2022年01月12日

855 古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は天皇扱いされた 香春神社

855 古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は天皇扱いされた 香春神社

20201216

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県の筑豊地方の一角田川郡に炭坑節で知られる田川市があり香春町があります。

この香春町には宇佐神宮への銅鏡を造ったと言われる採銅所があり、古代史の世界では良く知られた香春神社があります。

熊本県玉名市、荒尾市(尚岱山)、山鹿市から国東半島(大分県)そして姫島へと向かった古代製鉄ロードを描きましたが、これまで頭の一角を過ったものの結論を急ぐために事実上パスしたこの田川郡最大の大社香春神社、採銅所の問題を改めて呼び戻し再構成しなければならないと考えるようになりました。


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香春神社 カーナビ検索福岡県田川郡香春町香春733 白い部分はセメント材料の石灰岩採掘


神の山と言われた香春三山は町有地だったらしいのですが、セメントのために売り飛ばされ、現在のような無様な姿に変えられてしまったのでした。

 ただ一人反対した町議は日本刀で切り殺され当時の議員共は人殺しまでして利得を得たらしいのでしす。もしかしたら今もそのご子孫、縁者の方々が現在でも議員をやっておられるのかも知れません。

 いずれにせよ削られた山の復元など二度とできないのです。ともあれその中腹に鎮座する大社です。


祭 神

辛国息長大姫大目命(豊受大神=伏見稲荷=アメノウヅメ:ウヅメ、ウウメは大目と表記…)  

忍骨命(阿蘇高森草部吉見=ヒコヤイミミ=大歳神…)

豊比売命(異説が多く当方未確定)


田川郡最大の県社にして今尚異彩を放つ旧延喜式内社

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グーグルの画像が衝撃的な事から山岳サイト無題.pngを使用

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豊前国一宮6坐中の三座が香春神社だけに田川郡どころか豊前ナンバーワンの大社なのです


では本題に入りましょう。迂闊にも製鉄にばかり頭がながれていたことから青銅所をパスしていた事に今になって気付きました。

 勿論、鉄も銅も金も銀も採れる巨大鉱山だけに製鉄ロードとして描いた熊本県玉名市から大分県国東半島、姫島まで大河が蛇行していた事に今になって気付きベクトルの再構成を迫られたのです。

 ここで熊本県玉名市の疋野神社の祭神を確認する事にしましょう。

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疋野神社  波比岐神 大年神

 香春神社  辛国息長大姫大目命 忍骨命 豊比売命


一見無関係の様に見えますが、実は同一の可能性が極めて高いのです。

簡略化して言えば、疋野の波比岐神は、藤原によって第6代とされた贈る孝安天皇 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト)であり、その親神とは阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ(父神)香春神社の辛国息長大姫大目命=アメノウヅメ(母神)になるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ここで若干横道に逸れますが、辛国息長大姫大目命は草部吉見=海幸彦と別れた後はニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦と添い遂げます。

つまり猿田彦とアメノウヅメ夫婦神の誕生です。ここで、大目命の意味がウヅメ、ウウメの表であることが改めてお分かり頂けたと思います。

勿論、これは、百嶋神社考古学の立場だからこそ解析が可能になったのですが、疋野では父と子(草部吉見と波比岐神)、香春では父と母(草部吉見と辛国息長大姫大目命)が祀られている事に漸く気付くに至ったのでした。

結果として玉名(尚岱山の巨大製鉄地帯)に端を発した古代製鉄技術は玉名から山鹿へ、そして香春岳、国東半島から姫島の大帯八幡宮へと繋がる田川香春(コオラと読め)に蛇行した製鉄の大河を見出したのでした。

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@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統

※以下省略

香春神社の祭神の「豊比売命」についてはグループ内の課題となりそうです。私見は淀姫ではないかと!

