2022年02月01日

861 百嶋由一郎阿蘇ご一家系図の連番の意味が分かった

861 百嶋由一郎阿蘇ご一家系図の連番の意味が分かった

20210112

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本来、もっと早く気付くべきでしたが遅れ馳せながらようやく分かりました。

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それは百嶋由一郎神代系譜(阿蘇ご一家)に関する話です。

この神代系譜には@〜Kまで番号が振ってあり今までその意味を全く気に留めていなかったのです。

それは単に百嶋先生から聴いていなかっただけなのですが、ようやく分かってきました。

何時かは分かる時は来るものです。実は何でもなかったのです。

 今回、すこし真面目に考え始めたら12までの番号となると、阿蘇12神と対応しているのではないかと思ったらその通りでした。

 ご覧ください。

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以下の12柱の神を祀り、阿蘇十二明神と総称される。


一の神殿(左手、いずれも男神)一の神殿(左手、いずれも男神)

一宮:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。位置:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。@

三宮:國龍神 (吉見神・彦八井神)- 二宮の父、神武天皇の子。くにたつのかみ。B

五宮:彦御子神 (阿蘇惟人)- 一宮の孫。阿蘇大宮司家につながる。ひこみこのかみ。D

七宮:新彦神 - 三宮の子。にいひこのかみ。F

九宮:若彦神 - 七宮の子。阿蘇神社社家につながる。わかひこのかみ。H


二の神殿(右手、いずれも女神)

二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃。三宮の娘。あそつひめのみこと。A

四宮:比東芬q神 - 三宮の妃。ひめみこのかみ。C

六宮:若比盗_ - 五宮の妃。わかひめのかみ。E

八宮:新比盗_ - 七宮の娘。にいひめのかみ。G

十宮:彌比盗_ - 七宮の妃。やひめのかみ。I

諸神殿(最奥、いずれも男神)十一宮:速瓶玉神 (國造神)- 一宮の子。国造本紀によれば、初代阿蘇国造に任命された。はやみかたまのみこと。J


十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。綏靖天皇を指す。皇統につながる。かなこりのかみ。K


孝霊天皇(第7代)96月、健磐龍命の子で、のちに初代阿蘇国造となる速瓶玉命(十一宮)が、両親を祀ったのに始まると伝える。阿蘇神社大宮司を世襲し、この地方の一大勢力となっていた阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫と称している。

国史では、「健磐竜命神」および「阿蘇比盗_」に対する神階奉叙の記事が見え、健磐竜命神は天安3年(859年)に正二位勲五等、阿蘇比盗_は貞観17年(875年)に従三位までそれぞれ昇叙された。

延長5年(927年)に成立した『延喜式』神名帳では、肥後国阿蘇郡に「健磐龍命神社 名神大」および「阿蘇比盗_社」と記載され、健磐龍命神は名神大社に、阿蘇比盗_は式内小社に列している。

中世以降は肥後国一宮とされて崇敬を受け、広大な社領を有していたが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の九州平定の際に社領を没収された。その後、改めて天正15年(1587年)に300町の社地が寄進され、さらに、領主となった加藤清正、熊本藩主として入国した細川氏によって、社領の寄進、社殿の造修が行われた。

明治4514日(187171日)、近代社格制度において国幣中社に列し、1890年(明治23年)に官幣中社、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。

阿蘇神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210112 09:13


 これを見比べると阿蘇宮司家の理解と、百嶋神代系譜にかなりの相違点がある事に気付きます。

 深く考えれば深く考えるほど亀裂は深まり合い入れなくなってきます。

 この系図も、上米良純臣氏辺りから引き継がれた古来、研究熱心な宮司、禰宜の集まりの中に継承されてきたものを再構成したものだったのでしょう。


最も気を付けなければならないのは、一宮:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。位置:健磐龍命(阿蘇都彦命)- 神武天皇の孫。たけいわたつのみこと。@

