2022年02月21日

ビアヘロ191 福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した 

ビアヘロ191 福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が住み着いた現地を確認した 

202201011

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


  本稿は 923 ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる 2022010 の続編になりますので、前ブログを読まれた上こちらをお読み下さい。


当会の主要メンバーの大半は百嶋先生が残されたメッセジ「さらにタケルは許され、その一族は今も山を越えた福岡市早良区にまとまって住んでおられます。分かっているけど可哀そうで公表できない…」については十分に承知されていましたが、我々が活動出来る寿命も残り1015年程度であるこ事を考えるとそろそろ決着を着けなければならないと考え作業に乗り出したのでした。

当初、メンバーの女性2名を加えて4名で行く予定でしたが、事務局のN氏の出発が遅れるため、調整が着かず、結局、事務局長と私だけで現地の再確認に向かいました。

朝から午前中一杯雨が降った後、午後3時頃から出掛けたのですが、現地に着くとかなり冷え込んでおり、私にとっては寒い中での初参拝となりました。

実は、午前中は朝7時半ぐらいから某ホテルで10人弱の女性を対象に2時間ほど愛媛県伊予市の伊予稲荷神社についての話をした後、徒歩で福岡市の中心部に鎮座する住吉神社の参拝に行っておりました。

企業などの初詣か多くの参拝客が境内を埋めており、その隙間を縫って私にとっては30年ぶりの参拝となった訳です。

ともあれ、目的地であるの福岡市早良区原の諏訪神社に訪れたのは夕方4時頃でした。

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 参拝殿は壁がない土間に屋根を掛けた風が通る形式のもので、古い時代のそれである事が分かります。

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広い境内であるにも拘わらず境内は清掃が行き届き、塵一つ落ちていません。神社の維持が難しくなっている時世柄、地域の方々の神社への尊崇の念とご努力には改めて頭を下げさせて頂きたいと思います。

 無題.pngその一角に氏子の老人会に相当する年長者による壽和会によって寄贈された由緒略記、記念碑、顕彰碑(このような表現が適切かどうかは分かりませんが)が建てられていました。

 昭和61年ですから36前に建てられたものですが、材質と彫が良いため今尚鮮明に読めるものでした。

 表(参道側)は同社の由緒であり、裏は寄贈された古老の方々の名を書きとめたものですが、少し変わった内容が書かれているのです。

室町後期と言うよりも、実質戦国時代の初期と言った方が適切で、既に関東から甲信地方では騒乱が始まっていたのです。

 その頃に下諏訪に行き建御名方ではなくお妃の八坂刀女を勧請していると言うのです。

解読に誤りがなければですが…。

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これは何とも奇妙な話であり、この地におられる方が、八坂刀女(旧名 奈留多姫)と何らかの関係があると考えられそうなのです。八坂刀女=奈留多姫は百嶋先生の解読であり、定説ではありません。

 我々もその勢いで考えている事からそちらに傾斜して話すのはご容赦願いたいのですが、普通に考えても不思議な感じがするのです。ただ、当方も後で気づいたのですが「神話を科学する(神社探訪)」氏もそう解読されています。

以下…。無題.png


建御名方(建南方) 実は建御名方は事代主の兄弟では無く倭国大乱の折、南九州を本拠地としていました。建南方は南九州の熊襲の頭領で長髄彦の乱に呼応して「建南方の乱」を起こしました。

しかし、建南方は父・春日大神(天忍穂耳命)に説得され降伏しました。

そして、周囲から奈留多姫(なるたひめ 母は雨宮姫)を妻に世話してもらい、奈留多姫は八坂刀売(やさかとめ)と改名して二人の新天地・信州諏訪へ旅立ちました。その際 奈留多姫は一族・熊襲及び阿蘇家の人たちを福岡市早良に残して行きました。


