ビアヘロ196 太宰府地名研究会6月〜7月のスケジュール表を公開します。
佃収講演 2022年5月29日(日):熊本県和水町 2022年6月5日(日)北九州市戸畑区
太宰府地名研究会 編集員 古川 清久
ビアヘロ196 太宰府地名研究会6月〜7月のスケジュール表を公開します。
佃収講演 2022年5月29日(日):熊本県和水町 2022年6月5日(日)北九州市戸畑区
太宰府地名研究会 編集員 古川 清久
890 高千穂の四恩山裾野の下野神社再掲 A “宮崎県高千穂町下野神社”
20210512
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
前回に引き続きになりますが、以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下を書きました。
ビアヘロ151 高千穂町上野の下野八幡神社への下調べ @ 20200820
483 古代の痕跡を今に留める高千穂峡の手前に鎮座する不思議な神社 “高千穂町上野 上野神社”
写真は 上野(カミノ)神社 カーナビ検索 高千穂町上野3384
当時からの思いでしたが、この上野神社の背景を探るためにも下野八幡大神社も見るべきと考えていました。以下上野神社の一部再掲載から始めます。
この高千穂の上野という土地の面白さはとりあえず上野神社の祭神に良くあらわされています。
一つはイザナミの夫であるイザナギが祀られていません。この点は大半の熊野系神社と同様です。
我々百嶋神社考古学の者としては、“イザナミ(金山彦の妹)はイザナギと別れ博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ のお妃となっておられます”との説を受入れています。
元々、高千穂が高木大神の領域であった事は既に述べていますが、にも拘らず、高木大神(タカミムスビ)そのものも、その息子であり、木花開耶比売命(コノハナノサクヤヒメ)の夫であったニニギノミコトも祀られてはいません。
下野八幡宮 カーナビ検索宮崎県西臼杵郡高千穂町大字下野559
特に重要なのは、後に藤原氏の祖となる阿蘇系の草部吉見神(高木大神の次女のタクハタチジヒメの夫)も健磐龍命も祀られていない上に、藤原が追放した道真公は祀られているのです。
してみると、高木大神のエリアであるはずの高千穂にも拘らず、高木大神系が排除されている事がかなり鮮明な特徴と言えるでしょう。
最後に本物の神武天皇と本物の御妃であるアイラツヒメが祀られています。
これこそが本当の神武天皇の実像であり、宝石のような非常に価値ある祭神となっているのです。
ここには近畿大和朝廷成立以前の九州王朝でも初期の神々が結晶として揃い踏みしている様に見えるのです。
御祭神
伊弉冉命(イザナミ) 事解男命(コトサカオ) 速玉男命(ハヤタマオ)
木花開耶比売命(コノハナノサクヤヒメ) 日子火火出見命(ヒコホホデミ)
豊玉比売命(トヨタマヒメ) 鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズ) 玉依比売命(タマヨリヒメ)
神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ) 吾平津比売命(アヒラツヒメ)
花房比売命(ハナブサヒメ) ※まだ確定的に申し上げられませんがタクハタチヂヒメの可能性あり、草部吉見(ヒコヤイミミ)の妃となる以前の状態が反映されている様に見えるのです
神功皇后命(ジングウコウゴウ) 品陀和気命(ホンダワケ) 武内大臣命(タケウチノスクネ)
菅原道真公(スガワラミチザネ)
簡単に言えば長崎県の大村湾沿岸から諫早市、島原市に掛けての旧南北高来郡から高千穂町三田井の一帯(現注としては:少なくともと言うべきかも)は高木大神=タカミムスビの領域でした。
そこに真空地帯の様に金山彦系、大幡主(カミムスビ)系と考えられるエリアが存在しているのです。
高来町(たかきちょう)は、長崎県北高来郡にあった町。 2005年(平成17年)3月1日に諫早市、多良見町、森山町、飯盛町、小長井町と新設合併し、新市制による諫早市の一部となった。
ウィキペディア 20200813 14:11 による
烏岳と愛宕岳との線上に上野神社が置かれている事が分かります。
