2022年03月01日

881 鳥子三宮神社の基底部を探る @

881 鳥子三宮神社の基底部を探る @

20210105

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 南阿蘇(南郷谷)の西麓西原村に鳥子三之宮神社があることについてはこれまで数本のブログで書いてきたので読まれた方も多いかも知れません。

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鳥子三之宮神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡西原村鳥子2608


 以下、主要には5本、関連で西原村の性格を切出すべく書いた3本のリポートがネット上に公開中です。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

634

熊本地震で被害を受けた西原村の阿蘇四ノ宮神社とは何か?

632

鳥子三宮神社再考 “阿蘇系神社と思われている熊本県西原村鳥子神社”

631

熊本地震で被害を受けた境内に雨宮姫を祀る神社 “熊本県西原村宮山の宮山神社”

617

南阿蘇への迂回路に鎮座する湧水池と塩井社をご存じですか?

604

西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛の逃亡ルート

520

熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

359

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

358

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @


 今般、ある筋からの依頼がありました。“この神社が何なのかを調べているが、宮司に聴こうが神社庁に照会しようが全く見当が着かなかったので、仕方がなくネットで拾った情報から連絡を取った”ということから、改めて同社への解析と作業を進めることにしました。

 まず、熊本県の西原村と言っても県外の方には全く見当の着かない土地ですが、熊本空港のある阿蘇外輪山の西側の裾野の村と言えば分かっていただけるかも知れません。

 この地に鳥子三宮神社と言うあまり聞かない神社が鎮座しています。

この西原村は古代の溶鉱炉跡があるなど、古代に於いても製鉄冶金に関わる土地であったと思わせます。

まず、鳥子という土地は西に向いた阿蘇の大峡谷の南脇にあり北西方向に開いた谷を持っています。

古代に於いても製鉄冶金は農閑期の冬場を中心に作業が行われたのですが、鳥子の谷は地形的にも北西からの風を受け凝集する事ができる土地だったのです。

 その中心に位置していたのが鳥子三宮神社の前を流れる鳥子川から山へと続く集落だったはずで、冬場に製鉄を行うには最適の土地だったのです。

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では、改めてこの「鳥子」という地名とその意味から探る事にしましょう。

ただ、地域、神社関係者を始めとしてほとんどの人々がその意味を失ってしまっており、中には俘囚移配に伴う「虜」(トッコウ)説などを持ち出す方がおられる事も承知しています。

このため、「鳥子」とは何なのかを改めて説明する事から始めざるを得ないのです。

これについてはこれまで書いているものがありますので詳しくは先行ブログをお読み頂くことができます。

まず、神社研究者の中である程度知られているものに小烏(コガラス)神社と言うものがあります。、福岡市などに数社拾えいずれもヤタガラスを祀る神社と解されています。

……

子烏神社  福岡市中央区警固3丁目11-56

子烏神社  福岡県福津市中央6-9-7

子烏神社  福岡県古賀市筵内2182

子烏神社  福岡県行橋市大谷1726

……

これらは、直接ヤタガラス=豊玉彦を祀る神社と見て良いでしょう。

ただ、故)百嶋由一郎氏によれば、これだけでは十分ではなく、有力者であったヤタガラス(造化三神の一人であるカミムスビ神=大幡主の息子)は多くの政略結婚により多くの氏族が生れているのです。

その一流に「鳥子」と言う氏族がありヤタガラスの血を分けた子孫としていたと解されていたのです。

 この鳥子と呼ばれる一族とは、阿蘇高森の草部吉見神(ヒコヤイミミ)と高木大神(造化三神のタカミムスビ)の次女であるタクハタチジヒメの間に生れた阿蘇都比売(アソツヒメ)と前述のヤタガラス=豊玉彦(造化三神のカミムスビの息子)の間に生れたのが天日鷲=鳥子神でありその後裔氏族が鳥子の一族になるのです。

この鳥子集落には、以前 鳥子(トリコ)“宇土の八兵衛の逃亡ルート”で取り上げた八兵衛さん(1600年代初頭に細川藩によって処刑…)が「鳥ノ子の方様」を頼って日向に逃亡しようとしていた事が記録されています(一応は「鳥ノ子の方様」が書かれた部分を掲載しておきます)。宇土市の周辺の出身であった八兵衛さんは、刃物産地である川尻町で手に入れた針などを対岸の島原辺りで行商する内にキリシタンに被れたものか、キリシタン禁制に狂奔する肥後藩に追われ逃亡の挙句、西原村から阿蘇の手前辺りで肥後の藩兵に捕らわれ殺害されているのです(詳しくは二本のブログをお読み下さい)。

