2022年02月27日

870 宗像の神々 F 福岡県福津市の年毛神社の巨大製塩と消された猿田彦祭祀

870 宗像の神々 F 福岡県福津市の年毛神社の巨大製塩と消された猿田彦祭祀

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


旧宗像郡の神湊の直ぐ南の海岸性樹木の森の中に年毛(トシモ)神社があります。

この神社名からは何やら阿蘇系とも崇神系の印象を受けるのですが(大歳神=草部吉見、毛野神=崇神)、67年前に十数名のメンバーと現地の神社探訪を行なっています。

その際、たまたまおられた女性の宮司様から“かつては巨大な砂浜が広がっておりこの森の直ぐ裏まで海が迫っており、海底からの湧水を得られると共に天然の古代製塩ができるほどの場所だった…”(不正確であればお詫び致しますが)といったお話をお聴きしています。

その素晴らしい古代にはラグーン状の湾奥地にこの神社はあるのです。

何故、年毛(トシモ)と呼ぶかは未だに解決を見ていませんが、今も往古の海の美しさが想像できます。

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まず、祭神ですが、安曇の神(志賀海神社)と住吉の神(筒男の神)が祭神とされています。

この海人族の神々は当然としても、実質的にはまた祭神の神格としても最も重要なのは最後尾に書かれる塩釜大明神であり鹽津智翁に思えるのです。

 この神こそ博多の櫛田神社の主神である大幡主であり、実は造化三神のカミムスビ神なのです。

そして、山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒと共に製塩を行なっていた痕跡が今もあるのです。

これについては以下をお読み下さい。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町

塩屋大明神正面の塩田跡

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! B 天草市志柿の中之塩屋大明

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! A 上天草市阿村の塩釜神社

305

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! @ 宮崎の野島神社から


 つまり、年毛神社の由緒で消された猿田彦を復元すれば、同社の社伝にも符合する大幡主(塩土老翁)+猿田彦(恐らく袁田彦=塩田彦)というゴールデン・コンビが復元できるのです。

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308 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

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本渡瀬戸ループ橋を渡って北に向かうと30分を要せず五和町御領に入ります。

 古くは繁盛したと思われる街並みを通り抜け探し回りますが、一向にそれらしき神社に出くわしませんでしたが、再度、カーナビに御領5587を入力し直しようやくたどり着いた小丘に塩谷神社ならぬ塩屋大明神が鎮座していました。

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今回の調査探訪で無題.pngは、有名な神社でも豪華な社殿の大社でもないただの無格社級の神社ばかりを探査してきました。しかし、猿田彦を正面に立てた神社群の中に、その父親である大幡主(実は第3代安寧天皇)が封印されており、その正体が塩土老翁であり製塩の支配者、交易者=大船団の支配者だった姿が見えてきたのでした。その仮説の検証のための探訪でしたが、これほどはっきりとした半ば証拠のようなものに遭遇できるとは考えていませんでした。

 この手の無格社クラスの小社、祠に関してはほとんどまともな取り扱いがされておらず、社名さえも判読できないものが殆どと考えていたからです。

 この神社の正面には以下の由来がはっきりと書かれていたのです。

 恐らく、何らかの伝承が残されていたものでしょう。この塩田地帯が古代まで遡るものであっただろうことは疑い得ないように思います。

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ここでも、御神体は二体でした。もはや、猿田彦大神一神とされている「熊本県神社誌」に疑いを向けるのは致し方ないように思います。ただ、祭神が猿田彦一神とされた理由は分かりません。

 相当古い時代から猿田彦だけが許されたものの、大幡主は許されなかった、しかし、地元では祀られていた。つまり、海幸彦との関係が濃厚な阿蘇氏による大幡主隠しと山幸彦の猿田彦との貶めが考えられるのですが、あくまでも仮説でしかありません。

 藤原氏、そして阿蘇氏もともに阿蘇高森の草部吉見神社の主神=ヒコヤイミミの流れを持っているのです。 この辺りの事情については既に伝承を探る時期を越えていると言う気がしますが、再度訪問し聴き取りを行ってみたいと考えています。次の写真はこの塩屋大明神正面に広がる水田を写したものです。

 江戸時代の塩田はもっと海に近い所にあるのですが、古代の水田はこちらだったと思います。

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塩屋大明神正面の風景


それは、大明神の小字がこの水田に潮を入れ、吐き出す水門の管理できる場所に置かれている様に見えるからです。ただ、現地のフィールド・ワーク、ヒヤリングが完全ではないため、ここまでで留めておきたいと思います。次の目的地である津奈木、水俣に大返しする事になりましたが、帰る途中に、別路を通ると、近くに江戸期からの塩田地跡との教育委員会の看板を見つけました。…以下省略


 無題.png古代における最大の交易品とは鉄器と塩であり、これに絡む民族こそが主導権を握っていたのでした。

 その意味で、年毛神社の縁起から猿田彦が消されたのは如何にも残念でありません。

 古代からの真実を今に伝えるものがまた消されてしまったのかも知れません。

 このように神社の祭神入替は常時起こりうるのです。そもそも宗像大社でさえも大国主命を消し去っている可能性もあると思っていますので、この程度は許容範囲内の事かも知れません。

 勿論、神社の祭神が何であるかは神社の宣言に在ります。しかし、語句の習性程度なら許容範囲ですが、全く異なる祭神を持ち込み、本来の神々を消し去る事は仮に正統性があったとしても可能な限り復元すべきであり、神社の存続さえ保たれればたちどころに本来の神を戻し、神社の氏子連への義務を果たすべきなのです。

 これを怠れば、氏子でさえも何時しかその神社への共感を失い、社殿の再建もおぼつかなくなるのです。

 では、何故、猿田彦が消えたのでしょうか?それは彼がニギハヤヒでもあることから、物部戦争に起因していると言う事はできるかも知れません。

 それとも猿田彦が外されたのは近世以降の何かの変動なのでしょうか?