しかし、宮原誠一氏は鴨玉依姫と…。これからです。結論は香春岳女神は玉名の疋野神の母神なのです。

百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254


最後に少し和める、しかし、情けないお話をして終わりとします。

かつて九州には古田武彦を支援する九州王朝論の立場を採る複数の団体がありました。

しかし、その一つの九州○○の会なる組織かなり前に古田武彦氏との些細な対立から別団体となった上に高齢化や内紛によっても研究者を失ったことから一旦は解散の提案がなされたものの、存続を希望する者が多数を占めた結果、存続へと舵を切り、現在も九州王朝系の研究団体と称して会を継続させています。

ただ、自前の研究者を一人しか持たない事から一年の大半を通説派の学芸員や教育委員会関係者の講演を聴き平伏し賛辞を贈るテイタラクを演じているのです。

しかも、世代が入れ替わり十年程の間に古田三部作も読んだ事の無い様な凡そ九州王朝論者とは言えない体質に変化し通説派からは馬鹿にされきっているのです。これが、かつては古田を乗り越えるとした九州王朝論者の成れの果てなのですが、さすがに異論も出て著名な研究者であった○倉氏も離脱するなど消失へと進んでいるのです。少なくとも九州王朝の痕跡を探る自前の研究者を維持できればそれなりなのですが、たかだか百(100)部の会報を出し、その半数が九州外の読者で、外部論者の原稿を掲載するだけの事実上の印刷所に成り下がっているのが現状ではお寒い限りなのです。この会が五年程前に香春神社に関する話を地元の郷土史会の床屋さんからの講演を聴いたと言うのですが、“香春神社の主神は男神だった”との話が飛び出したそうです。さすがに違和感を持つ者もかなりいたそうですが、この講演者が福岡県郷土史会のNO.2とか言われているそうで、何を言っているのか何をやっているのか呆れてしまう限りです。正に漫画ですね。皆さん良くご存じの猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛(いずれも別名同一神)はアメノウヅメの貶めた書き方で紹介されている事は一目であって、権力を握った藤原氏(阿蘇高森の草部吉見=海幸彦の後裔)が山幸彦を貶める意味で、伊勢の外宮様=豊受大神=伏見稲荷=アメノウヅメのストリップまがいの話を仕立てている事は明らかなのです。これについては野芥の櫛田神社が否定。

つまり、香春岳の女神=辛国息長大姫大目命(神社の由緒書きでは大自命とされていますが、古い版本の誤植を忠実に守っておられるのでしょう)、この「大目」がウヅメの置換えとさえ気づかれないのです。

ましてや、百嶋神代系譜(前掲)を見られれば明らかなように、始めは彦山の高木大神への入婿とされた海幸彦は、伊勢の外宮様=アメノウヅメをお妃としたものの、早い段階で別れ、後はずうっと山幸彦=猿田彦のお妃となられているのです。これこそが猿田彦とアメノウヅメのストリップまがいの神話の揶揄なのです。九州東半部では多い事をウーカorウーカり(イ)と発音しますが、その「ウー」なのです。

しかも、採銅所の支配権は後々藤原の系統つまり阿蘇氏の神武僭称贈る崇神に支配されたようです。

それは、古宮八幡宮と香春神社の中間に崇神を奉斎する現人神社が在る事でも明らかで、その東に大君さんと呼ばれる古墓があるのも本物の神武などではさらさらなく崇神の関係者に関係するものだったはずなのです。はしゃぐのも好い加減に止めるべきで、これも九州○○の会の最期の研究者なのです。村興し町興し世界遺産登録に靡くさもしい行政の芸人には権力が隠した古代九州王朝の真実は暴けないのです!