 この刃物製作集団の関係者と「鳥ノ子の方様」の関係ですから恐らく金属加工の頭領だったのでしょう。

 少なくとも天草島原の乱前後までは鳥ノ子の方様なるヤタガラスと草部吉見の長女阿蘇津姫との後裔氏族がこの西原村の地に住みかつ製鉄に携わり阿蘇氏の鉄器製造への指揮も執っていた事までが見えてくるのです。

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 これは島原の乱前後の話なのですが、その時代に於いても金属加工集団の頭目と思えるとりのこの方様なるヤタガラスの後裔氏族が実際に存在していた事が確認できるのです。

 また、この鳥子にある阿蘇三之宮神社の「三宮」の意味は、内牧の阿蘇神社の祭神から見た場合の三之宮=草部吉見(ヒコヤイミミ)を意味しているのです。以下、阿蘇神社の祭神の一部からご覧ください。


一の神殿(左手、いずれも男神)一宮:健磐龍命 - 初代神武天皇の孫という

三宮:國龍神 - 二宮の父で、神武天皇の子という 五宮:彦御子神 - 一宮の孫

七宮:新彦神 - 三宮の子 九宮:若彦神 - 七宮の子

二の神殿(右手、いずれも女神)二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃 四宮:比東芬q神 - 三宮の妃 

六宮:若比盗_ - 五宮の妃 八宮:新比盗_ - 七宮の娘 十宮:彌比盗_ - 七宮の妃 

下は草部吉見神社の祭神 五の宮 阿蘇都彦が健磐龍命に 六の宮が阿蘇都比当スに相当する


勿論、「神武天皇の子」という…との主張は、本物の初代神武天皇(神武僭称:贈崇神なのではない)の本物のお妃であったアイラツヒメが、藤原によって第二代贈綏靖とされた金凝彦(カナコリヒコ)=神沼河耳に下賜されその間に健磐龍命が産まれている事から阿蘇家が神武天皇との関係を宣伝しているのです。ただ、古代は母系制社会であり、むしろ女性方の格式がかった(しかも金山彦と神大市姫の娘)事を考えれば、全く誤りとも言えない部分がある事は否定できないかも知れません。

 無題.pngこういった話を阿蘇神社や熊本県神社庁などが認めない事は言うまでもありません。

しかし、故)百嶋由一郎氏とも親交が深く「熊本県神社誌」を編纂された故)上米良純臣宮司なども実際には十分に理解されていたはずなのです。

 ともあれ、表向きの主祭神とされる三之宮とは阿蘇神社の三之宮の国龍神=草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神=海幸彦…の事である事は間違いないでしょう。

 しかし、それは阿蘇が権勢を振るい始めて以降の話であり、それ以前には別の神々が祀られていた事が十分に見えるのです。

それこそが本来の祭神であったはずの鳥子大神(天日鷲)を中心とする神々だったと考えられるのです。

無題.png「熊本県神社誌」194p による同社祭神  百嶋由一郎ヤタガラス神代系譜(部分)

ヤタガラスはカミムスビという有力者のプリンスであったために多くの氏族 豊秋ツ姫(高木大神の長女)、罔象女命(大山祗の長女)、櫛稲田姫(金山彦の娘=イカコヤヒメ)、木木花咲弥姫(大山祗の次女後に前玉姫)、武内足尼(スサノウとクシナダヒメの間に生れたナガスネヒコの妹オキツヨソ足姫)…と姻戚関係を結びます。ここまで確認できれば、次のステップに進むことができます。天日鷲=鳥子大神とは如何なる出自であるかです。そのためには杉山姫なるものが何かを知らねばなりません。

簡単に言えば、この杉山姫も阿蘇津比売(アソツヒメ)の別名でしかないのです。

ここら辺りからの話は現在の阿蘇宮司家(健磐龍系)が嫌がる話になるのですが、この阿蘇津比売は始め本物の神武天皇(後の藤原によって第10代とされた神武僭称贈る崇神ではない)の息子である第4代懿徳天皇(母は大山祗の姉大市姫=燕脂姫の娘アイラツヒメ)の妃になるのですが、後に別れ、阿蘇家の祖とされる健磐龍との変節を経て最終的にヤタガラスの妃となる時点では杉山姫と名を変えているのです。

