2022年05月01日

891 鳥子阿蘇三宮神社について10本以上のブログを書いた訳について

891 鳥子阿蘇三宮神社について10本以上のブログを書いた訳について

20211107

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回、熊本県西原村に鎮座する鳥子阿蘇三宮神社に関して書いてきた鳥子関係ブログが10本まで増えてきた事から、一旦は纏めて整理し統合的に理解する必要があると考え再編集することにしたものです。

これには別の伏線があり、話は今年(2021年)の元旦前後まで遡ります。

無題.png

話はこうです。

熊本県西原村(熊本市に隣接するので山奥とか山里言ったものでは無く都市近郊農業地域といった所)なのですが、作為ある攻撃型地震or自然災害だったかはともかく、数年前の熊本地震の影響を相当に受けた同情すべき地域なのです。人生を破壊された方々が相当に出た悲しむべき地域でもあるのです。

その12日(2021年)の数日前辺りからだったのでしょうが、それはともかく“その元日からの三ケ日の二日目に出て来てこの神社の説明をして欲しい”という乱暴極まりない話が舞い込んだのでした。

それは、神社をあたってみても文書も目立ったものがないようで、ネット上を検索しても参考にできるものが全くなく、ただ、当方のブログだけがこの神社についての纏まった文書をアップしているので教えて欲しいという経緯だったのでした。

ただ、お考え下さい。1月の2日と言えば元日の翌日で皆が正月気分で体を休め一年の抱負を醸し出している時のはずであり、親族ならいざ知らず、遠路出て来らせ(最短でも研修所から70キロ、実家からは140キロ)話を聴きたいとは余りにも身勝手で、一般的には他人への配慮のない要求になるはずです。

日本の普通の常識からはそうだと思うのです。そんなことも分かっていない非常識な話だったのです。

当然、年末年始の糞忙しい時期に、説明資料を再検討し配布資料を作成するなど相当の労力を費やすことになるのは明らかで、実際にはかなり面倒な作業を年末年始に抱え込んだのでした。

結局、実家にも戻らず、それなりの準備をしたうえでかなりのページの紙資料、DVDなど多くの資料を用意して12日の豊後〜肥後へと抜ける兵戸峠越え(スタッドレス・タイヤとは言え当日はかなりの積雪があったのですが山道のためかなりひやひやだったのですが)で菊池市に入り、後30キロ近い道を西原村の某所に出向いたのでした。

こちらも初対面にも関わらず、幕の内どころか二日に出て来いという非常識かつ乱暴極まりない要望でもよほど切迫した事情でもあるかと配慮し、何とか都合を着けて対応したのでした。

当方も事情が良く呑み込めない中でとりあえずは先方のお話をお聞きし、ご協力できる範囲でそれなりの作業を行うこともあるだろうと数時間ほどお話をし、お聴きもしたのですが、どうやら、この鳥子と言う地名の起源、祭神、それが何故三之宮神社なのかと言った事を把握したうえで、かなり大きな広告塔の整備修復を手掛け、新たな解説版の設置をしたいので何とか情報を得たい…という話だったのです。

ただ、どこからか金が降りてくるので作り直すとしても、その説明文などとなると、神社庁、神社、他神社、地域、氏子…と言ったところからのクレームなども予想される事から配慮して書く必要もあり、少し(当方の理解では一週間ほどですか)しばらく余裕を与えて頂いた上でご協力致します…として再び雪の山道(肥後と豊後の国堺)を多少は冷や冷やで帰宅したのでした。

その方々(入れ替わりもあり都合67人の方が対応されたのです)が直接的な神社の氏子の代表とか言った訳もなく、何故、そのような神社の整備に関わる事業を行おうとされたかは未だに分かりません。 

しかしかなりの実業家集団のようで、地域への貢献とビジネス・チャンスが混在している様でした。

当方は数日で、内部に留めておくべきかなり詳しい鳥子神社の性格と、対外的に公表しても問題のない同社の意味についての二段階の言わば表バージョンと、尚も氏子だけには伝えて行くべきものの裏バージョンを書き上げ準備をした上で、連絡役の方にメールで準備ができた旨を伝えたのでした。