また、当会メンバーの宮原誠一氏(「宮原誠一の神社見聞諜」)No.146 光と影の奈留多姫を祀る福岡県糸島の産宮神社 でも以下のようにお書きになっています。


No.145奈留多姫不在の福岡県篠栗町の諏訪神社」の奈留多姫の続きです。
奈留多姫(なるたひめ)は諏訪大社の祭神・建御名方神(たけみなかたのかみ 建南方)の妃で、諏訪にあっては、八坂刀売神(やさかとめのかみ)と名を変えられました。
福岡市西区にあっては、奈留多姫と名乗られ、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の妃でした。奈留多姫は天忍穂耳命の御子・天忍日命と雨宮姫との間の姫君です。
「奈留多姫」も「八坂刀売」も、この名称は『記紀』には出て来ません。
福岡県糸島市波多江駅南に奈留多姫を祀る産宮神社(さんのみやじんじゃ)が鎮座です。
奈留多姫の名称で祀る神社は、糸島市波多江の産宮神社が唯一ではないでしょうか。
産宮神社の奈留多姫命は安産守護の神様として広く崇敬されています。
奈留多姫は懐妊に当たり、胎教を重んじ、豊玉姫、鴨玉依姫の両神の前にて、「月満ちて生まれん子は端正なれば永く以て万世産婦の守護神ならん」と誓い出産に臨まれています。
産宮神社の社説とは異なりますが、
鵜草葺不合命と奈留多姫の間の御子がクマソタケル(後の川上タケル)と豊姫(ゆたひめ)です。
建御名方と奈留多姫の間の御子が息長宿禰です。息長宿禰と葛城高額姫の姫が息長足姫(神功皇后)で、息長足姫は開花(ママ)天皇の皇后です。
『記紀』では、孫娘の息長足姫は開花(ママ)天皇の皇后ということは伏せられますが、神功皇后で有名です。

息子のクマソタケルはクマソの頭領となって天皇家に乱を起こされ、ヤマトタケルに成敗されます。
兄の川上タケルの反乱の後始末で、妹の豊姫は汚名を灌ぐため大変苦労され、天皇家(開花天皇)に尽くされます。孫娘の息長足姫が開花天皇の皇后となられと、豊姫は神功皇后よりも年上ですが、妹として活躍されます。
奈留多姫の子息は天下の反逆者・川上タケルであり、孫娘の息長足姫は開花(ママ)天皇の皇后となられ、奈留多姫は光(栄光)と影(反乱)の持ち主です。
糸島市波多江の産宮神社の社説では、主祭神は奈留多姫で、夫の「鵜草葺不合命」と鵜草葺不合命の妃の「鴨玉依姫」は脇神となっています。
しかし、社殿の造りは、鵜草葺不合命が主祭神で、妃の奈留多姫と鴨玉依姫は相殿となっています。

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由緒略記にも書かれているのですが、参道入り口に置かれた神社標柱も住吉の紋章であり、諏訪の神紋のはずの諏訪梶=所謂梶紋ではないのです。これも不思議なことです。

九州全般でもあまり梶紋を見掛けませんが。

 従って、やはり仮に諏訪の神を祀るとするも、元々は住吉や奈留多姫に関係が深い一族の神社だったのではないかと言う疑念が付きまとうのです。

 唐人町に住んでおられた百嶋由一郎氏がこの神社を見ていなかったとは到底考えられません。

では、百嶋神代系譜をベースに再度考えて見ましょう。

 八坂刀女とは奈留多姫が早良に移動した後、夫であるウガヤフキアエズ(久留米の高良大社)から離れ、原因は別でしょうが、同じく敗残した建御名方と道行となり諏方に移動する時期以降の名であり、阿須波(建御名方)の神と共に諏訪に移動しているのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 元々、誅伐は受けたものの旧背振村の広滝辺りで許され、その一族は山(脊振)を越え福岡市早良区に纏まって住み着いたと言われていました。

 そもそも、河上 猛(熊襲 猛)の墓があり、河上 猛は旧大和町の大願寺廃寺付近で酒盛りを行っていた…と言った話が川上峡に近い真言宗健福寺に伝承が残っており、旧「大和町史」(現佐賀市)にも書き留められているのです。また、これについては熊本市在住で唯一の九州王朝論者であった平野雅廣(日+廣)氏の「倭国史談」でも取り上げられていたのでした。ただ、佐賀市に合併され見向きもされていません。

ただ、この川上峡温泉(淀姫神社付近)一帯で起こったテロ事件はともかくとして、旧脊振村の広滝で許され早良に移動したという話の出所については、百嶋由一郎氏がどういった経緯で入手した話であったかは未だに掴めていません。今後の課題です。河上猛の墓とされるものが付近の某ゴルフ場の一角にあるらしいのですが、これも当会の事務局長に調査を頼んでおります。