これが神奈川県の川崎市などに集中する杉山神社なのです。要はかなり奔放な女神様だったのです。


天豊ツ姫⇒阿蘇津比売⇒天比理刀刀ヒ寒川姫⇒杉山姫


さらに説明を加えれば、天豊ツ姫は第4代懿徳天皇の妃時代の名、阿蘇津比売は出戻り時代の復名、健磐龍による皇后陛下略奪、籠絡と応諾の結果の罵声が天比理刀刀i屁こき姫の意味)の名となり、最後は寒川姫、杉山姫は、しかたがなくヒコヤイミミがヤタガラスに頼み込み引き取ってもらって後の改名と言った趣旨の話を百嶋氏はされていました。

百嶋由一郎氏は神社研究上は「熊本県神社誌」の編纂者であり人吉の青井阿蘇神社の宮司(神社長)でもあった上米良純臣の副官に近い存在だったのであり、神社中枢部では伝え知られた話だったようです。

ここまで解読した上で改めて西原村の性格を考えると、この地は阿蘇氏が熊本に進む出口のような場所であったと気づきます。今でこそ阿蘇谷に向かう白川右岸(北岸)ルートが主である事から錯覚しがちですが、地形から言っても阿蘇谷よりも南郷谷との関係、阿蘇神社よりも草部吉見系(年禰神社系)との関係が深い一帯であった事が見えてきます。そして、同村全域の祭神も解析すると単純に阿蘇系とは言えず、大幡主系=天御中主命=妙見=北辰の系統、とりわけ豊玉彦=ヤタガラス系の勢力が製鉄、製銅、冶金を行っていた事を強く意識するのです。

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鳥子三之宮神社の解析は一筋縄ではゆきませんが、ここで横道に逸れ少し目先を変え古代製鉄で知られた西原村でもとりわけ鳥子の一族について考えて見たいと思います。

それは西原村HPから取り出した日置若狭守の供養塔の話です。

中近世は私の興味の向かう領域ではないため詳しくはないのですが、多少思いついたお話を付け加えておきたいと思います。

九州の神代史から古代史について関心を持つ人々にとってはほぼ常識的なことですが、3世紀前後の列島に於いて、近畿大和とりわけ奈良県では全く鉄が取れた痕跡などなく、逆に筑紫から肥後にかけては圧倒的な製鉄の痕跡があることです。

中でも熊本県は著しく、荒尾から玉名そして山鹿、つまり尚岱山周辺の古代製鉄産の存在があり、今尚、菊池川の川底には夥しい量の砂鉄がうず高く堆積しているのです。

この点、山を崩し風化花崗岩の隙間から砂鉄を取り出す山陰などの乱暴なカンナ流しによる製鉄に比べれば川底から取り出した鉄を精錬すれば良い肥後の製鉄は非常に有利だったのです。

これに加え阿蘇平野と菊池、山鹿に拡がっていた巨大穀倉こそが南北朝争乱期に象徴される阿蘇氏、菊池氏、五条家、黒木氏…といった宮方の抵抗できた基盤だった事が分かってきます。

そこでこの日置氏の話に踏み込みましょう。この日置氏=疋野の一族は製鉄で知られた人々で、全国にその足跡を残しています。

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 西原村HP教育委員会より

 鹿児島の日置市、山口の旧日置町(現長門市)、大阪の羽曳野、丹波篠山の日置氏…切が無いのでここまでとしましょう。

 そこで、玉名の疋野神社が頭を過りました。この疋野神社の一族がいた玉名こそが日置氏のルーツとも言うべき本願地と思われ、巨大鉄山と言える尚岱山を背負い菊池川を遡上しもう一つの製鉄地帯である大分県の国東半島+姫島への製鉄ベルトが形成されているのです。このとんでもない話については以下をお読み頂く必要があります。極秘扱いにされてはいますが、藤原氏はこの重要な製鉄氏族である日置氏=疋野神社(温泉神社)の祭神こを自らの参加に置く為に第6代とされた孝安天皇の一族としたのであり、全国の日置氏はその後裔氏族と考えられるのです。


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統

※以下省略

極一部の方を除いて、大半の皆さんは「記」「紀」偏重の歴史によって、初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)以来血統の繋がる直系に依り天皇家の血筋が連綿と繋がっているとお考えかも知れませんが実は全く異なるのです。

初代神武天皇こそ呉の太伯の血を引く本物の天皇ですが、第2代綏靖天皇は阿蘇神社最奥の神殿に祀られている金凝彦=巨胆将来神であり、神武との繋がりなど全くないのです。

3代安寧天皇は博多の櫛田神社の主神大幡主=カミムスビ(造化三神)かつヤタガラスの父神であり天御中主系白族の人物なのです。

次の第4代懿徳天皇は神武天皇と吾平都比売(アイラツヒメ)の間に生れた呉の太伯の血を引いた本物の天皇ですが、再び第5代孝昭天皇となるとそれこそ阿蘇系祭神の雄高森の草部吉見神社のヒコヤイミミ(これが事実上の藤原氏の始祖と言われる当方に移動した多氏、宇治氏、阿蘇氏なのです)、そして、第6代孝安天皇となると、製鉄の技術を握った集団の長であり、具体的には熊本県玉名市の疋野神社の隠された祭神、日本足彦国押人天皇なのです(日置氏はその後裔か?)。勿論、初代神武天皇と血の繋がりがある訳などないのです。第7代、8代、9代は孝霊、孝元、開化は再び呉の太伯の血統を引く天皇とされていますが、実質的に天皇となったのは、久留米の高良大社の主祭神とされる高良玉垂命であり、実質的な本物の天皇と言っても良い人物なのです。それ以降は再び阿蘇系の崇神、垂仁が続き、第12代になり、再び疋野神社の製鉄神孝安天皇の子が景行天皇とされるのです。

我々九州の古代史神代史を探究するものとしては、極めて重要な第16代仁徳天皇(母神は神功皇后)という本物の天皇があるのですが、一切の真実が歴史の闇に隠されているのです。

要は藤原氏が権勢を守るために有力集団を取り込むために天皇を創った事が見えてくるのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)※公開済み

855

古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社

の主神)は天皇扱いされた 香春神社

854

古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社

の主神)は天皇扱いとされた 疋野神社

836

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

M “大帯姫か大足姫か?”

835

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

L “ツヌガノアラシトは何を…?”

834

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

K “スサノウは姫島に来たのか”

833

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

J “国東の姫島から周防の柳井へ”(下)

832

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

I “国東の姫島から周防の柳井へ”(上)

831

「古事記」中つ巻  孝霊編 H “卑弥呼宗女伊予=細姫

を妃とした開化天皇の祖父神”

830

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

H “肥後から姫島、国東へ”

829

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

G “櫛稲田姫は山鹿の稲田村で生れた”

828

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

F “大宮神社の境内摂社”

827

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

E “大宮神社の本来の祭神は金山彦”

826

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

D “玉名、山鹿から国東、姫島へ”

825

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

C “では大帯八幡社とは何なのか”

824

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

B “何故仲哀を祀るのか”

823

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

A  "仲哀を祀る八幡宮群”

822

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か

@ “消えた祭神を求めて”

821

「古事記」中つ巻  孝安編 G  “孝安は熊本県玉名市

にいた景行の父神”

820

「古事記」中つ巻  孝昭編 F  “孝昭は阿蘇高森の草

部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミ”

819

「古事記」中つ巻  懿徳編 E “懿徳は安寧の子でなく

神武ので僅かに倭人伝にも登場する”

818

「古事記」中つ巻  安寧編  D “謎だった安寧天皇とは

博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビだった”

817

「古事記」中つ巻  綏靖編 C “阿蘇氏の祖には神武

の血統が継承されているとは言えないのだが…”

816

「古事記」中つ巻  神武編 B “槁根津日古とは神

武僭称贈る崇神の弟だった”

815

「古事記」中つ巻  神武編 A “神武巡幸と神武僭

称贈る崇神の神武東征とを分離しよう”

814

「古事記」中つ巻  神武編 @ “笑ってしまいますが

…宇沙都比古が神武を迎えたと言うのです”

百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年03月03日

882 鳥子三宮神社の基底部を探る A

882 鳥子三宮神社の基底部を探る A

20210106

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 無題.png今回は鳥子神社と呼ばれる神社が外にもあるのかという切り口から話を進めます。

一般的に正体の分からぬ神社の解析をする場合、同名の神社を広く探りその中からその本質を探る帰納演繹的方法を使うのですが、類例がないか少ない場合はほとんど方法がなく、何らかの指針なり決め手が必要になるのです。

 ただ、この鳥子神社については非常に幸いなことに60数年間神社を調べてこられた故)百嶋由一郎氏による資料が残されていました。このメモによれば、鳥子にはもう一つの系統があるのです。ただ、西原村のそれは天日鷲の系統であり武夷鳥ではないのです。

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実はもう一人の鳥子と呼ばれる神がいるのです。

それは武夷鳥の一族で母神は神武天皇に弓を引いたとされる金山彦の娘櫛稲田姫とスサノウとの間に生れたナガスネヒコの妹オキツヨソ足ヒメとの間に生れた氏族としているのです。

