2022年03月15日

ビアヘロ193 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ 

ビアヘロ193 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ 

20220204

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


パワー・ポイントを使い講演するのは便利ではあるのですが、実際の作業となると実に大変で、その基となるブログを作った上で、次に講演用のパワー・ポイントを、パソコンが苦手と言う方のためにも手書き資料を別途用意し、さらにパソコンを使う方のためにCDDVDでの資料を作る場合さえあるのです。

 昔のように、単にお話をさせて頂くだけの方がどんなに楽か考えさせられるばかりです。

 さらに参加できなかった方のためにICレコーダーで音声記録を残し、CDに焼いて配布してくれなどと言われれば、もういい加減にしてもらいたい…と言いたくなるのです。

 しかし、少しでも古代、神代の真実を伝え、残したいと思えば、頚肩腕症候群で二週間寝込もうともやらざるを得ないのです。ともあれ、二つのパワポを準備しました。

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左は一度現地某寺院で講演に使用していますが、今回発表したいのは、年末年始に掛けて取り組んだ続編にあることは言うまでもありません。

 ところが、この「古事記」「日本書紀」に登場する「倭建命」「日本武尊」の説話の舞台が、佐賀県の旧大和町の川上峡であるなどと知る人などいるはずもないのですから、本来は左からお話しし、続編に入るべきなのですが、これについては実験的に、“ヤマトオグナに許された後の河上 猛のその後”の話を先行し、次に元々の佐賀県側(長崎自動車道佐賀大和インター)周辺の話に戻ろうと思うものです。

 何故ならば、福岡市早良区の話は実に臨場感があり、とても神代の話には思えない鬼気迫る現実味があるからで、その延長上に本編に踏み入る方がよりリアルに思えるのではないかと思うからです。

 とはいっても、事前資料は用意せざるを得ません。この現場が、古代の有明海の湾奥の現佐賀市であったという話から始めることにします。ただ、また同じようなブログを書いても二重になるだけですから概略だけを箇条書きにしたいと思います。

@  40年ほど前、旧「大和町史」の拾い読みをしていると、淀姫神社の西の山の中腹に河上 猛の墓(墓があったとの表示)との伝承が存在したと言った記述があることを知りました。一方、以下。

A  戦時中に熊本市役所にお勤めだったのですが、熊本では稀有の九州王朝論者である平野雅廣(日偏が着く)氏が「倭国史無題.png談」外3著を残されています。この「倭国史談」37pには異説「ヤマトタケル」という小稿が収められており、「佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」上巻に「蠣久府址」の説明文を掲げられ、「往古此地は九州一の都会、…戸数三千、富豪巨商軒を連ねし所、…日本武尊河上村に熊襲追討…」と。また 旧川上村は佐賀郡大和町と…昭和50年の同町「大和町史」の伝説民話にも ●大願寺の山中で、熊襲が里の娘たちを集めて、大酒宴の最中、日本武尊に殺された。…そこから一キロ北に行基が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという、川上梟師に関する伝承が記されている(大願寺、健福寺は共に大和町北部)。淀姫神社についても…

 無題.png「脊振村(現神埼市)広滝 で許された河上猛とその一族はその後背振山を越え福岡市早良区に移り住んだ」とは我が師百嶋由一郎だった。この話をどこから回収されたかは今後の課題ですが、まずは、真実を探る事に一生を掛けた先生らしいとの想いが募ります。では、早良のどこなのか?誰なのか?は百嶋由一郎の強烈な影響を受けた十数名の人々(百嶋先生の面授の弟子)が等しく抱き続けた謎に踏み入りましょう。 私は五年ほど前から早良の南から虱潰しに神社を廻ることから始めましたが埒が明かず結局徒労に帰しました。そこで、年末から百嶋由一郎が残した手書き資料を探し出しました。驚くことに、河上 猛の母奈留多姫は八坂刀女と名を改めアスハ(後の建御名方)と道行に走った。と書かれていたのです。では、早良区の諏訪神社はと言えば、原の諏訪神社しかないのです。しかも、M氏の情報によると八坂刀女が石碑の由緒書きに書いてあるという情報までもたらされました。そこで現地のフィールド・ヲーカーのN氏と111日、諏訪神社を踏むと、裏には大神氏以下、佐賀にもなじみのある多くの名前が付されていたのです。