ところが、何時、再度の検討会を行うとかの連絡も、初回の謝辞もなければ、当日の費用弁償の話もなく、結局、正月早々嫌な思いをさせられただけで、何のために山から雪道を降りてきたのかさえ分からないと言った有様だったのです。

その正月二日も22年になれば直に来るわけで、準備していた鳥子三之宮神社への新たな文書を眠らせておくのもばかばかしいため、裏表なく同社の性格を書留め一年経過したこともあり公表することにしたのでした。

この様な非常識極まりない無礼な対応をされた上は、当方は自ら調べ書いた文章を公開するだけの話であって、神社のために整備をしたいと言った美辞麗句はともかく、そのような礼儀も何も尽くさない方々が、仮に鳥子地区、鳥子神社に対して良かれと考え作業をされたとしても、また、形だけが如何に整備されようとも愚かな話に貶められる事にしかならないかと思い、これまで書いてきた関係する全てのブログを全文纏めて数系統(アメブロ他3系統)のプロバイダーから公開するものです。

とにかく今回の事に関しては、その後も先方は連絡を取ってこない上に、何のために12日にそちらの都合だけで勝手に呼び出すだけ呼び出しておいて何度かメールで照会したもののほったらかしにするなどこれがまともな日本人がやることかと考えると、もしかしたら在日系か中国系(なら旧正月で腑に落ちるのです)だったのかも知らないとさえ思うものです。そうでなければこういった事は日本人はやらないはずなのです。

 新ひぼろぎ逍遥

891

鳥子阿蘇三宮神社について10本のブログを書いた訳について!

890

熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

889

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

888

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @

887

二つの鳥之子の分布状況を敬愛する玄松子様のデータから

886

鳥之子(天日鷲)も祀る天目一箇神とは鳥之子の祖神=ヤタガラス 

“熊本県山鹿市薄野神社”

885

日置姫とはもう一つの鳥之子「武夷鳥」の母神の“瀛ツヨソ足姫”

なのか?

884

もう一つの鳥之子 武夷鳥(タケヒナドリ) を祀る神社を探る 

“周防の防府天満宮”

883

新潟に鳥之子三宮神社があった

882

鳥子三宮神社の基底部を探る A

881

鳥子三宮神社の基底部を探る @


俗に「鳥子神社」と呼ばれるものでも、天日鷲系と武夷鳥系の神社は共に数が少なく、一般にも貴重ですので、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)でも後世に向けて同じく公開し保存しておきたいと考えています。

鳥子と言っても普通は何のことだかお分かりにならないと思いますが、簡略化して言えば、豊玉彦=豊国主=ヤタガラスの後裔氏族の関係する地名でありその神社であることです。

この点、福岡県でも小烏神社、烏子神社…が正しく散見される程度ですが、今尚、実際に存在が確実視できるのです。詳しくはこれまで公開してきた10本のブログなどを参照してください。

無題.png

ここで改めて、熊本の鳥子をご紹介しておきます。

無題.png

百嶋由一郎鳥子神代系譜024〆鳥子系図


鳥子はヤタガラスの派生氏族ですが、主要には武夷鳥と天日鷲の二系統があります


三之宮の意味は現在の宮野の阿蘇神社12神の三ノ宮=阿蘇高森の草部吉見神社の主神=ヒコヤイ(ハエ)ミミの神社である事を意味しているのです。つまり阿蘇系社ではなく草部吉見系神社なのです。

既にこれまで何度も出していますが、まずは、百嶋由一郎鳥子神代系譜より確認ください。

武夷鳥の具体例は対馬の小牧宿禰神社(長崎県対馬市峰町三根字寺の内959)にもありますが、荘厳さと知名度に於いては山口県防府市にある防府天満宮が典型例になるでしょう。

