2022年01月15日

856(後) 鳥子三宮神社の基底部を探る @

856(後) 鳥子三宮神社の基底部を探る @

20210105

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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ヤタガラスはカミムスビという有力者のプリンスであったために多くの氏族 豊秋ツ姫(高木大神の長女)、罔象女命(大山祗の長女)、櫛稲田姫(金山彦の娘=イカコヤヒメ)、木木花咲弥姫(大山祗の次女後に前玉姫)、武内足尼(スサノウとクシナダヒメの間に生れたナガスネヒコの妹オキツヨソ足姫)…と姻戚関係を結びます。ここまで確認できれば、次のステップに進むことができます。天日鷲=鳥子大神とは如何なる出自であるかです。そのためには杉山姫なるものが何かを知らねばなりません。

簡単に言えば、この杉山姫も阿蘇津比売(アソツヒメ)の別名でしかないのです。

ここら辺りからの話は現在の阿蘇宮司家(健磐龍系)が嫌がる話になるのですが、この阿蘇津比売は始め本物の神武天皇(後の藤原によって第10代とされた神武僭称贈る崇神ではない)の息子である第4代懿徳天皇(母は大山祗の姉大市姫=燕脂姫の娘アイラツヒメ)の妃になるのですが、後に別れ、阿蘇家の祖とされる健磐龍との変節を経て最終的にヤタガラスの妃となる時点では杉山姫と名を変えているのです。

これが神奈川県の川崎市などに集中する杉山神社なのです。要はかなり奔放な女神様だったのです。

天豊ツ姫⇒阿蘇津比売⇒天比理刀刀ヒ寒川姫⇒杉山姫


さらに説明を加えれば、天豊ツ姫は第4代懿徳天皇の妃時代の名、阿蘇津比売は出戻り時代の復名、健磐龍による皇后陛下略奪、籠絡と応諾の結果の罵声が天比理刀刀i屁こき姫の意味)の名となり、最後は寒川姫、杉山姫は、しかたがなくヒコヤイミミがヤタガラスに頼み込み引き取ってもらって後の改名と言った趣旨の話を百嶋氏はされていました。

百嶋由一郎氏は神社研究上は「熊本県神社誌」の編纂者であり人吉の青井阿蘇神社の宮司(神社長)でもあった上米良純臣の副官に近い存在だったのであり、神社中枢部では伝え知られた話だったようです。

ここまで解読した上で改めて西原村の性格を考えると、この地は阿蘇氏が熊本に進む出口のような場所であったと気づきます。今でこそ阿蘇谷に向かう白川右岸(北岸)ルートが主である事から錯覚しがちですが、地形から言っても阿蘇谷よりも南郷谷との関係、阿蘇神社よりも草部吉見系(年禰神社系)との関係が深い一帯であった事が見えてきます。そして、同村全域の祭神も解析すると単純に阿蘇系とは言えず、大幡主系=天御中主命=妙見=北辰の系統、とりわけ豊玉彦=ヤタガラス系の勢力が製鉄、製銅、冶金を行っていた事を強く意識するのです。

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百嶋由一郎お騒がせ姫神代系譜


鳥子三之宮神社の解析は一筋縄ではゆきませんが、ここで横道に逸れ少し目先を変え古代製鉄で知られた西原村でもとりわけ鳥子の一族について考えて見たいと思います。

それは西原村HPから取り出した日置若狭守の供養塔の話です。

中近世は私の興味の向かう領域ではないため詳しくはないのですが、多少思いついたお話を付け加えておきたいと思います。

九州の神代史から古代史について関心を持つ人々にとってはほぼ常識的なことですが、3世紀前後の列島に於いて、近畿大和とりわけ奈良県では全く鉄が取れた痕跡などなく、逆に筑紫から肥後にかけては圧倒的な製鉄の痕跡があることです。