 後日、「福岡県神社無題.png誌」で確認すると、以前の宮司家の名も掲載されており、河上 猛の一族とはこの一族だったのではないかとの推測が一応は立ったのでした。後は現地伝承を両面から探る作業を行うことになりますが、恐らくこれも徒労に帰すでしょう。ともあれ、当面の課題はクリアしました。

 そこで、栄えある河上 猛のその後の姓が大神だったとしましょう。直ぐに頭を過るのは豊後竹田から豊後大野に掛けて盤踞した阿蘇の大神一族の事でした。後には辛島氏などと並び称せられる宇佐神宮の宮司家=大神比義の一族となり「平家物語」にまで登場するのです。彼らは祖母山に豊玉姫を祀りました。それは河上 猛から見て祖母だったからであり、祖母山の名はここに端を発していたのです。さらに言えば、この一帯に異常にも広がる「ウガヤフキアエズ王朝説」も猛にとっての父とは久留米高良山にいたウガヤフキアエズだったからなのです。この説の底の浅い構造に改めて興ざめしたのでした。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2022年03月18日

887 二つの鳥之子の分布状況を敬愛する玄松子様のデータから

887 二つの鳥之子の分布状況を敬愛する玄松子様のデータから

20210116

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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天日鷲命



天日鷲命あめのひわしのみこと 別名

忌部神:いんべのかみ 大日鷲命:おおひわしのみこと 天日和志命:あめのひわしのみこと

天日鷲翔矢命:あめのひわしかけるやのみこと 天比和志可気流夜命:あめのひわしかけるやのみこと

天鷲命:あめのわしのみこと ……


無題.png天日鷲命 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)

忌部神社  徳島県徳島市二軒屋町2−48

忌部神社  徳島県吉野川市山川町忌部山14

御所神社  徳島県美馬郡つるぎ町貞光字吉良

高越神社  徳島県吉野川市山川町木綿麻山4

下立松原神社  千葉県南房総市千倉町牧田193

下立松原神社  千葉県南房総市白浜町滝口1728

和志取神社  愛知県安城市柿碕町和志取35

鷲子山上神社  栃木県那須郡那珂川町矢又1948

大麻比古神社  徳島県鳴門市大麻町板東広塚13

大麻山神社  島根県浜田市三隅町室谷1097

谷保天満宮  東京都国立市谷保5208

諸岡比古神社  石川県輪島市門前町道下22−1

わら天神宮  京都府京都市北区衣笠天神森町

五泉八幡宮 境内 服部神社  新潟県五泉市宮町5−46

弓削神社 境内 白紙社  山梨県西八代郡市川三郷町市川大門6373

日前國懸神宮 境内 國懸宮末社  和歌山県和歌山市秋月365


天夷鳥


天夷鳥命あめのひなとりのみこと 別名
建比良鳥命:たけひらとりのみこと 武日照命:たけひなてるのみこと 武夷鳥:たけひなどり ……


無題.png天夷鳥命 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)

天日名鳥命神社  鳥取県鳥取市大畑字森崎874

比那神社  島根県出雲市姫原町394

野見神社  愛知県豊田市榊野町見切53

小牧宿禰神社  長崎県対馬市峰町三根字寺の内959

阿須伎神社  島根県出雲市大社町遙堪1473

馬見岡綿向神社  滋賀県蒲生郡日野町村井705

防府天満宮  山口県防府市松崎町14−1

神門神社  兵庫県豊岡市日高町荒川字村上309

出雲大神宮  京都府亀岡市千歳町千歳出雲

射手神社  三重県伊賀市長田2691−1

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:30| Comment(0) | 日記

ビアヘロ194 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? 

ビアヘロ194 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? 

