2022年03月21日

888 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @

888 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @

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 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

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西原村鳥子三之宮神社

熊本の大津から阿蘇に向かう大渋滞のバイパスをルート避け、白川沿いに立野を目指します。大津の森、吹田(フケダ)辺りに来ると、対岸に鳥子という変わった名の集落に遭遇します。ここにあるのが鳥子三之宮神社です。

本稿は6年前に書いたものを一部再編集し公開するものです。


熊本地震でも最も大きな被害が出たのが熊本市の南部の益城町から西原村ですが、今回はこの一帯で起こった悲しい事件とこの一帯の地名を考えて見る事にします。

時代は江戸初期の島原の乱(一六三七〜年)前後辺りまで降ります。

地名はかなり広いエリア(時として国外からも)の影響を受けて成立している部分あるため、単なる郷土史的感覚では本質に迫れない場合が多々あるものです。

以前、島原半島南端の口之津の苧扱川(おこんご)という地名があることに気付き、口之津の歴史民俗資料館の原田健夫館長にお尋ねしたところ、口之津史談会の会員が書かれた論文にこの地名に関する研究があることを知りました。

文中には久留米市内にもオコンゴ地名があると書かれていたこと事から研究テーマとして取上げたのですが、原田先生から新たに会報(3536号ほか)を頂きました。

今回は、“「島原の乱」直前に阿蘇山中で捕まった口之津の「八兵衛」について“という小論が書かれた会報が入っていましたが、同封のお手紙には、”この小論に登場する「とりのこの様」が、私(古川)の手持ち資料に挿入していた鳥子神社と関係があるのではないか“という質問が寄せられました。

もちろん八兵衛の出身地が肥後の宇土であり、その逃亡ルートも熊本から阿蘇に向かうものであったことから、恐縮のことながら、熊本地名研究会(当時)のメンバーでもある私にお鉢が廻ってきたもののようです。

この話自体は、去る、二月十日(日)に開催された「世界遺産登録シンポジウム」(2011)の席上において、九州大学大学院の服部英雄教授が“口之津の八兵衛”についてふれられたことから、原田先生がその根拠、出典を尋ねられ、『史料で綴る天草島原の乱』(全文を後段に掲載)に辿りつかれたものですが、今回の会報はこの資料にもとづいて一文にまとめられたものです。

内容は極めて単純で、キリシタンとされたか、本当のキリシタンであったか、一応は真宗門徒に転んだとされる(する)宇土出身の元キリシタンであった八兵衛さんが、逃亡の末に阿蘇の入口で捕縛され、直ちに処刑されたというだけのものです。ただ、この逃亡ルートに登場する“とりのこの様”がどこの何者かというお尋ねが含まれていたのです。


原田館長(口之津歴史民俗資料館)による書下文


元々は鶴田倉造氏の編集による「原資料で綴る天草島原の乱」本渡市発行(平成六年イナガキ印刷)という資料があるのですが、ここでは原田館長による口語訳の略文をご紹介します。


八兵衛は肥後宇土の生まれで,40年前に口之津にいた。その後,度々口之津に商いのために行った。

尋問を受けたこの年の10月初旬には「口之津水籠事件」が起り,「島原の乱」の発端となるが,通行人の取締りも厳しくなり,謀反人の詮索が始まった。

各地に手が延び,八兵衛は肥後国内で野宿をせざるを得なくなった。彼は24年前まではキリシタンだったが,1614年に真宗門徒になった。

取調べの中で,どうやら懐中に「肥後惣中様」と書かれた書状の包み紙を所持していたらしく,そのことを詰問され弁明に務めていることがわかる。尋問の結果,どうなったか。以下の文書で確認してみる。


以下は地名研究に関係のある逃亡ルートについて取上げます。


三日の夜、とりのこの様ニ参候


三日の夜には“とりのこの様”に参じそうろう…原文は掲載のとおりですが、八兵衛は宇土郡の大田(?)の出身で島原と熊本の間で商売をしていたようです。それが口之津水籠事件に関係したものか、ただの濡れ衣だったのかは置くとして、なぜか逃亡する羽目になり、最後は阿蘇南郷谷の入口の久木野町辺りで捕縛され直ちに処刑されるのですが、ここで取上げるのはそのルートと地名です。


※この資料に登場する地名を略載すれば下記のとおりです。


二九日  川尻          鉄道唱歌にも登場する熊本の次の駅がある町

熊庄          城南町 隅庄か?        