中でも熊本県は著しく、荒尾から玉名そして山鹿、つまり尚岱山周辺の古代製鉄産の存在があり、今尚、菊池川の川底には夥しい量の砂鉄がうず高く堆積しているのです。

この点、山を崩し風化花崗岩の隙間から砂鉄を取り出す山陰などの乱暴なカンナ流しによる製鉄に比べれば川底から取り出した鉄を精錬すれば良い肥後の製鉄は非常に有利だったのです。

これに加え阿蘇平野と菊池、山鹿に拡がっていた巨大穀倉こそが南北朝争乱期に象徴される阿蘇氏、菊池氏、五条家、黒木氏…といった宮方の抵抗できた基盤だった事が分かってきます。

そこでこの日置氏の話に踏み込みましょう。この日置氏=疋野の一族は製鉄で知られた人々で、全国にその足跡を残しています。

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西原村HP教育委員会より

 鹿児島の日置市、山口の旧日置町(現長門市)、大阪の羽曳野、丹波篠山の日置氏…切が無いのでここまでとしましょう。

 そこで、玉名の疋野神社が頭を過りました。この疋野神社の一族がいた玉名こそが日置氏のルーツとも言うべき本願地と思われ、巨大鉄山と言える尚岱山を背負い菊池川を遡上しもう一つの製鉄地帯である大分県の国東半島+姫島への製鉄ベルトが形成されているのです。このとんでもない話については以下をお読み頂く必要があります。極秘扱いにされてはいますが、藤原氏はこの重要な製鉄氏族である日置氏=疋野神社(温泉神社)の祭神こを自らの参加に置く為に第6代とされた孝安天皇の一族としたのであり、全国の日置氏はその後裔氏族と考えられるのです。


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統

※以下省略

極一部の方を除いて、大半の皆さんは「記」「紀」偏重の歴史によって、初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)以来血統の繋がる直系に依り天皇家の血筋が連綿と繋がっているとお考えかも知れませんが実は全く異なるのです。

初代神武天皇こそ呉の太伯の血を引く本物の天皇ですが、第2代綏靖天皇は阿蘇神社最奥の神殿に祀られている金凝彦=巨胆将来神であり、神武との繋がりなど全くないのです。

3代安寧天皇は博多の櫛田神社の主神大幡主=カミムスビ(造化三神)かつヤタガラスの父神であり天御中主系白族の人物なのです。

次の第4代懿徳天皇は神武天皇と吾平都比売(アイラツヒメ)の間に生れた呉の太伯の血を引いた本物の天皇ですが、再び第5代孝昭天皇となるとそれこそ阿蘇系祭神の雄高森の草部吉見神社のヒコヤイミミ(これが事実上の藤原氏の始祖と言われる当方に移動した多氏、宇治氏、阿蘇氏なのです)、そして、第6代孝安天皇となると、製鉄の技術を握った集団の長であり、具体的には熊本県玉名市の疋野神社の隠された祭神、日本足彦国押人天皇なのです(日置氏はその後裔か?)。勿論、初代神武天皇と血の繋がりがある訳などないのです。第7代、8代、9代は孝霊、孝元、開化は再び呉の太伯の血統を引く天皇とされていますが、実質的に天皇となったのは、久留米の高良大社の主祭神とされる高良玉垂命であり、実質的な本物の天皇と言っても良い人物なのです。それ以降は再び阿蘇系の崇神、垂仁が続き、第12代になり、再び疋野神社の製鉄神孝安天皇の子が景行天皇とされるのです。

我々九州の古代史神代史を探究するものとしては、極めて重要な第16代仁徳天皇(母神は神功皇后)という本物の天皇があるのですが、一切の真実が歴史の闇に隠されているのです。

要は藤原氏が権勢を守るために有力集団を取り込むために天皇を創った事が見えてくるのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)※公開済み

855

古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は

天皇扱いされた 香春神社

854

古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の

主神)は天皇扱いとされた 疋野神社

836

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か M

“大帯姫か大足姫か?”

835

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か L

“ツヌガノアラシトは何を…?”