20220206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、ビアヘロ版190192でヤマトタケルの熊襲退治の舞台が佐賀市の佐賀大和インターチェンジ付近で起こった事だったという話を書いてきました。

ところが、この話の延長上にもしかしたら阿蘇大蛇伝説で知られ豊後大野、豊後竹田一帯に盤踞した三つ鱗紋(後に左三つ巴紋に収斂)を使った大神一族もこの河上猛の後裔氏族ではないかと言うイメージが過ったからでした。

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今回、ほとんど理解されないまでも、先行ブログ3本で、何とか河上 猛の後裔氏族が「大神」姓を名乗っていた可能性があることに気付きました。

 一つは現地探訪によるものですが、もう一つは「福岡県神社誌」上巻(90p)にも同社宮司家として大神氏が同社を所収されていたことが確認できたからでした。


社記によれば往昔は當地海濱にして神功皇后征韓御凱旋の砌姪濱に御上陸鳥飼への行啓の御途上に當りたるに因み住吉神を祭ると伝う社蔵の慶長五年の棟札に早良郡原村宗廟住吉宮本殿再建本願主泉沙禰とあり(泉沙禰は宮司大神甚座左衛門が高祖大明神の社職上原泉と共に仕へし高祖原田隆種没落後剃髪せる号名なり)貞享五年の棟札に早良郡原村産神諏訪宮本殿再建祠官藤上氏周継とあり。


無題.pngもし仮に、大神氏が河上 猛 に端を発する一族だったとしましましょう。すると面白いことが見えてくるのです。それは祖母山です。以下「高千穂の神話と伝説」より。

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この話に入る前に、僭越ながら先にちょっとコメントを加えておきます。

山頂の祭神の 健男霜凝日子神、豊玉姫命、彦五瀬命 については、百嶋神社考古学としてはそのまま受け入れられないのです。それは祭神が重複しているからです。

それは健男霜凝日子神と彦五瀬命とは同一神だからなのです。この誤りが何故生じたかは不明です。

山頂から下宮にかけて10社とは言いませんが豊後竹田を中心に56社はあり、一応全て参拝させて頂きましたが、実際にはエリアが広く大変です。では百嶋先生の通称金神系譜(部分)をご覧ください。

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 通常、神武皇兄五瀬命を義理の兄として扱うのは本物の神武天皇(藤原が捏造した神武僭称贈る崇神ではないと言う意味で…)の本物のお妃だったアイラツ姫(宮崎県日南市油津)の実兄が五瀬命だったからです。

 では、話を戻しますが、何故、祖母山と呼ばれているのでしょうか?それは言うまでもなくそれは誰かの祖母だからなのです。

 まったくでたらめな話なのですが、百歩譲ってその説を説明すれば、それは、彼らにとっての「神武天皇」の祖母が玉依姫(実は神玉依姫ではなく鴨玉依姫)だからなのだ!と言っているのです。これには二重三重の誤りが転がっているのですが、真実が隠されてしまうと言いたい放題になってしまっているのです。ほとんど漫画ですね。

 これが宮崎のインチキ神話の底流に流れる錯誤というか偽装なのです。

しかし、それに悪乗りするのが阿蘇系の後の藤原だったために嘘に嘘が輪を掛け闊歩したのでした。

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神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)の母神は確かに玉依姫と呼ばれる鴨玉依姫でした。

後の藤原は自らの一族を過大宣伝し、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の母神が神玉依姫であることに気づき、畿内制圧に成功した崇神(これも久留米高良大社にいた高良玉垂命=開化天皇+正妃神功皇后=皇宮皇后の指揮下で四道将軍を送ったのですが)は初代神武以上の功績を持つ藤原の祖先を神武に仕立てようとしたのでしょう。

では、この本物の神武天皇の母神とはどなたなのでしょうか?これも最終神代系譜に書かれています。

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お分かりでしょうか?大幡主ことカミムスビの姉=ヤタガラスの伯母 様に当たる方なのです。