宇土の山々に野宿         宇土の意味は宇土郡と思われ岩古曽から豊野辺か

晦日   矢部に野宿       通潤橋の矢部の手前か?御船から入った辺りか

朔日   長六橋         焼餅を買う 国道三号線はこの橋で白川を渡る

その夜  木山 原に伏す     白川左岸 木山町

     戸島 原に伏す     白川左岸 戸島町

三日   山、西の原       阿蘇郡西原村

三日夜  とりのこの様に参候   阿蘇郡西原村鳥子

四日の朝 捕縛          阿蘇郡久木野村か?

まず、八兵衛は宇土郡の大田の出身とされていますが、宇土半島の北岸にあり“オウダ”と読む宇土市の網田以外に思い付くものがありません。

問題は“とりのこの様に参候”です。熊本空港の東に西原村鳥子(トリコ)があります。トルコと呼ぶとも聞きますが、ここでは、一応、「トリコ」としておきます。

“とりのこ”と“とりこ”と、多少、異なるようですが、これは、熊本の地名に明るい方ならば比較的簡単な話のように思います。

従って、『史料で綴る天草島原の乱』は、鳥子が“とりのこ”と呼ばれ、そこの長老と思しき者が“とりのこの様“と呼ばれていたこと書き留めたのであり、さらに、八兵衛がここを頼って逃亡したことが推測できるように思えます。ここでは、“とりのこの様”の意味が一応確認できたのではないかと思います    (なお、行政名は旧来のもの)。

それは、宇土、熊本、植木近辺にはこの手の、間に”の“が入る地名が他の地域に比べて異常に多いのです。大字単位で見ても、まず、白川を渡る大津町には引水(ひきのみず)が、八兵衛の出身地である宇土市には、弧江(こものえ)、硴江(かきのえ)、西田尻(にしたのしり)、宮庄(みやのしょう)が、宇土市の南には旧町名でさえあった宮原(みやのはら)が、同じく北の富合町には田尻(たのしり)、南田尻(みなみたのしり)、廻江(まいのえ)、城南町の丹生宮(にゅうのみや)、隅庄(くまのしょう:文中の熊庄と関係があるかも知れません)、舞原(まいのはら)が、熊本市の水前寺の南に田井島(たいのしま)、金峰山の南に池上町(いけのうえまち)、北熊本の八景水谷(はけのみや)、が、菊池郡合志町に上庄(かみのしょう)、福本(ふくのもと)が、鹿本郡鹿央町の梅木谷(うめのきだに)、中浦(ちゅうのうら)、玉名市の東玉東町の木葉(このは)、上木葉(かみこのは)…もう、これぐらいにしておきましょう。

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一応、表記を伴わない○○の○○型地名はこの一帯に限られているようです。その中心部の熊本市にこの手の地名が少ない理由は、後世による地名表記の改変(和銅)によるものと思われますが、そもそもは、この一帯がかつては海の底であり、後発の土地に新しい地名(と言っても数千年単位の話になります)が付されたからではなでしょう。

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久は久木野村 ↑

鳥子集落とは何か?


当然ながら、表記を伴う○○の○○型地名は益城町の「辻の城」ほか…がありますので、小字単位でカウントすれば、相当の例が拾え、かなり興味深い結果が出ることでしょう。ともあれ、これで、本来、虜(とりこ)の意味だったのでしょうが、“とりのこ”が“鳥子へと嘉字二字表記化されても“とりのこ”と呼ばれ続け、数百年前にも“とりのこの様”と記録されたのではないでしょうか。そして、○○の○○と呼び習わす、言語上の生理とでも言うべき傾向が書き留められ、現在、なお、地名として残っていることに感動をすら覚えるものです。

従って、『史料で綴る天草島原の乱』は、鳥子が“とりのこ”と呼ばれ、そこの長老と思しき者が“とりのこの様“と呼ばれていたこと書き留めたのであり、さらに、八兵衛がここを頼って逃亡したことが推測できるように思えます。ここでは、“とりのこの様”の意味が一応確認できたのではないかと思います。    (なお、行政名は旧来のもの)

話は変わりますが、この地名を考える時、何か言いようのない戦慄を抱くのは私だけでしょうか?

