891 鳥子阿蘇三宮神社について10本以上のブログを書いた訳について
20211107
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
今回、熊本県西原村に鎮座する鳥子阿蘇三宮神社に関して書いてきた鳥子関係ブログが10本まで増えてきた事から、一旦は纏めて整理し統合的に理解する必要があると考え再編集することにしたものです。
これには別の伏線があり、話は今年(2021年)の元旦前後まで遡ります。

話はこうです。
熊本県西原村(熊本市に隣接するので山奥とか山里言ったものでは無く都市近郊農業地域といった所)なのですが、作為ある攻撃型地震or自然災害だったかはともかく、数年前の熊本地震の影響を相当に受けた同情すべき地域なのです。人生を破壊された方々が相当に出た悲しむべき地域でもあるのです。
その1月2日(2021年)の数日前辺りからだったのでしょうが、それはともかく“その元日からの三ケ日の二日目に出て来てこの神社の説明をして欲しい”という乱暴極まりない話が舞い込んだのでした。
それは、神社をあたってみても文書も目立ったものがないようで、ネット上を検索しても参考にできるものが全くなく、ただ、当方のブログだけがこの神社についての纏まった文書をアップしているので教えて欲しいという経緯だったのでした。
ただ、お考え下さい。1月の2日と言えば元日の翌日で皆が正月気分で体を休め一年の抱負を醸し出している時のはずであり、親族ならいざ知らず、遠路出て来らせ(最短でも研修所から70キロ、実家からは140キロ)話を聴きたいとは余りにも身勝手で、一般的には他人への配慮のない要求になるはずです。
日本の普通の常識からはそうだと思うのです。そんなことも分かっていない非常識な話だったのです。
当然、年末年始の糞忙しい時期に、説明資料を再検討し配布資料を作成するなど相当の労力を費やすことになるのは明らかで、実際にはかなり面倒な作業を年末年始に抱え込んだのでした。
結局、実家にも戻らず、それなりの準備をしたうえでかなりのページの紙資料、DVDなど多くの資料を用意して1月2日の豊後〜肥後へと抜ける兵戸峠越え(スタッドレス・タイヤとは言え当日はかなりの積雪があったのですが山道のためかなりひやひやだったのですが)で菊池市に入り、後30キロ近い道を西原村の某所に出向いたのでした。
こちらも初対面にも関わらず、幕の内どころか二日に出て来いという非常識かつ乱暴極まりない要望でもよほど切迫した事情でもあるかと配慮し、何とか都合を着けて対応したのでした。
当方も事情が良く呑み込めない中でとりあえずは先方のお話をお聞きし、ご協力できる範囲でそれなりの作業を行うこともあるだろうと数時間ほどお話をし、お聴きもしたのですが、どうやら、この鳥子と言う地名の起源、祭神、それが何故三之宮神社なのかと言った事を把握したうえで、かなり大きな広告塔の整備修復を手掛け、新たな解説版の設置をしたいので何とか情報を得たい…という話だったのです。
ただ、どこからか金が降りてくるので作り直すとしても、その説明文などとなると、神社庁、神社、他神社、地域、氏子…と言ったところからのクレームなども予想される事から配慮して書く必要もあり、少し(当方の理解では一週間ほどですか)しばらく余裕を与えて頂いた上でご協力致します…として再び雪の山道(肥後と豊後の国堺)を多少は冷や冷やで帰宅したのでした。
その方々(入れ替わりもあり都合6〜7人の方が対応されたのです)が直接的な神社の氏子の代表とか言った訳もなく、何故、そのような神社の整備に関わる事業を行おうとされたかは未だに分かりません。
しかしかなりの実業家集団のようで、地域への貢献とビジネス・チャンスが混在している様でした。
当方は数日で、内部に留めておくべきかなり詳しい鳥子神社の性格と、対外的に公表しても問題のない同社の意味についての二段階の言わば表バージョンと、尚も氏子だけには伝えて行くべきものの裏バージョンを書き上げ準備をした上で、連絡役の方にメールで準備ができた旨を伝えたのでした。
ところが、何時、再度の検討会を行うとかの連絡も、初回の謝辞もなければ、当日の費用弁償の話もなく、結局、正月早々嫌な思いをさせられただけで、何のために山から雪道を降りてきたのかさえ分からないと言った有様だったのです。
その正月二日も22年になれば直に来るわけで、準備していた鳥子三之宮神社への新たな文書を眠らせておくのもばかばかしいため、裏表なく同社の性格を書留め一年経過したこともあり公表することにしたのでした。
この様な非常識極まりない無礼な対応をされた上は、当方は自ら調べ書いた文章を公開するだけの話であって、神社のために整備をしたいと言った美辞麗句はともかく、そのような礼儀も何も尽くさない方々が、仮に鳥子地区、鳥子神社に対して良かれと考え作業をされたとしても、また、形だけが如何に整備されようとも愚かな話に貶められる事にしかならないかと思い、これまで書いてきた関係する全てのブログを全文纏めて数系統(アメブロ他3系統)のプロバイダーから公開するものです。
とにかく今回の事に関しては、その後も先方は連絡を取ってこない上に、何のために1月2日にそちらの都合だけで勝手に呼び出すだけ呼び出しておいて何度かメールで照会したもののほったらかしにするなどこれがまともな日本人がやることかと考えると、もしかしたら在日系か中国系(なら旧正月で腑に落ちるのです)だったのかも知らないとさえ思うものです。そうでなければこういった事は日本人はやらないはずなのです。
新ひぼろぎ逍遥
891 | 鳥子阿蘇三宮神社について10本のブログを書いた訳について! |
890 | 熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 |
889 | 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A |
888 | 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @ |
887 | 二つの鳥之子の分布状況を敬愛する玄松子様のデータから |
886 | 鳥之子(天日鷲)も祀る天目一箇神とは鳥之子の祖神=ヤタガラス “熊本県山鹿市薄野神社” |
885 | 日置姫とはもう一つの鳥之子「武夷鳥」の母神の“瀛ツヨソ足姫” なのか? |
884 | もう一つの鳥之子 武夷鳥(タケヒナドリ) を祀る神社を探る “周防の防府天満宮” |
883 | 新潟に鳥之子三宮神社があった |
882 | 鳥子三宮神社の基底部を探る A |
881 | 鳥子三宮神社の基底部を探る @ |
俗に「鳥子神社」と呼ばれるものでも、天日鷲系と武夷鳥系の神社は共に数が少なく、一般にも貴重ですので、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)でも後世に向けて同じく公開し保存しておきたいと考えています。
鳥子と言っても普通は何のことだかお分かりにならないと思いますが、簡略化して言えば、豊玉彦=豊国主=ヤタガラスの後裔氏族の関係する地名でありその神社であることです。
この点、福岡県でも小烏神社、烏子神社…が正しく散見される程度ですが、今尚、実際に存在が確実視できるのです。詳しくはこれまで公開してきた10本のブログなどを参照してください。

