2022年02月06日

863 二つの鳥之子の分布状況を敬愛する玄松子様のデータから

863 二つの鳥之子の分布状況を敬愛する玄松子様のデータから


20210116

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

無題.png

天日鷲命

 

天日鷲命あめのひわしのみこと 別名

忌部神:いんべのかみ 大日鷲命:おおひわしのみこと 天日和志命:あめのひわしのみこと

天日鷲翔矢命:あめのひわしかけるやのみこと 天比和志可気流夜命:あめのひわしかけるやのみこと

天鷲命:あめのわしのみこと ……


天日鷲無題.png命 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)

忌部神社  徳島県徳島市二軒屋町2−48

忌部神社  徳島県吉野川市山川町忌部山14

御所神社  徳島県美馬郡つるぎ町貞光字吉良

高越神社  徳島県吉野川市山川町木綿麻山4

下立松原神社  千葉県南房総市千倉町牧田193

下立松原神社  千葉県南房総市白浜町滝口1728

和志取神社  愛知県安城市柿碕町和志取35

鷲子山上神社  栃木県那須郡那珂川町矢又1948

大麻比古神社  徳島県鳴門市大麻町板東広塚13

大麻山神社  島根県浜田市三隅町室谷1097

谷保天満宮  東京都国立市谷保5208

諸岡比古神社  石川県輪島市門前町道下22−1

わら天神宮  京都府京都市北区衣笠天神森町

五泉八幡宮 境内 服部神社  新潟県五泉市宮町5−46

弓削神社 境内 白紙社  山梨県西八代郡市川三郷町市川大門6373

日前國懸神宮 境内 國懸宮末社  和歌山県和歌山市秋月365


天夷鳥

 

天夷鳥命あめのひなとりのみこと 別名
建比良鳥命:たけひらとりのみこと 武日照命:たけひなてるのみこと 武夷鳥:たけひなどり ……
無題.png天夷鳥命 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)

天日名鳥命神社  鳥取県鳥取市大畑字森崎874

比那神社  島根県出雲市姫原町394

野見神社  愛知県豊田市榊野町見切53

小牧宿禰神社  長崎県対馬市峰町三根字寺の内959

阿須伎神社  島根県出雲市大社町遙堪1473

馬見岡綿向神社  滋賀県蒲生郡日野町村井705

防府天満宮  山口県防府市松崎町14−1

神門神社  兵庫県豊岡市日高町荒川字村上309

出雲大神宮  京都府亀岡市千歳町千歳出雲

射手神社  三重県伊賀市長田2691−1

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2022年02月09日

864 宗像の神々 @ “福岡県宗像市野坂の野坂神社も本来の神々を失っている“

864 宗像の神々 @ “福岡県宗像市野坂の野坂神社も本来の神々を失っている“

20210124

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


北九州を中心とする丁巳歴史塾との提携が進んだ事からこれまであまり踏み込んでいなかった筑豊、宗像、豊前…への神社調査を強める事にします。

 今般、丁巳のメンバーでもあり野坂で自然農園(このような表現で良いかどうかは不安ですが)を運営しておられるY氏からのお誘いを受け、同地を訪れました。

 野坂には余り入らないのですが、ここには、以前、二度ほど参拝した野坂神社があります。

 ご招待を受けたY氏との話もそこそこに、翌朝、小雨降る中同社を見せて頂きました。

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今回は基礎調査ですのでその範囲でご理解をお願いしたいのですが、まずは、“創立天文十六年宗像大宮司正氏長門国豊浦の一の宮を勧請せられしよし又宗像大宮司代々造営の棟札有り明治五年十一月三日村社に定めらる”とあります。

 祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命とされていますが、実際には下関の住吉神社からの勧請であり、住吉神社の奉斎自体は高々500年ほどのもので、周防の勢力がこの地まで及んで来た時期にこの祭神が受け入れられたとまでは言えるようです。下関の住吉はアズミノイソラ=表筒男命…。

天分年間と言えば、室町幕府12代将軍足利義晴の時代(1532-1555)のようですが、言わば戦国期の前哨戦の様な時代で、大内氏が石見銀山を巡って尼子氏と激闘し、毛利氏が勃興し徐々に力を着け、大内義隆が陶興房に追い落とされていく時代です。

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まずは、「福岡県神社誌」(上巻163p)を確認しましょう。

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ご覧の通りですが、では、天文16年以前は神社には神様がいなかったのでしょうか?