ただ、この西原村の鳥子は武夷鳥ではなく天日鷲の一族と考えています。

ヤタガラスは影響力の大きな氏族でしたので、多くの民族、氏族から頼られその女子が側室として送り込まれてきました。

このため多くの派生氏族が生じることとなったのですが、武夷鳥の鳥子は道真の時代に於いてヤタガラスの本家と、金山彦系(櫛稲田姫とスサノウ)により生じたナガスネヒコ→オキツヨソ足姫の本家の流れの上に生じていると考えられます。つまりオキツヨソ足姫とヤタガラスとの間に生じた氏族のはずなのです。

これに対して天日鷲が西原村の鳥子となるのですが、資料が乏しく探索は尚続いています。

理由の一つはこの鳥子系譜ではヤタガラスのお妃としての鳥子の母方の名を判っていながら敢えて書いておられないからでした。

ただ、別の系譜では天日鷲の母親=ヤタガラスのお妃は杉山大神=阿蘇ツ姫と書かれていましたので何とか判別ができたのでした。

無題.png

百嶋由一郎 004ヤタガラス系譜原本


 実は、百嶋先生はスサノウと櫛稲田姫が出会った場所というより櫛稲田姫の生地は、熊本県菊池市との境界に近い山鹿市の某所(勿論地番レベルで判っていますが)であると特定されていました。

 このため、当初、西原村の鳥子も製鉄、冶金の神である金山彦系ではないかと考え、オキツヨソ足姫=武内足尼を母とする武夷鳥ではないかと考えたのですが、後の阿蘇系との繋がりと言うか、後の支配が阿蘇系になっているいることから考えると、やはり、杉山大神=阿蘇ツ姫とヤタガラスの間に生まれた氏族と考えるべきなのかも知れません。これはさらに加えた情報からの判読になるでしょう。

 一年間作業が止まっていた事と、要請した側からも何らの情報も得られなかったことからも、当面、これ以上の追及はできないと思いますし、調べようとも思いません。

 何故ならば、「熊本県神社誌」も阿蘇宮司家の意向が強く働いていることは間違いなく、特別な新資料でもなければ当方の作業も推定の域を出ないのです。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

299

大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも山幸と

豊玉姫が…”

298

大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇受賣命

を祀る古社”

297

大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は猿田の

意味を知っていた”

296

大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

295

大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と

安心院の佐田神社 再掲”

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の

経津主も猿田彦大神なのです”

293

大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

292

大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“

291

大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“

290

大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて”

289

大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”

288

大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて”

287

大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の

櫛田神社の主神の大幡主の子であった”

286

大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町

「吾平」のウガヤフキアエズ陵”

285

大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?


無題.png 百嶋由一郎 004ヤタガラス系譜原本(部分)


問題は杉山姫が何なのかが一般には全く分かられないはずである事です。

 実は高森の草部吉見=ヒコヤイ(ハエ)ミミの娘であり阿蘇の健磐龍の妃ともなるのですが、簡略化して言えば男性遍歴が奔放な女性だったらしく、それに合わせて名を幾つも替えられておられるため杉山姫とは恐らくヤタガラスのお妃となって以降の名なのではないかと考えられるのです。

 これを理解するにも百嶋先生の別の神代系譜を読み解く必要があるのです。

無題.png

百嶋由一郎 018阿蘇系譜@-2 神代系譜


 杉山姫の父神である草部吉見は後の藤原により第4代とされる懿徳天皇の妃とされる時は天豊ツ姫と呼ばれ、最終的に頼み込んでヤタガラスに引き取ってももらった後は杉山姫と呼ばれる事になり、私は神奈川県の川崎から武蔵(野)一帯に340社近く存在する杉山神社の主神でもあると考えています。

 以下は、神奈川県のみの拾い出しをグーグルで行ったものですが、実際には東京都下の旧武蔵と飛地としての武蔵にも杉山神社があることからこれ以上の広がりを持っていると考えられて結構だと思います。