また、上野(カミノ)集落の正面に四恩山があるのです。
愛宕岳は二つ(金山彦)、烏岳も二つあり(ヤタガラス)、この一帯がイスラエル系、瀛(イン)氏の集落である事が分かるのです。
それにしても四恩岳とは凄いですね…。仏教の外皮を剥げば祇園はシオンの置換えでありシオニストのシオンなのです。
故)百嶋由一郎氏からは“高千穂と言うか三田井は、元々、高木大神の支配下にありました。長崎県の諫早、島原一帯から高千穂まで高木大神が支配しておられたのです。…”といった話を聴いていました。
この事からも、隣の熊本県高森町の草部吉見神社の本当の支配者が実は高木大神=ニニギの親父(祖神)であり、草部(クサカベ)の意味も朝鮮半島の伽耶の支配者でもあった高木大神の影響が及んでおり、伽耶部→茅部→草部との表記の変化(鈍化)が起こっているのです。
ついでに言えば鹿児島もカヤカベ教も草部のつまり伽耶部なのです。
祭神を見て真っ先に驚いたのは、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)、吾平津比売命(アヒラツヒメ)という本物の神武天皇と本物のお妃が大切に祀られている事でした。
インチキ神話の宮崎の事、普通なら神武僭称ハツクニシラス崇神が美々津から東征に出たなどと書きそうなものですが(勿論これは正しいのですが、それは開化天皇=高良玉垂命の命により畿内の支配に入ったのであって、この男が事実上の最初の天皇だなどと言うのは大嘘で、それもただの臣下でしかなかったのです)、これだけでもこの縁起には信憑性が認められるのです。
次に、伊弉冉命(イザナミ)が祀られるものの、伊邪那岐命(イザナギ)が書かれていない縁起が相当にある事は神社研究者の方はどなたもご存じかと思います。
現地メモ 上野神社の上には今も赤川権現があり今は薮に覆われて祀られていない。 この地区の人々は佐藤姓が多い。明治期からかそれ以前からかは不明。 |
高木大神の次女である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)は草部吉見のお妃になられていますね。
これは、直ぐに分かれ、イザナミ=クマノフスミは博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神)のお妃となられているからなのです。花房姫は分かり難いがタクハタチヂヒメ(高木大神次女)の可能性あり。
邇芸速日命(饒速日命)は、日本神話に登場する神。
ここから今回のテーマである下野八幡宮の話に入ります。
下野八幡大神社 建久3年(1192年)に岩戸に祀られていた「正八幡」をこの地に移し、高千穂太郎正信公の時代に社殿を建立したと伝えられています。玉依姫命(たまよりひめのみこと)・品陀和気命(ほむだわけのみこと)等が御祭神で、育児・安産・必勝の神様(息長足姫命が抜けていますね 古川注)。
境内には宮崎の巨樹百選に選ばれたケヤキ・イチョウ、平家討伐のために椎葉へ向かう那須大八郎が必勝を祈願して杉の穂を逆さに挿したといわれる「逆杉」、延岡藩主・有馬左衛門佑直純公が島原出陣の際に必勝祈願で植栽した「有馬杉」など、伝説の残る巨木が見られます。
による
下調べですので、検索を続けると「まにまに」というを見せて頂くと、この地区の背景がある程度伺えます。
このイチョウの木は、お寺の鐘や盲僧(かつて中国地方の一部と九州に多く存在した盲目の宗教者。 彼らは年に数回琵琶びわを背負い、村々を訪れ、屋敷や竃かまどの神である荒神様こうじんさまを祀るためのお経をあげたり、正月にお札を配ったりしていました)たちの琵琶の音を聴いて育ったそうです。
境内掲示板によると、およそ800年前の鎌倉時代、現在は廃寺になっている鶏足けいそく寺の寛信和尚かんじんおしょうが比叡山延暦寺鶏足院ひえいざんえんりゃくじけいそくいんで修行された後、持ち帰り植樹されたといわれています。
元々、当社のお隣にあった鶏足寺(明治元年、明治政府の神仏分離令により廃寺となる)は宝治元年(1247年)に寛信和尚かんじんおしょうが開山された盲僧寺もうそうでらで、和尚は三田井氏(西臼杵地方の豪族)の本城「向山中山城」で生まれたといわれます。
寛信和尚の生まれが向山中山城なので向山神社と関係があると解釈しました。…
