884 二つの美奈宜神社の異なる祭神問題の解決の糸口が見えてきた
20210422
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
筑後の神社ウォッチャーの間で問題とされ続けてきた祭神問題に対して解明への多少の糸口が見えて来たので備忘録的に書き留めておこうと思うものです。
そもそも出雲の神様と信じられている中で未だに頑強に大国主命祭祀を継承されている林田の美奈宜神社様にはその一点だけでも敬意を表するところですが、

この間九州の大国主命祭祀を追い続けて来ましたが、朝倉市の林田神社の大国主命祭祀を知りつつも、荷原VS林田の問題が解決しないため九州の大国主命祭祀から除外して考えて来ました。
延喜式内大社
同社三祭神 素戔嗚尊(祇園様)大己貴命(大国様)事代主命(恵比寿様)林田美奈宜神社公式HPより

今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御されました。皇后はこのことを泌し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船、軍器を整え、神々を祭って本邦最初の外征に肥前名護屋から出征していきました。
皇后は航海中船中で素戔嗚尊、大己貴命、事代主命の3神に戦勝を祈願されました。海上恙なく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれました。
戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、橋の津に凱旋されました。そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祭られました。その神が美奈宜神社の3神でございます。

美奈宜神社(朝倉市林田) カーナビ検索朝倉市林田210
まず、同社由緒書きに登場する“肥前、橋の津に凱旋されました。”の部分ですが、以前(もう6〜7年前の事と思いますが)、境内で宮司にお逢いした際、由緒書きの“肥前、橋の津”はどちらにあるのか社伝といったものがありますか…とお尋ねすると、“書かれたものが伝わっております”とのお話をお聴きしております。
では、それはどちらの事と理解されていますかと言うと、“それは分かりません”との事でした。
私は佐賀で生まれ育った者である事から、これは佐賀県武雄市のJR佐世保線高橋駅付近の事としか考えようがない事からその事も宮司にはお伝えしておりましたが、再度確認しておきたいと思います。

佐賀県武雄市(そもそもタケオ市と読める方は稀です)と言っても全国的にはどころか九州的にもほとんどご存じないのが当然であって、県外の方であれば普通の理解だろうと思います。
この高橋の津は現在でも有明海の潮が入る場所であり、古代には佐賀県西部最大の河川六角川を通じて送り込まれる海水がこの武雄市の平坦部に一気に入り、干潮時には一気に流れ出す事から、ゴウゴウと大きな音を伴って潮が出て行く事から「鳴瀬」という地名が付されているのです。
当然、満潮に合わせて神功皇后も軍船を溯上させているはずであり、皇后の船も御船山の北の御崎に船を付け柄崎(武雄)温泉に湯浴みしたとの話までが残っているのです。

この事が理解出来れば神功皇后が肥前の高橋の津に凱旋したとの同社の伝承に十分な合理性が認められる事は明らかなのです。

ところが、「日本書紀」はと言えば、唐津の東の浜玉辺りで鮎を釣ったと言うどうでも良い話以外は採録しておらず、ましてや有明海側の湾奥の佐賀県、福岡県側に凱旋したとの事実は一切記述していないのです。
この事は、その事実を伏せたかった…はずだからなのです。
つまり、その時代、都は九州王朝のそれなのであり、その凱旋すべき首都も有明海から入る事ができるはずの久留米であり、副都としての太宰府だったはずなのです。
その事実を隠したいために、記述として残さなかったのであり、ましてや神功皇后と高良玉垂命=第9代開化天皇とが夫婦であったとの事実も隠しているのです(「高良玉垂宮神秘書」)。
とすると、この由緒は史実を伝えている事がかなり鮮明になって来たのです。
では、もう一方の荷原の所謂 山の美奈宜神社はどうなのでしょうか?
ただ、元々は同じ祭神を持つ同じ神社であったとは考えられるのです。

美奈宜神社(朝倉市荷原) カーナビ検索朝倉市美奈宜荷原 2417−1
「美奈宜(みなぎ)神社」は、朝倉市の荷原(いないばる)地区にある神社です。神功皇后の時代、熊襲(くまそ)という種族がこの地を本拠としていましたが、皇后は栗尾山(くりおやま)に陣を敷き、これを討ちました。その後、神功皇后が三奈木(みなぎ)川のほとりの「池辺」で戦勝を奉告し、後に仁徳(にんとく)天皇によってこの地に神社を建造したと伝わっています。数度の遷宮を経て、天正2年(1574年)の秋月種実(たねざね)が領主を務める時に、現在地へ移りました。毎年10月には市指定の無形文化財である「美奈宜神社御神幸行列」が開催されます。特に寺内橋をゆっくりと行列が渡る様子は一見の価値あり!江戸時代から続く祭りの光景が、佐田川の清流と山々の景色に美しく映えます。
福岡県 おすすめご来福スポットより

御祭神:天照皇大神、住吉大明神、春日大明神、神功皇后、武内宿祢

水の豊かな朝倉市荷原の美奈宜神社は素晴らしいロケーションです…確かに熊襲の本拠地だったのです
さて、話はここから急展開します。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @
ビアヘロ022 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A
ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した!
…外において詳しく書いているのですが、どうも筑前町の大己貴神社は本物に近い物であって、実際の出雲の国譲りは旧朝倉郡で起こり、博多の櫛田神社の大幡主の支配領域を実質継承していた大国主命(大幡主へ大山祗側から送り込まれた入婿)が背後地の彦山を拠点にしていたタカミムスビ系+天照+武甕槌側から奪われたのではないかと思うに至ったのでした。
結果、大国主の次男とされる筑豊の開拓者(実際は草部吉見=武甕槌とナガスネヒコの妹オキツヨソ足ヒメの間の子)の地が奪われたのでした。
ご覧ください筑豊にはお諏訪さん=諏訪神社がほとんど存在しないのです。
それと同様に、朝倉郡内の田神社60社が一社を除き全て無格社に落されているのです(「福岡県神社誌」下巻無格社一覧)。
何よりも重要なのは、筑前町の大己貴神社の4〜5百メートル南の大字弥永の田神社(天神社)境内社に日隅宮(国譲りの代償として建て貰うの社であり、当然にも朝倉郡内ではない)。
「古事記」に書かれる日隅宮が現実に存在したのです。国土調査が行われるまでの旧三輪町に実際に日隅(ウヅ)ノ宮が存在した事が明治15年の全国小字調べで確認できるのでした(福岡県立図書館)。

改訂(日隅宮が現実に存在した事を消そうとする改竄)された現縁起

地理院地図 筑前町大字弥永
この歴史に書き留められなかった旧朝倉郡の国譲りが真実であったのであれば、彦山に拠点を置く高木大神系のゴリオシと彦山の南北の領域の安堵だったはずで、その名残が彦山の周りを支配する出先機関としての48大行事社であることが見えてくるのです。
その首謀者が高木大神と考えれば、安の川原に神々を集い話し合いを行った際に国譲りの口火を切った天照(高木大神の叔母の子)は高木大神の従姉弟に当り、その実行部隊となった武甕槌命は高木大神の次女タクハタチヂヒメを妃としたこれまた高木大神への入婿だった訳です。
簡単に言えば、タカミムスビ系がカミムスビ系に国譲りを強要した事が分かるのであり、その証拠が甘木、朝倉、把木に分布する60もの大宮司社が1社を除き全て無格社に貶められている(祭神=埴安彦+埴安姫or…大幡主+大山祗の妃=大幡主の妹)事実と言えるのです。
これで、この地(朝倉郡の直ぐ西隣り)に大己貴神社がある理由、その起源と思われる日隅宮(大字弥永の字日隅宮から字古寺を経て現在の田神社の境内に移転された)の存在が良く理解できるのです。
しかも、この地に「奈良」と言う字名まであるのです(凡そ40年も遡る国土調査の結果ですが)。
大物主が大国主だった可能性を感じるのです。
では、再び話を二つの美奈宜神社に戻しましょう。
巷では、“同じ美奈宜神社なのにどうして祭神がこれほど違うのか?”という一点に焦点が向けられている事でしょう。
結論から言えばどちらも正しいし、ある時代の祭神を表している事になるのです。
伝えられる神社の創立起源はともかくとして、ある時代には大国主+スサノウなどを軸にした祭神が存在していたはずで、その後、国譲りに協力した(裏切った)事代主が入れ替えられるなども起こった様に思えます。
しかし、国譲りが行われた後に、大国主命から高木大神系=武甕槌に支配権が移ると、天照皇大神、住吉大明神、春日大明神、神功皇后、武内宿祢といった5神が祀られています。
この中に神功皇后が祀られている以上、本来は高良玉垂命と神功皇后が夫婦神として祀られていたはずで、皇后の夫 開化天皇は住吉大明神として祀られていたはずなのです(現在は崇神にされているかも知れませんが)。
武内宿禰は開化の腹違いの兄弟ですし春日大明神は草部吉見のはずです。
象徴的なのは、天照が筆頭に祀られている事で、前述したとおり高木大神の従妹になることから彦山直下の荷原の美奈宜神社としては高木大神系の祭神としているはずです。
一方、林田の美奈宜神社も藤原全盛期には山の荷原の美奈宜神社と同様のものに入れ替えていた可能性がありますが、鎌倉期か室町期か江戸期か武家政権化で現在の祭神に戻したのではないかと考えるのです。
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