三宮:國龍神 (吉見神・彦八井神)- 二宮の父、神武天皇の子。くにたつのかみ。B


と、主張している点です。元々阿蘇氏の後裔である藤原氏が造った「記」「紀」神話ですから、しかたがないのですが、本物の神武天皇(神武僭称贈る崇神ではない)の本物のお妃であった吾平津姫(金山彦と大山祗の姉大市姫の間に生れたプリンセス)=郡浦神社蒲池姫が神武と別れ、阿蘇家の十二宮:金凝神 - 一宮の叔父=綏靖天皇を指す。皇統につながる。かなこりのかみ。K=実は蘇民将来伝承の巨胆 に再婚したことから健磐龍がその孫である(義理)とか国龍命が子であるという宣伝が行われたのであって、阿蘇宮司家の奥深く隠された秘密なのです。このことは当然同家も承知していた(る)はずなのです。

これ以外にも、実質的な阿蘇惟人の出自や悲劇の雨宮姫問題、国造神社の速瓶玉=大山咋についても色々書くべきことはあるのですが、これらのテーマは非常に神経を使うため、また、以前のブログでも書いている事から別稿とします。今回は阿蘇ご一家系譜を全面公開した事に意味があるのでこれまでとします。


追補)勿論、百嶋神社考古学ではそのようには考えていません。ご覧の通り本物の(神武僭称贈崇神天皇=ハツクニシラスではないという意味で)神武天皇のお妃であったアイラツヒメの払い下げを受けたか?逆に神武を袖にした?かは不明ですが、そのアイラツヒメを妃にした神沼河耳との間に健磐龍命が産まれている(阿蘇家では神八井耳の子とする)とするのです。

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まず、健磐龍命のお妃は、阿蘇高森の草部吉見神と高木大神の次女である拷幡千々姫との間に産れた阿蘇都姫(天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀刀ィ寒川姫→杉山姫)なのです。

それは、阿蘇神社の縁起でも、二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃

三宮:國龍神 - 二宮の父。神武天皇の子で、『古事記』では「日子八井命」と記載 としている事でも明らかです。

勿論、國龍神が草部吉見=日子八井命なのですが、結局、阿蘇家の健磐龍は草部吉見の娘でもある姪(高木大神の血を引いた)を妃として生まれたのが新姫=雨宮姫(熊本市、人吉などに雨宮神社が数社)であり(どうやら男子は産まれていないようですね)、結局、阿蘇家を継いだのは、五宮:彦御子神 - 一宮の孫惟人命で、そのお妃が 六宮:若比盗_ - 五宮の妃 だったのです。

そして、その若比唐ェ産山村の乙宮神社の娘であった事から乙姫様と呼ばれ、乙姫神社として祀られたのだと考えられるのです。

この乙姫様=若比が百嶋神代系譜の一枚=阿蘇系系譜(お騒がせ娘)だけに書き留められているのです(右→)。

問題は、この乙姫様=若比とは如何なる方かです。

これについては、次のお騒がせ娘系譜の全体を読み取る事によって分かってくるのです。

ご覧の通り惟人命若比腹違いの伯父と姪の関係にあり、惟人命は新(ニュウ)彦、新(ニュウ)姫の子であり、若比当スは新(ニュウ)彦と興ツ姫(草部吉見と宗像系市杵島姫の娘)の孫娘になり、高木大神の次女である拷幡千々姫の血を引く一族が阿蘇家の外戚であり実質的な本家なのです。

このことから、阿蘇家(事実上、惟人命と若比唐ノ始まる)の母方の実家=乙宮が鎮座する産山村が高木大神系の集落である事までが見えてくるのです。

それを阿蘇北宮(速甕玉=大山咋=日吉神社=山王宮…)の流れから出ているとしているところが、阿蘇家が公表している系譜と百嶋由一郎(お騒がせ姫)系譜と異なるのです。

その様な系譜を仕立てた背景に何があるかについての推定は、次に回しますが、一つは、阿蘇ツ姫が天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀刀ィ寒川姫→杉山姫(川崎など神奈川県内に杉山神社が数十社ある)と名を変えている背景にこの高木大神の孫娘が最終的にヤタガラス(豊玉彦)の妃として納まったという話が阿蘇家にとって好ましくなく、また、阿蘇北宮(速甕玉=大山咋…)とすることが、阿蘇家にとって有利だったからではないかと思えるのです。何故なら、阿蘇北宮の息子が贈)崇神天皇であり、その流れから藤原氏が出ていると考えられる事から、結果的に阿蘇家の出自をそちらに接ぎ木したように見えるのです。