古代史に関する興味から対岸の大津町吹田、森の集落に入ったことがあります。

この際、俘囚移配の可能性を意識してついでにこの鳥子にも入りましたが、中心地と思しき場所に鎮座する三宮神社に九州では全く見かけない神々が祀られていることに驚いたことがあります。


天神地祇八百萬神(テンジンチガミヤオヨロズノカミ) 鳥子三宮神社 

屋船句々能智神 (ヤフネククノチノカミ?)

屋船豊愛媛神  (ヤフネトヨエヒメノカミ?)


そして、その直感はやはり正しかったように思います。何でも熊本地名研究会というのも芸がないようですが、同会は一九九七年に第十二回熊本地名シンポジウム「民俗と地名 俘囚と九州」を行なっています。

このシンポジウムに提出された報告の一つに柴田弘武(エミシ学会会長)氏による「移配された俘囚」というものがあります。一部分の引用で不正確になるかも知れませんがご紹介しましょう。


…もう一つ加えますと、私が五万分の一の地図を見ていてちょっとびっくりしたのは、上益城郡西原村の川原という所に「猿帰」(さるがえり)という地名がありますが、「猿帰」というのは面白い地名だなあと思うのですが、この資料にも書いておきましたが、「去返公嶋子」という蝦夷の名前が出てきます。これは岩手県遠野市を流れる「猿ケ石川」それと似ているなあという気がしています。またその西原村には「鳥子」という地名もありました。この「鳥子」は吉田東吾先生の『大日本地名辞書』には千葉県の「取香」(とっこう)は囚(とりこ)の転訛で俘囚が移配された所だと書かれておりますので、もしこの「取香」をそうだとすれば、肥後国の「鳥子」もなかなか魅力のある地名となりそうです。…


柳田の『遠野物語』に登場する「猿ケ石川」はつとに有名ですが、『延喜式』には俘囚料(稲)という税金の話が出てきます。中でも肥後は最大の数が記録されているのです。

八世紀の坂上田村麻呂の例を持ち出すまでもなく、大和朝廷による東国侵略によって大量の捕虜が九州に配流されたことは良く知られており、国を守る防人の話などとして、ある種美化されてもいますが、六六三年(六六ニ年説もありますが)の白村江の敗戦によって、唐の進駐軍(郭武宗)二千による太宰府占領を許すのですから、実際に半島と大陸に備える必要などほぼなかったのであり、むしろ、それ以上の比率で朝廷に従わない叛乱勢力や隼人への対策によって持ち込まれたと考えるべきでしょう。そして、その俘囚の移配された土地が鳥子や鳥井であり、熊本から鹿児島に数多く認められる、囲、覚井、栫(かこい)…と呼ばれる土地だったのではないかと思うのです。さらに、このような俘囚集落(移配による製鉄集落など)の一つが鳥子だったのではないでしょうか。

鳥子とはもちろん虜(トリコ)であり、囲はカコイを想定しています。これが的を得ているかどうかは、今後の研究に待ちましょう(ただし、現在、熊本地名研究会を含めて囲地名を俘囚と結び付けて考えている人はいませんので誤解がないようにお断りしておきます)。

大和朝廷=古代天皇家は東国から敗残奴隷として連行してきた人々を重要な街道筋や鉱山などに配置し、製鉄、冶金、皮革製造(武器製造)などに就け移動を禁じたであろうことは容易に想像できます。 

それらが、時として戦闘部隊として最前線に刈り出され、あるいは、兵站部門として武器の製造、修理に携ったことは間違いがないはずです。そして、口分田を与えなかった事の裏返しとして俘囚料が徴発されたとすることはそれほどおかしなことでもないのです。

ここで、再度、西原村周辺に目を向けましょう。まず、西原村宮山には白山姫神社という熊本では少ない神社があり、その前を流れる木山川を遡れば多々良地名が有ります。当然ながら古代の製鉄の痕跡地名ですが、柴田氏が指摘された“猿帰”の前に流れる川も金山川と呼ばれていることから、この一帯が金属精錬にかかわる土地であったことが分かります。一方、東北地方に濃厚に分布する俘囚刀(蕨手刀)が、九州でも、甘木、人吉、鹿屋などで数本発見されている事からも俘囚が九州における古代製鉄、刀剣の製造に深くかかわっていたと考えられているのです。

それを物語るかのように、白山姫神社の傍には秋田という地名が拾え、さらに、西原村隣の益城町にある熊本空港の南側には小谷(おやつ)という地名までがあるのです。これは、それなりの高台とは言え湿地を意味する関東のヤツ、ヤチ地名(世田谷、保土ヶ谷、千駄ヶ谷…の谷は例外なく台地の割れ目の湿地です)と見たいのですがどうでしょうか。

さらに、この同町の木山は八兵衛が潜んだ場所ですが、その傍らにある福原には、これまた奇妙な「左の目(サノメ)神社」があるのです。

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結論から先に言えば、これは、民俗学者谷川健一の『青銅の神の足跡』第二章目ひとつ神の衰落に登場する“柳田国男『一つ目小僧その他』の大胆な仮説”“たたら師の職業病の投影−天目一箇神の奇怪な姿”“天目一箇神が統合する片目と金属のイメージ”…などを思わせる製鉄、冶金集団の痕跡を今に伝えるものと思われます。

谷川氏は、柳田の説をさらに掘り下げ、息もつかせぬ興味深い独創的な推論を展開していますが、炉を睨みながら仕事をする踏鞴の人々は六十になるころにはおおかたどちらかの目の視力を失うのであり、一部には、片目や不愚者が積極的にこの産業に就いたことにふれています。

そこまで言わずとも、一般的に製鉄や冶金に携る人間には大量の火花や金屑の中で仕事をするために多くの目患いや片目がいたとされますが、火の粉、火玉の飛散によって、直接的に目を失う人が多かったことも想像に難くありません。

氏も書いておられますが、言うまでもなく“ひょっとこ”は火男や火吹男の訛りであり、メッカチさえも“目ッ鍛冶”の訛りなのです。いずれにせよ、これが製鉄や冶金にたずさわる人々を写し替えたものであることは明らかでしょう。このように考えれば、多くの“ひょっとこ”が、なぜ、片目として描かれているかが分かってくるのです。それを裏付けるかのように三宮神社の上手に風当という地名も拾えます。恐らくここでも山風や海風など谷に送り込まれる強風を利用した製鉄が行なわれていたことでしょう。もちろんこの一帯で弥生の製鉄址が発見されている事は言うまでもありません。

してみると、八兵衛が船から上がった川尻に今なお多くの鍛冶、刃物製造業者が成立している事を思う時、川尻に対して鳥子の人々が、古来、多くのかかわりを持ち、関わり続けてきたことが容易に想像できるのです。そして、そのような赤く滾る一本の銅(あか)い糸が延びていたからこそ、八兵衛は鳥子を頼り、日向の金山(土呂久、見立、名貫川、小丸川、一ツ瀬川…辺りか?)を逃亡の地として目指したのではないでしょうか。

さて、ここで目を向ける方向を変え、彼(八兵衛)の背景を考えてみましょう。

仮に、大田を網田とする時、この地が天草や島原に近く肥後でも比較的開放的気風の土地であった事や、貧しい半農半漁の土地であったこと事から、彼自身が俘囚集落の出身であったとは思えません。ただ、貧しい土地柄から別の食い扶持を求めて他の土地に出ざるを得なかった様には思えるのです。

川尻、益城、西原、南郷谷と、現在でも裏街道と言える道が阿蘇から東へと延びています。鳥子が俘囚集落であったのではないかという思いを持って以来、この道は製鉄から冶金、そして、刃物製造加工からその販売という、古代においても最も活気のある産業ルートだったのであり、大きな人の流れが白川の南に存在していたこと、さらには、川尻の人々が、元々は鳥子の人々だったのではないかなどという思考の冒険にまで踏み込むのです。

このように考えると、彼が当時の工業都市であった川尻に職を求めたとしても全くおかしな話ではないのです。恐らく、農家の下人(農業労働者)として働き、また、縫い針や鋏や肥後守といった小物を背負う、いわゆるショイ(背負い)小間物屋として各地を移動し売り歩いたはずで、そうした目的地の一つに島原や口之津があったのではないでしょうか。そして、川尻の刃物製造業者から商品を預かり、多くの土地を売り歩く中で、キリシタン伴天連や俘囚鍛冶のネット・ワークに深く結び付いていったのだと考えるのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記