建久3年(1192年)に岩戸に祀られていた(今の大字岩戸)二ッ嶽にお祀りされていた「正八幡」を大神惟基公おおがこれもとこう(平安時代中期または後期の武将)がこの地に移し、高千穂太郎正信公(大神惟基の子)の時代に社殿を建立したと伝えられています。
大分県の穴森神社とも関連のある大神惟基公(大神姓の蛇神婚伝説)。二ッ嶽神社は未参拝なので、いつかお参りに伺いたいと思いました。 以上抜粋。
高千穂町の解説に従えば「建久3年(1192年)に岩戸に祀られていた「正八幡」をこの地に移し…」とあり、下野八幡大神社が正八幡神社であった事が分かりました。
正八幡神社についてはこれまでにも何度も書いてきましたので改めて書くことはしませんが、関心をお持ちの方はグーグルでも ひぼろぎ逍遥 正八幡 でダブル検索を試みて下さい。
ひぼろぎ逍遥
364 | うきは市の正八幡宮初見 | |
280 | 行橋市の正八幡神社初見 | |
いかに、表向きは玉依姫命、品陀和気命、息長足姫命を祀ろうとも、この神社が正八幡であったと知り、この地域が高木大神系の地域であるにもかかわらず、金山彦系+大幡主系の拠点であった事が見えてきました。
そもそも正八幡宮とは八幡宮以前の八幡宮であり、本来の八幡神とは博多の櫛田神社の主祭神である大幡主=カミムスビ神なのです。勿論、大幡(一部絹さえも使われた大きな帆の意味)とは博多港を拠点にして活動していた武装商船隊の船の帆の事であり、その大きな帆を張った船を率いて半島、江南、インドシナへと船を操っていた八幡船(武装商船=実質的な海賊船=海軍)の事なのです。
八幡船 ばはんせん 奪販,番舶,破帆とも書く。特に室町時代から戦国時代にかけて現れた海賊船一般をいう。後世倭寇の意味に用いられた。倭寇が「八幡大菩薩」の旗印を掲げたことに称呼の起源があるとされるが,確証はない。 ネット上の「ブリタニカ国際大百科事典」 小項目事典より
研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください
ビアヘロ197 阿蘇大蛇伝説と祖母山の謎を解く熊本神代史研究会豊後トレッキングのご紹介
(2022年7月10日(日) 2022年初夏祖母山北麓に大蛇伝説を探るトレッキング資料から)
20220510
熊本神代史研究会 古川 清久
ようやく祖母山とは何か?何故、祖母山なのか?そして誰が祖母山と名付けたのか? それがこの間の 河上 猛とヤマトオグナ(後の日本武尊)の話の探求からようやく分かってきました。 今回はこれを現場で確認するトレッキングです。 |
西原村
集合場所:高森町 スーパー・アスカAsuka 10:00 (雨天延期2回まで)昼食+お賽銭:各自持参
オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…
連絡 090-4518-3207(田上) 090 6298 3254(古川)
訪問予定地 : 穴森神社 → 健男霜凝日子神社(天気次第で現地で昼食) → 宇田姫神社 → 岡城址
梅雨明けしているかどうかも分かりませんが(雨天延期)、この間取り上げてきた河上 猛 の末裔が大神一族となったのではないかと言う仮説の集大成として現地トレッキングを行う事としました。
今回のトレッキングの前提(予備知識)とテーマは幾つかあります。当然、雨天順延、再順延あり
● ヤマトオグナ(後の日本武尊)の熊襲(河上猛)退治の舞台は佐賀県の佐賀大和IC付近だった
● 誅殺されたはずの河上 猛は神埼市(吉野ヶ里町西隣)の旧脊振村で許され福岡市早良区に落ち延びた
● この話は故人)百嶋由一郎から聴かされていた どこに落ち延びたか名前も分かっているそれもまとまって住んでおられる…とまでは言っていたが、可哀そうだからとしてそれ以上を語らなかったし、我々も問い詰めてはいけないとしていたが、そのまま鬼籍に移られた
● この謎をそのままにはしておけないと思い、手掛かりを探し手書き資料を探っていると分かってきた それ以降の話はブログとして公開するのでお読み頂きたい 遅くも秋口には公開する
● そこで色々と考えていると その一族の名が大神(オオガミ)と分かったことから阿蘇の大蛇伝説の大神(オオガ)ではないのか?という事に思い至り、応神登場の謎まで見えてきたのだった
以下ひぼろぎ逍遥(跡宮)から オンエア公開は盆明けか?