そういった意味からは、この一帯に多くの後裔が発展し定着していることから、普通に言えば大発展した氏族であり、一概に尻軽女などと言った単純な批判はするべきではないのかも知れません。

無題.png

いずれにせよ神社研究にはこのような政治的問題、民族衝突、通説派の虚構、神社とそれを奉斎させられる被支配的氏族の乖離と言った問題が介在するためおいそれとは説明できず、排斥され、攻撃されたりする深刻な問題に遭遇する場合が多々生じるのです。

 このため、普通の方々は折り合いを着け、教育委員会、学芸員、神社庁、氏子総代…と言った部分に合わせ迎合されるのですが、我々百嶋神社考古学の者は、元々、隠された真実をこそ研究対象としており、真実を発見することが目的であって、学芸員、教育委員会関係者の様に商売として既存の権力構造に自ら売り込むが如き真似は我々の研究精神を一瞬にして消失させてしまうことに成りかねないのです。

 このことが何故重要かと言えば、中曽根以来、小泉竹中政権のやった郵政民営化、外資参入の全面参入という国富の売り飛ばし政策、経済停滞の恒常化、所得の半減化政策、国内投資の絞り込みによって…

貧窮化した国民が神社を奉斎する経済的基盤を奪い、氏子集団の壊滅、神社本庁の落下傘宮司による支配

構造の状態化によっても、全国の中級以下の神社の存続そのものが危ぶまれるところまで追いつめられているからなのです。

 そうした中、祭りができない、神輿の担ぎ手がいない、注連縄が造れない、婦人会の協力が得られない…という問題が続出しており、あと五年もすれば神社の大半が破綻し、社殿の造り変えや瓦の葺き替えはおろか、奉賀金さえもが集まらない、小規模な補修さえもできずに放置し、挙句の果ては宮司の逃亡、使い込み、投げ出しと言った状態が目前に迫っているにも拘わらず放置されているのです。

 それもこれも戦後の占領政策の中での国家神道の解体は元より、その精神的な本柱であった天皇家の消失を狙った旧宮家の廃止は元より、神社と日本の神々を研究できる自由な構造を妨害し、徹底して潰してきた結果が現在を将来させてきているからであり、日本と言う民族の消失まで向かいかねない状態にあるのです。その原因の一端が、本当の神々を隠すことによって、表面的な平和を取り繕い、征服された氏族が一方的に征服者の神々を崇めさせられていると言った構造の村々、氏子集団もあるのであって、そう言った背景をきちんと引き継ぎ、本来祀られるべき神々の本当の伝説を書けないまでも口述し伝えると言った事が成されない限り、神社に何故金を納めなければならないんだ…。我々は○○〇会だし関係などないのだから…私たちはクリスチャンですが寄進だけは致します…といった人々も存在する中、神社中枢の部分から崩壊が始まっているのです。だからこそ正しい神を浮かび上がらせる必要があるのです。

百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年05月03日

892 丁巳歴史塾7月は三題噺になってしまいました

892 丁巳歴史塾7月は三題噺になってしまいました

20210701

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


古典落語の世界には三題噺というものがあります。

 「笑点」など一度も見たこともないのですが、古典落語の大御所といわず、三題噺は普通におこなわれる余興のようなものと思ってください。

 始めは事代主のブログ氏に単独講演して頂こうと依頼したのですが、少し目先を変えて私と伊藤女史を加えて三人で色々なご質問にお答えしようという多少思いあがった企画が持ち上がりました。


三題噺(さんだいばなし)とは、落語の形態の一つで、寄席で演じる際に観客に適当な言葉・題目を出させ、そうして出された題目3つを折り込んで即興で演じる落語である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210717 10:59による