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百嶋由一郎神代系譜(お騒がせ姫)


研究のために神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください


 最後になりますが阿蘇氏を批判したように思われるかも知れません。実際、偶然なのですが一部に阿蘇系の方もおられるものの当グループの中枢は大幡主系白族の後裔の方々が多く、阿蘇氏を敵視する向きもあります。しかし、この藤原の祖とも言える民族には敬意を抱いてもいます。それは、彼らが誇りと伝統を守るために漢族、鮮卑族、モンゴル族、女真族と2000年以上闘い続け、辺境の雲南省に追い詰められ遂に海南島を経由し列島に移動して来た人々であり、白族=天御中主命の一族とともに中国と最期まで誇りを持って戦い続けてきた日本を守る最も重要な民族である事を知っているからです。その意味では、阿蘇氏については許しがたい藤原の所業と重なるも評価を失わない奇妙なシンパシーを抱いているのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年02月03日

862 鳥之子(天日鷲)も祀る天目一箇神とは鳥之子の祖神=ヤタガラス “熊本県山鹿市薄野神社”

862 鳥之子(天日鷲)も祀る天目一箇神とは鳥之子の祖神=ヤタガラス “熊本県山鹿市薄野神社”

20210114

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これも西原村の鳥子神社に付随する話になるのですが、熊本県山鹿市の西45キロほどの所に薄野(ススキノ)神社があります。

 これは民俗学者の谷川健一が「青銅の神の足跡」で取り上げた天目一神なる製鉄神を祀る神社であり、私も十年近く昔にブログを一本書いています。

さて、二千年前辺り(つまり真実の神代)以来、この一帯は非常に重要な製鉄地帯だったようです。

 具体的には荒尾市から玉名市そして山鹿市に跨る尚岱山一帯の古代製鉄の象徴として、故)谷川健一も取り上げた「青銅の神の足跡」の天目一箇神もあるのです。

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この天目一箇神とは製鉄を行ない続けるといずれは火玉が目に入り片目が潰れるのですが、その時製鉄技術を持った技術者は引退し神として崇められるのです。

また、有名な安来節にドジョウすくいがありますが、これは面白おかしく仕立てられたもので、実は鉄を浚う鍛冶屋の姿を残したものなのです。

この滑稽さを競う踊りには片目が潰れ鉢巻を締めたひょっとこ面の男(メッカチ)が登場します。

ひょっとことは火吹男(ヒフキオトコ)であり、メッカチとは片目が潰れた鍛冶屋の意味なのです。

地図をご覧頂ければ明らかですが、鹿北町芋生(イモオ)があります。

これも鋳物(イモノ)を置換えた地名ですし、下の地図には出てきませんが、付近には川沿い(菊池川の支流)に金堀(カネボリ)という地名さえ拾えるのです(国道3号線)。

こちらは支流ですが、阿蘇の火山灰が大量に堆積した土地から流れ出す土砂には大量の鉄が含まれているのです。このため火山地帯だった阿蘇の周辺では川の運搬に伴う浮遊選(洗)鉱が行われ砂鉄が堆積する場所があるのです(蛇行地の淵)。そこから川を浚えば今でも良質の砂鉄が手に入るのであり、天目一神を祀る一帯が前述した上吉田地区なのです。

この点、後に鉄生産の中心となった山陰(島根、鳥取、広島北域)がカンナ流しを必要としたことから言えば有利だったはずなのです。ただ、人口が薄く有利な点はやりたい放題に山を壊せた事だったのです。

さて、山鹿から菊池へと溯る一帯こそ後に南朝方として数百年に亘って闘い続けた菊池氏の領域に入るのですが、谷川健一氏の著書に絡む「天目一箇男神」の話がネット上にありますので参考にご紹介します。