ここで改めて、熊本の鳥子をご紹介しておきます。

百嶋由一郎鳥子神代系譜024〆鳥子系図
鳥子はヤタガラスの派生氏族ですが、主要には武夷鳥と天日鷲の二系統があります
三之宮の意味は現在の宮野の阿蘇神社12神の三ノ宮=阿蘇高森の草部吉見神社の主神=ヒコヤイ(ハエ)ミミの神社である事を意味しているのです。つまり阿蘇系社ではなく草部吉見系神社なのです。
既にこれまで何度も出していますが、まずは、百嶋由一郎鳥子神代系譜より確認ください。
武夷鳥の具体例は対馬の小牧宿禰神社(長崎県対馬市峰町三根字寺の内959)にもありますが、荘厳さと知名度に於いては山口県防府市にある防府天満宮が典型例になるでしょう。
ただ、この西原村の鳥子は武夷鳥ではなく天日鷲の一族と考えています。
ヤタガラスは影響力の大きな氏族でしたので、多くの民族、氏族から頼られその女子が側室として送り込まれてきました。
このため多くの派生氏族が生じることとなったのですが、武夷鳥の鳥子は道真の時代に於いてヤタガラスの本家と、金山彦系(櫛稲田姫とスサノウ)により生じたナガスネヒコ→オキツヨソ足姫の本家の流れの上に生じていると考えられます。つまりオキツヨソ足姫とヤタガラスとの間に生じた氏族のはずなのです。
これに対して天日鷲が西原村の鳥子となるのですが、資料が乏しく探索は尚続いています。
理由の一つはこの鳥子系譜ではヤタガラスのお妃としての鳥子の母方の名を判っていながら敢えて書いておられないからでした。
ただ、別の系譜では天日鷲の母親=ヤタガラスのお妃は杉山大神=阿蘇ツ姫と書かれていましたので何とか判別ができたのでした。