ここでは、私が話そうと思う内容を新たに書き降ろし、それをお読み頂こうという事にした訳です。まあズルですね。本来は無題.png自然と盛り込むものですが、一人のパネラーとして話す場合は、我を抑え、疑問に素早くお答えし、他のパネリスト(パネリストはともかくパネラーは日本語英語ですかね)へ迷惑を掛けない様にしなければならないのです。では、メリットは無いのかと言われそうですが、そういう事もなく、三人のミツワ石鹸(古いですね…PGサンホームが継承した事までは覚えていますが)の様に重なった部分が相互に現れるため、重なる部分が新たな展開に繋がる場合があるのです。つまり、良く言えば、三人寄れば文殊の知恵なのです。勿論、上手く行けばの話ですが。そこで、私が百嶋由一郎氏の外向きの話をして、事代主のブログ氏が内向きの話(百嶋由一郎氏の原点である久留米高良大社の「高良玉垂宮神秘書」の要点を列挙する)になりそうです。

 「宮神秘書」という難解かつ読み辛い書物を、分かり易く解説するというのですから、私としても有り難いことこの上なく、「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原氏がこの先駆者であり、この分野では最も詳しいのですが、嬉しい限りです。

伊藤女史からは神籠石の話をすると聴いていましたが、私の話が多少は8月のトレッキングで山口県防府市の玉祖神社〜防府天満宮〜天御中主神社でもあるから、例の大室寅之助の出身地である光市、多布施町の石城山神籠石も絡めた話になり、全て繋がりがあるシンポジウムになりそうです。石城山神籠石については、過去、数回訪れ、中心部に祀られている神社の祭神についても「ひぼろぎ逍遥」でリポートしていますので、興味を持たれたら探して下さい。以下。


277

山口県光市の石城山神籠石と石城神社 A 石城神社 

276

山口県光市の石城山神籠石と石城神社 @ 石城山神籠石


無題.png

石城山神籠石 地理院地図(山口県光市)


百嶋神社考古学の最も重要な話の一つ


@  後の藤原氏となる阿蘇氏は漢族から雲南省麗江に追い詰められた黎族の抵抗派(苗族は帰順)で怒江を降りサイゴンから黒潮に乗り海南島へそこで力を蓄え熊本県苓北町から阿蘇へ入る(前3世紀)。

無題.png
無題.png

麗江の支那 手書きデータ 百嶋神社考古学初期03230121阿蘇の草部吉見系は支那人です

無題.png
無題.png
無題.png

奈良県田原本町の多神社


A 雲南省昆明(顛池の畔)や麗江の大理にいた白族の一派も、漢土から脱出し始めます。大理の白族は黎族の阿蘇氏と共にサイゴン経由ですが、昆明の主力はそのまま紅(ファン)河を降り、直接、ハノイ沖の海南島へ入り、熊本から隈地名と共に北上し博多の櫛田神社の大幡主の一族、下賀茂神社の一族となるのです。

無題.png

根子岳の南麓、阿蘇南郷谷の高森町には白川(白水)が流れ出す色見、上色見熊野神社がありますが、この熊野系神社こそ白族の神社であり、天御中主命=白山姫の流れを汲むものなのです。旧白水村も在りましたね。熊野本宮大社はアカル姫(スサノウと別れた市杵島姫の母神)=イワナガヒメを、熊野那智大社はイザナギと別れたイザナミ(クマノフスミ)を、熊野速玉大社は櫛田神社の大幡主=カミムスビを祀る神社群なのです。この南阿蘇一帯に入ったのが白族系、金山彦系、スサノウ系の人々で、どうも阿蘇系は阿蘇谷に住み分けているようです。白族は南阿蘇を気に入ったみたいですね。棲み分けですね。


B  大山祗の一族は半島の金官伽耶から入った王昭君の一族(トルコ系匈奴=南匈奴)で海稲作漁撈の民

ではないため空白だった火山灰土壌の稲作不適地で畑作地帯の古代日向(鹿児島+宮崎)に展開した。

C スサノウは新羅の皇子ですが、イザナギ(昔氏)とイザナミ(イスラエル系金山彦の妹)の子で、櫛田神社の大幡主の隣に祀られています。いずれ9月にご紹介する予定である「炎のピラミッド」研究の南阿蘇村の八坂神社(祇園社)の田尻盛永宮司の神社もスサノウが筆頭神です。