 そんなバカな話はないはずです。

これは大内の傘下に入っただけの話であって、元々この地の人々が父祖伝来奉斎して来た先祖神とも言うべき神々が脇に移され、落下傘部隊の如く天から降って来た周防の海洋民の神々(基本的に下関の住吉はアズミノイソラ=上筒男命を祀る神社)を崇めさせられたと言うのが本当の歴史なのでしょう。

そもそも、この地は南に隣接する宮若市などの物部地帯(新北、新延、新多…)それも最強軍団の二田(仁位田、新田…)物部集団のエリアであり、逆に言えばその勢力が宗像側に溢れ出すような緊張関係のあった場所とも言えるのです。

その意味でも宗像氏に連なる勢力にとっては、同じ海人族、しかも有力守護大名の大内氏にも都合の良い下関の筒男神を持ち込む事は南の物部氏の領域への防波堤=猫峠(これも本来はワカヤマトネコヒコ=稚日本根子彦大日日尊 第9代開化天皇の意味なのですが、ここでは触れないほうが良いでしょう)。

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まず、経験から中山という地名は吉備の中山から金山彦系製鉄集団が付す地名とも思うのですが…北に開いた谷を持つ一帯は製鉄適地ではあるのです。ただ今のところころ古代製鉄遺構は未確認です


無題.pngこの地に住み着いた人々には南の物部地帯からの進出者と思える人々がかなり居たと見たのですが、関連ブログを探っていると敬愛する「正見行脚」様が近稿として6本の同社へのブログを書かれておられました。このサイトは全国区の神社ブログとして著名ですが、何故これほどまでに書かれたのかは不思議な気がします。長くなりますが、NO.6 野坂神社(6)〜境内神社(宗像市野坂)20161104日について主要部を無断ながら引用させて頂くことにします。正に全文納得です。


そのうち、天満神社(一部)、疫神社、小木神社については、明治の神社統合令によるものかもしれないが、既に戦前の「村社住吉神社」の境内神社として鎮座していた(福岡縣神社誌)

 これ以外の境内神社は、戦後(昭和年26年前後頃か)、一宮住吉神社合祀の二宮八幡神社を含め野坂神社境内に遷されたものだと思う。

無題.png(12)幸神社(サヤノカミシャ)  ・幸神社の社祠(木造瓦葺拝殿神殿一体形の単独社殿)は、野坂神社参道石段の途中、二之宮鳥居(三の鳥居)の右方にある藤棚の右横に建っている。
 お籠堂とも思える小拝殿内(神殿前)に『幸神社』の神額が掲げてある(画像)。当地遷宮前の鎮座地は、野坂字下後畑という。社殿の前には、「幸神社」の石額束(画像)を掲げた石鳥居(明治三十六年癸卯五月建立)が建っている(上の画像の右側の鳥居)。筑前國續風土記附録(以下無題.png附録という)にある「幸ノ社サヤノハル」のことか。幸ノ社で祀る「幸ノ神(サヤノカミ)」は、「塞ノ神」のことで、辻の神として「庚申神」や「道祖神」などと 同一視されることもある。幸ノ神とされる当社祭神は、大己貴智神、鈿女神で、大己貴智神(大国主命)は国土の守護神で「塞ノ神」とされることもあり、また、鈿女神(天鈿女命:アメノウズメノミコト)は、夫の猿田彦神と合わせて村の守り神である「道祖神」とされることがある。
宗像百八神(宗像大神の末社)の一「廻田道祖神」は、野坂にあったといい、この幸神社がそれに該当するのだろうか。廻田道祖神とは、田を廻り、田を守る道祖神なのだろう。
幸神社社祠の右後方に2社、小さな「石祠」が置いてある( )。このうちの一社は、附録にある「萩ノ社サヤ無題.pngノハル」か。また一社は、附録にある「貴船社エゲ」か、「若宮社シンマチ」なのだろうか。なお、附録には、「吉田明神ヲコヤ (吉田六郎太夫長利の霊を祭るといふ)」も載っている。
(13)磯邊神社(ソベジンジャ) 磯邊神社(=曽部神社)の社祠は、参道石段の途中、石造手水鉢の左方、二個の自然石台石の上に設置してある「石祠」である。
 社祠の前には「磯邊神社」の額束を掲げた「石鳥居」(大正貮癸丑九月吉日宗像郡南郷村野坂區民建之)が建っている。磯邊神社(以下「磯辺神社」という)は、「曽部神社」(ソベジンジャ)とも言われていたようで、当地遷宮前の鎮座地は、磯辺山(ソベヤマ)の頂上にあり、その跡地が叢のなかに今も残る。磯辺山(ソベヤマ)は、野坂神社の南方、磯辺峠(通称:猫峠)の西側にある標高286mの低山だが、宝満山修験春入峰と係わる霊山で、また、その北麓に広がる野坂にとっても農業に欠かせない水源を有する霊山で、頂上に慈雨をもたらす八大龍王を祀った。筑前國續風土記附録に「八大龍王ソベヤマ石祠石鳥居一基」の記載があるが、この「八大龍王()」は「磯辺神社(曽部神社)」のことだろう。
 野坂でひ無題.pngとたび旱魃が起きたときは、村民らは磯辺山頂の石祠の前で八大龍王に祈願する雨乞い神事を催行し、修験者がその奉祀をしていたとも考えられる。明治維新による修験道廃止後も、戦時中(昭和19)まで山頂での雨乞い神事が行われたと伝わるが、遷宮後は、その慣例はなくなった。 なお、「曽部神社」を日向(ひむか)の襲とする説があるが、野坂に「遠の朝廷」があったとする考えもあり、九州王朝や鞍手郡物部王国との係わりが考えられなくもない。
別記「野坂神社(3)〜磯辺山と磯辺神社(曽部神社)・修験道(宗像市野坂)」。