834

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か K

“スサノウは姫島に来たのか”

833

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か J

“国東の姫島から周防の柳井へ”(下)

832

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か I

“国東の姫島から周防の柳井へ”(上)

831

「古事記」中つ巻  孝霊編 H “卑弥呼宗女伊予=細姫を

妃とした開化天皇の祖父神”

830

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か H

“肥後から姫島、国東へ”

829

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か G

“櫛稲田姫は山鹿の稲田村で生れた”

828

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か F

“大宮神社の境内摂社”

827

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か E

“大宮神社の本来の祭神は金山彦”

826

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か D

“玉名、山鹿から国東、姫島へ”

825

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か C

“では大帯八幡社とは何なのか”

824

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か B

“何故仲哀を祀るのか”

823

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か A

"仲哀を祀る八幡宮群”

822

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か @

“消えた祭神を求めて”

821

「古事記」中つ巻  孝安編 G  “孝安は熊本県玉名市に

いた景行の父神”

820

「古事記」中つ巻  孝昭編 F  “孝昭は阿蘇高森の草部

吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミ”

819

「古事記」中つ巻  懿徳編 E “懿徳は安寧の子でなく

神武ので僅かに倭人伝にも登場する”

818

「古事記」中つ巻  安寧編  D “謎だった安寧天皇とは

博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビだった”

817

「古事記」中つ巻  綏靖編 C “阿蘇氏の祖には神武の

血統が継承されているとは言えないのだが…”

816

「古事記」中つ巻  神武編 B “槁根津日古とは神武僭

称贈る崇神の弟だった”

815

「古事記」中つ巻  神武編 A “神武巡幸と神武僭称贈

る崇神の神武東征とを分離しよう”

814

「古事記」中つ巻  神武編 @ “笑ってしまいますが…

宇沙都比古が神武を迎えたと言うのです”

百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

856(前) 鳥子三宮神社の基底部を探る @

856(前) 鳥子三宮神社の基底部を探る @

20210105

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 南阿蘇(南郷谷)の西麓西原村に鳥子三之宮神社があることについてはこれまで数本のブログで書いてきたので読まれた方も多いかも知れません。

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鳥子三之宮神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡西原村鳥子2608


 以下、主要には5本、関連で西原村の性格を切出すべく書いた3本のリポートがネット上に公開中です。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

634

熊本地震で被害を受けた西原村の阿蘇四ノ宮神社とは何か?

632

鳥子三宮神社再考 “阿蘇系神社と思われている熊本県西原村鳥子神社”

631

熊本地震で被害を受けた境内に雨宮姫を祀る神社 “熊本県西原村宮山の

宮山神社”

617

南阿蘇への迂回路に鎮座する湧水池と塩井社をご存じですか?

604

西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛の

逃亡ルート

520

熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

359

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

358

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @


今般、ある筋からの依頼がありました。“この神社が何なのかを調べているが、宮司に聴こうが神社庁に照会しようが全く見当が着かなかったので、仕方がなくネットで拾った情報から連絡を取った”ということから、改めて同社への解析と作業を進めることにしました。

 まず、熊本県の西原村と言っても県外の方には全く見当の着かない土地ですが、熊本空港のある阿蘇外輪山の西側の裾野の村と言えば分かっていただけるかも知れません。

 この地に鳥子三宮神社と言うあまり聞かない神社が鎮座しています。

この西原村は古代の溶鉱炉跡があるなど、古代に於いても製鉄冶金に関わる土地であったと思わせます。

まず、鳥子という土地は西に向いた阿蘇の大峡谷の南脇にあり北西方向に開いた谷を持っています。

古代に於いても製鉄冶金は農閑期の冬場を中心に作業が行われたのですが、鳥子の谷は地形的にも北西からの風を受け凝集する事ができる土地だったのです。

 その中心に位置していたのが鳥子三宮神社の前を流れる鳥子川から山へと続く集落だったはずで、冬場に製鉄を行うには最適の土地だったのです。

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では、改めてこの「鳥子」という地名とその意味から探る事にしましょう。