無題.png

この黎(リー)族と白(ペイ)族こそが日本列島民族の34割程度になっているのではないかと考えています。スサノウ系+金山彦系に高木大神系(イスラエル系先行居住神)に江南から入って来た海人族(福建省、浙江省)の越人+周王朝(イスラエル系)の後裔の呉の王族がポリネシアン、バジャウを加えたのが列島に進出した主要民族で、これに百済、新羅、高句麗、漢族、秦氏、渤海が入ってくると列島は民族の坩堝となり、小規模には楚も邯鄲も土舎も早い段階で入っている。これが倭国〜日本国なのです。

これらを全て取り込んだのが我が列島であり多くの民族を一体化させることが急務になるのです


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)     九州王朝正統皇統

B   綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)       阿蘇系(黎族)

C   安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)    大幡主系(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)    九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)      阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト)九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)   黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)        宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)            素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)           九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)              宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)              九州王朝正統皇統

※以下省略

初期16代の天皇+贈る天皇を見るとその事が良く分かります。

後の藤原が好きなように拵えた皇統符ですが、通説派が説明に窮し投げ出した結果欠史8代などと言われる近畿大和とは縁もゆかりもない29代の天皇(そもそも何故初代神武を外し良いとこ取りしているのでしょう?勿論、崇神を神武に仕立てたいからですが)を含む天皇群の中に阿蘇系、白族系などの全く血脈の繋がらない人物が天皇扱いにされているのです。当然、藤原は阿蘇系ですのでご覧の通りです。


無題.png

百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年05月06日

893 8月8日と8月9日 阿蘇の高森町と阿蘇の産山村で平野虎丸氏と阿蘇の風Gが焼畑を行ないます

893 88日と89日 阿蘇の高森町と阿蘇の産山村で平野虎丸氏と阿蘇の風Gが焼畑を行ないます

20210801

太宰府地名研究会 古川 清久


焼畑と言えば、九州では宮崎県椎葉村上椎葉の椎葉クニ子さんが最も知られており、焼畑は元より、栽培種の管理、収穫物の保存や調理、栽培品種の種の保存…とあらゆる知識を蓄えた生きる図書館の様な方なのです。

ただ、そのクニ子様も齢100歳に近づいておられ、将来的にはいずれ人生の終焉を迎えられるはずで、“焼畑の民宿”のために継続されてきた焼畑も、その後継者である息子さんが地場の土木業に頼っておられることから、いずれは消失する事になるはずなのです。

そこら辺の事情については、最近、足が遠のいている事からそれ以上の事を知りません。

さて、平野虎丸氏のお話では上椎葉には同じく椎葉姓の方でもう一人焼畑をやっておられる方(しかも椎葉姓なのですが)が残っておられるとの事、今回のイベントには何とか足を運びたいものと考えています。


無題.png昔のクニ子さんです


平野さんも子供の頃から焼畑を行ってこられた方ですが、この椎葉さんとその他の協力者、全国の平野虎丸ファン・クラブのメンバーも加わり熊本での焼畑の復活を行なわれる事になるでしょう。

しかも山の神への許しを請う唱え「火入れの唱え言」を唱えるのが、高千穂で売りに出されていた神社を買い取り半年で再生させた民間宗教者のF女史(ひのみこ社)と言うのですから、十分過ぎるほどの役者が揃っているのです。この方については、以下の230本のブログを拾い読みして下さい。

新ひぼろぎ逍遥

837

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(上)

843

高千穂町上野の下野八幡神社への下調べ B 枳(ゲズ)とは

何か?下“川口敦子論文から”

852

高千穂町西部の神社が面白い “ひのみこ社周辺の神々下調べ

 追補 @ 黒口神社”

863

高千穂町東部の神社も面白い “ひのみこ社周辺の神々下調べ

 追補 K 天孫降臨と槵觸神社”


