2022年02月24日

ビアヘロ192 福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい 

ビアヘロ192 福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


凡そ明治のころまでは、皇室、大名家、高級官僚…といった高位の人々を除き、県を越えて嫁を貰ったり、養子婿を貰ったりするという事は無かったと言われていました。

 だからと言って、犬や狸のように半径一〜二キロからと言うこともなく、うちの一族は決まってどこどこの集落から嫁嬢さんを貰う習慣があり、間違っても通婚の習わしの無い集落からは嫁取り婿取りはしなかったという事は普通に理解される事だったのです。

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今までこそフリッピンやブラジルなどからお嫁さんを貰ったり、息子がオーストラリア留学でイタリア人のお嬢さんを連れてきてしまった…と言った話がありますが、百年前までは100人に1人もない事だったのです。

 なんでそんな話を持ち出したのかと言うと、もしかしたらこの神社氏子の方々の全部とは言わないものの、1700年以上も前にかなり纏まった数の方達が背振山を越えてやってきたのではないかと考えているからです。

 情報が限られた中、それでも河上 猛の末裔の一族が山を越え、この地に辿り着いたのではないかという神代史の消された事実を発掘できるかも知れないという淡い希望性を探ろうとしているからです。

 ここまで言えば罵声が飛んできそうですが、そういう方たちは通説派の学芸員などが言うご追従説を聞いて信じ込んでいれば良いだけでこのような方々には真実の発掘など決してできないだけの事なのです。

 まず、江戸期の藩政時代に百姓は姓が無かったなどと平然と語る方々がおられますが、仮に百姓身分だったとしても本家が武家の場合は分家は百姓身分で無名になっていたのですし、そもそも滅ぼされ敗残した武家はお家再興を目指し、荒野の開拓を行いながらも家名を持ち続けた人々もいたのです。

 つまり、幕藩体制下では、百姓は氏姓を持たない、使わない事にしていただけだったのです。

 勿論、最下層に落とされた土地を持たない小作人も居たでしょうし、逃散した人々も居たでしょう。

 だからと言って明治以前の百姓が一切姓を持っていなかったなどと考えるのは早計過ぎるように思います。

 ただ、我々が考える3世紀の背振を挟んだ佐賀、福岡のかなりの有力な人々に共通する姓氏を探ろうとすることは無謀と言われる事には理がある訳で、暴走は承知の議論なのです。

 仮に河上 猛の一族が早良に移動したとしましょう。

 彼らは追放された猛に近い一族(首謀者)だけで移動しているはずで、佐賀県の旧大和町一帯にこの地と繋がりのある人々がいたはずで、娘や婿のやり取りは間断なく行われていたのではないかと思うのです。

 すると、明治になり大ぴらに氏姓を主張できるようになったならば、山を挟んでどの名を採用するかは同族付き合いの中で、自ずと決められたのではないかとまでは言えそうなのです。

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そこで、昭和61年にこの壽和会に名を連ねられた30人ほどの長老の方々の姓が佐賀とどれぐらいの対応を示しているかを見てみたいと思います。

 まず、筆頭の大神 様です。河上 猛の母君である奈留多姫とは明らかに阿蘇系の人物です。

 百嶋由一郎最終神代系譜で考えても、阿蘇の初代統領とされる惟人の妹か姉なのですから、後の藤原が阿蘇家を起点としている事を考えれば、有力な家系である事は言うまでもないでしょう。

 また、大神一族は、阿蘇大蛇伝説で知られる豊後大野の緒方三郎惟栄(緒方、尾形、大神…)に繋がり、宇佐神宮焼討ちなど「平家物語」にもその名を轟かす豪族でもあったのです。

 ちなみに荒城の月の岡城も本来は大神城であり、義経を招き入れ、頼朝と一戦やらかそうとした剛の者だったのです。

 当然、佐賀にも大神姓はあり、大賀と合わせ、有力家系である事は言うまでもありません。

 それほど多くはありませんが、早良の真南の様な場所に大神さんはおられるのです。

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大蛇の末裔という伝説をもつ大神(おおが)惟基の子孫です。
惟基は大和国大神(おおみわ)氏が下向し土着したとも、宇佐八幡宮創始に関わった
宇佐大神(おおが)氏ともいい、代々大野郡の郡司であったと考えられています。

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平氏の大宰府掌握後、惟栄は重盛(清盛嫡男)と主従関係を結び、緒方荘の荘官から豊後武士団の棟梁となり、優れた指導力を発揮しますが、九州に支配力を強めていた平家に反発し、頼朝挙兵後、重盛の家人でありながら兵を挙げ、反平氏の中心的人物として目覚ましい活躍をしました。
 緒方荘は祖母山北西一帯にあり、中世には108村を併せ持つ大領でした。