(14) 一棟六神社祠  野坂神社神殿の右方に次の六社が入る(謂わばアパート式)木造瓦葺社殿がある。これらは、野坂に一之宮・二之宮が勧請される以前に、 野坂の各所に鎮座していたと思われるが、古代の野坂は無題.png、鞍手郡に属していたこともあり、鞍手郡(現宮若市含む)を本拠地とした古代物部氏と係わる思われる祭神も多い。
 
@福智神社(フクチジンジャ)祭神は、伊弉諾命、大己貴命、保食命か。福智山(直方市/旧鞍手郡)の福智神社三宮(福智権現社、鳥野神社)や福智山修験と係わるか。旧鎮座地不詳。

A三王神社(サンノウジンジャ)祭神を大山咋神とする「山王神社」のことか。大山咋神は、山王権現の神仏習合神で、物部氏祖神饒速日命と同神の大物主神とも同神とされる。山王権現を奉祀する天台宗や天台系修験道(宝満山等)との係わりも伺える。附録に「山王権現 ナカヤマ」とある。旧鎮座地は字中山地区。

B五穀神社(ゴコクジンジャ)祭神は豊宇気比売神。旧鎮座地は字恵下。

C熊野神社(クマノジンジャ)祭神は、伊弉冊尊、事解男命、速玉男命。野坂の西方にある許斐山(271m)の熊野権現を信奉する熊野修験と係わりがあるのか。附録に「熊野社 イマイン」とある。旧鎮座地は字今院。

D須賀神社(スガジンジャ)祭神は須佐之男命・牛頭天王。附録に「祇園社 フクセン」とある。E心吉神社(ココロヨシジンジャ)祭神は、倭姫命、国常立命、宇賀魂神。倭姫命、国常立命は九州王朝とも係わる神か。かつて許斐山麓にあった心吉神社と同じく野坂村の中村氏(中村求馬)が奉祀した神社なのだろうか。心吉神社は所主神社(地主神)との説もある。附録に「心善社 ヒロム子」とある。旧鎮座地は字廣宗。 別記「王丸の(旧)「心吉神社」について(宗像市)」参照。