無題.pngこのヤボに火を入れ申す  ヘビ、ワクドウ()、虫けらども、早々に立ち退きたまえ 山の神様、火の神様、お地蔵様、どうぞ火の余らぬよう  また、焼き残りのないよう、お守りやってたもうれ


 村ぐるみのような大規模な焼畑が行われる場合には山法師に頼む事もあったのでしょうが、数戸単位の焼畑の場合には、実際に火入れを行なう人と焼畑の地権者は同一である場合が多く、焼畑の実行者が唱えたのが上記の山の神への許しを請う火入れ言葉だったはずなのです。

 ともあれ、高森ではついぞ聞いた事のなかった焼畑が、宮崎ではなく熊本の阿蘇外輪山東麓の高森と産山で実現すると言う事実、それもその中心的人物が私の極近しい人であったことから心を揺さぶられないはずのない実に感動的な話が湧いてきたのです。

 私自身、椎葉クニ子さんの著書も読み、民宿「焼畑」にも何度か泊まりましたが、当時は、「稲作以前」(NHKブックス)佐々木高明著を読んだ直後でしたので、戦前から普通の畑で行われていた陸稲(おかぼ)栽培と、焼畑の関係が良く分からず、全く起源の異なる物なのか(事実宮崎の焼畑ではおかぼ栽培は行わない)、陸稲栽培が焼畑の延長上に成立した水田稲作に先行する物なのかを考えていたのでした。

 ただ、人吉盆地の辺境出身の平野さんの話によると、熊本では陸稲は作っていたとの話でした。

ともあれ、以下の二著は実践的でその意味で興味深い本ではあったのです。

無題.png
無題.png

場所は高森町尾下(オクダリ)ですが、国道57号線波野村の笹岡交差点から大型広域農道が高千穂へと向かう325号線に向かって伸びており、その沿線に虎丸さんの本拠地である「花の森」が見えてきます


無題.pngひのみこ社グループは10時に草部吉見神社付近の奥阿蘇物産館から数キロ入ったストーン・サークル(物産館関係者もご存じです)に10時集合すると聞いています。

平野虎丸さんについては当方のブログでも何度か取り上げていますが、一般には西日本新聞からご紹介しておきます。

とにかく、鉄人、プロの林業家、野鳥、野草Gメンとしても全国的に名の知られた方で、一応、海の本「有明海異変」を書いた私と川を取り上げた堀田宣之ドクターと山のプロである平野虎丸氏…の三人会をこれまで続けてきたのでした。


高森町に「山野草の森」 50ヘクタール整備、折々に観賞会 環境保護団体代表の平野さん

2019/5/15 6:00 

ヤブデマリの白い花を指す平野さん。夏には赤い実を付けるという

 山野草希少種の宝庫として知られる高森町で、自生する四季の山野草を楽しむ森づくりが進んでいる。環境保護団体「エコシステム協会」(熊本市)の代表理事を務める平野虎丸さん(81)が、4年前に個人で購入した山林50ヘクタールを整備。折々に観賞会を開き、自然愛好家を案内している。今月初めにサクラソウが見頃を迎えたほか、6月中旬にはベニバナヤマシャクヤクの観賞会が予定されている。

 県警事務職員だった平野さんは1980年代、野鳥の捕獲や売買、山野草の盗掘に危機感を募らせ、有志で保護団体を設立。針葉樹の伐採地に多様な広葉樹を植えたり、荒廃が進む牧野を賃借・購入したりする「トラスト運動」を進めるなど、山野草の保全に取り組んできた。

 山林は、阿蘇市波野地区と宮崎県高千穂町を結ぶ道路沿いの高森町尾下(おくだり)地区にある。熊本市の自宅を売却して購入した。「日本一花の森」と銘打ち、住居や休憩施設を建て、自ら重機を動かして遊歩道を整備している。

 「昔から変わり者でね。山野草や野鳥を『買う』『飼う』ではなく、ありのままの姿を楽しめる森にしたいと思った」と平野さん。サクラやモミジを植えた以外は、間伐して適度な日照を増やし、山野草の自生地を広げている。