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肥後国誌 には 熊本県の鹿本郡を中心とした玉名郡や菊池郡に及ぶ広大な一帯が かっては水底で そこは茂賀の浦と呼ばれていたとあります そこに阿蘇大明神である健磐竜命が山鹿に来て 鍋田の岩を蹴透して湖の水を流したと云う話を紹介し 湖の水を有明海に導いた川が菊池けれつ川だと書いています 氏は 各地に残るこうした蹴裂伝説が鉄器を用いての開墾や開拓を暗示しているとし 阿蘇国造の祖神である健磐竜命がその阿蘇湖の干拓に係わった事が この伝説を生んだとしています くばるあめのまひとつかみ又 氏は 蹴裂伝説の他にも 山鹿市久原に目一箇男神 ( 天目一箇神 ) を奉る神社があり しかも その近くに銅山があった事を書いています そして 肥後国誌 巻之七には その金属ゆるぎたかまの神である目一箇男神が 6 世紀の継体大王時 ( 磐井の時代でもあります ) に震岳 ( 別名高天山 ) のたぐい主神として奉られている事を紹介しています 更に 地元の伝説にはその震岳にいた土蜘蛛の類が景行大王 ( 日本武尊の父 ) の軍勢に激しく抵抗したが 滅ぼされたという話がある事を指摘しています 興味深い事に 村上恭通氏の 倭人と鉄の考古学 によれば 発掘による鍛治工房跡は 当時の先進地域であった博多地区以上に その菊池 / 山鹿地区に於いて発掘されています つまり 弥生時代から古墳時代の移行期において 別の言い方をすれば 卑弥呼の時代において 鍛治工房跡の遺跡が集中的に見られる所が阿蘇 / 菊池 / 山鹿地区と博多地区なのです …(中略)… 又 先に見たように 魏志倭人伝には 邪馬台国には丹 すなわち 水銀朱が有ると書かれており 一歩下がって 丹がベンガラをも指すとしても 邪馬台国とその朱 & ベンガラの繋がりを辿る事に加え 青銅や鉄の軌跡と朱やベンガラがどう繋がっているかを探求する事は 古代を知る上で大事な事と思われます                    「母の故郷に見る鉄の跡」による


これまでの話から、少なくとも足(帯)の名を持つ、孝安天皇=玉名の疋野神社の主神とその子景行という一氏族が入った領域が巨大な製鉄地帯、冶金地帯だったと言う事はお分かり頂けたはずです。

 では、この神社の祭神をご覧頂きましょう。

 熊本県神社誌を見ても「天目一箇神」とあるだけで一向に要領を得ません。、

 そこで、敬愛する「玄松子」様に頼ると非常に重要な神々が並んでいました。

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薄野神社の境内摂社に八坂神社があることはスサノウ系そのもので、熊野座神社もヤタガラスその藻です。木幡は不明(北関東の木幡神社は正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊としておりヒコヤイミミか?)。境外摂社に菅原神社(3)と天神社(1)がある事は象徴的で、菅公は金山彦〜スサノウ+櫛稲田姫〜ナガスネヒコの後裔氏族の本家とヤタガラス系本家によって成立した氏族であり、その氏族がこれらの神社であった事を物語っています。

このように一つ目神社がヤタガラス系に庇護された金山彦の後裔のナガスネヒコ製鉄集団の神社であった事は疑う余地がありません。薄野神社の祭神として天日鷲命(西原村鳥子の祭神)が直接的祀られていると言う訳ではありません。しかし、同社は明らかに天目一箇神を祀っていることから、以下…


天目一箇神 あめのまひとつのかみ

別名 天目一命:あめのまひとつのみこと 天麻比止都禰命:あまのひとつねのみこと 天久斯麻比土都命:あまのくしひとつのみこと……

金工鍛冶の神。作金者の神。鉱山師の神。筑紫・伊勢両国の忌部の祖神。天津日子根神の御子。

太玉命の率いる五神(天日鷲命:阿波忌部の祖、手置帆負命:讃岐忌部の祖、彦狭知命:紀伊忌部の祖、櫛明玉命:出雲玉作の祖、天目一箇:筑紫・伊勢忌部の祖)の一柱

『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋戸に隠れた神話では祭具としての刀剣や斧、鉄鐸を作る役をしている。『古事記』ではこの役をやっている神は鍛人天津麻羅となっており、同神とする説がある。あるいは天津麻羅は鍛冶職人という一般名詞とする説もある。