百嶋由一郎 004ヤタガラス系譜原本
実は、百嶋先生はスサノウと櫛稲田姫が出会った場所というより櫛稲田姫の生地は、熊本県菊池市との境界に近い山鹿市の某所(勿論地番レベルで判っていますが)であると特定されていました。
このため、当初、西原村の鳥子も製鉄、冶金の神である金山彦系ではないかと考え、オキツヨソ足姫=武内足尼を母とする武夷鳥ではないかと考えたのですが、後の阿蘇系との繋がりと言うか、後の支配が阿蘇系になっているいることから考えると、やはり、杉山大神=阿蘇ツ姫とヤタガラスの間に生まれた氏族と考えるべきなのかも知れません。これはさらに加えた情報からの判読になるでしょう。
一年間作業が止まっていた事と、要請した側からも何らの情報も得られなかったことからも、当面、これ以上の追及はできないと思いますし、調べようとも思いません。
何故ならば、「熊本県神社誌」も阿蘇宮司家の意向が強く働いていることは間違いなく、特別な新資料でもなければ当方の作業も推定の域を出ないのです。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
300 | 大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦” |
299 | 大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも山幸と 豊玉姫が…” |
298 | 大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇受賣命 を祀る古社” |
297 | 大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は猿田の 意味を知っていた” |
296 | 大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?” |
295 | 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と 安心院の佐田神社 再掲” |
294 | 大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の 経津主も猿田彦大神なのです” |
293 | 大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“ |
292 | 大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“ |
291 | 大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“ |
290 | 大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて” |
289 | 大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから” |
288 | 大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて” |
287 | 大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の 櫛田神社の主神の大幡主の子であった” |
286 | 大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町 「吾平」のウガヤフキアエズ陵” |
285 | 大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神” |
284 | 大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は 熊本県山鹿市で産まれた! ” |
283 | 大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” |
282 | 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” |
281 | 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か? |
百嶋由一郎 004ヤタガラス系譜原本(部分)
問題は杉山姫が何なのかが一般には全く分かられないはずである事です。
実は高森の草部吉見=ヒコヤイ(ハエ)ミミの娘であり阿蘇の健磐龍の妃ともなるのですが、簡略化して言えば男性遍歴が奔放な女性だったらしく、それに合わせて名を幾つも替えられておられるため杉山姫とは恐らくヤタガラスのお妃となって以降の名なのではないかと考えられるのです。
これを理解するにも百嶋先生の別の神代系譜を読み解く必要があるのです。

百嶋由一郎 018阿蘇系譜@-2 神代系譜
杉山姫の父神である草部吉見は後の藤原により第4代とされる懿徳天皇の妃とされる時は天豊ツ姫と呼ばれ、最終的に頼み込んでヤタガラスに引き取ってももらった後は杉山姫と呼ばれる事になり、私は神奈川県の川崎から武蔵(野)一帯に3〜40社近く存在する杉山神社の主神でもあると考えています。
以下は、神奈川県のみの拾い出しをグーグルで行ったものですが、実際には東京都下の旧武蔵と飛地としての武蔵にも杉山神社があることからこれ以上の広がりを持っていると考えられて結構だと思います。
そういった意味からは、この一帯に多くの後裔が発展し定着していることから、普通に言えば大発展した氏族であり、一概に尻軽女などと言った単純な批判はするべきではないのかも知れません。

いずれにせよ神社研究にはこのような政治的問題、民族衝突、通説派の虚構、神社とそれを奉斎させられる被支配的氏族の乖離と言った問題が介在するためおいそれとは説明できず、排斥され、攻撃されたりする深刻な問題に遭遇する場合が多々生じるのです。
このため、普通の方々は折り合いを着け、教育委員会、学芸員、神社庁、氏子総代…と言った部分に合わせ迎合されるのですが、我々百嶋神社考古学の者は、元々、隠された真実をこそ研究対象としており、真実を発見することが目的であって、学芸員、教育委員会関係者の様に商売として既存の権力構造に自ら売り込むが如き真似は我々の研究精神を一瞬にして消失させてしまうことに成りかねないのです。
このことが何故重要かと言えば、中曽根以来、小泉竹中政権のやった郵政民営化、外資参入の全面参入という国富の売り飛ばし政策、経済停滞の恒常化、所得の半減化政策、国内投資の絞り込みによって…
貧窮化した国民が神社を奉斎する経済的基盤を奪い、氏子集団の壊滅、神社本庁の落下傘宮司による支配
構造の状態化によっても、全国の中級以下の神社の存続そのものが危ぶまれるところまで追いつめられているからなのです。
そうした中、祭りができない、神輿の担ぎ手がいない、注連縄が造れない、婦人会の協力が得られない…という問題が続出しており、あと五年もすれば神社の大半が破綻し、社殿の造り変えや瓦の葺き替えはおろか、奉賀金さえもが集まらない、小規模な補修さえもできずに放置し、挙句の果ては宮司の逃亡、使い込み、投げ出しと言った状態が目前に迫っているにも拘わらず放置されているのです。
それもこれも戦後の占領政策の中での国家神道の解体は元より、その精神的な本柱であった天皇家の消失を狙った旧宮家の廃止は元より、神社と日本の神々を研究できる自由な構造を妨害し、徹底して潰してきた結果が現在を将来させてきているからであり、日本と言う民族の消失まで向かいかねない状態にあるのです。その原因の一端が、本当の神々を隠すことによって、表面的な平和を取り繕い、征服された氏族が一方的に征服者の神々を崇めさせられていると言った構造の村々、氏子集団もあるのであって、そう言った背景をきちんと引き継ぎ、本来祀られるべき神々の本当の伝説を書けないまでも口述し伝えると言った事が成されない限り、神社に何故金を納めなければならないんだ…。我々は○○〇会だし関係などないのだから…私たちはクリスチャンですが寄進だけは致します…といった人々も存在する中、神社中枢の部分から崩壊が始まっているのです。だからこそ正しい神を浮かび上がらせる必要があるのです。
百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで