2022年06月18日

887 八丁峠を越えて二つの千手集落がある 嘉麻市千手2153の八幡宮

887 八丁峠を越えて二つの千手集落がある 嘉麻市千手2153の八幡宮

20210511

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県嘉麻郡と朝倉郡との間にはかなりの山があり容易には人々の移動ができませんでしたが、最近、全長4キロ弱の八丁トンネルが穿たれ、朝倉から飯塚(嘉麻)、飯塚(嘉麻)から朝倉まででも車が込んでいなければ(混むことはほぼ無いはずです)それこそ30分そこそこで移動できる事になりました。

このため、分散している多くのメンバーが集まり易くなり、今般の雨で二度延期した「大国主命は朝倉郡を譲らされた(日隅宮の発見)」トレッキングも初回25弱、以降も5回を加え延45名程度が参加するトレッキングとなった次第です。

無題.png
無題.png

まさに山上楽園といった趣の千手集落(嘉麻市側)です


「福岡県神社誌」をご覧になってお分かりの通り、只の八幡宮となっており、千手の他の神社との区別が着きませんでした。

 祭神が応神、神功皇后、玉依姫というかなり珍しい組み合わせに驚きます。

 また、神功皇后と開化天皇との長子若宮=仁徳(シレカシノミコト)俗称オオササギが若宮神社として祀られている事に感動させられます。

 扉のマークが稲荷の紋章ですので、スサノウ、辛国息長大神大目命=伏見稲荷=伊勢外宮豊受大神というスサノウ+大山祗系の祭紙が強く押し出されています。

 故)百嶋先生からは「千」の付く地名、千住、千束、千田…は、物部集落と教えられていますが、ここもその典型と言えるようです。

 福部神、福智神が不明ですが、いずれも製鉄神と考えられ、冬場に南に山を背負い北西方向に風を受ける土地柄は製鉄適地とまでは言えそうです。

 福は金吹きの意味なのでしょう。

無題.png
無題.png

多くの随神が祀られていますが、このようにこの地域の人々が古来祀って来た神々を正しく伝えてこそ神社が継承されるのであって、この努力には惜しみない拍手を送りたいと思います。

ただ、それでも報われないほどに神社を取り巻く環境は危機的としか言いようがありません。

しかし、心を奮い立たせ、この立派な神社の解析を進めたいと思います。

無題.png
無題.png

藤の季節を過ぎていましたが山手の集落では満開でした九州王朝系の神社には藤棚が必ずあるのです


 以前から気にしていた千手の集落の性格の一端が確認できましたが、反対側の朝倉市秋月の千住の神社を確認し、暫く、この一帯の神社を全て確認して見たいと思います。

 そうすれば、もう少し詳しい事が見えてくるはずです。

特に気にしているのが嘉麻市碓井の一帯で、これが群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある標高960メートルの碓氷峠の地名を付した人々のルーツではと考えているのです。

これも今後の作業です。


百嶋由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングデータDVDを必要とされる方は09062983254まで…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年06月21日

888 市杵島姫が秦の始皇帝の贏政の「贏」が瀛津嶋姫と書かれる“朝倉市佐田町高木神社の境内摂社”

888 市杵島姫が秦の始皇帝の贏政の「贏」が瀛津嶋姫と書かれる“朝倉市佐田町高木神社の境内摂社”

20210511

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


2021411日に予定していた 太宰府地名研究会トレッキング福岡県朝倉郡 「大国主命は朝倉郡を譲らされた」(日隅宮の発見)は雨で二度延期し難航の上ようやく5月に実施しました。

週休2日制が行渡っていた20年前と異なり、土曜には行けるが日曜には行けない、日曜には行けるが土曜には行けない…となかなか集まる事が困難になっているなか、追加のトレッキングを行なうと多くの希望があり、以後6回(7回目も行いますが)のトレッキングを行ない、延40数名のトレッキングとなりました。

そこで、幾つかのケースで重複を避け新たなポイントも案内する事にしました。それが、朝倉市佐田の高木神社でした。実は、大国主命の国譲りの現場が福岡県朝倉市一帯の旧朝倉郡であった事の背景に彦山を拠点とした高木大神系の本拠地の安堵が国譲りの原因であった事が見えて来たからでした。