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再掲載)百嶋由一郎最終神代系譜(部分)このアメノウヅメの子が玉名の疋野神社の神になるのです
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:39| Comment(0) | 日記

ビアヘロ186 2022年1月23日(日) 2022年新春三社詣でトレッキング宗像〜宮若 (案)

ビアヘロ186 2022123日(日) 2022年新春三社詣でトレッキング宗像〜宮若 (案)

20211029

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)

今回は2022年新春三社詣でトレッキングの計画をお知らせします。

  オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


無題.png午前1030とれとれプラザ かのこの里(福岡県宗像市原町153-1 0940-36-7665)に集合し、宗像市2社、宮若市1社の三社詣りを行います。

寒い時期ですので昼食は13時以降にファミレスなどで行います。

当日雨天の場合は、中止、若しくは2月に延期します(参加は要連絡)。

御杖代 古川 清久(太宰府地名研究会編集員)090-6298-3254

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集合:とれとれプラザ かのこの里( 福岡県宗像市原町153-1) お賽銭は各自ご用意下さい!

昼食(仮案):ジョイフル福岡宮若店 福岡県宮若市本城664-2 0949-34-5855

1   光岡八幡宮  福岡県宗像市光岡949    集合地点からほど近い神社 異形の楠で著名 

2   八所宮    福岡県宗像市吉留3186   非常に難解な4組の夫婦神を祀る神社

昼食休憩   仮 案 ジョイフル福岡宮若店 福岡県宮若市本城664-2  0949-34-5855

3 若宮八幡宮  福岡県宮若市水原395    この若宮は本来高良玉垂命の若宮=仁徳を祀るものでは 
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1    光岡八幡宮

蛸足の如き異形の楠でとうとうパワー・スポット扱いされるまでに至った光岡八幡宮ですが、境内の造成の際に根の張った部分の土を後世に取り過ぎただけの事で御神木ではなかったことを意味しています。

光岡姓自体が岡山市と豊田市に集中する特異なものであるため以前調べたことがあったのですが、物部氏の匂いだけで終わってしまいました。

さて、八幡宮とはなっていますが、どうもそれ以前の祭祀が見え隠れしています。


御祭神神功皇后 誉田天皇(応神天皇) 武内大臣(宿禰) 闇龗神 市来島姫命 素盞鳴命 


赤間宿と言えば出光興産の出光佐三の生家があることでも知られるところですが、彼は宇佐八幡宮の宮司家の一つでもあったようで、その点から同社にもその影響が及んでいただろうことが容易に想像できそうです。

しかも、同社の祭神を見ると宇佐神宮が二の門に宗像三女神を置いていることに対して、市杵島姫だけが祀られていることからして、この地が市杵島姫の後裔氏族が住み着いていたのではないかと言う想いが馳せるのです。これについては出光佐三も…。かつて宇佐には出光村もあったのですが…。

ともあれ、市杵島姫は豊玉姫や鴨玉依姫(勿論腹違い従妹の関係もあるのですが)のように豊玉彦=ヤタガラスの娘ではなく、彼の兄であるアカルヒメ(実は細石神社の主神磐長姫)とスサノウの間に生まれた娘であり、スサノウが祭神とされていることに関連があるように思えます。

さらに追及すれば闇龗神(クラオカミ)がスサノウの姉であり、しかも蘇民将来伝承の巨旦将来の妻であったことまで考えれば、どうやら、この神社にはスサノウ=新羅の王子様に通じる人々が本来の宮司家だったのではないかとまで想いが一気に滑るのです。

蘇民将来伝承の真相については ひぼろぎ逍遥 スポット版 075蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 089蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜A鳥瞰 外数本公開していますの関心をお持ちの方は検索してください。

従って、本来の祭神は 闇龗神 市来島姫命 素盞鳴命だったはずであり、神功皇后 誉田天皇(応神天皇) 武内大臣(宿禰) は後世の追加された祭神で、何時しか六神体制になってしまったのではないかとの思考の暴走が止まらないのです。

そもそも集合場所のとれとれプラザ かのこの里「かのこ」自体が市杵島姫が熱烈に愛した「かのこゆり」にちなんで命名されているのです。このかのこの話を知っておられる事に感動を禁じえません。