溶鉱炉の火を片目で監視して、火の色で温度を測るため、片目が見えなくなってしまうことから一目という。その異形な姿や、鉱山を求めて各地をさすらう異界の人々という印象がある。

社伝によると、継体天皇四年(510)十一月、高天山の神主若山連の後裔吉田氏が祀ったという熊本県内屈指の古社。

祭神は天目一箇命であり、鍛冶集団の神。筑紫・伊勢の忌部の祖である。社地周辺には旧銅山があり、採掘の神として祀られた。菊池川流域には古代製鉄遺跡も広く分布している。

また、社記によれば、蒲生の不動岩と彦岳権現が首引きをした時わが子の首引を案じていた母神の目に首引きの大綱の端が当たり一目をうしなわれたので、その母神を祀ったとある。 敬愛する玄松子による


そこで同社の祭神ですが、主祭神の太玉命はやはりヤタガラス=豊玉彦で良いと考えます。


太玉命の率いる五神(豊玉彦=ヤタガラス)(天日鷲命:阿波忌部の祖(鳥之子)、手置帆負命:讃岐忌部の祖(スサノウ)、彦狭知命:紀伊忌部の祖、櫛明玉命:出雲玉作の祖、天目一箇(重複か?):筑紫・伊勢忌部の祖)の一柱                         敬愛する玄松子による

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百嶋由一郎神代系譜 004 ヤタガラス系譜原本(部分)


ここでは、薄野神社の主神がヤタガラスであり、その随神として西原村の鳥子と同一神の天日鷲命が祀られている事が確認できれば良いのではないかと思います。少なくもこのブログの任務もその範囲です。としたのでした。確かに敬愛する玄松子氏に全幅の信頼を置いて書いたのですが、天目一箇神=別名 天目一命:あめのまひとつのみこと 天麻比止都禰命:あまのひとつねのみこと 天久斯麻比土都命:あまのくしひとつのみこと……金工鍛冶の神。作金者の神。鉱山師の神。筑紫・伊勢両国の忌部の祖神。天津日子根神の御子=太玉命の率いる五神と言うものの、全ての天目一箇神が五神を等しく抱えていたかには不安が残ります。

 製鉄には、砂鉄の採取、燃料の調達、運搬、保管、製鉄、冶金、その搬送…と多くの職能集団を抱え込みます。それが各々対応しているとすれば五神が等しく従っている事になるのです。

 一応、天日鷲命=鳥之子がここにもいたとすることは許されるでしょう。


百嶋由一郎神代系譜、講演音声CD、手書きデータ・スキャンニングDVDを必要な方は090-6298-3254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年02月05日

ビアヘロ190 ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる 

ビアヘロ190

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる 

20220110

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は、百嶋由一郎氏が残された手書きスキャニング・データ 百嶋神社考古学(逸文@)から採題させて頂きます(新ひぼろぎ逍遥共通掲載)。

故)百嶋由一郎氏の手書きデータには解析が必要なものどころか貴重極まりない重要なものが多々ありますが、知識も資金も不足しているアマテュアの片手間作業でやっている程度ではなかなか追いつきません。今後、少しづつでも今までとは異なった側面からアプローチを加えたいと思います。

これは有名なヤマトタケル(日本武尊)に誅殺されたとされた河上 猛のその後に関する話です。

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“河上 猛のその後に関する話です”としましたが、ヤマト・オグナに誅殺された…はずの熊襲猛のその後の話…?と訝しがる方が多いかも知れません。この話を一から説明していては全く先に進めませんので、この部分を読みたい方は、以下のひぼろぎ逍遥〜新ひぼろぎ逍遥をお読み下さい。


554

淀 姫 C ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”

553

淀 姫 B

552

淀 姫 A

551

淀 姫 @


また一般には、熊襲猛だからこの鹿児島だか宮崎の蛮族を誅伐するなどと理解されている話の舞台が、実は有明海最北部の佐賀県佐賀市(旧大和町)の川上峡温泉(佐賀大和IC)一帯での話しである事についてパワー・ポイントも作成していますので希望される方には実費程度でお送りしてもおります。

この話は「旧大和町町史」にも採録されているもので、40年近く前にこの話を知って以来、「古事記」の河上 猛の説話の舞台はこの地で起きたことであり、その話を回収された故)百嶋由一郎氏はさらにタケルは許されその一族は今も山を越えた福岡市早良区にまとまって住んでおられます。分かっているけど可哀そうで公表できないと語っておられたのですが問い詰めることまではできず、他のメンバーもそれっきりにしていたのでした。

ただ、ロマンチックな話であり私を含めどの氏族だろうと思い続けていたのです。

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阿須波神 あすはのかみ……阿須波神は大年神の御子神。

『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。

奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。

これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。

阿須波神は足盤、足場の神・足下の神。足で踏んで立っているところを守る神とされ、 『万葉集』巻二十・防人の歌にも「庭中の阿須波の神に木柴さし、吾は斎はむ帰り来までに」と詠まれている。 4350

延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。

生井(いきいきした井)・福井(栄える井)・綱長井(生命の長い井)の三神は井の神。ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。 これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神と言った。

「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」とある通りである。

敬愛する「玄松子」氏による


以下、百嶋手書きメモより


アスハは、長脛彦叛のあの事に心が揺れて道行に✓失礼、道ゆきに(ママ)為に、外宮サマに連れられて、八咫烏下鴨サマに詫びの為山城を訪ねられました。その頃の名残のアスハ社は、(ごまかしのために下鴨ではなくて)上鴨の神紋の前に…。今もございます。


ナガスネヒコの叛乱の折に建御名方(草部吉見と豊受大神=外宮との間に生まれているにも拘わらず)はナガスネヒコの側に立って動いたようなのですが、彦山南麓の旧朝倉郡一帯の大国主の葦原中津国を奪われる際に、彦山北麓の自ら開いた筑豊の開拓地をタカミムスビ=高木大神から同時に奪われた事もあってか(これについては、以下をお読み頂きたいのですが、911914は半年後に公開しますので、それまではそれ以下をお読み下さい)、彼らはナガスネヒコの一派に与したようなのです。ともあれ先生が書かれているのは、外宮様に連れられて、八咫烏=下鴨に詫びを入れているというのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

914

出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に掛けて

の旧田川郡、行橋市一帯で起こった

913

福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は

春分秋分のラインに参道を置いていた(下)

912

福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は

春分秋分のラインに参道を置いていた(上)

911

彦山直下 添田町中元寺の諏訪神社は真実の出雲の国

譲り=強奪を今に伝える

ひぼろぎ逍遥

260

若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を

祀る“春日市の白玄社”への再訪!

177

大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…

176

少彦名命とは何か?


スポット 041オオナムチの移転先@ スポット042オオナムチの移転先A

スポット 050「日隅宮」の発見は何を意味しているか

ビアヘロ 023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

ビアヘロ101 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…

などをお読みください。

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左)須波神社 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境内摂社  右)阿須波神社 千葉県市原市


周囲(旧字の圑)から世話をしてもらった、“妻”奈留多姫は、八坂刀売と変名して、二人の新天地=信州諏訪へ赴れました。

奈留多ヒメは一族(※熊襲及びゆかりの人達 阿蘇家)を、福岡市早良区にのこしてゆかれました。


この同園は不明です。「同」ではないのかも知れません(初は周囲の旧字と分からずにいましたが…)。

ただ、奈留多姫は阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミの娘(母は高木大神の次女タクハタチヂヒメ)である天豊ツ姫と健磐龍の間に生まれた雨宮姫と、大山咋(日枝神社、山王神)との間に生まれた人で、阿蘇宮司家の初代である惟人の妹か姉であるため、阿蘇系の人物である事は間違いないと思われます。

実は、当の阿蘇宮司家は速甕玉(阿蘇北山国造神社の主神)との間に生まれたのが惟人としますが。

結局、河上タケルは母方を見れば、阿蘇系(それを持って「古事記」は熊襲猛と呼んだのでしょうが…惚けた話です)なのでしょうが、父方から考えれば、草部吉見=ヒコヤイミミ=海幸彦の対極である彦火々出見=山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦の子であるウガヤフキアエズであるため、福岡市早良区に残された河上猛の一族は、諏訪神社、建御名方、阿蘇氏、淀姫などをキー・ワードに探る価値があると思うのです。