彦山48大行司社は彦山の南北に実質的な行政機関を置き、高木大神系の支配領域を確定させたのでした。

国譲りを強要した大幡主=カミムスビ+大国主命(大幡主系:宗像3女神の2神を妃とした)3悪人こそ高木大神=タカミムスビ、天照大神(高木大神の叔母と列島大率姫氏の子)、阿蘇高森草部吉見(高木大神の次女タクハタチヂヒメを妃とした実質的な入婿)であり、国譲りとはタカミムスビ系とカミムスビ系との代理戦争だったのです。今回は、その代表的な出先機関の一つに朝倉市佐田町の高木神社があった事から案内したのでした。

ついでに同社境内にある市杵島姫(草部吉見のお妃)祭祀があることから再度公表する事としました。

ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

 159 秦の始皇帝と市杵島姫

同(跡宮)   106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

054 秦の始皇帝と市杵島姫

「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、始皇帝は臝政(エイセイ=インチョン)と呼ばれていました。

対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び先行して列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿馬毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。

 彼らは秦が滅びる前に海を渡り列島に入っていることから、さんずい偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。「東瀛」と言う言葉もありますが、これも大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものも意味しているのです。

始皇帝の一族も政治的な変化によりその一族は列島に避退してきているようです。列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役小角の一族がそれに当たるのです。

宗像大社の市杵島姫も本来の表記は津嶋比売ですね。これについては以下も書いています。

無題.png

文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(朝倉市佐田町の高木神社の境内摂社)


再掲載


178 朝倉市佐田の山奥深く瀛津嶋(イツクシマ)比賣命を発見した!”安倍貞任後裔の秘密集落の高木神社“

2015130

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


内倉武久氏による継体天皇陵長田大塚古墳(朝倉市)説の検証作業を進める中、安倍宗任の後裔一族の墓を発見し、更には死んだはずの貞任の末子の後裔の一族までもが朝倉市内に居られる事を知り、その現地確認作業を進めているのですが、そうした中、七年ぶりに朝倉市佐田の高木神社を訪れることになりました。

予定では二週間後のつもりでしたが、今日が祭礼日と聞き、急遽訪問した訳です。

ただ、神事の形跡は見られるものの、既に直会(ナオライ)に入っているようで、ただ一人、静かな社殿を見せて頂くことになりました。

 この地は“安倍貞任の末子を、血を絶ゆさぬように“…と宗任に託され逃れた一族の定着した隠棲地と聞き及んでいます。

 それを伝えるかのように、今も一族の名の刻まれた石柱が静かに立っています。

 こちらの安倍一族は、木和田、地下両地区に十戸ほどおられ、アベでも「安陪」の字を使っておられます。

無題.png

高木神社参拝殿(朝倉市佐田)


九州に配流され下向した(実は故地に戻って来たと考えていますが)安倍一族については、既に大分市の宗任後裔の直系のご子孫の方が四月に自家製本ながら600pの大著(「豊後安倍氏の伝承」)を出され、こちらも少ずつ調べている段階ですし、差し障りがあるといけませんのでこれくらいにしておきます。

九州の通説派の方々(といっても大した数はおられませんが)は、“宗任は配流されているが、貞任は自決したはずで、その一族の後裔などいるはずもない”と考えておられるようです。

しかし、現実にその一族の事を知り、その五輪塔などの存在をまでも知ると、大分大学の教授や学芸員など通説派の判断も底の浅いものでしかないとの思いを深めてしまいます。

朝倉市佐田の鳥屋山の奥深くひっそりと隠れ住んだ安陪の一族を思う時、この一族が、“何故、この地を選び移り住んだのか”に思いが馳せるのを抑える事ができません。

私達は、この安倍の一族が、久留米の高良大社にいた高良玉垂命(実は第9代開化天皇)の腹違いの兄弟=第8代孝元天皇の別れである大彦の流れであると考えています。

してみると、九州王朝論の立場からも、やはり故地に戻って来たのではないか…と考えてしまうのです。


カーナビ検索 福岡県朝倉市佐田2953

無題.png

建設者の後、「安」の崩し文字の「あ」+「陪」で「アベ」、「アヘ」と読み取れますね


高木神社の話に戻します。言うまでもないことですが、高木神社は彦山周辺七里四方48大行事社と重なっており、高木大神=タカミムスビの神が祀られている事は疑いようがありません。

