とは何か? “福岡県飯塚市 伊岐須に注ぐ伊川” @ “北九州市の伊川との対応から” |
百嶋由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングデータDVDを必要とされる方は09062983254まで…