 山を案内してもらうと、薄紫色の小花を咲かせたケルリソウ、ヤブデマリの白い花などに出合った。ウグイスや渡り鳥の鳴き声、キツツキが木を打つ音も聞かれた。サクラソウは、かつて野焼き後の牧野を広く彩ったが、愛好家や業者による乱獲が進み、自生地が少なくなっているという。

 平野さんは、スギやヒノキの植林ではなく、適度に伐採して自然木の自生を待つ「植えない森づくり」を提唱している。整備を進める「花の森」は、その実践の場。「多様な木々や草花、野鳥や虫が生息する森づくりは、豪雨災害にも強い森づくりにもつながる」と考える。

 森では7月、朱色の花を咲かせるツクシマツモトが見頃を迎え、8月にはヒメユリがオレンジ色の星形の花を咲かせる。「山野草を楽しみながら守るモデルの場所を作って、私も一生を終えたいと思っているんですよ」と話した。

 観賞会以外でも、来訪者を無料で案内してくれる。       =2019/05/15付 西日本新聞朝刊=


焼畑と言えば、徳島県東祖谷村や山梨県の早川町とかが良く知られていますが、椎葉村も名だたる焼畑地帯であった事は言うまでも有りません。しかしその椎葉もその火が消えようとしているのです。

 ただ、ブラジルのアマゾンとかインドネシア〜ニューギニアなどの失火を装った山への火入れが横行していることを森林破壊と併せて略奪農業、自然破壊…といった罵声が浴びせられている事も事実です。

 ただ、日本の伝統的な循環型の焼畑が古来森林を破壊していない事は言うまでもなく、急峻な地形からそもそも政治的逃亡者、敗残者しか住み着かない様な環境が破壊的略奪を妨げてもいたのです。

 本来、焼畑は畑作の延長上に陸稲栽培も行なわれるのですが、九州では陸稲を植える話はあまり聴きおよんでいないのでそれが何故なのかが未だに謎なのです。それが繋がるのであれば、かつて照葉樹林文化論者が主張した焼畑〜恒畑〜陸稲栽培〜水稲移行として納得できるのです。

 妙な話を持ち出し混乱させたかも知れませんが、いずれにせよ消失直前になると逆に郷愁や希少価値が見直されロウソクの最後の輝きが見られるのかも知れません。鉄人平野虎丸も齢80を超えていますので、恐らく、阿蘇の風のグループが焼畑の文化を残してくれるのではないかと思っているところです。

 当日は、ひのみこ社の「婦人会」の皆さんがお煮しめなどを中心に手弁当を準備し、焼畑の実働部隊への補給してくれる事でしょう。

 そもそも、今回の焼畑が何故行なわれる事になったのかをお話して終わります。今回、火入れの際に大山祗の神への許しを受ける高千穂のひのみこ社リーダーの女性のお父様が虎丸さんと話をしていて、“戦後、一生を掛けて自分がやって来た野菜(キャベツ)の栽培と販売の仕事は、その年商からも十分に成功したが、一つだけやり残した事がある。それが焼畑だった…”と言われた事から、人吉盆地の水上村の山奥で食うや食わずで生きてきた虎丸さんは子供の時から焼畑に勤しんできた事から、私がやりましょうと思い立ったことが始まりだったのです。正しく、戦後を生延びた男同士の友情を垣間見た気持ちがするのですが、満州から帰ってきて阿蘇外輪山の開拓農家で高原野菜の走りであるキャベツに目を着け、当時高額の給与を受けていた宮崎の旭化成延岡工場の従業員に売るというスタイルを確立し新たなビジネス・モデルを切り開いたお父様の思いに答えようと立ち上がった虎丸さんに、阿蘇の風のGが連動し焼畑をやろうとしている事に私も心が動かされてしまったのでした。

 いずれ、現地リポートをお伝えしたいと思っているところです。もう889日は目前です。


 武漢肺炎ウイルスなど心配は無用ですが、皆さん安全に間違っても火に巻き込まれない様に…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記