(15) 三扉境内神石祠()野坂神社神殿の右方に神社名のない三扉石祠があるが、多分、福岡縣神社誌にある次の村社住吉神社の境内神社三社ではないかと思って記す。

無題.png@天満神社(テンマンジンジャ)祭神は菅公(菅原神・ 菅原道真)。附録に「天満宮四所 シンマチ センビキマル ヨシエバル ヲゝ井 石鳥居あり。」とある。このうちのいずれかが戦前の境内神社で、ここには戦後合祀された天満神社(天満宮)も含まれているのではないかと思う。 「野坂神社」の額束を掲げる一の鳥居の両柱に「「奉納菅公一千廿五年祭 維持昭和三年四月」の刻がある。昭和3(1928)当時の野坂神社の社名は、「一之宮住吉神社」なので不具合あり。この鳥居は、その刻字から某天満宮の鳥居を移築し額束を付け天満宮鳥居となるが、天満宮四所にそれぞれ石鳥居があったのだったら、どの天満宮鳥居だったかは分からない。なお、拾遺には「大井社」と記載。

A疫神社(エキジンジャ)祭神は、蘇民将来〜厄気を祓う神。詳細不詳。

B小木神社(ヲギジンジャ)祭神は、小木大明神 (小木阿蘇神社の場合は、阿蘇大神・健磐龍命、八幡大神・応神天皇、甲佐大神・八井耳玉命)。附録に「小木社 ヲギ」(小木)とある。天文16(1547)、宗像大宮司正氏が長門國豊浦郡の一宮(下関市の長門一宮)を勧請し野坂村一宮(:野坂神社)を造営したときの棟札に「奉建立小木大明神拝殿一宇社家地頭重矩」とあり、しばらく「小木社」に鎮座していたので「小木大明神」と言われた。
 
なお、附録に「一之宮社内に彌勒堂あり」とあるが、明治維新政府による神仏分離や修験道廃止により起きた廃仏毀釈で消滅したものか。野坂は、神仏信仰の篤い地域だったので彌勒菩薩像まで毀釈されたとは思えないのだが(未調)

(本稿「野坂神社」終わり。本稿トップ野坂神社(1)〜鎮座地(宗像市野坂))
追記:野坂地域の隣接地鎮座の八幡神社(八幡宮)〜野坂の二宮八幡神社は、野坂神社に合祀されて無くなったが、野坂地域(野坂から分離した原町を含む)の隣接地には八幡神社(八幡宮)が五社宗像市王丸の王丸八幡神社、光岡の光岡八幡神社、朝町の朝町(本村・中村)八幡神社と昼掛八幡神社、及び宮若市山口地区の山口八幡神社鎮座している。


我々も一社に関して1020本のブログを書くことも少なくはないのですが、宗像市でも辺境の小社についてこれほどの文書を残される「正見行脚」様の正見には改めて感心し御教授に感謝致します。

この神社の本質を鑑みるに、この地が宗像一族にとってかなり重要な戦略拠点であったと考えられそうです。

当然、南の物部地帯からの進出者があり(製鉄者などを呼び込んだ可能性も含め)その異質な勢力へのプロパガンダとして教化として採用されたのが住吉の神であったはずです。

つまり、元来は天満神社、疫神社、小木神社といったものを持ち込んでいた人々に住吉の神を押付けたはずですからその時点では相当の軋轢も生じたはずで、天満神社とは道真を祀る天神社、菅原神社、老松神社…でも金山彦直系のナガスネヒコ、沖ツヨソ足姫系の人々のはずですし、疫神社に至っては、熊野系、白族系の天御中主、大幡主、ヤカガラス系、イザナミ系の人々が祀るものだったのです。

 このように、神社とは政情の変化に併せ祭神を変えるものであり、人々は自らの出自とは無関係な神々を奉斎させられる事になってしまうのです。

 実は、この点にこそ全国の神社がその存立基盤を失いつつある遠因がある事に気付いている人は少ないのです。

 神社の氏子は自らの祖霊や同盟者と信じ尊敬し崇めるのであって、全く縁のない神々、ましてや裏切った神や、敵対した神などを守ろうとはしないのです。

 現在、多くの場所で氏子組織の解体、祭りができない、宮司が兼務となって元の神社の事は何も知らない。由緒書き、縁起といったものも意味が分からず分社や境外摂社も何がなんだか分からなくなり、掃除も行われず埃だらけになって神社の存続自体が危機的段階まで高まりつつあるのです。

 それもこれも神社が言わず語らずに誰を祀っているのかさえ伝わらないことから、氏子の尊崇、帰属意識の一切が消失しつつあるのです。

 だからこそ神社は氏子集団に対して自らの存在を伝え、彼らとの関係性の強化しなければ存続できないのです。

 始めは境内の掃除、由緒の整備、特に分社の明示から再建を図るべきなのです。

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2022年02月12日

865 宗像の神々 A 福岡県宗像市多禮の指來神社とは何か

865 宗像の神々 A 福岡県宗像市多禮の指來神社とは何か

20210128

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


指來(サシタリ)神社と聞いても宗像にそんな神社あったっけ…と言う方が多いのではないでしょうか?