平家物語・義経伝説の史跡を巡る

次に、武田姓を考えましょう。

関東武士団武蔵7党などにも武田があるのですが、古くは熊本の小国にいたと思っています。

海援隊の武田鉄矢氏のご母堂は北里柴三郎の生家の北側の領地を持つ大地主だったと聴いており、家勢を失った後、母君が博多に出て来て育てられたため海援隊では武田姓を名乗ったとされているので、甲斐姓も含め、甲信に覇を競った武田氏も熊本起源ではないかと考えています(これは何れ別稿としなければなりませんね)。

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最も興味深いのは、槙 姓です。

 槙とは古くは有力者の棺をこさえる素材であり、それだけで身の引き締まる思いのする樹種(高野槙)ですが、この槙姓を持つ方が、早良の南に大量に居られるのです。

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真っ赤になっており50家を拾えますが、佐賀市から神埼市そして吉野ヶ里町と古代でも要地に分布されておられ、その意味で、ヤマトタケルの伝承の残る 白角折(オシトリ)神社 佐賀県神埼市の神社がある一帯でもあり、非常に興味深いところです。

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小田姓も佐賀にはたくさんお住まいですが、明らかに系統が異なると思われる真鍋姓も佐賀県には多いのです。有名な那珂川町(当時)の真鍋大覚(九州帝国大学物理学)の真鍋姓です。

 真鍋大覚は自らイスラエル系と自ら言っていた様ですし、ここでは対象外かも知れません。

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全てを取り上げても良いのですが、ここらでやめておきましょう。

 諏訪神社の氏子の壽和会の方々は、福岡市の中心部で戸建て住宅をお持ちなのですから、それこそ地方の人々から見れば垂涎の的ともいえる資産家の方々ですから、1700年の時を経て平安を得たのでしょうか?

 探索はまだまだ続きます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

869 宗像の神々 E 福岡県宗像市の原神社も圧迫された神社だった

869 宗像の神々 E 福岡県宗像市の原神社も圧迫された神社だった

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宗像市の神社と言えば宗像大社を何故取り上げないのかと言われそうですので、関心をお持ちなら以下の宗像周辺の神社をお読み頂くとして、現在はあまり目を向けられない神社にこそ真実が込められているとの思いから周辺部の神社から探査を進めているところです。

 その意味で、これまた消された可能性がある原神社を考えて見たいと思います。

 これもそんな神社どこにあるのかと言われそうですが、このシリーズで最初に取り上げた…

 864 宗像の神々 @ “福岡県宗像市野坂の野坂神社も本来の神々を失っている“

 と同じ野坂字榎ケ木元にある小社です(「福岡県神社誌」下巻381p無格社一覧)。

 これも宗像大社があまり喜びそうにない金山彦、スサノウ、ナガスネヒコ系の神社であり、その後裔氏族が住み着いた土地だったとまでは言えそうです。勿論、その対立とは1700年は前の対立なのですが…。

  

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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福津市の須多田古墳から天降神社を考える “伊藤まさこ女史に

よる古墳の考察から”A

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福津市の須多田古墳から天降神社を考える “伊藤まさこ女史に

よる古墳の考察から”@

701

福津市の須多田天降神社古墳の主を教えて欲しいと問合わせされた

寺島さんのルーツについて

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福津市の天降神社の祭神と須多田天降神社古墳の主を教えて欲しい

との乱暴なお問合わせに…

681

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… G “そもそも三女神とは何なのか”

680

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… F “宗像大社の境内に

置かれなかった大国主命の長男”

679

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… E “宗像大社の祭神は

元から三女神だったのか”

678

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… D “宗像大社の東に

大国主命を祀る神社がある”

677

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… C “宗像大社の西に

大国主命を祀る神社がある”

676

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… B “神湊の津加計志宮

に大国主命の痕跡を探る”

675

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… A “少し振り返って

出雲と大国主命を考えよう”

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何度も足を運んでいる宗像大社ですが… @ “宗像大社を楢ノ

木の神紋から考えましょう”

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宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!


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火之迦具土神とは加具土命…とも表記され軻遇突智(カグツチ)や火産霊などが通りが良いかも知れません。我々は金山彦と呼びならわしています。

勿論、製鉄神であり、その後裔氏族は冬場北風を得やすい北向きの谷に住み着き製鉄〜冶金を業としていた人々だったと思うのです。

軻遇突智とスサノウとくれば、その次の世代はナガスネヒコになりますが、民族と民族の衝突である以上、悲劇は起こるべくして起こるもので、ナガスネヒコと神武の衝突は金山彦系の不遇を招来した事でしょう。