ただ、地域、神社関係者を始めとしてほとんどの人々がその意味を失ってしまっており、中には俘囚移配に伴う「虜」(トッコウ)説などを持ち出す方がおられる事も承知しています。

このため、「鳥子」とは何なのかを改めて説明する事から始めざるを得ないのです。

これについてはこれまで書いているものがありますので詳しくは先行ブログをお読み頂くことができます。

まず、神社研究者の中である程度知られているものに小烏(コガラス)神社と言うものがあります。、福岡市などに数社拾えいずれもヤタガラスを祀る神社と解されています。

……

子烏神社  福岡市中央区警固3丁目11-56

子烏神社  福岡県福津市中央6-9-7

子烏神社  福岡県古賀市筵内2182

子烏神社  福岡県行橋市大谷1726

……

これらは、直接ヤタガラス=豊玉彦を祀る神社と見て良いでしょう。

ただ、故)百嶋由一郎氏によれば、これだけでは十分ではなく、有力者であったヤタガラス(造化三神の一人であるカミムスビ神=大幡主の息子)は多くの政略結婚により多くの氏族が生れているのです。

その一流に「鳥子」と言う氏族がありヤタガラスの血を分けた子孫としていたと解されていたのです。

 この鳥子と呼ばれる一族とは、阿蘇高森の草部吉見神(ヒコヤイミミ)と高木大神(造化三神のタカミムスビ)の次女であるタクハタチジヒメの間に生れた阿蘇都比売(アソツヒメ)と前述のヤタガラス=豊玉彦(造化三神のカミムスビの息子)の間に生れたのが天日鷲=鳥子神でありその後裔氏族が鳥子の一族になるのです。

この鳥子集落には、以前 鳥子(トリコ)“宇土の八兵衛の逃亡ルート”で取り上げた八兵衛さん(1600年代初頭に細川藩によって処刑…)が「鳥ノ子の方様」を頼って日向に逃亡しようとしていた事が記録されています(一応は「鳥ノ子の方様」が書かれた部分を掲載しておきます)。宇土市の周辺の出身であった八兵衛さんは、刃物産地である川尻町で手に入れた針などを対岸の島原辺りで行商する内にキリシタンに被れたものか、キリシタン禁制に狂奔する肥後藩に追われ逃亡の挙句、西原村から阿蘇の手前辺りで肥後の藩兵に捕らわれ殺害されているのです(詳しくは二本のブログをお読み下さい)。

 この刃物製作集団の関係者と「鳥ノ子の方様」の関係ですから恐らく金属加工の頭領だったのでしょう。

 少なくとも天草島原の乱前後までは鳥ノ子の方様なるヤタガラスと草部吉見の長女阿蘇津姫との後裔氏族がこの西原村の地に住みかつ製鉄に携わり阿蘇氏の鉄器製造への指揮も執っていた事までが見えてくるのです。

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これは島原の乱前後の話なのですが、その時代に於いても金属加工集団の頭目と思えるとりのこの方様なるヤタガラスの後裔氏族が実際に存在していた事が確認できるのです。

 また、この鳥子にある阿蘇三之宮神社の「三宮」の意味は、内牧の阿蘇神社の祭神から見た場合の三之宮=草部吉見(ヒコヤイミミ)を意味しているのです。以下、阿蘇神社の祭神の一部からご覧ください。


一の神殿(左手、いずれも男神)一宮:健磐龍命 - 初代神武天皇の孫という

三宮:國龍神 - 二宮の父で、神武天皇の子という 五宮:彦御子神 - 一宮の孫

七宮:新彦神 - 三宮の子 九宮:若彦神 - 七宮の子

二の神殿(右手、いずれも女神)二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃 四宮:比東芬q神 - 三宮の妃 