河上 猛が誅殺を免れ早良に移動したとすれば、力を発揮したのは母である奈留多姫(後の八坂刀女)のはずです。

草部吉見=ヒコヤイミミと健 磐龍とは腹違いの兄弟ですが、健 磐龍と草部吉見の娘である阿蘇ツ姫の間に生まれたのが雨宮姫で、その子が阿蘇宮司家初代の惟人(阿蘇家は速甕玉と雨宮姫の子としますが…)と奈留多姫なのです(どちらが年嵩化は阿蘇家資料により不明です)。

そして、その奈留多姫と久留米の高良大社にいたウガヤフキアエズ(母:豊玉姫 父:山幸彦)の間に生まれたのが河上 猛であり、妹の豊姫(ユタ姫)=淀姫となるのです。「高良玉垂宮神秘書」参照のこと

また、この淀姫がウガヤフキアエズの息子である安曇磯良(表筒男命)と夫婦となっているのです。

してみると、奈留多姫(後の八坂刀女)が阿蘇系の血を引いた一応熊襲と呼べないこともない人物であり、その子河上 猛が熊襲と理解されたとするのも半分ぐらいは正しい事にはなるのです。

ここまで考えてくると、河上 猛そのものを探すことはできないとしても、八坂刀女=奈留多姫をキー・ワードに探れば、河上 猛が移動した早良の神社が分かることになるのです。

そして、それに符合する神社が早良区には一社だけ存在したのです。


@  河上 猛の母である奈留多姫=八坂刀女の名が建御名方の妃として由緒略記に出ている事。

A  建御名方が妃として八坂刀女を妃としている事。


八坂刀賣命やさかとめのみこと 別名 妻科神:つましなのかみ

八坂斗売命/八坂斗女命/八坂刀女命/八坂登賣命/矢坂斗女命:やさかとめのみこと

前八坂刀売神:まえのやさかとめのかみ 八坂刀自神:やさかとじのかみ

……

建御名方命の后神として、諏訪神社下社(春宮、秋宮)に祀られる神。建御名方命との間に二十二柱の御子神をもうけた。安曇の女神とする説がある。               敬愛する「玄松子」より 


B  諏訪神社ではあるものの梶紋を使わず左三つ巴紋を使っている事。

C  これは若しかしたら元は建御名方を祀る神社ではなく、奈留多姫の夫であるウガヤフキアエズの神紋=高良大社は表紋として左三つ巴紋を使っている可能性がある事。

D  ウガヤフキアエズは表筒男命、開化天皇=高良玉垂命は底筒男命であり、高良大社の主であった。

E  ちなみに高良大社は表紋として住吉の紋である「左三つ巴紋」を使っているのです。

F  つまり奈留多姫の夫の神紋が標柱に描かれている可能性があるのです。

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ここまで見てくると、栄えある河上 猛の一族は、母の奈留多姫と共に早良に移動したと言えそうに思うのです。

 探求と調査は今後も続けますが、これ以上の成果が容易に見つかるとも思えません。

 しかし、我々の内部においても非常にロマンチックでありつつも、誰も知らない話を回収し後世に伝えることが可能になったとまでは言えそうですので、今後、現地伝承の回収に可能な限り作業を移しブログとしては閉じる事とします。

 ちなみに、後継氏族は名を変え住んでおられると…百嶋先生はどういう名であるかも分かっているが…と言っておられました。

 私にも多少見えます。しかし、好い加減なこととを言うなと言う声も頭を過ます。

 一方、記録に留めなければ潰え去る事が確実なため、ここでは勇気を持って仮説として申し上げておきたいと思います。

 阿蘇系の姓が何であるかは分かりますが、はっきりしているのは大神氏であり、小国の武田姓もその一つであろうと思います。確かに、神社の傍には数件の大神様の家もあります。

 今後の作業待ちと言うところですが、事務局長のN氏の手腕に期待したいと思います。

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阿蘇大蛇伝説で有名な平家物語にも登場する英雄大神氏ですが、緒方、大賀、尾形、岡…と幾つかの同族としてのバリエーションもあり、起点は阿蘇外輪山の東側、豊後大野、豊後竹田の一族の展開とも言えそうです。