大体、ウガヤフキアエズの子が神武天皇=サノノミコトなどといった話を吹聴される方は何も分かっちゃいないと思われて間違いありません。では、再び話を戻しましょう。

 あくまでも百嶋由一郎によればですが、ご覧のとおり祖母山の神豊玉姫は河上 猛にとって祖母である事は明らかですね さらに言えば、ウガヤフキアエズ(当時久留米の高良山に居たのですが)は父になるのです

実際には、祖母嶽(ソボタケ、ウバタケ)神社が置かれ、日子穂 穂出見命(ヒコホホデミノ)とそのお妃である豊玉姫命(トヨタマヒメ)が祀られているのですが、祖母山は「祖母」の由来の神武天皇の祖母、豊玉姫が祭られていますなどと解読されています。

この神武が本物の初代神武であるカムヤマトイワレヒコでないことは明らかで、藤原が拵えた神武僭称贈る崇神ことハツクニシラススメラミコト(黒枠)なのです。

この人物は久留米高良山にいたウガヤフキアエズと第9代扱いとなっている呉太伯の血を惹く本物の天皇高良玉垂命(ワカヤマトネコヒコ)開化天皇(后は仲哀死後の神功皇后)の臣下でしかない阿蘇系の人物(阿蘇系の大山咋=具体的にはヒコヤイミミと市杵島姫との間に生まれた国造神社様)だったのです。

ただ、その阿蘇系が藤原氏として最後の勝利者となったことから、崇神を神武に見立て、ヒコホホデミやウガヤフキアエズが神武の父などというとんでもない大嘘をでっちあげてしまい宮崎のインチキ神話がこさえられてしまったのでした。

 これが通説派の欠史8代架空説などと言うほとんど漫画でしかない歴史が偽造されてしまったのでした。実に嘆かわしい限りであり、「古事記」の95パーセントが嘘という百嶋説に従うべきなのです。

 ネット上にはウガヤフキアエズ王朝複数のサイトが出店されています。ここで敬意を表し特筆大書させていただきましょう。


祖母山大明神の正体とは? - ウガヤフキアエズ王朝実在論


 ただ、彼らが持ち上げる大神一族がウガヤフキアエズの後裔氏族であったであろうことは疑いようがありません。

 そこで、一気にそこに踏み込みたいのではありますが、その前に、阿蘇大蛇伝説と大神一族(大賀、緒方、尾形…)と祖母山、姥ケ嶽(岳)の関係を簡単にお話しておき、その後に触れたいと思います。

阿蘇大蛇伝説と大神一族


 大分県でも辺境に位置する豊後竹田から豊後大野、臼杵、佐伯…と、この一帯が頭に浮かばない方が多いのはいたし方ありませんが、祖母山の西に延びる尾根の北麓に穴森神社という非常に印象的な神社あります。何度となく参拝していますが、何時行っても迷いそうになります。

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無題.pngに比べ、このサイトは当方が書こうとしていた部分を正確に書かれており是非お読みいただきたいと思います。

 まず、一部ですが、本文を掲載し、勝手かつ僭越ながらコメントを加えさせて頂くことにします。

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「平家物語」などに後裔の大神惟基が登場するのですが、華御本姫を祀る宇田姫神社にも洞穴があり穴森から降りてきた祖母山の使いの大蛇の子を身籠り生まれたのが大神○○との伝承を広め、剛の武将との話が広められたのです。話は逸れますがこの華ノ本が博多の櫛田神社の石柱の「花の本」であると言われていましたが、これについては二十本以上のブログが松尾芭蕉の俳号によるとしています

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当地の伝承では、上記の『平家物語』で語られた内容と共に、一部の微細違いと共により詳細が伝承されています。

祖母山大明神(健男霜凝日子神社)の化身である蛇神(穴森神社の神)の子を宿やどしたのは、豊後大野市清川町宇田枝(地図)に在した華御本姫とされています。華御本姫は、藤原伊周の娘で、父君薫育により和歌などの国風に堪た能であったことから歌媛様と称されていました。草木も眠る丑満時になると、その華御本姫のもとに端麗な若者が風の如く寝所を訪れ、未明には煙の如く、所も言わず名も語らず去るのでした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:45| Comment(0) | ビアヘロ