六宮:若比盗_ - 五宮の妃 八宮:新比盗_ - 七宮の娘 十宮:彌比盗_ - 七宮の妃 

下は草部吉見神社の祭神 五の宮 阿蘇都彦が健磐龍命に

六の宮が阿蘇都比当スに相当する


勿論、「神武天皇の子」という…との主張は、本物の初代神武天皇(神武僭称:贈崇神なのではない)の本物のお妃であったアイラツヒメが、藤原によって第二代贈綏靖とされた金凝彦(カナコリヒコ)=神沼河耳に下賜されその間に健磐龍命が産まれている事から阿蘇家が神武天皇との関係を宣伝しているのです。ただ、古代は母系制社会であり、むしろ女性方の格式がかっ無題.pngた(しかも金山彦と神大市姫の娘)事を考えれば、全く誤りとも言えない部分がある事は否定できないかも知れません。

 こういった話を阿蘇神社や熊本県神社庁などが認めない事は言うまでもありません。

しかし、故)百嶋由一郎氏とも親交が深く「熊本県神社誌」を編纂された故)上米良純臣宮司なども実際には十分に理解されていたはずなのです。

 ともあれ、表向きの主祭神とされる三之宮とは阿蘇神社の三之宮の国龍神=草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神=海幸彦…の事である事は間違いないでしょう。

 しかし、それは阿蘇が権勢を振るい始めて以降の話であり、それ以前には別の神々が祀られていた事が十分に見えるのです。

それこそが本来の祭神であったはずの鳥子大神(天日鷲)を中心とする神々だったと考えられるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

ビアヘロ188 熊本県に鹿島、香取を探るトレッキング(下)

ビアヘロ188 熊本県に鹿島、香取を探るトレッキング(下)

20211227

太宰府地名研究会(神代史研究会)編集員 古川 清久

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熊本県下では既に何度かの神社トレッキングを行っています。色々なスタイルで試みましたが、なかなかパーマネントな形では定着せず、熊本県在住メンバーだけでは過去十回程度しか行っていません。

今般、車2台程度で動きやすい10人弱のトレッキング・メンバーが揃いましたので、23ケ月に一度程度の日程で継続したいと考えています。そこで取り上げたのが氷川町でした。既に201803月に太宰府地名研究会で20人規模のトレッキングを取り組みましたが、今回はその成果をご確認頂きたいと考えています。集合は下記の通りですが、できれば10時集合にして八代の霊符神社に向かいます。


集合場所 道の駅 うき サンサンうきっ子 宇城彩館 カーナビ検索 熊本県宇城市松橋町久具757-3

@  妙見宮   カーナビ検索 八代市妙見町405 0965-32-5350

A  霊符神社  カーナビ検索 八代市妙見町妙見宮東隣

B  霊符神社  宇城市小川町西海東1395-1海東郵便局先から川沿いに右折 途中に湧水地あり

C  宮原三神宮 カーナビ検索熊本県八代郡氷川町宮原491 492の三神宮前 パス可能銀杏が秀麗

D  香取神社2社  下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)上有佐(氷川町上有佐)の香取神社で  

す。町村合併で有佐は分かれたのでしょうか?

E  香取神社  カーナビ検索熊本県上天草市大矢野町登立1238 外1社(こちらはご自分で…)

F  鹿嶋神社  カーナビ検索 八代郡氷川町鹿島773  余裕があれば廻ります  


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兼川 晋 小松洋二いずれも不知火書房092-781-6963の名著

そこで、故)百嶋由一郎氏の最終神代系譜をご覧頂きたいと思います。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


そこで、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。

ここでは通常話されるありきたりの内容から離れ最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。

言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

 この間、八代の妙見宮の重要性に関しては十分に理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスのご先祖の一族(白族)は、直接、熊本に入っていると思っていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうといった程度で考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と氷川の北宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明するや肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 実は、最終神代系譜(上)の鴨玉依姫こそが、表向き玉依姫を祭神としている京都の下賀茂大社に繋がっているのであり、豊玉彦(ヤタガラス)とは賀茂建角身命も鴨玉依姫の父神になるのです。

もう十分にお分かり頂いたと思います。大雑把に言えば、妙見宮こそ下上鴨神社のルーツであり、九州の古代史に於いて重要な位置を占める火の君とはこの下鴨神社に繋がる一族だったのです。

