888 市杵島姫が秦の始皇帝の贏政の「贏」が瀛津嶋姫と書かれる“朝倉市佐田町高木神社の境内摂社”
20210511
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
2021年4月11日に予定していた 太宰府地名研究会トレッキング福岡県朝倉郡 「大国主命は朝倉郡を譲らされた」(日隅宮の発見)は雨で二度延期し難航の上ようやく5月に実施しました。
週休2日制が行渡っていた20年前と異なり、土曜には行けるが日曜には行けない、日曜には行けるが土曜には行けない…となかなか集まる事が困難になっているなか、追加のトレッキングを行なうと多くの希望があり、以後6回(7回目も行いますが)のトレッキングを行ない、延40数名のトレッキングとなりました。
そこで、幾つかのケースで重複を避け新たなポイントも案内する事にしました。それが、朝倉市佐田の高木神社でした。実は、大国主命の国譲りの現場が福岡県朝倉市一帯の旧朝倉郡であった事の背景に彦山を拠点とした高木大神系の本拠地の安堵が国譲りの原因であった事が見えて来たからでした。
彦山48大行司社は彦山の南北に実質的な行政機関を置き、高木大神系の支配領域を確定させたのでした。
国譲りを強要した大幡主=カミムスビ+大国主命(大幡主系:宗像3女神の2神を妃とした)3悪人こそ高木大神=タカミムスビ、天照大神(高木大神の叔母と列島大率姫氏の子)、阿蘇高森草部吉見(高木大神の次女タクハタチヂヒメを妃とした実質的な入婿)であり、国譲りとはタカミムスビ系とカミムスビ系との代理戦争だったのです。今回は、その代表的な出先機関の一つに朝倉市佐田町の高木神社があった事から案内したのでした。
ついでに同社境内にある市杵島姫(草部吉見のお妃)祭祀があることから再度公表する事としました。
ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”
159 秦の始皇帝と市杵島姫
同(跡宮) 106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”
054 秦の始皇帝と市杵島姫
「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、始皇帝は臝政(エイセイ=インチョン)と呼ばれていました。
対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び先行して列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿馬毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。
彼らは秦が滅びる前に海を渡り列島に入っていることから、さんずい偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。「東瀛」と言う言葉もありますが、これも大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものも意味しているのです。
始皇帝の一族も政治的な変化によりその一族は列島に避退してきているようです。列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役小角の一族がそれに当たるのです。
宗像大社の市杵島姫も本来の表記は「瀛津嶋比売」ですね。これについては以下も書いています。
文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(朝倉市佐田町の高木神社の境内摂社)
再掲載
178 朝倉市佐田の山奥深く瀛津嶋(イツクシマ)比賣命を発見した!”安倍貞任後裔の秘密集落の高木神社“
2015130
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
内倉武久氏による継体天皇陵長田大塚古墳(朝倉市)説の検証作業を進める中、安倍宗任の後裔一族の墓を発見し、更には死んだはずの貞任の末子の後裔の一族までもが朝倉市内に居られる事を知り、その現地確認作業を進めているのですが、そうした中、七年ぶりに朝倉市佐田の高木神社を訪れることになりました。
予定では二週間後のつもりでしたが、今日が祭礼日と聞き、急遽訪問した訳です。
ただ、神事の形跡は見られるものの、既に直会(ナオライ)に入っているようで、ただ一人、静かな社殿を見せて頂くことになりました。
この地は“安倍貞任の末子を、血を絶ゆさぬように“…と宗任に託され逃れた一族の定着した隠棲地と聞き及んでいます。
それを伝えるかのように、今も一族の名の刻まれた石柱が静かに立っています。
こちらの安倍一族は、木和田、地下両地区に十戸ほどおられ、アベでも「安陪」の字を使っておられます。

高木神社参拝殿(朝倉市佐田)
九州に配流され下向した(実は故地に戻って来たと考えていますが)安倍一族については、既に大分市の宗任後裔の直系のご子孫の方が四月に自家製本ながら600pの大著(「豊後安倍氏の伝承」)を出され、こちらも少ずつ調べている段階ですし、差し障りがあるといけませんのでこれくらいにしておきます。
九州の通説派の方々(といっても大した数はおられませんが)は、“宗任は配流されているが、貞任は自決したはずで、その一族の後裔などいるはずもない”と考えておられるようです。
しかし、現実にその一族の事を知り、その五輪塔などの存在をまでも知ると、大分大学の教授や学芸員など通説派の判断も底の浅いものでしかないとの思いを深めてしまいます。
朝倉市佐田の鳥屋山の奥深くひっそりと隠れ住んだ安陪の一族を思う時、この一族が、“何故、この地を選び移り住んだのか”に思いが馳せるのを抑える事ができません。
私達は、この安倍の一族が、久留米の高良大社にいた高良玉垂命(実は第9代開化天皇)の腹違いの兄弟=第8代孝元天皇の別れである大彦の流れであると考えています。
してみると、九州王朝論の立場からも、やはり故地に戻って来たのではないか…と考えてしまうのです。
カーナビ検索 福岡県朝倉市佐田2953
建設者の後、「安」の崩し文字の「あ」+「陪」で「アベ」、「アヘ」と読み取れますね
高木神社の話に戻します。言うまでもないことですが、高木神社は彦山周辺七里四方48大行事社と重なっており、高木大神=タカミムスビの神が祀られている事は疑いようがありません。
しかし、我々神社考古学のものは、その背後、基層、深層を探るのを常としており、やはり、脇殿に配(廃)された須賀神社(スサノウ)こそ、本来の氏神ではなかったかと考えるのです。
ここまでは、誰でもが想像する許される範囲で良いと思うのですが、実は、境内にはさらに三つ摂社が置かれています。
下の写真を見て頂きますと、竹で組んだ棚状のものがあります。これは、祇園社、八坂神社、須賀神社…などスサノウ系の神社で良く見掛ける習俗で、この点からも、同社の基層には、スサノウ系の人々がおられたのではないかと考えているところ。
三摂社の右端の竹棚は壊れていますね(写真)。
左から瀛津嶋比賣命 五十猛命(読み辛いのですが五十鈴媛命ではなく五十猛かと)命 大山祗命と書かれていました。
もしかしたら、スサノウの後に祀られたのがこの三神で、その後、高木大神に変わったのかも知れません。
真中が怪しいのですが、第10代崇神天皇のお妃である五十鈴媛命かも知れません。しかし、媛を書かずに五十鈴命と読むはずもなく、組合せが奇妙ですが「五十猛命」と読んでおきます。
いずれにせよ、文献では見るものの、実際に市杵島姫命を「瀛津嶋比賣命」と銘記しているものに出くわすことはほとんどありません。
これも、フィールド・ワークの賜物です。「瀛」が秦の始皇帝と金山彦との縁組により許された名誉ある表記であることについては以前も触れましたのでここまでとします。
関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 156「秦の始皇帝と市杵島姫」外をお読み下さい。
彦山の北筑豊から行橋に掛けて国譲りに反対した諏訪神社(建御名方)神社が一掃されている
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