2022年06月01日

881 難航していた阿蘇霜宮の解析に糸口が見えてきた “熊本県阿蘇市霜宮と喜八伝承”

881 難航していた阿蘇霜宮の解析に糸口が見えてきた “熊本県阿蘇市霜宮と喜八伝承”

20210414

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ご存じない方が多いと思いますが、熊本県阿蘇市にある阿蘇神社の西に霜宮と呼ばれる神社があります。

 この一帯は疫犬原と呼ばれており、阿蘇から高千穂に掛けて「喜八伝承」なるものが色濃く伝え続けられています。

何故この地に疫犬原という地名があり何故この地に鬼八(喜八)伝承なるものがあるのかが分からずにいたのですが、多少糸口を見出しましたので書き留めておくことにしました。ここでは、先に宮崎県高千穂町の伝承をご紹介しておきます。

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  高千穂で鬼八を??退治??

 ミケイリノミコトは、御毛沼命(ミケヌノミコト)とも呼ばれる。古事記では、神武天皇となったカムヤマトイハレヒコの兄である。

高千穂の宮にいたミケイリは、兄弟たちとともに東遷のために出発した。ところが、ミケイリの船は強い風波のために押し流され、本隊と離れてしまい、高千穂に引き返した。

東遷に出発した後、高千穂地方では、鬼八(きはち)という悪者がいて、あちこち荒らし回って、人々を苦しめていた。ミケイリは高千穂の古都を荒らす鬼八を退治しようと決心した。

 このことを知った鬼八は、ミケイリが引き返す道筋で邪魔を始めた。鬼八は、非常な健脚で山野を走り回ったり、悪霊を呼んで雨を降らせたりする術を使ったので、ミケイリは大変苦心した。

ミケイリが高千穂に向かって引き返す途中、川が増水して渡れなくなった。ミケイリは浅瀬を探して綱を両岸に張り、無事に渡った。この川が綱の瀬川である。さらに進んで、日之影町にある阿下(あげ)という村に着いた。ここで宿泊、その場所を御泊(おとまり)、また、その地に衣服を脱いで掛けた岩があり、この岩を「座敷のもと」と呼ぶようになった。

そこから舟の尾という村に出て、この村で食糧を入れた俵を集めて積み上げた。そこは今も俵石といっている。

鬼八は、先々で大雨を降らせて邪魔を繰り返した。ある日、ミケイリは何とかして雨を止めようと思い、天の神々に祈念した。するとたちまち雨がやみ、日が差し始めた。日之影の名前はこのとき、日の姿が見えたところということで名付けられたという。

宮水の村でも大雨に遭い、道端の大木の洞穴で休んだ。雨がやんで出発するとき、休息の記念に自然石2個を残した。村人はこの石を神石として祭った、石は今も宮水神社に祭られている。

大雨に遭ってミケイリのはかまが汚れていたので、村人が洗ってやった。この村は、袴谷(はかまだに)という村になった。この村から上手に波瀬という村がある。ミケイリはここでも休憩した。そのとき、腰掛けた石を腰掛け石という。この石を粗末にすると急に腹痛が起こった。村人はしめ縄を張って波瀬神社の境内に祭った。

ミケイリは高千穂に帰り、苦心の末、鬼八を退治した。それから高千穂地方は平和な村になった。

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ミケイリノミコトとはそもそも神武僭称贈る崇神のことであり、後段の神代系譜をご覧になればお分かり頂けるように、阿蘇高森の草部吉見神=ヒコヤイミミと宗像三女神の市杵島姫の間に生れた大山咋=阿蘇北宮(国造神社):実際には阿蘇宮司家よりも遥かに高格式なのですが…、その子に産まれたのが俗称崇神であり、その関係者が鬼八の一族を滅ぼした若しくは隷属させたと言うのが、この高千穂にも存在する伝承なのです。

 恐らく喜八法師とは金山彦若しくは金山彦の後裔氏族ではないかと考えてきましたが、決め手に欠けこれまで保留して来たものです。

 ところが、今般、霜神社火炊殿をじっくり見て金山彦の痕跡を確認できた事から安直にリポートを書くことにしたのが偽らざるところです。

 所謂、見世物、客集めに集る事を好まないためこの手の施設を見ないと言う依怙地な性格のため発見が遅れたと言うのが偽らざる実情だったのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


伝承には多少のバラつきがありますが、阿蘇系(黎族とも言えるが高木大神=タカミムスビ系)の一族が金山彦系(瀛氏)の一族を虐殺した(恐らく蘇民将来、巨胆将来への報復なのでしょう)伝承だったのでしょう。

 民族と異なる民族との衝突は善悪を越えて起こりうるものなのです。

 もっと早く来ていれば良かったのですが、この霜神社火炊殿には金山彦の名がカグツチ=金山彦と重複して書かれていました。

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山の神=大山祗 その長女神大市姫=ミズハノメ 垣山姫はコノハナノサクヤではないかと…

速秋津日命は市杵島姫なのでしょうククヌチはスサノウでしょうか?

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無題.pngこの事を理解する上でもう一つの傍証があります。

それは、南阿蘇村の祇園社=八坂神社の田尻宮司が2001年に出された著書に阿蘇五岳を挟んで標高の全く異なる県下の11の神社が(π、Φ、フィボナッチ数列…を駆使して)正確に配置されている事を知っていたからでした。

この労作にも案の定、県も神社庁も無視、ダンマリを決め込み未だに正統な評価を全く与えてはいません。

本来なら、全ての学術機関、行政機関を挙げて調査すべきはずのものですが、既存の組織の自己保身のためか、技術立国日本の落日を象徴する物なのです(ザマアナイ)。

僅かに東京大学の地理学会が取り上げ講演を誘致したものの、何時しか消え失せるはずで、村興し町興し世界遺産登録ではしゃぎまわるテイタラクを残すだけになりそうです。


百嶋由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングデータDVDを必要とされる方は09062983254まで…

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廉価版 22p

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この貴重この上ない田尻宮司の研究(今夏小倉講演を準備中)については別途取り上げ半分で中断していますが、今後仕上げに入りますのでここまでとして、もう少し霜宮を考えて見ます。

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神殿の真横に入口があるというのは非常に珍しく(今まで数例です)、私には牢屋にさえ見えるのですが、霜宮神社が切り刻まれバラバラに埋められた喜八の社の特異な現象と見たいのです。

もう一つはこの神殿の西側にだけダビデの神紋の様なものが置かれているのです。

これらも何らかのメッセジのように見えます。そもそもこの地は「役犬原」と呼ばれています(神社地一帯は上役犬原)。これも「忌部」の「イン」であり百嶋由一郎最終神代系譜の「瀛」(イン)でありイスラエル系とされる秦の始皇帝(贏政=エイセイ=インチョン)の一族だからなのです。


1.  【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ) または秦始無題.png(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した


と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。


無題.png市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ[1]

転じて、日本を指す[2]。「東瀛(とうえい)」ともいう[3]。日本の雅称である[4]

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記