 また、もしかしたらその2流とは別に神主玉も可能性があります。ヤタガラスはコノハナノサクヤと一緒に鹿児島県旧溝辺町周辺に移動しているのです。その後、皆さん良くご存じの富士山浅間神社から埼玉県の稲荷山鉄剣出土の稲荷山古墳正面の前玉神社(埼玉県の地名起源)として祀られるコノハナノサクヤとヤタガラスの間に生れた氏族ももう一つの鳥子であると百嶋由一郎氏はメモを残しているのです(下向き↓の矢印は鳥子へ…)。

 ただここで確認すべきは、西原村の鳥子とは阿蘇都姫とヤタガラスの間に生じていることです。


百嶋由一郎鳥子系譜(上) 百嶋由一郎手書きメモ百嶋神社考古学初期01220813)通信文(下)

無題.png

この前玉神社については以下を参照して下さい。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

23

コノハナノサクヤヒメを祀る霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社再訪 

 ひぼろぎ逍遥

67

霧島市溝部町の前玉(サキタマ)神社にコノハナノサクヤヒメを探る


ここで鳥子神社の他の類例探ることにしましょう。

 一つは西原村の鳥子からの入植と思われる方々が造った熊本市西区の神社です。


@ 阿蘇神社(半田鳥子神社)

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阿蘇神社(半田鳥子神社) カーナビ検索 熊本県熊本市西区城山半田3丁目9


神社の近くで遭遇した農家の方にお尋ねすると、この地区には小さな神社が地区ごとに在るとのこと、干拓地が形成された時代に入植した人々が各々の神社を持ち込んだ事が良く分かりました。

 社殿を見ても、参拝殿には西原村の鳥子神社の記事が、また「熊本県神社誌」からのコピーが掲示されており、この氏子の皆さんが西原村からの入植であることを強く意識されている様に思いました。

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参拝殿には明治の神名帳と思われるものが残されており、筆頭祭神を坂合部神(鳥子大神)としており、西原には伝えられていないようです。これについては更に別稿として書きたいと思います。


A 鳥之子神明神社(新潟県新潟市)

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越前浜の神明社は「鳥之子神社」と呼ばれて親しまれている。角田山の北,越前浜地区の南端に鎮座する。「神社明細帳」(明治十六年)に「西蒲原郡越前濱村字上谷地 無格社・神明社」とある。

越前浜の集落は越前国から移住した人(姉川の合戦で敗れた朝倉義景の残党ともいう)によって慶長年間に開かれたと伝えられている。

移住のさい,荒天のため船が難破したが,岸から聞こえる鶏の声のおかげでこの浜辺にたどり着くことができ,以来,この地区では鶏をことのほか大切にしてきたという。鶏肉や卵を口にしない習慣も続いている。 伝承によると当社は,初め角田山の中腹に祀られて「トリノコサマ」「鳥の子明神」などと称したが,嘉永五年(1852)に現在地に遷したという。大正十年(1921)に村社に昇格した。

祭神は天照大神である。                        (にいがた百景)による


 この神社は今回初めて知ったもので、そのうち実踏させて頂くつもりです。

さて、北陸に行くと「明神社」と称する天照大御神を祭祀する神社にかなり遭遇します。

 主神とはされていますが天照はカモフラージュのようにも思えます。注目すべきは西原村の鳥之子三宮の八兵衛さんの話と重なる「トリノコサマ」が確認できるのです。

もう一つ目を引いたのは西原村と同様に神殿が覆い屋に守られる鞘殿形式だった事です。

 雪深い土地ゆえ単純には言えませんが、物部氏に多いと言われる鞘殿には何らかの共通性を感じます。


B 鳥子山上神社(栃木県那須郡那珂川町)

 こちらは56年前に実踏した神社です。詳しくは以下を読んで頂くとして、概要をお話しします。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

336

栃木、茨城県境に跨る鷲子山上神社北関東への神社調査 D


栃木県那珂川町に鷲子山上神社という一風変わった神社があります。

普通の意味では特別見晴らしが良い訳でもなく、ただの辺鄙な山の一角にある神社なのですが、当時も紅葉の季節であり、何故か多くの参拝客が押し掛ける神社となっているのです。

 まず、鷲子(ワシコ)山神社付近には、鷲子(トリノコ)沢川、鷲子(トリノコ)、鷲子(トリノコ)、鳥居土(トリイド)といった地名が拾えます。従って、元はトリコ、トリノコと呼ばれていたのでしょう。

何よりも、西隣にはJR烏山線が通り、栃木県那須鳥山(カラスヤマ)市(烏山町)までがあるのですから。

無題.png

無題.pngこれはこの一帯に大幡主、豊国主(ヤタガラス)の一族が入っている事を示しているようです。

そのことを念頭に置いたうえで、同社も考える必要があるでしょう。

とにかく、ここでは鷲の子はフクロウに形を変えているのでしょうか?