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ここで周辺の氏族を理解するために百嶋由一郎最終神代系譜をご覧いただきました。

建御名方は高木大神が本拠地としていた彦山北麓の筑豊は田川郡から行橋市一帯の国土開発を行っていた(添田の諏訪神社の由緒)ようですが、この一帯では添田町の一社を除き、ほぼ諏訪神社が一掃されています。

多分、争いがあり高木大神系=天照大神系=阿蘇系の勢力に土地を強奪されたのだと思います。

この遺恨があってか 建御名方の一族は南や西(佐賀県も諏訪神社が多い)に逃げ(日向に南方神社が多い理由はこのためです)、それが後に諏訪神社と呼ばれた理由は、恐らくこの酷い目に合ったもの同士の奈留多姫と建御名方の道行以降の社名なのでしょう。

遡れば、建御名方はイスラエル系の金山彦(櫛稲田姫)の娘を妃とした〜スサノウ系〜ナガスネヒコの妹のオキツヨソ足姫の恨みがあったからこそ、その子孫として与したのではないかとも考えられます。

もう一つは系譜です。直上の系譜の円内の拡大図をご覧頂くと、二本線と一本線が建御名方に繋がれていることがお分かりいただけると思います。

無題.pngの建御名方は草部吉見=海幸彦とオキツヨソ足姫との間に生まれているのですが、母親=伊勢の外宮様の流れがそうさせたのか、ヒミコ宗女イヨ、山幸彦=ニギハヤヒの子であるウマシマジなどとの義理の兄弟になっている事が判るのです。

これこそが、阿蘇系であり高木大神、天照大御神系であるにも関わらず、心が揺れた背景の様に思えるのです。

そして、河上 猛と淀姫の母=奈留多姫は、冷や飯を食わされた者同士手で手を取って建御名方と諏訪に旅立ことになったとのです。   

そこでヤマト・オグナから許された熊襲 猛の一族が母共々早良に入っているとすれば、第一義的には、早良で奈留多姫を祀る神社を探すべきですが(これについては福岡市の西隣の糸島市に産宮神社があり、奈留多姫が主神として祀られているのですが、残された一族の移動によるものではないでしょうか)、都合が良い事に福岡県でもそれほど多くもない諏訪神社が一社早良区 の原(ハラ)にあるのです。千葉の市原と対応していますね。

このため、この諏訪神社を軸に奈留多姫+建御名方の背景を探れば、熊襲猛の一族が探れる事に成ると考えるのです。


阿波須神社 市原市五井3389 (平成261223)

東経1400603.79秒、北緯353010.62秒に鎮座。無題.png

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】R五井駅より南東に約1kmの道路左側に鎮座しています。近くにケーズ電気、イトーヨーカドーあり。

阿須波神社を探していたのに阿波須神社と勘違いして辿り着いてしまった神社です。この辺りには両方の神社があるので要注意ですね。ちなみに阿波須神社は古事記にも出てくる神社だそうです。また阿須波神社は旅立の際に安全を祈願して参拝した神社だそうです。


御祭神 天乃比理刀当ス  由緒 治承4年、源頼朝が安房より上総を経て東上の際、同年9月29日当所に阿波須権現を勧請され、武運長久を祈られたという。時に家僕岡崎某が、石橋山の戦に公を失い追慕の情止み難なく陸路より公の行方を追跡したところ、図らずも当所阿波須権現の森林中において会見できたという。宝治元年社殿を改造。以後建武2年〜宝暦元年までの400余年間に5度の社殿改造を施され、近年に入っては明治34年9月29日改造、現今の社殿は昭和60年9月新修造された。(以上 神社のひろば 神社探検隊より抜粋) 注:ここまでは引用文本文です。


普通、古事記を軸に、阿須波神(アスハノカミ)を考えれば、…竃神(足場・足下の神・旅の神)の総称である坐摩神(イカスリノカミ)の中の一柱で、摂津国一宮・坐摩(イカスリ)神社が著名です。