936 | ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも 行います ⓫ |
934 | ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような 土地だったのか?下 ❿ |
933 | ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような 土地だったのか?上 ❾ |
932 | 早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽ |
931 | 河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ |
928 | 続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ |
927 | 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ |
926 | 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向け に用意したレジュメ ❹ |
925 | 福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々の ご出身地を知りたい ❸ |
924 | 福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が 住み着いた現地を確認した ❷ |
923 | ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今も その一族は福岡市早良区に住んでいる ❶ |
分量が多いためゆっくりお読み下さい。
熊本神代史研究会トレッキング(太宰府地名研究会)2022年6〜7月のスケジュール
梅雨明け7月10日に大分県竹田市〜豊後大野市の3社に掛けてトレッキングを行います。何故、この神社を選んだかと言えば、この間取り上げてきたヤマト・オグナの熊襲退治の一方の主人公である河上 猛が、この祖母山北麓の穴森神社と健雄霜凝日子神社に関連する阿蘇大蛇伝説を創った大神一族ではなかったのか…という仮説と繋がってきたのです。それこそが百嶋由一郎が残した示唆が導いてくれたのでした。 河上猛は阿蘇大神氏なのです。 22年7月10日(日)10時に熊本県高森町スーパーASUKA:熊本県高森町大字高森1978-2集合(弁当持参) |
テーマ:祖母山の祖母とはなにか? 一体誰の祖母なのか? では祖母の孫とは誰なのか?
➊ 穴森神社 カーナビ検索 大分県竹田市神原1432番地 祭神:穴森大明神 嫗嶽大明神とも…延喜式内社 豊後國直入郡 健男霜凝日子神社とも… ※ お賽銭は各自でご準備下さい(オープン参加)。
➋ 健男霜凝日子(タケオシモゴリヒコ)神社神幸所(里宮) カーナビ検索竹田市神原2447
➌ 宇田姫神社 カーナビ検索 豊後大野市清川町三玉1493 御祭神 華ノ本姫
➍ 岡 城址 カーナビ検索大分県竹田市竹田2889 お杖代09062983254(古川)
今回、佃収先生の熊本(和水町)講演が急遽決まりました。このため、準備不足ながら8日間に2度もの講演会を行うことになりました。日々追われる皆様にはご迷惑をお掛けしますが、逆に言えば最良かつ念願の講演者のお二人をお迎えすることになります。時間に余裕がなく宣伝できませんが最大の取り組みを行います。
皆さん宗像市に何故 かのこの里、かのこゆり と二つもの施設(道の駅)があるかお分かりになりますか?
この花は市杵島姫が愛した花との伝承があるのですが、彼女が幼少期を過ごしたと思われる飯塚市鹿毛馬の厳島神社の鎮座地が田島(宗像の辺津宮)でその隣接する大字が佐與(サヨ)なのです。ここに住んでいたから別名が作用姫(兵庫の佐用町佐用津姫神社)になっているのですが、これが古代中国語ではユリを意味していたようなのです。赤間、東郷は市杵島姫の実在を思わせます。そしてこの花は鹿児島県いちき串木野市(市杵島姫が地名に反映していますね)、薩摩川内市の沖に浮ぶ甑島が列島でも最大の群生地なのです。百嶋神社考古学では阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミと市杵島姫とは夫婦で、先生からも神武巡行に随行し甲府から戻り、薩摩の阿多の村主(スグリ)になっていると聴いています。これが甲府の天津司神社の舞として残り、徳島の二つの天都賀佐比古神社として痕跡をとどめているのです。してみると甑島に鹿島町があったことも分かってきます。の鹿島も草部吉見=ヒコヤイミミ(藤原氏の祖神)なのです。彼女も共に。
➊ 穴森神社 カーナビ検索 大分県竹田市神原1432番地 祭神:穴森大明神 別名嫗嶽大明神とも…
昼食場所:延喜式内社 豊後國直入郡 健男霜凝日子神社嫗岳(うばだけ)大明神の化身である大蛇が住んでいた厳窟が御神体。宇田姫神社の御神体である穴と通じているという説がある。国民的古典『平家物語』緒環の章に登場する由緒ある社殿と洞窟。
物語は広く中国や東南アジア、そして日本の大和三輪山に類似する神婚伝説、大蛇伝説の英雄物語で、また男女出会いの恋物語です。
穴森神社にある洞窟こそ名曲『荒城の月』で有名な竹田市のシンボル『岡城』築城主、緒方三郎惟栄のふるさとなのです。今では恋と出会いの場所となり参拝者も多く、洞窟内の小石ひとつを持ち帰ると子宝に恵まれるとのいい伝えがあります。願いが叶ったら小石をそっと元の洞窟へ。 竹田市HPより
➋ 健男霜凝日子(タケオシモゴリヒコ)神社神幸所(里宮) カーナビ検索竹田市神原2447
では、健男霜凝日子とは一体誰なのでしょうか?
ここでは結論のみ申し上げます。実は神武高兄五瀬命なのです。
金山彦と大山祗の姉オチノヒメ(母=天御中主命、父=ウマシアシカビヒコヂ 金 越智)の兄が五瀬命、妹がアイラツ姫(神武の妃)だから三五の桐紋(天皇家姻族)を使うことができるのです。
この延喜式内小社は豊玉姫を崇神=神武天皇として描いていますが、阿蘇初代宮司家として知られる惟人の姉か妹である奈留田姫と当時久留米の高良山に居たウガヤフキアエズとの間に生まれたのが河上 猛だったのです(百嶋由一郎最終神代系譜)。奈留田姫は八坂刀女と名を改め建御名方と共に諏訪に道行となるのです。奈留田姫とウガヤフキアエズとの間に生まれたのが河上 猛だったのです。
通説の嘘が見えてきました。祖母山と名付け山頂に姥岳神社までを置いたのは、崇神天皇の一族だとでも強弁するのでしょうか。私には、大神の一族こそが相応しいと思います。
阿蘇宮司家は惟人が継ぎ、誅伐された大神氏=河上 猛の一族は傍系となったはずです。
だからこそ新天地を求め東へ進出したのです。
恐らく、豊玉姫と姥岳神社(鴨玉依姫)を祖母山山頂に祀ったのは大神一族以外には考えようがありません。その鬱積した思いこそが祖母山の御使いとしての大蛇伝説を生み出し、自らを祖母山の豊玉姫の孫にあたると自称した人こそ河上 猛もしくはその後裔なのですが 改竄と偽装の書故これ以上の追及は困難を極めます。
何れにせよ、後の崇神を神武天皇として描こうとしたのは阿蘇氏の一派の藤原であったのであり、そこから神武天皇がウガヤフキアエズの子としてに生まれたという宮崎のインチキ神話が生まれるのです。
➌ 宇田姫神社 カーナビ検索豊後大野市清川町三玉1493 御祭神 華ノ本姫
大蛇と華御本姫(はなのおもとひめ)の伝説は平家物語第八巻緒環の章に登場しています。
平家物語の本文には「華御本姫」とは記載されず、「豊後国の片山里に昔、女ありけり。ある人の一人娘、夫もなかりけるがもとへ」と書かれています。大分県豊後大野市から気ままなblogより
この華御本姫こそが穴森神社から通ってきた祖母山の使い大蛇との間に産んだのが大神惟基との説話が生まれ、阿蘇大神一族は大蛇の子孫と称し、辛島氏と共に宇佐神宮に応神を持ち込んだ大神比義となるのです。
では、この大神の一族とは誰なのでしょうか?このため博多の櫛田神社の花の本も芭蕉の俳号などではないのです。それに一つの仮説を与えたのがヤマトオグナの熊襲退治の説話でした。そして、後の日本武尊に誅伐されたとされた「河上 猛」の後裔氏族だったのだと考えるのです。
➍ 岡 城址 カーナビ検索大分県竹田市竹田2889
大神惟基から数代降り世は鎌倉政権成立期を迎えます。後の頼朝、義経の兄弟不和は良く知られていますが、後白河法皇に唆され義経は豊前、筑前、肥前を与えるとして九州へと向かう途中海没したとの説があります。
これを受け入れ義経を総大将に九州を平定し、頼朝と一戦を構えようとしたのが
平家が集結しているとして宇佐神宮焼き討ちを行い義経を堅牢な岡城(大神城)に盾て籠もろうとしたのが後裔の大神惟栄(コレヨシ)なのです。
参加希望の方は 09062983254まで(古川)
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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