2022年04月01日

871 宗像の神々 G 福岡県宗像市の熊野神社は宗像大社とどのような関係にあるのか?

871 宗像の神々 G 福岡県宗像市の熊野神社は宗像大社とどのような関係にあるのか?

20210209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ご覧の通り宗像市周辺(福津市、岡垣町も含めて)に7社ほどの熊野神社があります。

そもそも宗像大社3社体制があるにも拘わらず半分は同系統と言っても良い神社が鎮座しているのです。

これらの7社全てを書くことはしませんが、

無題.png

これは 福岡県と熊野神社 で検索した表示です。

 全般的に熊野神社は均等な分布を示していますが、宗像はかなり濃い分布を示しているようです。

 そもそも熊野系神社が何なのかを考える必要があるでしょう。

そこで選んだのは王丸の熊野神社でした。


熊野神社 カーナビ検索 福岡県宗像市王丸許斐622

無題.png
無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年04月03日

872 若松のトレッキングで確認した北九州の方々がほとんど知らない神社 @ 田神社

872 若松のトレッキングで確認した北九州の方々がほとんど知らない神社 @ 田神社

20210302


天候の問題から1月のトレッキングを延期し、遅れ馳せながらの若松区の三社詣りを実施しました。


丁巳歴史塾+太宰府地名研合同トレッキング

北九州市若松区(晴れの日)

2020228日(日)10301700

集合場所 イオン若松P カーナビ検索

北九州市若松区二島1丁目3-1 参加費500

新春1月は講演会を行わず人が引く月末の閑散期に

「若松区の三社詣りトレッキング」を行ないます。

無題.png


@ 戸明神社       北九州市若松区蜑住974

A 田(でん)神社    北九州市若松区2

B 十五社(じゅうごしゃ)神社  若松区有住684

寒い時期ですので屋内で昼食

ジョイフル若松小石店 若松区赤崎町8-25(仮案)

C 笠松(かさまつ)神社  北九州市若松区安屋1976

D 白山(はくさん)神社  北九州市若松区小竹1946

E 御㟢(みさき)神社   北九州市若松区有毛28

順路は変更の可能性があります

御杖代 古川 清久 連絡:古川)09062983254


 オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


同日雨の場合は希望者のみ屋内で勉強会を行ないます。各自軽食持ち寄りで午前1100に北九州市若松区安屋3347何有荘に集合を…

(列車利用の方はJR折尾駅で拾います…連絡を、また、前日からの宿泊可能)


集合場所 所 イオン若松P カーナビ検索 北九州市若松区二島1丁目3-1参加費500

何有荘  カーナビ検索 北九州市若松区安屋3347 雨の場合は何有荘へ

無題.png




20211月の三社詣りとして若松区の神社神社トレッキングを行ないます!


@ 戸明(とあけ)神社       カーナビ検索  北九州市若松区蜑住974

A 田(でん)神社         カーナビ検索  北九州市若松区二島4丁目230

B 十五社(じゅうごしゃ)神社   カーナビ検索  北九州市若松区有住684

ジョイフル若松小石店        カーナビ検索  北九州市若松区赤崎町8-25(仮案)昼食

C 笠松(かさまつ)神社      カーナビ検索  北九州市若松区安屋1976

D 白山(はくさん)神社      カーナビ検索  北九州市若松区小竹1946

E 御㟢(みさき)神社       カーナビ検索  北九州市若松区有毛2829 順路は調整します


今回廻った神社でも田神社、十五社神社という地元の郷土史会関係者でもほとんど理解されていない神社をお知らせしたいと思います。

 まず、田神社ですが、ある程度全県レベルで神社調査をされている方ならば遭遇された事のある神社のはずです。

 何故ならば、筑豊の飯塚市には数社現存しており、目に入らないはずは無いのであり、勿論、「福岡県神社誌」には大半無格社ながら記載されていますし、熱心に調べようとされる方ならば当然知っていて良いはずなのです。

 ましてや、宮司や地元郷土史家ならば当然知っておくべき一社とまでは言えるはずなのです。

ではご覧ください。




無題.png

 この神社がどこに集中的に分布しているかと言えば朝倉郡なのです。

無題.png

これについてはこれまで何度となく取り上げて来ましたので、過去のブログをお読み頂くとして、ここでは、村社としての一社を除き旧朝倉郡の60社全てが無格社に落されているのです(「福岡県神社誌」下巻)。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

ビアヘロ022 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した!                外をご覧ください。

無題.png

今回のトレッキングの責任者であるN氏の提案でAとBの間に探訪ポイントを追加し、朝倉市の卑弥呼ロマンの湯に近く街中の別天地とも言うべき、湧水池傍の田神社を見た後、甘木公園の田神社を確認したのですが、次の提案を入れ、BとCの間に筑前町弥永の大己貴神社からも遠くない弥永の田神社(天神社)を訪問する事にしたのです。しかし、そこにはとんでもない事実がある事が分かってきたのでした。

無題.png

地番不詳 カーナビ検索 筑前町弥永 地元の方に田神社とお尋ね下さい


 そもそも、出雲神話の大スターである大国主命を祀る神社が何故この筑前町に存在するのかについて、どなたか説明して頂けないかと以前から思っておりました。

 まさか、出雲大社からの勧請とか分社などとは一度も聞いたことがないことから、日向の一の宮が何故高千穂とか霧島にはならずに都濃神社であり、その主祭神が出雲の神様とされる大国主命であるのか?

 また、熊本市の西里周辺や薩摩は吹上浜に、かなり立派な大己貴神社が存在しているのかを統一的に説明して頂きたいと思い続けているのです。

 目を北に転じると、宗像大社の主祭神とは大国主命ではないのかという話が付き纏い、付近の遠賀川左岸の岡垣町手野にも大国主神社が鎮座している事に気付くのです。

 それ以上に驚愕すべき事実としては、春日市の商工会議所の敷地には、オオナムチの幼名であるオオナビコを祀る伯玄社が存在している事を考えて頂きたいのです。

 これについては、ひぼろき逍遥(跡宮)024 大国主は九州で生まれた “オオナビコ”(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社“をお読み下さい。

 ここまでくると、筑前町の大己貴神社が非常に気になってくるのですが、百嶋神社考古学の洗礼を受けた者は、大国主命が実際に活動したのは九州であるという認識を持っており(現出雲の国は近畿大和朝廷が創ったテーマ・パーク)、そのポジションからも、この大己貴神社をクローズ・アップせざるを得なくなるのです。

 田神社が大己貴、大山祗の二神による擬神体であるという百嶋説に基づく調査ですから、大国主命が無視できないのです。

 理由は簡単で、百嶋神社考古学の立場からは、田神社=タノカンサー=大幡主+大山祗の第二世代が大国主命=大己貴だからです。

無題.png

さて、大国主命の国譲りの話はどなたも良くご存知ですが、国を空け渡し高木大神(高皇産霊尊)から天日隅宮を建ててもらい、天穂日命に祀らせたとされています。

 百嶋神社考古学では、この天穂日命こそ田神様のお一人の大幡主(埴安命)の息子であるヤタガラスになりますので、それだけでも話が繋がってきますね。

「天穂日命」がヤタガラスであることについては、ひぼろき逍遥 175 「天穂日命(アメノホヒノミコト)とは」を併せてお読みください。

以前から、何故、筑前町と旧甘木市との境に縣社クラスの大己貴神社が置かれていたのかが分からずに奇妙に思ってきました。

普通なら、一定の領域の中心部若しくはその背後の高台といったところに置かれるはずなのですが、筑前町が朝倉市(旧甘木市)に突き出した先端のような場所に置かれているのです。

してみると、大国主命の転居先が、故地(古地)が見える隣町(隣国)に置かれたと考えればすんなりと理解できるのです。

では弥永の田神社の新旧の神社縁起をお読みください。

お読みになれば分かるように、まず、筑前町大字弥永に日隅宮という字があった(元々そこに大国主命の社があったと考えられそうですが、それが、国譲りの元宮があったという名残を持つ地名なのか?それとも国譲り以前の宮があったという痕跡地名なのかは今のところ分かりません)事はまちあいないようです。

そうなると、やはり、甘木、朝倉の一帯が国譲りに関わる故地であったようです。

最低でも、この筑前町弥永の田神社からそう遠くない所に本当の出雲の日隅宮(大国主の国譲りに関わる重要な地名)とも考えられる重要な内容を積極的には触れたくないようです。

「出雲の国譲りの話が九州であるはずがない…」と言う通説になびくお役人の発想です。

普通なら、使えるものなら何でも利用して町興しと村興しと大はしゃぎで使いそうなのですが、「日本書記」、朝廷、天皇…に繋がるとなると、既存の権力に尾を振り自己規制してしまうのでしょう。

結局、九州王朝論の立場に立つものしかこの驚愕の事実を掘り下げる事はできないのです。


出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

無題.png

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)神魂命が「「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

崇神天皇607月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)

ウィキペディア (20160629 23:00)による


 これから、日隅宮を探す作業に入らなければならないようです。

 勿論、もし、小字日隅宮が国譲り以前の宮の名称でもあるのならば、現在の大己貴神社が鎮座している場所も含めて再検討する必要があるでしょう。まずは小字日隅宮を探す作業から入りたいと思います。

 さて、朝倉の「日隅宮」という最先端の問題を取り組んでいる中、全くの祭神入替の例に遭遇するのは非常に腹立たしいのですが、断じて田神社の祭神が阿蘇系の「御歳神」などではないのです。

 恐らく田神社を農耕の神様とかいった字面だけに引き摺られた解読がされたのでしょうが、こういった事で地域の氏神様が何なのかを説明されると地域の氏子は全く先祖と縁もゆかりもない征服者を崇めている事になってしまうのです。

 祭神は博多の櫛田神社の主神 大幡主=カミムスビ 以外では有りえません。

 対して、御歳神とは本物の初代神武天皇に刃向ったとされる金山彦の娘である櫛稲田姫の夫となったスサノウとの間に生れたナガスネヒコの妹オキツヨソ足姫を妃として遇した草部吉見神(ヒコヤイミミ)との間に生れたのが御歳神なのです。

 安曇族の神々=大幡主系海人族の神々が犇めき合う若松には相応しくない神様が鎮座している事になるのです。

 ところが、「福岡県神社誌」下巻の無格社一覧を実際に確認すると(384p)確かに祭神を「御歳神」として掲載されているのです。

このことから、この祭神入替は「神社誌」編纂以前の昭和19年以前に生じていた事が分かるのです。

 住所の小字が熊本であることから阿蘇の神様を持ちたかったのかも知れませんが、元々存在していたはずの田神社の奉斎者はどうなったのでしょうか? 悲しい限りです。

無題.png

この御歳神とは玉名市の疋野神社の主神であって実は第6代孝安天皇として仕立てられているのですが、それは藤原が自らのウイングを拡げるためであって、その藤原の祖である天忍穂耳=ヒコヤイミミはちゃっかりと第5代孝昭天皇に納まっているのです。

 現在この事を把握しているのは百嶋神社考古学を継承した者と、当の宮司家ぐらいでしょうか?

 その意味では藤原が創った神代とは怪しげなものでしかないのです。

 しかし、田神社とは祭神を埴安彦or埴安彦+埴安姫とするものが多く、御歳神を祭神とする神社には初めて遭遇しました。境内南には両児島大明神と猿田彦を祀っており、両児島大明神の意味は分かりませんが、地名の二島に関係があるのでしょう。

 同行のI女史は穴掘考古学と万葉集に精通した人ですが、神社を見るやこれが古墳であり、社殿は後円部に置かれていると言われました。私は猿田彦が祀られている以上、この神社は大幡主を祀っていると確信を深めた所でした。

無題.png

では御歳神の系譜をお知らせします。

無題.png
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年04月06日

873 若松のトレッキングで確認した北九州の方々がほとんど知らない神社 A 十五神社

873 若松のトレッキングで確認した北九州の方々がほとんど知らない神社 A 十五神社

20210302

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


同日雨の場合は希望者のみ屋内で勉強会を行ないます。各自軽食持ち寄りで午前1100に北九州市若松区安屋3347何有荘に集合を…

(列車利用の方はJR折尾駅で拾います…連絡を、また、前日からの宿泊可能)


集合場所 所 イオン若松P カーナビ検索 北九州市若松区二島1丁目3-1参加費500

何有荘  カーナビ検索 北九州市若松区安屋3347 雨の場合は何有荘へ

無題.png

20211月の月遅れ三社詣りとして若松区の神社神社トレッキングを行ないます!


@  戸明(とあけ)神社       カーナビ検索  北九州市若松区蜑住974

A  田(でん)神社         カーナビ検索  北九州市若松区二島4丁目230

B  十五社(じゅうごしゃ)神社   カーナビ検索  北九州市若松区有住684

C  ジョイフル若松小石店      カーナビ検索  北九州市若松区赤崎町8-25(仮案)昼食

D  笠松(かさまつ)神社      カーナビ検索  北九州市若松区安屋1976

E  白山(はくさん)神社      カーナビ検索  北九州市若松区小竹1946

F  御㟢(みさき)神社       カーナビ検索  北九州市若松区有毛2829 順路は調整します


無題.png

天気はそこそこなのですが、なかなかの寒風吹きすさぶ中お集まり頂き深謝いたしております。

 現地を踏んだリポートして本稿を書いていますが、特段変わった事もない普通の神社でしたが、はっきりとした八大龍王神を確認でき、天草に大量に存在する十五社神社が豊玉彦=ヤタガラスを祀る神社である事をこの若松で確認できた点は望外の喜びでした。

 今回のトレッキングで参拝した神社は外にもありましたが、特徴的なものは田神社と十五社神社でありここでは、この二社についてのみ報告するものです。

無題.png

これまた十五社神社がどこに分布しているかを見る事にしましょう。

無題.png

また遠賀川中流域の中間市にも一社確認できます


この神社は若松や遠賀川流域に在る事からも海洋民に関係するものである事を示唆しています。

無題.png

何の変哲もない質素なお社ですがこの神社を奉斎した人々も若松の玄海灘側の住民だったはずです


 まず、公式見解から「熊本県神社誌」276pを見ると、阿蘇12神+○○神で十五社に仕立てる試みが行われている事に気付きます。

 それこそ神武を入れたり綏靖を入れたり応神を入れたりと苦労されている事が分かります。

 では、皆さんこれが阿蘇12神などと本当に思われますか?大間違いに決まっているではないですか?

 現在、この神社は阿蘇12神+3柱という構造を取っていますが、これは阿蘇氏の権勢が天草まで広がった南北朝争乱期に十王(ジューオウ)又は龍王(ジュウゴー)という現地音に併せて阿蘇12神+3神が持ち込まれているのです。

十王とは龍王だとしたのは柳田国男でしたが、R音が苦手な民族はD音で代行したのです。

日本語の尻取り遊びにR音(実はL音なのですが)が少ないのもこれと関係しており、ラジオ、ラッパ、ライオンで後が亡くなる事は皆さん良くご存じで、日本人は元はこの音を使っていなかったのです。

無題.png
無題.png

この天草周辺(佐賀県から福岡県に掛けての有明海湾奥にも分布している…佐賀市には=南の有明海側に十五という大字までありますが)十五社は阿蘇の神々と考えると大間違いで、少なくとも鎌倉以前は豊玉彦=ヤタガラス=大幡主(カミムスビ)の子を祀る神社のはずなのです。

第一、馬で地上を征圧した阿蘇氏が船で動かざるを得ない天草を元々支配していたとは考え難いのです。

無題.png

有明海に面した佐賀市の南部には十五(ジュウゴ)という地区が現存しています


これなどは天草辺りから龍王(ヤタガラス)を奉斎する一族が移り住んだ土地と考えています。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


十五社神社がヤタガラス系全てを反映しているとは考えられませんが、彼らの移動を記すメルクマールとまでは言えそうです。諏訪に多い事から建御名方と動いた可能性も見ておくべきかも知れません


百嶋由一郎氏の神代系譜、講演録音声CD、手書き資料スキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記