鹿児島県薩摩川内〜阿久根沖に浮かぶ甑島のかのこユリはつとに有名ですが、市杵島姫の夫である阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミと共に甑島とその周辺の阿多に暫く住んでいたと百嶋先生は語っておられました。このことはいずれ神武巡行伝承と甲府の天津司神社と天津司舞としてお話します。事実、甑島には鹿島町があり武鹿島の命こと後の鹿島大神(塚原卜伝が崇拝した)=武甕槌を祀る鹿島神社があるのです。これは後日の勧請はあるとしても起源はこちらにあります。この話の一部分でもご存じの方がかのこの里の命名者なのです。

それもこれも海賊と呼ば無題.pngれた男こと 出光佐三 がパーレビ王朝崩壊後のモサデク政権下のイランに原油を直接買い付けに行ったという危険な行為を行ってまで石油メジャーに対抗したという人物だった事に触発されたからなのでしょう。思えば、佐世保港に日章丸が廻航した折、親父(陸軍航空士官学校出のポツダム中尉)に連れられ日章丸という巨大タンカーの甲板に上がった印象が今も残っていたからなのかも知れません。このため赤間の宿には実際に市杵島姫が住んでいた可能性さえ感じます。

彼女は新羅で生まれているはずですが、アカルヒメに抱えられ姫島〜国東(奈多)〜飯塚の鹿毛馬神籠石の厳島神社辺りで幼少期を過ごしたはずで、彼女の別名サイ、サエ、サヨの佐與がこの厳島神社の大字田島隣の大字なっているのです。

ついでにサイは中国語のユリを意味するとの話を聴いたことがあるのですがいまだ確認できていません。

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日章丸事件 (にっしょうまるじけん、 ペルシア語: حادثهکشتینیشومارو)は、 1953年 (昭和28年)に起きた 石油 の輸入とそれに付随した訴訟および国際的な衝突。 イギリス の影響下にあった イラン は 第二次世界大戦 後独立していたものの、当時世界最大と推測されていたその石油資源はイギリス資本たる 石油メジャー 「アングロ・イラニアン社」( BP の前身)の管理下に置かれ、イラン国民はもとより政府にもその利益がほとんど分配されない状況にあった。 その中で、イランは 1951年 に石油の国有化を宣言し、アングロ・イラニアン社の資産を接収する。 反発したイギリスは中東に軍艦を派遣、イランへ石油の買付に来たタンカーは撃沈すると国際社会に表明する。


1962年、当時世界最大のオイル・タンカーとなった日章丸(出光興産三隻目の油槽船)は旧佐世保海軍工廠で最後に完成した第七船渠(現第四ドック)で造られたもので、小学校低学年で出光興産の勃興期に一端を見たことになるのです。

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2      八所宮 

土煮尊(ういじにのみこと)沙土煮尊(すいじにのみこと)大戸道尊(おおとのじのみこと)大戸邊尊(おおとべのみこと)面足尊(おもたるのみこと)綾惶根尊(あやかしこねのみこと)伊弉諸尊(いざなぎのみこと)伊弉册尊(いざなみのみこと)の話から始めましょう。


天地開闢の神々の一柱。『古事記』では、国之常立神に続いて天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第三の神。 宇比地邇神と須比智邇神は、最初の男女の神。『日本書紀』では、天地の最初に生まれた国常立尊、国狭槌尊、豐雲野尊に続いた 神世七代の第四代の神。宇比地は泥土、須比智は砂土で、土砂を神格化した神。大地を鎮める盛り土の神とする説もある。泥土根尊と書いて「ういじねのみこと」と読む場合も「すいじねのみこと」と読む場合もあるらしい。(「玄松子」より)

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何故か光岡八幡宮 若宮八幡宮については「神社誌」の無格社一覧にさえ搭載されていないようです。

 このため、現地情報にネット情報程度で解析せざるを得ません。

 八所宮としては幸いに神社誌に記述がありますが、通常このような神様が祀られているはずもなく、実在性(勿論何処かには居たはずですがここであったというものがあるわけではないのです)土煮尊、沙土煮尊、大戸道尊、大戸邊尊はたまに見かけます。

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一方、面足尊は実在性をかなり強く感じます。勿論、金山彦と考えて頂いて間違いないでしょう。