実際に参拝客が増えている様である事からそれなりに真面目に考える必要はあるのかも知れません。

さて、HPを見る限り、「鷲子山の御祭神は、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)といわれる鳥の神様です。」とあるのですから、まずは、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)とは誰かを考えておく必要があるでしょう。

比較的有名で、神社研究者ならずとも直ぐに念頭に浮かんでくる神様のお一人です。


天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する神。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。

別名は、高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命や天加奈止美命。 …中略…

神話で知られているのは天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、この神(天日鷲神)が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である。

『日本書紀』では天の岩戸の一書に「粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」とある。

『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。

また天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。忌部神社や鷲神社などに祀られている。

ウィキペディア(20161203 19:11による

もちろんこの方向で問題はありません。

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阿蘇系譜A


百嶋神代系譜によれば、天児屋根こと阿蘇高森の草部吉見=春日大神=鹿島神社の武甕槌の娘で阿蘇神社の健磐龍の妃となったものの問題が起き、最期は豊玉彦=ヤタガラスのお妃として納まった阿蘇ツ姫の子が天日鷲でありその子が天富命です。

阿波の忌部の祖ともされる天日鷲ですが、その子かその一族が北関東に進出してきたのでしょうか?

この鷲子山付近には富山という地名も拾え、富山川という川も流れています。

結局、北関東には北関東の土着の神様などがおられるのではなく、全て、九州、九州王朝系の一族が進出、避退、征服…により展開している事が見えるのです。


百嶋由一郎神代系譜、同講演音声CD、同手書きデータ・スキャンニング資料等を必要とされる方は、直接 090-6298-3254までご連絡ください。

また、共に神社研究を行っていただける方を探しています。いつでも電話をお掛け下さい。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年03月06日

883 新潟に鳥之子三宮神社があった

883 新潟に鳥之子三宮神社があった

20210108

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


新潟市の玄関口とも言うべき越前浜に鳥之子三宮神社(神明社)を見い出しました。

これまでこの神社に関心を寄せて来た者としてある種感動をさえ涌き立たせてくれたのでした。

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この思いはこれまで書いてきた以下の文書をお読みになればお分かり頂けるでしょう。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

857

鳥子三宮神社の基底部を探る A

856

鳥子三宮神社の基底部を探る @

634

熊本地震で被害を受けた西原村の阿蘇四ノ宮神社とは何か?

632

鳥子三宮神社再考 “阿蘇系神社と思われている熊本県西原村鳥子神社”

631

熊本地震で被害を受けた境内に雨宮姫を祀る神社 “熊本県西原村宮山の

宮山神社”

617

南阿蘇への迂回路に鎮座する湧水池と塩井社をご存じですか?

604

西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛

の逃亡ルート

520

熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

359

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

358

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @


それほどの思いがどこから来ているかと言うと、この鳥之子大神を祀る氏族の一つが鷲子山上神社と名を変えているものの、栃木県那須郡那珂川町という北関東の一角に鎮座している事を知り五年程前に参拝していたからです。

 当時から恐らく九州から対馬海流に乗り北上し柏崎刈羽辺りで上陸し山越えルートで北関東に入っているのではないかと考えていました。

 以前、新潟では弥彦神社周辺をかなり探索していたのですが、もう少し北に足を延ばしておけばこの神社に到達出来ていたかも知れません。

 再び、上越福井からさらに奥へと入る時があると思いますので、その際には必ず参拝させて頂きたいと思います。

 その意味では、多少先走りにはなりますが、中継地として想定していた神社を発見できたことは、望外の喜びになるのです。

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烏之子神社のある越前浜は400年以上前の姉川の合戦で敗れた朝倉義景の残党によって開かれたと言われています。つまり越前国から移住した人たちが開拓したことから越前浜と称されるようになったと伝えられています。


