2022年01月09日

854(後) 古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は天皇扱いされた 疋野神社

854(後) 古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は天皇扱いされた 疋野神社

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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疋野神社の由緒御案内

◎ 疋野神社は2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です ◎

・疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ、2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です。

・平安時代の六国史の一つ『続日本後紀』に
「仁明天皇承和77月庚子(西暦840年)肥後国玉名郡疋野神社を以って官社に預からしむ」と官社列格の年月日が銘記されている由緒深い神社「国史現在社」であり、また平安時代の国の法律書『延喜式』の神名帳にも記載されている、いわゆる「式内社」であり、県下でも特に貴重な存在です。

『延喜式』は延長5年(西暦927年)制定され、日本全国で当時すでに存在し、また著名であった神社が、国家守護の神社(官社=官幣社)として記載されています。

・現在熊本県下で宗教法人としての神社数は約1400社程ですが、式内社は阿蘇地方の阿蘇神社、国造神社、そして玉名地方の疋野神社の三社のみです。


控えめに書かれてはいますが、疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられも正しく由緒のとおりであり、まさに紛れも無い 2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です。


◎ 疋野神社の御祭神は古来より、玉名の地に御鎮座・御守護の大神様です ◎

疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません。

大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です。

・御祭神、「波比岐神」は日本最古の著『古事記』記載の神様であり、日本建国の場づくりをなされた神代の時代の尊い神様です。

『延喜式』には、天皇御即位時の大嘗祭の八神殿に祀る神として、又祈年祭・月次祭の祝詞や、神明帳の宮中三十六座の中にもその御神号が見え、特に朝廷の御崇敬が深い神として記されています。

相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています。

大年神は、天照大御神と御姉弟であります素盞鳴尊の御子神様です。

・当神社は奈良平安時代、玉名地方の豪族日置氏の氏神神社として、はなやかに栄え、また鎮座地の立願寺という地名は、疋野神社の神護寺であった「立願寺」というお寺の名前が起源です。

これは玉名温泉からもほど近い、玉名市の中心部にある疋野神社のご由緒の一部ですが、愕くべきことに、“疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません”“大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です”相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています” と実に凄い事が書かれているのです。

そして、それは正しいようなのです。

 ところがこの事を認めると、奈良に始まったなどと大嘘をついている近畿大和朝廷の権威が崩れる事から、同社は阿蘇神社以上に極めて控えめに書かれておられるのです。心底敬意を表したいと思います。

 さすがに地元に精通されていた百嶋先生の神代系譜に狂いはありません。

 この御年神(日本足彦国押人天皇)こそは大歳神=草部吉見=贈る孝昭天皇=海幸彦の子であり同社の主神「波比岐神」なのです。さらに驚くべきは、第12代景行とされた 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)の父神でもあるのです。当然にも、「波比岐神」は疋野神社の「疋」であり、大阪の羽曳野市の「羽曳野」に転化しているのです。そして、全国の「比企」氏「日置」氏は、この一族の後裔だったはずです。

良くお考えください、少なくも第6代孝安天皇は熊本県玉名市に居た神なのです。これでも皆さんは欠史8代架空説とか「古事記」を、また、近畿大和朝廷奈良自然発生説を信じるのですか?

欠史8代には何の根拠も痕跡もないなどと思われるのですか? ほとんど漫画の世界です。

少しは自分の頭で考え自分の足を使って調べて見られたら如何でしょう。


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統

※以下省略


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百嶋由一郎最終神代系譜


最期に、この玉名市に注ぐ一級河川の菊池川を遡ると山鹿市がありますが、同市の大宮神社で行われる山鹿灯籠祭は景行を迎える松明とされています。勿論、大宮神社の本来の神様は贈る景行などではないのです(阿蘇12神は南北朝以降でしょうし、贈る景行は明治の県社昇格時の祭神入替のはずなのです)。

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「熊本県神社誌」94p


 疋野(波比木)の神は「神社誌」でも詳ならずと書いています。祭神として並記(?)される大歳神は、阿蘇高森の草部吉見の神=ヒコヤイミミ(父神)ですからこの神と伊勢の外宮の豊受大神=アメノウヅメ(母神)=伏見稲荷=香春神社の主神=辛国息長…とするそれなりの血統を持つ神ではあったのです。

 国東沖姫島の大帯神社の社名に抱いた疑問から始まった探索は、とうとう福岡市西部から糸島半島と並ぶ九州島最大の古代製鉄地帯=菊池川流域から小岱山といった肥後の中〜北部の古代製鉄地帯を神社や神話から裏付けられる端緒を掴めるところまできました。そこで、この一帯と九州に於けるもう一つの古代製鉄地帯である姫島〜国東半島にどのように考えるかが最後のテーマとして残されました。