この話は当方の研究会のトレッキング・メンバーからの照会(紹介)に始まったのですが、宗像大社辺宮から釣川を挟んだ対岸の小山の上に置かれた神社で、一般の人が普段通らない目に掛からない神社であることから人知れず鎮座している謎の神社というものになりそうです。

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指來神社とは言うものの下から孔大寺神社、豊前坊…と合祀の痕跡として異なる神額が並んでいるのです。

 さて、メンバーのM氏からの照会は“地名が「多禮」なら指來神社は阿蘇系と考えられるのではないでしょうか?”との意味だったようです。

 M氏はかなり本質に迫られているようで心強いのですが、一般の方にはほとんど理解不能の領域です。

 このため多くをお示ししても大変ですので手っ取り早くはこの2本のブログをお読み頂ければと思います。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

648

九州王朝成立前夜の解明へ A “雲南省昆明にいた白族が

日本列島を開拓した”

647

九州王朝成立前夜の解明へ @ “雲南省麗江にいた

多大将軍の一族が日本列島を開拓した”


 要は天御中主系の白族と黎族の阿蘇氏の2派こそが日本列島の主要民族であり、雲南省の麗江から阿蘇氏が同じく昆明から白族が海南島を経由して入っているからで、この点をM氏は持ち上げてくれたのでした。つまり、多禮とは多氏=阿蘇氏=宇治氏であり、黎族の多氏とは阿蘇系の人々が住み着いた土地の意味ではないかと考えられたのでした。そして実際に阿蘇津彦なる神様が祀られているのです。

 私も初見の神社でしたので、翌日、小雨降る中急傾斜の参道階段を登り始めました。

 すると、次に目に入って来たのはステンレスではなくアルミ製の階段でした。

 つまり、劣化した石段の参道を修復する力を失ってしまい、結果、石工の仕事も技術も職人も一切合財が消失していくこの日本の現実を見せられたのでした。

 結局、江戸時代の方が余程豊かだったのではないかと思わざるをえなかったのでした。

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正月明けだったからかも知れませんが、参拝殿の美しさ木造建築の美しさに感銘を受けました。

 公民館機能も持たされていたのかも知れませんが、武道場にもなりそうな建物を良くぞこの車も入らない山上に造り上げたと感服した次第でした。

 その意味では改めて地域の方々のご努力と尊崇の念に敬意を表したいと思ったところです。

 このため、帰路は裏参道を降り、小型のユンボで資材を運び上げるしかない急斜面の隘路を降り戻る頃には雨も納まり、次の神社に向かう事になりました。

 神殿には鍵が掛けられており、由緒書きもなく目立った境内社もない事から得られる情報はなく、「福岡県神社誌」の解析しかなくなりました。

 その前に地元の方によるブログもご紹介しておきます。

これがかなり詳しい内容で、同社の歴史的背景を良く書いておられ敬服に値します。深謝!


地図に「孔大寺神社」とあったりするのは、一の鳥居扁額にそう書いてあるからで、まあ仕方ない。

ところが二の鳥居は「豊前坊」社殿直前には「指來明神」とあり、注意深い人は却って混乱しそうだ。

これは開化期の神社合祀令に従って、指來明神の近くにあった豊日社(豊前坊)や孔大寺社を合祀したのに伴い、その鳥居を持ってきたもの。現社名としては「指来神社」が正しい。それで御祭神のうち、気長足姫命・阿蘇津彦命が指來明神。気長足姫(おきながたらしひめ)は神功皇后の名。創建は神功皇后に因むはずが、その伝承はない。大己貴命・少彦名命・高龗神・水波能売命は孔大寺社から彦山豊前坊こと豊日別命は、豊日社(豊前坊)の神である。実は探していたのが豊前坊だったので、そちらが消えたのは残念でならない。貝原益軒が撰んだ「続筑前國風土記」には、田嶋村の人は英彦山に行かないなどと、聞き捨てならない話が書いてあるので。田嶋宮(宗像大社)に対し、釣川を挟んで対岸やや川上に位置する豊前坊は、反証になるかと思ったのだが。社殿は東向きに建つので、参拝者は西に向かう姿勢になる。