そこで、氷川の北に「豊」地名がかなり拾えることもお考えいただきたいと思います。

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熊本県宇城市豊野町(旧豊野町)地理院地図


氷川町から宇城市に掛けては「豊」地名が拾えます。代表的なのが旧豊野町であり、旧松橋町にも豊福(現宇城市豊福)、豊川、豊崎…が拾えるのです。

一般的には秦の一族と豊国(大分県)ばかりが取り上げられますが、それ以前からこの一帯には豊玉彦の一族の居留地を思わせる初期の豊の国が存在した事が分かるのです。

ついでに言えば、宇城市には「東海東」「西海東」という奇妙な地名があるのです。

これも主として百済系の人々が住み着いた半島系の人々の亡命地だったのではないかと考えています。

「海東諸国紀」は、李氏朝鮮の日本国と琉球国について記述された歴史書ですね。

とにかく不知火海北部の東岸は白族(妙見宮に象徴されるヤタガラスの一族)の国だったのです。

この一帯には、有名な東北三社の鹿島神社(武甕槌)1社と香取神社(経津主)3社が拾えます(香取1社は上天草市)。当然にも常陸からの勧請とはされていますが、良くお考えください、佐賀県の稲佐神社がある杵島(古代には宇土半島と同様に有明海に浮かぶ島)の南には佐賀県鹿島市があり熊本県には嘉島がある事は皆さんご存じの通りです。そして、香取神社の経津主の「布津」(フツ)が島原市の南にもあるのです(旧布津町=現南島原市)。これらのことから常陸、房総も不知火海、有明海一帯の人々が展開した可能性を否定できないのです。詳しくはひぼろぎ逍遥(跡宮)を参照下さい。

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関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない?A ”氷川以北の鹿島神社”

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関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない?@ ”氷川以南の香取神社”

鹿嶋神社 カーナビ検索 八代郡氷川町鹿島773 香取神社 カーナビ検索 熊本県上天草市大矢野町登立1238 外1社 下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)上有佐(氷川町上有佐)の香取神社です。町村合併で有佐は分かれたのでしょうか?

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509 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? @”氷川以南の香取神社”

310

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

308

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

 そこで、今回の氷川左岸の香取神社の発見です。

 それほど大きな神社でない事は始めから見当が着いていました。

それなりの大社であればこれまでのフィールド・ワークで気づかないはずはないからです。現在、宮原誠一氏と共に肥後は氷川流域の神社調査を進めていますが、最も関心を持っていたのは、氷川町の西隣の八代市鏡(旧鏡町)に鎮座する二つの香取神社でした。香取神社については、既に、ひぼろぎ逍遥 370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主 という奇妙なタイトルで妙な話を公開しています。百嶋神社考古学では、千葉県から茨城県に掛けて展開する鹿島神社と香取神社とは、各々、海幸彦(阿蘇高森の草部吉見神=ヒコヤイミミ…)、山幸彦(ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛…)と考えています。当然にも、塚原卜伝が信奉した鹿島大神=武甕槌こそ阿蘇の草部吉見神と理解していましたが、香取神社の経津主がニギハヤヒなら彼らも九州のどこからか移動したのだろうと考えていました。ところが、11月に熊本県上天草市の大矢野島に二つの香取神社を発見したに留まらず、相次いで、宮原誠一氏から熊本県氷川町の南の旧鏡町に香取神社が二社ある事を告げられたのでした。この天草の二つの香取神社(香取社)は千葉県からの勧請と考える事はできるのですが、九州では香取社を見ない上に、醤油の醸造でも絡んでいれば別ですが、何故、この地へ香取社が勧請されたかが不明なのです。ただ、醤油の醸造には塩が欠かせない事から、最大の生産地であった天草との関係はあるかも知れません。 これについても ひぼろぎ逍遥(跡宮) 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説 外を併せてお読み頂きたいと思います。が下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)で、が上有佐(氷川町上有佐)の香取神社です。町村合併の折、有佐は分かれたのでしょうか良く分かりません。