鳥之子神社のいわれ・歴史 鳥之子神社|越前浜-新潟県新潟市西蒲区 越前浜自治会による


少しご紹介したいので、もう少し他のサイトからご覧頂きます。


鳥之子神社 カーナビ検索 新潟県新潟市西蒲区越前浜4725

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越前浜の神明社は「鳥之子神社」と呼ばれて親しまれている。角田山の北,越前浜地区の南端に鎮座する。
「神社明細帳」(明治十六年)に「西蒲原郡越前濱村字上谷地 無格社・神明社」とある。
越前浜の集落は越前国から移住した人(姉川の合戦で敗れた朝倉義景の残党ともいう)によって慶長年間に開かれたと伝えられている。
移住のさい,荒天のため船が難破したが,岸から聞こえる鶏の声のおかげでこの浜辺にたどり着くことができ,以来,この地区では鶏をことのほか大切にしてきたという。鶏肉や卵を口にしない習慣も続いている。
伝承によると当社は,初め角田山の中腹に祀られて「トリノコサマ」「鳥の子明神」などと称したが,嘉永五年(1852)に現在地に遷したという。大正十年(1921)に村社に昇格した。祭神は天照大神である。

「にいがた百景」による

無題.png西原村鳥子の鳥子三之宮神社


「新潟県神社庁」のHPで検索しました扱いづらく、正確な神社名は確認できませんでした。

 ただ、以前、越前、越中についてはかなりの神社を実踏しましたのでこの天照大神を祀る神明社の祭祀には何度も出くわしていましたので、それで良いとしておきます。

 これが、鳥之子大神に先行するものか、並立するものかは未だ不明ですが、朝倉氏の残党が携えたものと言う話は極めてリアルです。

 そもそも、越後に越前浜なる地名がある事からして不思議でしたが、敦賀、大野の本拠地を失った朝倉氏の避退と共に持ち込まれたものとすると、神明社が先在神なのかも知れません。

 この朝倉氏については、全国に30前後の「朝倉」「朝来」地名が拾え、直接的には兵庫県養父市、朝来市(この地名そのものがアサクルと読めるのです)からの東方への展開であり、本拠地を弟に譲り発展的に敦賀以東辺に展開しているのです。

 ただ、その但馬の養父以前にも起点があるのです。それは、福岡県朝倉市そのものであり、さらに熊本県益城町まで(朝来山=チョウライサン)さらには宮崎県西都市まで遡るのです。

 これについては、以下を、詳しくは、さらに追従ブログをお読み下さい。

 ひぼろぎ逍遥

146

「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏”

145

「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” 

144

「朝来」地名について @  “兵庫県朝来市の朝来山から”

 ひぼろぎ逍遥

515

但馬に勅使門を持つ神社がある “兵庫県朝来市の粟鹿神社”

514

朝来市の二つの若宮神社 “兵庫県朝来市の宮内と久田和の若宮神社”

513

朝来市を望む標高800メートルの山上神社 “兵庫県朝来市の青倉神社”

512

兵庫県養父市〜朝来市に掛けての若宮神社群 “兵庫県養父市大屋町の若宮神社”

306

朝来地名とは何か?


話が逸れましたが、この朝倉氏の一派に鳥之子の氏族(ヤタガラスと阿蘇都比売によって生じた製鉄集団)に含まれていた可能性を新たに考えざるを得なくなりました。

 今のところ現地を踏む事もなく勝手な推定を続ける事は出来ないため、熊本空港に近いこの鳥之子三宮神社の秘密に関わる部分について発信して終わりとします。


@ 鳥之子とは豊玉彦(ヤタガラス)と阿蘇高森の草部吉見神社の娘=阿蘇都比売との間に生れた鳥之子大神を奉斎し製鉄に携わる氏族である。

A 三之宮の意味は阿蘇氏の祖とされる健磐龍の腹違いの兄である高森の草部吉見神(ヒコハエミミ)=事実上の藤原氏の祖を阿蘇神社の祭神としての三之宮として扱い、その娘の阿蘇都比売を正妃としている事から敬意を込めて三之宮としている。

B ただ、この草部吉見の娘の阿蘇都比売は健磐龍とそりが合わなかったか離れヤタガラスの妃となっている。このことによって生じた一流が鳥之子という氏族である。

C 念のためにもう一つの鳥之子と呼ばれた氏族についても説明を加えておく。

本物の神武天皇に弓を引いたとされるナガスネヒコ(金山彦の娘櫛稲田姫とスサノウとの間に生れる)の妹武内足尼=オキツヨソ足姫とヤタガラスとの間に生じた氏族=武夷鳥も鳥之子と呼ばれている。

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D これも未確認であるが、百嶋氏は“古代の大家(オオカ)郷、(現)大分県の中津市、大江八幡宮の祭神が天日鷲命の子(二重線であることから姻戚関係による義理の子)が天富命”とのメモを残している。