田嶋宮に尻を向けない配慮だろうか?そう言えば、田嶋宮周囲には神功皇后を祀る、或いは関連する社が取り囲むように立つのに、現在の宗像大社辺津宮に神功皇后の名は見当たらない。


立入禁止になっている(2018.7.26)指来(さしたり)明神 より

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「福岡県神社誌」上巻168

 まず、孔大寺社から持ち込まれた大己貴命・少彦名命・高龗神・水波能売命の4祭神ですが、大己貴命と水波能売命は、トルコ系匈奴=熊襲=大山祗の子で弟姉になります。

 少彦名命は海人族かスサノウ系か判別が着いていませんが、背が低い事から一応江南系海人族としておきます。恐らくヤタガラス辺りの子のはずです。

高龗神は百嶋説に従えば阿蘇の神社の12神=藤原が第2代綏靖天皇扱いにした金凝彦になるのですが、闇龗神はスサノウの姉になり、大山祗系の神ではない事が気になります。

問題は、元々指來神社の祭神とされる気長足姫命と阿蘇津彦命です。

阿蘇津彦命は、通常、内牧の阿蘇神社の主神=健磐龍とされるのですが、12神にこの神はありません。

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一方、高森町の草部吉見神社の12神も見ておきましょう。こちらも草部吉見の六の宮 阿蘇都比当スは、健磐龍のお妃となった天豊津姫→阿蘇都姫→天比理戸刀刀ィ寒川姫→杉山姫で良いはずです。

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「景行記」に景行天皇は九州巡幸の一環として阿蘇国に到ったがその国の野は広く人は見えなかった。そこで天皇は「是国に人有りや」と言うと、阿蘇都彦、阿蘇都媛の二神が人となり景行のもと現れ“吾二人在り何ぞ人無らんや”と言う。故にその国を阿蘇といったというのです。

依然、阿蘇都彦は不明でしたが、草部吉見系が阿蘇都彦と呼んでいるのですから間違いないでしょう。

このため、阿蘇都彦と称される人物は阿蘇都比唐妃とした健磐龍命とではないかと思います。

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百嶋由一郎神代系譜 017阿蘇系譜@(部分)


ただ、問題は解決しません。それは、指來神社の意味と同社の本来の神とする気長足姫命と阿蘇津彦命の時代が全く合わないのです。

神功皇后(実は皇宮皇后命)は久留米の高良大社の高良玉垂命(開化天皇)の妃(仲哀死後)であり、時代的には約80年近い差があるのです。

このため、阿蘇系の人々が住み着いていたとして、その一族から三韓征伐で活躍した武人が居たことを後世に阿蘇津彦命として祀ったのではないかと思うのです。

指來とは古代の行政機関の一部若しくは軍事に伴う役職名に見えますので、多少思考の冒険を試みました。

その勢いで、もう一つの謎である孔大寺社から持ち込まれた大己貴命、少彦名命、高龗神、水波能売命という大山祗系の神々について考えたいのです。

それは、宗像大社の本来の神様は宗像三女神ではなく、そのうちお二人の女神をお妃とした大国主命であると何度も申し上げて来ました。

関心をお持ちの向きは以下をお読み頂きたいと思います。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

681

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… G 

“そもそも三女神とは何なのか”

680

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… F 

“宗像大社の境内に置かれなかった大国主命の長男”

679

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… E 

“宗像大社の祭神は元から三女神だったのか”

678

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… D 

“宗像大社の東に大国主命を祀る神社がある”

677

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… C 

“宗像大社の西に大国主命を祀る神社がある”

676

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… B 

“神湊の津加計志宮に大国主命の痕跡を探る”

675

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… A 

“少し振り返って出雲と大国主命を考えよう”

674

何度も足を運んでいる宗像大社ですが… @ 

“宗像大社を楢ノ木の神紋から考えましょう”


 その意味で、本来は今も残る宗像大社の高宮若しくはその元宮で祀られていたはずの大国主命祭祀、その祭祀を司っていた人々を対岸に移し替え、現在の宗像大社が出来上がったと考えることは可能ではないかと思うのです。これも今後の課題です。

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