2022年06月03日

882 熊本県益城町にももう一つの霜宮があった “熊本県益城町の霜宮神社”

882 熊本県益城町にももう一つの霜宮があった “熊本県益城町の霜宮神社”

20210414

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


一緒に阿蘇市の霜ノ宮に行って頂いた女性から益城町(熊本地震で最も大きな被害を受けた熊本市の南の町)にも下宮があるとの情報が帯飛び込んできました。

 当日は別の女性と山鹿市の街中に在る山鹿市宗方の四面神社が主神として大国主命を祀っている事を確認しようと提案していたのですが、急遽、益城町の霜宮神社を優先する事にして、三人で益城町に向かいました。

 まずは、一人が津守神社を見ていないとの事から休憩の意味もあって津守神社に参拝しました。

 顔なじみの宮司への挨拶もそこそこに一キロ程度先に在る霜宮神社に向かいました。

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阿蘇の霜宮が金山彦系の神社だったと確信を持ってこの益城町の霜宮神社に訪れ、金山川まである事を確認するまでは良かったのですが、どうやら祭神の入れ替えが行われているようで、実際のところは阿蘇の霜宮の方がより正しい祭神を表しているとの印象を受けました。

 実はこの金山川の上流右岸(実際には益城町になるのでしょうか)には戦後まで操業していた銅山がありました。

 これについては以前も取り上げた鳥子(トリコ)@をお読み頂きたいと思います。

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @


城山鉱山跡 場所:益城町金山

ここでは,城山鉱山跡を見ることができます。
 軌道鉄索の基点から少し東に進むと鉱山跡に出ます。抗口はふさがれ,草が茂り,当時の面影は全くありません。

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金山川に下りてみると,ふさがれた抗口から湧き出た地下水が川に流れ込んでいる場所があります。これからも,鉱山の廃液のすごさを見て取ることができるでしょう。ここでは,鉱山跡のスラッジ(鉱滓)を見ることができます。
 川岸近くに積み上げてあります。掘り出した鉱石は,ここで簡単な精錬もされており,これはその時に出た残りカスです
。                              以下「益城町史」

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昭和三十二年十月十四日の熊日新聞は,城山銅山について,次のようなルポルタージュを掲載している。
 益城町津森から東へ四キロ,城山の麓にあるが,城山と金山(かなやま)にまたがっているので金山銅山とも呼ばれている。江戸時代末期頃からすでに土地の富豪富永喜左衛門が銅の採掘を行った記録が残っている。明治になり,四国松山の藤田組,大正四年福岡の堀鉱業,同八年日本窒素と堀鉱業の共同経営,同十四年朝鮮製錬と月日の移るにつれ所有者も代わり,昭和三十年四月に葦北郡佐敷町の井上棟樹氏が所有者になり今日に至っている。

 当時の様子は,明治二十四年頃から銅山に出入りしていた下田卯一郎氏(79)の話によると,城山の山腹に掘られた九つの抗口からツルハシ,ノミの原始的道具で掘り出した鉱石を山の斜面に並んだ炭窯型の炉(七カ所)に入れ,コークスで加熱した後,九尺余りのフイゴで吹いて精錬していた。このため周囲の草木は一本残らず枯死して,山は不気味な様相を呈していたという。ムシロに梱包された製品は,一日二回,四十頭の馬で,当時は川船が通っていた赤井船着場に運ばれ,そこから船で木山,加勢川を下り,川尻から八代に送られていた。
 何分辺鄙な山の中で,経営も運賃が高くて採算がとれなかったと見え,銅を盛んに掘ったのは明治と大正の始めまでで,以後は壁の塗料として鉱石のカスが福岡方面に送られていたに過ぎない。
 一方,鉱山に付き物の鉱毒は,大正四年以前は採掘した鉱石も製品にして運んでいたため大したことはなかったが,同年六月頃から含銅微量の鉱石は,硫酸製造の原料として数百坪の土地に堆積,是が雨毎に流れたのに加えて,同十二年に閉鎖した抗口を,四,五年後に何者かが開放したため,坑内に充満した赤青色の水が金山川に流れ込み,川床,岩は赤く変色,魚その他の生物は絶滅した。鉱毒の惨状は,当時の記録によると,収穫皆無一町五反,五割減二十町,三〜四割減三十町におよび,良質の米を産出していた美田は壊滅的な損害を被ったと云われる。

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平安時代に使われていた古代の製鉄所跡。写真のように原形をとどめているのは全国でも例が少なく大変珍しい。「熊本県指定文化財」
 熊本県内に50ヶ所程古代の製鉄所跡が確認されているが、その内の10ヶ所は玉東町で確認されている。
http://www.town.gyokuto.kumamoto.jp/kankou.tokusanhin/bunkazai/bunkazai.htmを無断借用したもの。


この銅山の存在、採銅集団と金山彦は対応しているはずで、霜宮神社の祭祀の底流にもこの集団が関与しているはずなのです。

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同社の由緒の一部ですが、明らかに阿蘇神社の祭神に沿って書かれており、金山彦やカグツチなど片鱗もありません。

青枠の方が真実を伝えている様に見えます。

また、前半の四宮、五宮、六宮…と書かれているものも、四宮は阿蘇神社の四宮の意味であって、草部吉見のお妃でありタカミムスビ=高木大神の次女タクハタチジヒメを筆頭に、阿蘇惟人など高木大神系の祭神が盛り込まれている事から、その分金山彦が消されている事が一目で分かります。

やはり阿蘇宮司家=高木大神系の意志に沿って祭神が入れ替えられたいると言う印象は拭えないのです。


 ここで百嶋由一郎氏の阿蘇ご一家神代系譜で確認して頂きます。

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百嶋由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングデータDVDを必要とされる方は09062983254まで…

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 再度、百嶋由一郎017阿蘇系譜@ からC、D、E、F、G、H…を確認して頂きましょう。
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製鉄、製銅、冶金集団と金山彦はその地名と言いこの地に金山彦系の霜宮が存在する事は象徴的ですらあります。

 少なくとも喜八(鬼八)がイスラエル系で秦の始皇帝とも姻戚関係を結んだ金山彦であった事だけは間違いが無い様に思えます。これで、喜八伝承が高千穂にも残っている事情も含めかなり鮮明になって来ました。それは高千穂が高木大神の本拠地だからなのです。そして、益城の霜宮でも阿蘇家のスポンサーである高木大神の意向が反映されているのです。

 これらについてはひぼろぎ逍遥(跡宮) 881 難航していた阿蘇霜宮の解読に糸口が見えてきた “熊本県阿蘇市霜宮と喜八伝承” 20210414 を併せてお読み頂きたいと思います。


百嶋由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングデータDVDを必要とされる方は09062983254まで…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記