香取神宮の御神体で経津主=山幸彦と豊受大神となるのですが…一方、旧宮原町の香取神社はピカピカの真新しい社殿でした。「熊本県神社誌」によれば上有佐の香取神社の祭神は「経津主神」(宮原町有佐303)とされています。経津主とは布津主であり、山幸彦の根拠地を思わせます。島原市に吸収前の布津町ですね。

終戦直後のそれこそ安直な千葉県佐倉市からの勧請神社説においそれと乗るつもりはありませんが、ここでは、不知火海を中心に香取神社が4社ほど確認できる事をお知らせして、以前から気にしている事が幾つかあるため、ここではそれをお話しする事にしましょう。

 まず、常陸国〜上総(カヅサ)国の「上総」はいかにも読めない地名であり、カヅサと呼ばれている土地を無理やり、上総、下総との文字を充て、そのまま読ませたようにしか思えません。

一方、房総半島は上総の国、下総の国と呼ばれています。

さて、上総(カズサ)で思い描くのは長崎県南島原市の南の加津佐です。

上総国 上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。

下総国 現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。ウィキペディア(20171121 18:59

『古語拾遺』の調子はともかくとして、この鹿島、香取に関しては九州からの進出である事は確信しています。何故そう考えるかと言うと、上総(カヅサ)とはどう考えても読めない表記の地名であり、元々「カヅサ」と呼ばれていたところに無理やり漢字表記が振られたとしか思えないからでした。

この鹿島、香取のルーツが有明海沿岸であったとすると思い当たる事があるのです。

無題.png明海の西への出口 加津佐(上)口之津(下)をご紹介しましたが、海幸彦、山幸彦の震源地である有明海沿岸から瀬戸内海、勝浦、東海、房総へと進出するとした場合、口之津、加津佐に集結し、有明海からの海流を利用し自然に吸い出され対馬海流に乗るのが最上策であり、恐らく、玄海灘、関門、瀬戸内海、南紀、東海、房総へと進出したと考えています。思えば口之津とは海員学校が置かれ、明治期から始まる初期の上海への石炭の積出し港として税関が置かれた国際貿易港でもあった場所であり、現在でも口之津港の湾奥には高良山神社が置かれているので あう。つまり、九州王朝の軍港であった可能性さえも考えられる場所なのであって、この西隣の加津佐が房総の地名として振られたのではないかと思うのです。太宰府地名研究会のHPには「苧扱川(オコンゴウ)」を掲載していますが、これこそが九州王朝の最重要港湾であったと考えています。詳しくは「苧扱川」を読まれるとして、上の地図には野田浜という地名がある事にお気付き頂けると思います。そうです。キッコーマンは香取神社の氏子の一族であり、だからこそ大幡主の神紋である亀甲を使い、共に「主」(大幡主、経津主)という称号を使っているのです。

経津は島原市に編入された旧布津町ですし、千葉と言えば野田の醤油ですね!上総=加津佐も、野田という地名も持ち出されたのです。だからこそ大幡主の神紋亀甲紋章がキッコーマンになっているのです。

猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒが大幡主と組んで天草で日本最大規模の製塩事業をやっていたことは何度となく書いてきました。

その延長上に廻船業、倉庫業、醸造業…に入ることは極めてリーズナブルです。

 しかも、彼の別名として五十猛があります。その名を冠された神社が島原市の猛嶋神社であり、布津、島原、加津佐、天草…を拠点に彼らが大活躍していた事が分かってきました。

上総の国の「上総」はどう読んでも読めませんね。でも加津佐町の故地名の持ち出しとすればよく理解できますし、このには野田浜まであるのです。

これで違うと言うのならば、どういう場合が整合すると言うのでしょうか。

そうすると有明海沿岸の香取神社が九州起源だと分かるはずです。


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上総、下総の鹿島神社(海幸彦=猿田彦)、香取神社(山幸彦)、息栖神社(長脛彦=カガセオ)

上総(カズサ)は南島原の加津佐であり千葉の野田も加津佐の野田浜なのです!  

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