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しかし、真鍋、白水、米田…という阿蘇系からかなりかなり離れたヘブライ系氏族らしきものもあり、それが諏訪系かどうかは不明です。

全ては今後の作業となりそうです。

 百嶋先生の講演録である音声記録にもこの部分について話されている所がありますが、河上 猛、淀姫=兄妹説、そもそもヤマトオグナによる熊襲 猛退治話なるものが近畿大和朝廷による権威付け説話でしかなく、通説なるものが如何に愚かで信用できないものであるかをここでも表した様に思うのです。

百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

868 宗像の神々 D 福岡県宗像市の鹽竈神社は博多の櫛田神社の大幡主を祀る

868 宗像の神々 D 福岡県宗像市の鹽竈神社は博多の櫛田神社の大幡主を祀る

20210130

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回の鹽竈神社は旧郡の津屋崎と宗像に二社確認できます。宗像の神々とは旧宗像郡の意味ですので。

 しかし、何故かこの二社は「福岡県神社誌」には登載されていないのです。

 もしかしたらと思い同誌下巻に登載されている無格社一覧を調べると確かにこの二社が浮かび上がりました。

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「県神社誌」無格社一覧に於いて確認できる様に宗像のそれは明らかに祭神入替が行われています。

 これは宗像大社、宗像市、引いては宗像市に住む人間の性格を良く表している様にさえ思います。

 怒ると言うよりも笑ってしまいますが、ついつい“何が「応神」が鹽竈神社の祭神か言って見ろ”と言いたくなります。これほどの大嘘を平然とつけるのが神に仕える神官であり地域の指導者というのです。

 まず、思い出して頂きたいのは海幸山幸神話です。

借りた釣針=「ち」を失い途方に暮れる山幸彦(実は猿田彦=ニギハヤヒ)に龍宮に行き龍王(実はヤタガラス)に会えとのアドバイスをしたのが塩土翁(実はカミムスビ神=大幡主)で、恐らく対馬のどちらかの海神or和多都美(ワダツミ)神社で豊玉姫と出会い3年一緒に暮らすのです。

 この仲立ちをした人物こそ塩土翁(実は龍王=ヤタガラスの父)であり鹽竈神社の祭神のはずないのであり、ここに宇佐の応神などありえるはずはないのです。

このように氏子の一族がこれまで祀って来た神を平気で入れ替えそのままにしておくからこそ神社への尊崇の念も自らの祖神を守ろうとする気持ちも失い神社への共感も結束への思いを失い社殿の再建もできなくなるのです。ここについては応神+4神が誰なのかは再確認が必要です。

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情報が不足していますので、敬愛する「正見行脚」氏を参考にさせて頂きましょう。


「鹽竈神社」()その1〜概要・祭神(宗像市稲元)

無題.png“応神天皇(第十五代天皇)、見屋根命(文章の神)、素盞嗚神、猿田彦社(道案内の神)、大歳神”…

…“[主神について()]・上記祭神五柱のうち主神は「応神天皇」だと思われるが、本来「鹽竈神社」とは係わりのないと思われる応神天皇が主神となっている背景には、恐らく当社が旧宗像郡稲元村の産神・稲元八幡宮(主神:応神天皇)の摂社(※福岡縣神社誌に記載あり)であったことと係わっているのではないかとも思える。・宗像地方にはことのほか、応神天皇を主神とする八幡神社が多く、応神天皇の出生地は宇美八幡宮(糟屋郡宇美町)とされ、その母神功皇后は香椎(福岡市東区)の女王とされ、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)に葬られたと考えると、応神天皇は神功皇后とともに古代九州王朝(倭国)の系譜に属する大君で、当地を含む宗像地方は九州倭国に属した地区であったとも考えられる。因みに稲元八幡宮は、宇佐八幡宮から勧請したとの説もある。

 そう考えると古代宗像族がヤマト王権に従属しヤマト王権のために沖ノ島祭祀を行ったとする定説は疑問が多い。


・当社「鹽竈神社」の前方には、今も広い水田が広がっており、「稲元」の地名は、宗像地方で最も古く稲作が始まった地であることに由来するとも言われており、当地が歴史的に早くに開けた地区であることが伺える。