しかし、我々神社考古学のものは、その背後、基層、深層を探るのを常としており、やはり、脇殿に配(廃)された須賀神社(スサノウ)こそ、本来の氏神ではなかったかと考えるのです。

無題.png

ここまでは、誰でもが想像する許される範囲で良いと思うのですが、実は、境内にはさらに三つ摂社が置かれています。

下の写真を見て頂きますと、竹で組んだ棚状のものがあります。これは、祇園社、八坂神社、須賀神社…などスサノウ系の神社で良く見掛ける習俗で、この点からも、同社の基層には、スサノウ系の人々がおられたのではないかと考えているところ。

 三摂社の右端の竹棚は壊れていますね(写真)。

左から瀛津嶋比賣命 五十猛命(読み辛いのですが五十鈴命ではなく五十猛かと)命 大山祗命と書かれていました。

もしかしたら、スサノウの後に祀られたのがこの三神で、その後、高木大神に変わったのかも知れません。

真中が怪しいのですが、第10代崇神天皇のお妃である五十鈴媛命かも知れません。しかし、を書かずに五十鈴命と読むはずもなく、組合せが奇妙ですが「五十猛命」と読んでおきます。

無題.png
無題.png

いずれにせよ、文献では見るものの、実際に市杵島姫命を「瀛津嶋比賣命」と銘記しているものに出くわすことはほとんどありません。

これも、フィールド・ワークの賜物です。「瀛」が秦の始皇帝と金山彦との縁組により許された名誉ある表記であることについては以前も触れましたのでここまでとします。

関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 156「秦の始皇帝と市杵島姫」外をお読み下さい。

無題.png

彦山の北筑豊から行橋に掛けて国譲りに反対した諏訪神社(建御名方)神社が一掃されている












百嶋由一郎氏の神代系譜、音声CD、手書きスキャニングデータDVDを必要とされる方は09062983254まで…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年06月24日

889 高千穂の四恩山裾野の上野神社再掲 @ “宮崎県高千穂町上野神社”

889 高千穂の四恩山裾野の上野神社再掲 @ “宮崎県高千穂町上野神社”

20210512

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前(20170922)ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下を書いています。今後のシリーズに合わせ以下再掲載。

483 古代の痕跡を今に留める高千穂峡の手前に鎮座する不思議な神社 “高千穂町上野 上野神社”


 多い時には熊本のメンバー数十人単位で大規模なトレッキングを行っていましたが、最近は各自五月雨的に神社トレッキングを行い始めています。

 女性はむしろ土日に休みに難い事もあるため、今後は小規模トレッキングを連発した方が密度も上がり、機動的に動ける上に、重複が避けられ(勿論、何度も行くことによってようやく分かる事もあるため必ずしも重複が良くない訳でもないのですが)平日に何度か行う方が良いのかも知れません。

 第一、何台もの(時として10台も超える)車で狭い神社に移動するのは大変な事なのですから。

 これは、急に時間ができたお二人が神社を訪問するという話を聴き急遽私が加わった小規模トレッキングのリポートなのです。

 これまでは、読者の皆さんにはどうでも良いような話でしょうが、やっている方はそれこそ真剣で、見落としがない様に注意して時間に追われる遠距離の調査を行っているのです。

無題.png

烏岳と愛宕岳との線上に上野神社が置かれている事が分かります。

 また、上野(カミノ)集落の正面に四恩山があるのです。

 愛宕岳は二つ、烏岳も二つあり、この一帯がイスラエル系、瀛(イン)氏の集落である事が分かるのです。それにしても四恩岳とは凄いですね…。祇園はシオンの置換えでありシオニストのシオンなのです。

無題.png

社殿は上の千木は男神である事を示しています

無題.png
無題.png

無題.pngさて、高千穂の神社を取り上げることにします。

 神社研究者にとって高千穂に関して全く触れない訳にも行かないのですが、実のところ、どのように解釈するかはかなり難しく、島津が造った南の高千穂はともかくも、ある程度の信憑性をもった北の高千穂の分析には注意を要します。