子安神社、天神社、稲荷神社、大杉神社、阿夫利神社、四社大神、白山宮、愛宕社等が祀られています。

百嶋神社考古学といってもここまで細部に亘って定説がある訳ではないのですが、百嶋由一郎手書きメモに 建南方 → 阿須波 → 建御名方 とはっきり書いている以上、鹿児島に南方神社集中しているのは武甕槌=草部吉見によって敗残した熊襲の軍団が薩摩に落ち延びたと考えるべきで、その後の時期が奈留多姫と伴に諏訪に入り諏訪の神となって以降の呼称と考えるべきなのでしょう。

そして、建御名方と呼ばれたのであって、やはり、諏訪に逃れて以降諏訪神社と呼ばれるようになったのではないかと考えています。

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市街地で要路が集中考査していますので、駐車スペースも見つけ難いと思いますが、近くにはイオン原店(今はドンキホーテ)もありますのでお買い物のついでに同社を見に行かれてはと思います。

許された熊襲猛の一族がまとまって住んでおられる地区を探りたいのですが、失礼になってもいけないため心して探索を進めたいと考えています。まだまだ、取り掛かったかりですので、情報をお持ちの方はご一報下さい09062983254

百嶋神社考古学に携わるメンバーでもこの問題はかなり関心を引くテーマであり、フィールド・ワークにほとんど参加されない方々の中でも、O女史は、これについて別の仮説を提案されています。

詳しくは申し上げませんが、同じ早良区にある杉山神社です。

まあ、奈留多姫のお祖母さんにあたる草部吉見の娘の天豊ツ姫(この呼称は阿蘇の健磐龍の妃だった時のものです)は、天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀刀iアマノヒリトメ)→寒川姫→杉山姫と名を変えます。

この<お騒がせ姫> は建御名方ではなく最後にヤタガラスのお妃となって以降の呼称なのです。ともあれ、今後の問題です。


杉山神社 カーナビ検索 福岡県福岡市早良区10


既に主神として奈留多姫を祀る産宮神社が福岡市の西の糸島市にあるとしました。

これは、残された一族が奈留多姫を偲んで奉斎する神社だと思うのです。これについては、新ひぼろぎ逍遥に “732 産の宮神社に見る藤原氏の影 “福岡県 ... - 書いていますが、今回の視点を全く欠いた深みの無いリポートであり、念のためにこれもご紹介しておきます。いずれにせよ、会内部で多くの説が提案され議論される環境があることこそが研究会会の生命です。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

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と、ここまで書いてブログ一本を書き上げ閉じたところ、「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原さんから連絡が入りました。それは、ありがたいことに古川説を補強する内容でした。それは、諏訪神社の境内に祠があり、1500年代に諏訪神社から勧請されたものがあり、八坂刀を祀っているというのです。

この名は、阿蘇ツ姫ではなく孫の奈留多姫が建御名方と一緒になって以降の名であり、奈留多姫=八坂刀唐祀る祠であった事が判るのです。恐らく、その祠の裏にはこれを諏訪から持ってこられた氏子の有志が居られるはずで、その方々こそ栄えある熊襲 猛の後裔氏族である可能性が非常に高いのです。

宮原さんはネット情報でこれを拾われたようですが、O女史もさることながら、万葉集の専門家であるI女史、宮原誠一氏、事務局の中島氏…の共同研究によって百嶋先生が敢えて伏せられた真実に迫る話も蘇るかも知れません。次報をお待ちください。改めて現地を踏み改めて報告をさせて頂きます。

残された紙面で追加情報を…。以下は56年前にパワー・ポイントです。500円+送料程度+作業経費の千円程度でお送りします。

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かつて熊本に孤高の九州王朝論者の平野雅廣先生が居られました。師の「倭国史談」の49pには河上猛の墓所があり(健福寺の元寺)現健福寺の時報にも記録があるというものでした。旧大和町史にも採録されていますが、当方のパワー・ポイントにも引用しています。特に古田武彦亡き後、何の研究もおこなわない堕落しきった福岡の九州王朝論者の方々是非お読み頂きたいと思うのですが、まあ、無駄でしょうね。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:58| Comment(0) | ビアヘロ