・当社「鹽竈神社」の本来の主神は、その社名からして、応神天皇ではなく、鹽竈神社総本宮の主神にして潮流を司る神(海洋神)「塩竈大明神・塩竈明神」だったと思う。

 宗像の地には海洋神・宗像大神がおられることも相まって、当地稲元にあった入海の海岸線や塩浜の後退(下記)とともに、この主神名が消えていったのだろう。

3鹽竈神社参道口・「塩竈大明神」とは、先代旧事本紀や日本書紀にある日本神話の神「塩土老翁」(しおつちのおじ)のことで、日本書紀では「塩筒老翁」とも書き、古事記では「塩椎神」(しおつちのかみ)と表記され、「事勝国勝長狭神」(ことかつくにかつながさ)の別名ともいう。

・「塩土(しおつち)」とは、「潮つ霊・潮つ路(潮流)」のことだとされているので、「塩土老翁 (しおつちのおじ)」とは「潮流を司る老翁神」=事勝国勝長狭神ということになるのか。

・因みに、宗像地方で「塩竈大明神」を祭る神社の一に「年毛(としも)神社」(福津市勝浦943)があるが、福岡縣神社誌は「鹽津智翁」の名を掲げている。

 年毛神社は旧勝浦村の産神であり、寛文6(1666)頃に勝浦で塩田(27ヘクタール)が開発されたとき、潮流を司る神(塩田・塩浜の守り神)として鹽竈神社総本宮(宮城県塩竈市)から「塩竈大明神」(鹽津智翁=塩土老翁)が勧請され、さらに明治44(1911)に塩田が閉鎖された後も祭神の一として残ったのだと思う。

・ということは、「鹽竈神社」が鎮座する稲元1丁目(旧稲元村野添)は、現在、海岸線(玄界灘)からかなり離れたところにあるが、それは、かつて当地まで入り込んでいた入海(海岸線)が徐々に江口まで後退したことによるもので、ここには、塩浜、或は塩田(?)があったのかもしれない。現在、当地を貫流する釣川の本流が入海の名残だと考えられる。

・なお、上記年毛神社境内の案内板には、「塩竈大明神」を「猿田彦神」と記してあり、「鹽津智翁(塩土老翁)」の名が消えている。

 宗像地方は、海洋神「宗像大神」の鎮座地であり、塩田がなくなった勝浦においては、潮流を司る「塩竈大明神」の神名に「鹽津智翁(塩土老翁)」は不要とされたのだろうか。

・因みに、「猿田彦神」を主神とする「白鬚神社」においては、この「白鬚」と「老翁」を結び付けてか、その祭神名を「塩土老翁」としている例がある。

 これが「塩土老翁」と「猿田彦神」を同神と考えたことによるものであれば、逆に年毛神社においては、勝浦塩田閉鎖後、「塩竈大明神」の神名を「鹽津智翁(塩土老翁)」から「猿田彦神」に変えたのではないかとも考えられる。

・当稲元「鹽竈神社」の祭神五柱のなかにも「猿田彦神」の名があるので、年毛神社と同様に考えることもできなくはない。もしそうだったら当社の主神は「猿田彦神」ということになる。


年毛神社と同社社伝の古代製塩についてはいずれ取上げる予定でしたが、図らずも「正見行脚」が先行しておられました。また、祭神としては福津市津屋崎の塩釜神社がその社名としては正しいと考えます。

既に、塩土老翁と猿田彦のコンビによる製塩(そもそも猿田は山幸彦であり塩田の貶めた表記であり…これは冗談で構いませんがサルタはソルトでもあるのです、塩土は塩筒であり製塩土器に繋がるのです)については、天草で猿田彦と大幡主=塩土翁の製塩については以下で取り上げていますのでお読み下さい。

この点でも山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ説の一部が裏付けられたのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

310

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説

309

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

308

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

307

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! B 天草市志柿の中之塩屋大明神

306

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! A 上天草市阿村の塩釜神社

305

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! @ 宮崎の野島神社から


百嶋由一郎神代系譜DBD、講演録音声CD、手書きデータ・スキャニングDVDを必要な方は09062983254

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記