 故)百嶋由一郎氏からは“高千穂と言うか三田井は、元々、高木大神の支配下にありました。

長崎県の諫早、島原一帯から高千穂まで高木大神が支配しておられたのです。…”といった話を聴かされていました。

 この事からも、隣の熊本県高森町の草部吉見神社の本当の支配者が実は高木大神=ニニギの親父(祖神)であり、草部(クサカベ)の意味も朝鮮半島の伽耶の支配者でもあった高木大神の影響が及んでおり、伽耶部→茅部→草部との表記の変化(鈍化)が起こっているのです。ついでに言えば鹿児島もカヤカベ教も草部のつまり伽耶部なのです。

 草部吉見ことヒコヤイミミは高木大神=タカミムスビの次女タクハタチヂヒメを妃としており、その意味ではタカギオオカミ系なのです。だからこそ国風化の時期には「日下」と書いて日下部(クサカベ)と読ませたのです。

無題.png

高木大神の次女である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)は草部吉見のお妃になられていますね。

無題.png

祭神を見て真っ先に驚いたのは、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)、吾平津比売命(アヒラツヒメ)という本物の神武天皇と本物のお妃が大切に祀られている事でした。

 インチキ神話の宮崎の事、普通なら神武僭称ハツクニシラス崇神が美々津から東征に出たなどと書きそうなものですが(勿論これは部分的には正しいのですが、それは開化天皇=高良玉垂命の命により神武僭称贈る崇神が畿内の支配に入ったのであって、この男が事実上の最初の天皇だなどと言うのは大嘘で、それもただの臣下でしかなかったのです)、これだけでもこの縁起には信憑性が認められるのです。

 次に、伊弉冉命(イザナミ)が祀られるものの、伊邪那岐命(イザナギ)が書かれていない縁起が相当にある事は神社研究者の方はどなたもご存じかと思います。

 これは、直ぐに分かれ、イザナミ=クマノフスミは博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神)のお妃となられているからなのです。

無題.png

百嶋由一郎極秘系譜(部分)


死んで黄泉国にいかれた伊邪那美神を、伊邪那岐神が追っていったところ、 すでに伊邪那美神の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。

『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。

その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。唾が玉となって飛ぶ姿の神か。絶縁の神だろうか。

なお、速玉神と記す時、速玉男命とする場合と、熊野速玉大社の祭神・伊弉諾尊とする場合がある。


敬愛する玄松子による

この速玉男命(豊玉彦=ヤタガラス)と泉津事解之男こそが金山彦なのです。

日子火火出見命(ヒコホホデミ)=ニギハヤヒと鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズ)とは親子関係ですので、当然の配神です。

由緒で、一柱だけ分からぬ神様がおられます。花房比売命(ハナブサヒメ)です。これが全く見当が着かないのです。(編集時点の考えとしては、やはり、タクハタチヂヒメで良いと思います)

分からないものを分かったように書くのが一番危険な事ですので、これは今後の課題とします。

最後の応神天皇(ホンダワケ)=こんなものは呉の周王朝の流れも汲まないもので本来の天皇などではありはしない…などが加えられていますが、これは宇佐神宮が羽振りを利かした時代の名残でしょう。

 神話の故郷などと持ち上げられすぎた感のある高千穂ですが、今後少し真面目に考えて見たいと思います。ただ、いなければいけないはずの五瀬命が何故おられないのかが不思議です。


研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

無題.png

ネット検索を続けていると、「花房姫」が出て来ました。しかも、何と直ぐ近くだったのです。

このPDFファイルを発見し何とか見当が着きました。

無題.png

これでは名前を変えても丸わかりで、彦山の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(耳が着いているので阿蘇系黎族と直ぐわかりますよね)、この話の花房姫が誰かはタクハタチヂヒメしかありようがないのです。

ただ、この神社は金山彦系(贏氏)、大幡主系(白族)の神社であり、阿蘇系は全く見当たりません。

してみると五瀬命がいないのは不思議です。

 ただ、三田井は元々高木大神(イスラエルorユダヤ系)の領域だったのであり、タクハタチヂヒメがいても良いのです。


ネット上には花房姫の墓まで出て来ます。そのうち遠くはないので足を延ばして見ようと思います。

無題.png

 どうやら守実温泉で英山社を探せば良いようです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記