 境内社には良く知られた神々が並んでおり、それほどの違和感はありません。

あまり知られていない神としては 惶根神 ぐらいですが、866 宗像の神々 B 福岡県宗像市にも愛宕の神が鎮座する で取り上げた金山彦=賀具槌(カグツチ)命のお妃であり、鹽土翁の妹の埴安姫=櫛稲田姫の母神となり極めてリーズナブルではあります。

無題.pngこの祭神の変更問題については、宗像大社の本当の祭神は大国主であったという古代からの証言がありますので再度ご紹介しておきます。

この万葉歌碑は福津市のあんずの里に置かれたものです。

「大汝  少彦名の 神こそは 名づけ始めけめ 名のみを 名児山と負ひて わが恋の千重の一重も 慰めなくに」と歌われたもので、大伴旅人の異母妹の坂上郎女によるもので、少なくとも当時まで宗像の辺津宮の祭神はオオナムチ(大名牟知)とスクナヒコナ(少彦名命)であったと証言しているのです。

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お分かりでしょうか、宗像大社の辺津宮とは古代には大国主命を祀る神社であり、市杵島と豊玉姫がそのお妃として仕えておられたのでした。

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それにしても神殿左手背後地に置かれた三基の祠はどなたなのでしょうか?

 普通は夫婦神と子神に見えますが、本殿にも境内社に該当するものがありません。これは謎です。

 さて、これで最後にしますが、この神社に残された文書の一部にこの一帯が(松浦、マツラ)と呼ばれていたという話があります。

 これは九州在住の九州王朝論者の間ではかなり知られた話だったのですが、その九州王朝論者なるものも、古田武彦死後の分解過程の中で、民間研究者はおろか熱心に九州王朝論者の著書を読む人間も消え、通説派の学芸員や教育委員会関係者の話を聴き感心して平伏するような輩しか残っていないのです。

 少なくとも、現場で九州王朝の痕跡を探るとか丹念に考古学遺跡を探索するとか、神社探査を継続するといった作業を行う人々が消え去っているのです。

 良く考えると、我々の前には尋ねるべき先達達が居たのですが、今や考古学ファンとか言う通説ウォッチャー程度の者しかいなくなっているいるのです。

 九州王朝の現場である九州島に居ながら現地を調べようともせずに、九州王朝論者の著書だけを楽しんでいる人々の縮小した残骸だけがあるのです。

 話が逸れましたが、現在、数少なくなった九州王朝論者とかいうF氏が田川郡辺りで邪馬台国はこちらだった…といった説を展開しているのです。最近の話を聴いていないためその時点での話でしかないのですが、彼は邪馬台国比定への上陸地点をこの神社の現在は確認できなくなっている文書の一節に同地が“松浦”(文書がないため表記さえも確認できませんが)とされている事から、この辺りを松浦、松羅として更に東30キロメートルも遠賀川河口から更に溯上した田川郡を邪馬台国に比定への試みを行い、田川郡の町興し村興しに連動しているのです。正しく行政の芸人と化しているのです。

 試論、仮説は自由ですからその点を否定は致しませんが、あまりにも乱暴な地名比定の作業の過程を知る者としては、如何にも情けなく、九州王朝論終焉を考えざるを無く、古田史学の会の分解過程の中、佃収氏の立場へと自らも舵を切ったのでした。

 勿論、古田武彦は通説派に対しては遥かに正しく生涯を通して研究を続けた正に偉人であり立派な研究者であった事は承知しており、対する通説派が如何にさもしい嘘つき共であった事は高校時代から古代史に付あって来た者としては、その点は揺るぎがないのです。

 ただ、他人のしかも通説派の流すデマ話をそのまま真に受け拍手する有様では、九州王朝論者でも古田説を乗り越えるとした連中の無様を見るに軽蔑以上の念を持つことは無くなったのであり、その切っ掛けの一つがこの年毛神社だったのでした。

 34年前に佐賀県の唐津市の東隣、七山〜浜玉町に掛けて我がグループは全神社調査を行いました(当時)。

 その延長上に会としてのトレッキングも行ったのですが、中でも旧七山村(現唐津市)の神社を見るに、ほぼ、9割方が天御中主〜博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ系の神社である事に驚愕しました。

 これはある程度の神社への知識を持てば容易に分かる事なのですが、博多に直行すれば良いのに何故、呼子だか唐津だかに上り陸港したのかと言った古代史研究者(といっても九州王朝論者でなければ邪馬台国九州説論者でしょうが)の抱いた謎が氷解したのでした。

 大幡主〜ヤタガラス=中将=豊玉彦は魏使を受入れる際にこの自らの支配領域を表現はおかしいのですが…巡幸させ、権威をさらに高める政治的プロパガンダを行なっている事が分かったのでした。

 少なくとも、九州王朝論者を自認するのであればそれぐらいの基礎的調査は行うべきで、この年毛神社で拾った神社伝承だけでマツラ比定を行うなどと言った事は止めて頂きたいと思うものです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:55| Comment(0) | 日記