 祭神としてはナガスネヒコは書かれていませんが、その代わりに菅原道真が書かれています。

 唐突に思われるでしょうが、菅公にもこのナガスネヒコ系の血筋が継承されているのです。

 これについては、ひぼろぎ逍遥 521 菅原道真公の御両親 20180120 を書いています。


最近、「宮原誠一の神社見聞牒」の宮原誠一氏から同氏が作成された「重松家祖先之碑」という資料を頂きました。勿論、当方も含め、宮原氏自身は橘一族の後裔の末流と考えています。

今般、ご家族の方が重松家と関係ができたことから、菅原道真の本流の後裔と考えられる重松家についてまとめられたようです。

資料には道真公の流れが良く分かる系図が入っていましたのでご紹介しておきたいと思います。

 故)百嶋由一郎氏からは「道真公は大幡主〜豊玉彦直系の御本家と長脛彦後裔の御本家同志の婚姻によってお生まれになっておられます…」「神武天皇に逆らった長脛彦では都合が悪い事から豊玉彦を先祖としているとされておられ、それが当たりました…」と言ったお話をお聴きしていました。


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百嶋由一郎鳥子系譜(部分)


この系譜自体は博多の櫛田神社の主神である大幡主の子の豊玉彦(ヤタガラス)の流れを汲む鳥子の一流の武夷鳥系の本家を示しているのですが、道真公の母方に当たる長脛彦後裔の本家の子女との間に産まれた一族である事を示唆しているのです。

ただ、その母君が誰なのかを知らなかったところ、この資料にその名(結果的には「姓」だけだったのですが)が出ていましたのでご紹介したいと思います。

その家系図自体は宮原氏がネット上から拾われたものでしかありません。

道真公からの系図は良く出ているのですが、それ以前の流れが書かれたものが無い為、今回、無断借用ながら利用させて頂いたのでした(以下)。

まず、当麻蹴速と相撲で争った野見宿禰こと天穂日命(ヤタガラス)の後裔から道真公の父方が産まれている事が分かります。母上は大伴とか伴とか言われてはいたのですが、系図としては初見でした。

また、菅原古人も比較的知られていますが、菅原を名乗った最初の人なのです。


菅原 古人(すがわら の ふるひと、生年不詳 - 延暦4年(785年)?)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は土師宿禰のち菅原宿禰、菅原朝臣。阿波守・土師宇庭の子。官位は従五位下・遠江介。

光仁朝末の宝亀10年(779年)外従五位下に叙せられる。

天応元年(781年)桓武天皇の即位後に従五位下・遠江介に叙任される。まもなく、古人や道長ら一族15名が以下の通り、居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これを許される。

祖業を顧みると、吉凶相半ばして、天皇の葬礼においては葬儀を掌り、祭の日には祭儀を預かり、このように奉仕することはまことに世間の習慣にも合っていた。しかし、現在はそうではなく専ら葬儀のみ預かっていて、祖業を深く考慮すると本意ではない。そこで居住地にちなんで土師から菅原姓へ改姓したい。

死後の延暦4年(785年)侍読としての功労により、4人の子息に対して学業に努めさせるため衣服と食糧が支給されている。儒学者として高名で、余人で並ぶ者はなかった。一方で、家に財産の余裕がなく、子息は窮乏に苦しんだという。        ウィキペディア(20180120 12:11による

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さて、系図には道真公の御両親に当たる是善=コレヨシ(父) 伴氏女(母)が書かれています。

是善(父)は後述するとして、伴氏女(母)伴氏の女(メ=ムスメ)と読むべきで、まさか、バンノウジメと読むことはないでしょう。これについては知識を持ちません。

そこで、「日本史人物列伝」を参考にさせて頂きました。

ところが、残念なことに(注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたしますと書かれています。

諦めようかとも考えましたが、非常に重要な内容ですので、お叱りが来れば削除するとして公開することに致した次第です。

この中から、母君が金山彦の後裔たる長脛彦の末流にあるという要素が多少とも見出せるならばと考えているところです。

既に、九州島内にも十社ほどの長脛彦系祭祀を確認していますので(全て実踏していますが、まだあるはずです)、繋がりが見いだせるのではないかと考えます。


故)百嶋先生の資料を見ていると、伴氏女が書かれた前掲系図とほぼ同じものにメモが残されていました。当然、十分にご存じだったのでしょう。伴氏は大伴氏を起源にしていますし、大伴宗麟に繋がるかどうかは知りませんが、大分県に是善王社、善神王社が異常に多い事から関係なしとはしないでしょう。恐らく、このメモが薩摩川内の藤川天神に逃げ都から妻と娘を呼び寄せたとか、大分県玖珠町菅原の二系統の子孫の存在といった話と関係があるのだろうと思っています。

この藤川天神の話としては、ひぼろぎ逍遥 019 で取り上げています。


19

道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!


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百嶋由一郎手書き資料から(部分)上 武夷鳥系譜(部分)下 ナガスネヒコの後裔でも…

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記