 イザナミ、イザナギは良くご存じですが、スサノウのご両親になります。

八所宮についてはこのぐらいにしますが、この造化三神などを中心とする祭神は「記」「紀」を押し付けるものとして採用されただけで、恐らくは最後尾の神こそが元々の同社の神々であったはずなのです。

 稲荷は伊勢の外宮様ですし、大歳は阿蘇の草部吉見=ヒコヤイミミ(藤原の祖)、菅公、闇龗(スサノウの姉)、須賀神社もスサノウになります。これらが赤間地区の本来の祭り神のはずなのです。

 一方、身内の摂社として藤原側の神が神直日、大直日として祀られています。分かり易いですね。


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さて、話を軌道に戻しましょう。宗像市の八所宮と同じ祭神を持つ神社が宮若市にも同名の八所宮として存在します。これも気づいたのは最近ですが、同社の由緒によれば、以下。


八所神社由緒当社ハ今ヲ去ル二百八十年前ノ靈元天皇延宝八年宮中守護神シテ八神田二祭祀セル八柱ノ大神等ヲ隣郡宗像ヨリ勧請シ八所神社ト称シ当村ノ鎮守トシ奉斎セルニ創マル明治五年村社ニ列シ大正八年神饌幣帛料供進神社二指定セラレ今日ニ及明治百年拾月吉日建立境内由緒碑村社 八所神社 鞍手郡宮田町大字長井鶴字奈喜野祭 神埿土煮命,大戸之道命,面足命,伊弉諾命,沙土煮命,大戸之邊命,惶根命,伊弉册命由 緒 延宝八年宗像郡八所神を勧請す,明治五年十一月三日村社に定めらる。

例祭日 十月二十五日神饌幣帛料供進指定 大正九年六月三日主なる建造物 本殿,弊殿,拜殿,社務所,籠社境内坪数 四百五十七坪氏子区域及戸数 長井鶴 戸数三百十八戸境内神社 須賀神社(素戔嗚命) 天満神社(菅原神) 大日霊貴社(埴安姫神,闇龗神,迦具土神) 高龗神,埴安姫,闇龗神は今宮神社,迦具土神は豊日別神社として祭祀ありしを合祀す。

福岡県神社誌 上巻本殿後境内社 貴船大神 佐夜の神 大日社 天満宮 祇園社。


とされており、寸分違わぬ祭神に驚いています。佐夜の神は市杵島姫でしょうね。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ただの別名ですが、大山咋(阿蘇国造神社)、鴨玉依姫(下賀茂大社)の大恋愛のお二人です。ただ、その現場は筑前山家の宝満宮二社とまでは百嶋先生から聴いています。


3  若宮八幡宮

最後に若宮八幡宮を考えます。御祭神は 応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・武内宿禰

宗像〜宮若に入ると猫のマスコット像が目立ちます。この猫が宮若市の名称にまで関係があるなどとまでは申し上げませんが、猫峠、猫宮…などとなると、非常に気に掛かるのです。

これについて百嶋先生は第7代孝霊天皇:大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとに)、第8代孝元天皇:大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)、第9代開化天皇:稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひび)の三代=宮地嶽神社の三階松に対応するネコ=根本の意味でだろうと語っておられました。私も実質的にはその痕跡ではないかと考えています。

ただ、もう一つの考え方ですが、仁徳天皇(シレカシノミコト)は仲哀亡き後の神功皇后を妃とした開化天皇=高良玉垂命の五人の皇子の長子でありその意味で若宮と呼ばれたのかも知れません。

事実、祭神には仁徳(一般にはオオササギの命とされる)が祀られ、論争のあった高良玉垂命とは武内宿禰と有馬の殿様が決めた武内宿祢と決められてしまったのでした。それを考えれば、応神という天皇でも何でもない贈る天皇が挿入されているも久留米の高良大社の祭神残っているという印象を受けます。

2022年が良い年であればいいのですが、多分、国家の没落にまで突き進むようで不安でなりません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