以下は、越後の同胞に対する案内になるが、遠く古代から中世に掛けて阿蘇の西麓から移動した人々への呼びかけになる。彼らにはこの西原村から移住していった者の一部が含まれているはずであり、全く同名の神社を奉斎するほどその密度凝集度は高いと考える。このブログを見掛けた人々からルーツを探る人々が出てくるかも知れない。


勿論、「神武天皇の子」という…との主張は、本物の初代神武天皇(神武僭称:贈崇神なのではない)の本物のお妃であった無題.pngアイラツヒメが、藤原によって第二代贈綏靖とされた金凝彦(カナコリヒコ)=神沼河耳に下賜されその間に健磐龍命が産まれている事から阿蘇家が神武天皇との関係を宣伝しているのです。ただ、古代は母系制社会であり、むしろ女性の格式がかった(しかも金山彦と神大市姫の娘)事を考えれば、全く誤りとも言えない部分がある事は否定できないでしょう。

 こういった話を阿蘇神社や熊本県神社庁などが認めない事は言うまでもありません。

しかし、故)百嶋由一郎氏とも親交が深く「熊本県神社誌」を編纂された故)上米良純臣宮司なども実際には十分に理解されていたはずなのです。

 ともあれ、表向きの主祭神とされる三之宮とは阿蘇神社の三之宮の国龍神=草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神=海幸彦…の事である事は間違いないでしょう。

 しかし、それは阿蘇氏が権勢を振るい始めて以降の話であり、それ以前には別の神々が祀られていた事が十分に見えるのです。

それこそが本来の祭神であったはずの鳥子大神(天日鷲)を中心とする神々だったと考えられるのです。

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ヤタガラスはカミムスビという有力者のプリンスであったために多くの氏族 豊秋ツ姫(高木大神の長女)、罔象女命(大山祗の長女)、櫛稲田姫(金山彦の娘=イカコヤヒメ)、木木花咲弥姫(大山祗の次女後に前玉姫)、武内足尼(スサノウとクシナダヒメの間に生れたナガスネヒコの妹オキツヨソ足姫)…と姻戚関係を結びます。ここまで確認できれば、次のステップに進むことができます。天日鷲=鳥子大神とは如何なる出自であるかです。そのためには杉山姫なるものが何かを知らねばなりません。

簡単に言えば、この杉山姫も阿蘇津比売(アソツヒメ)の別名でしかないのです。

ここら辺りからの話は現在の阿蘇宮司家(健磐龍系)が嫌がる話になるのですが、この阿蘇津比売は始め本物の神武天皇(後の藤原によって第10代とされた神武僭称贈る崇神ではない)の息子である第4代懿徳天皇(母は大山祗の姉大市姫=燕脂姫の娘アイラツヒメ)の妃になるのですが、後に別れ、阿蘇家の祖とされる健磐龍との変節を経て最終的にヤタガラスの妃となる時点では杉山姫と名を変えているのです。

これが神奈川県の川崎市などに集中する杉山神社なのです。要はかなり奔放な女神様だったのです。


天豊ツ姫⇒阿蘇津比売⇒天比理刀刀ヒ寒川姫⇒杉山姫


さらに説明を加えれば、“天豊ツ姫は第4代懿徳天皇の妃時代の名、阿蘇津比売は出戻り時代の復名、健磐龍による皇后陛下略奪、籠絡と応諾の結果の罵声が天比理刀刀i屁こき姫の意味)の名となり、最後は寒川姫、杉山姫は、しかたがなくヒコヤイミミがヤタガラスに頼み込み引き取ってもらって後の改名”と言った趣旨の話を百嶋氏はされていました。

百嶋由一郎氏は神社研究上は「熊本県神社誌」の編纂者であり人吉の青井阿蘇神社の宮司(神社長)でもあった上米良純臣の副官に近い存在だったのであり、神社中枢部では伝え知られた話だったようです。

ここまで解読した上で改めて西原村の性格を考えると、この地は阿蘇氏が熊本に進む出口のような場所であったと気づきます。今でこそ阿蘇谷に向かう白川右岸(北岸)ルートが主である事から錯覚しがちですが、地形から言っても阿蘇谷よりも南郷谷との関係、阿蘇神社よりも草部吉見系(年禰神社系)との関係が深い一帯であった事が見えてきます。そして、同村全域の祭神も解析すると単純に阿蘇系とは言えず、大幡主系=天御中主命=妙見=北辰の系統、とりわけ豊玉彦=ヤタガラス系の勢力が製鉄、製銅、冶金を行っていた事を強く意識するのです。

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百嶋由一郎お騒がせ姫神代系譜

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