 一応、当初の構想は姫島に存在する大帯八幡社の呼称から、どうも贈る景行系の氏族が入っていたのではないか、しかも、姫島から周防の佐波(周芳の沙麼県)は目と鼻の先であり、贈る景行(大帯日子淤斯呂和氣天皇、大足彦尊)による南九州への熊襲討伐神話の起点が佐波だったのですから、入口と出口(これは鮮明ではなく豊後から筑豊辺りで止まっていますが、それは本来の本願地の南の玄関に戻って来たのであり、凡そ近畿大和からやって来たのでもなく同地に戻る事もないと証言していたのです)とがこの辺りだった事も今に伝えていたのです。何の証拠も根拠も拾えない中、この一点だけでも説明は可能だと思うのですが(どうせ通説派とその尻尾のエピゴーネン共は「記」「紀」だけを根拠に強弁しているだけなのですから)、まずは、そのアウト・ラインを説明しますので確認して下さい。

 ここでお考えください。新たな祭神像が浮かび上がってきたのです。

福岡県田川郡香春町に鎮座する香春(カワラ)神社は、香春岳の一、二、三ノ岳に祀られていた辛国息長大姫大目命(カラクニオキナガオオヒメウーメノミコト=疋野神社様=大帯彦の母神)、忍骨命(オシホネノミコト=草部吉見=疋野神社様=大帯彦の父神)、豊比当スを祭神とする神社です。

 つまり疋野神社の祭神とする大歳神=ヒコヤイミミはここでも登場しており、採銅所の製鉄神である香春神社の三神のうち二神は玉名の疋野神社の両神(両親)を祀る神社だったのです。

 ここで疋野神社の祭神「波比木(岐)」の神の性格がよりり鮮明になってきました。

 やはりヒ(ホ)フキ⇒ハビキ⇒ハヒキと火吹く製鉄の鞴(フイゴ)の神社だったことになるのです。

 そして、古代製鉄の発祥の地とも言える玉名(尚岱山)は香春岳を経由し国東、姫島へと向かっている事に今になって気付いたのでした。いよいよ香春神社も書かなければ完結しないと分かってきました。

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地形的に見ても、距離だけで玉名〜国東に向かうのはあまりにも急峻過ぎており、菊池辺りから山越えし彦山の東か西を通り日田から山国川沿いに中津方面に向かうか、嘉麻峠を越え香春経由で宇佐国東へと向かったはずなのです。ここでは文章の任務が疋野神社の全体像を更に鮮明に浮き上がらせる事に在ったためこれ以上の深入りはしませんが、この流れに香春神社を位置づける必要性に直面した事からいずれ改めて採銅所と香春神社を加える必要性を感じています。以下紙面の余白を利用しもう一つの側面を…。

無題.png この玉名一帯は「日本書紀」景行天皇紀に「玉杵名邑」として出てきておりもともと玉杵名(タマキナ)とされていましたが、別名もあったのです。

それは、「熊本県玉名郡誌」の一部です。“「土車の里」(土車の荘)”以降には、新幹線玉名駅正面の玉名大神宮、玉依姫(この玉依姫は鴨玉依姫か?)に関わる「此所を土車の里と云石を…」という話が書かれています。では、「土車」とは一体何のことなのでしょうか?これも百嶋先生は記録を残されていました。では土車族(土家、土家族とも)をご紹介しましょう。玉名は中国の「土家」「土舎」(トゥーチャー)が入っている地域でもあるのです。ヘブライ系とも…。

この一族は草部吉見の一族=黎族が大陸から移動する際に一緒に入っていると百嶋先生はメモを残しておられますが、多くの大陸からの渡来人の玄関口だった玉名=菊池川河口には製鉄技術を持った人々も入っていたはずなのです。写真は土家の美人娘(百嶋翁の言)をネットから拾ったものです。

ひぼろぎ逍遥(跡宮) 265 熊本県玉名市(旧玉名村)は「土車(トゥチャ)の里」だった!を参照へ


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

854(前) 古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は天皇扱いされた 疋野神社

854(前) 古代玉名から姫島への製鉄回廊に生れた波比岐神(疋野神社の主神)は天皇扱いされた 疋野神社

20201215

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本県玉名市に疋野神社(温泉神社とも)があります。この神社については以前から難題だったのですが、最近になってようやくその存在をある程度は理解できるようになってきましたのでこれまでの数十本のブログを簡略化し一般にも分かり易くお知らせしたいと思います。


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大陸から列島を目指せば菊池川河口の玉名辺りに上陸しそうですよね


 まず、この問題については ひぼろぎ逍遥(跡宮)で連載してきました(以下)。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

836

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か M

“大帯姫か大足姫か?”

835

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か L

“ツヌガノアラシトは何を…?”

834

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か K

“スサノウは姫島に来たのか”

833

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か J

“国東の姫島から周防の柳井へ”(下)

832

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か I

“国東の姫島から周防の柳井へ”(上)

831

「古事記」中つ巻  孝霊編 H “卑弥呼宗女伊予=細姫を

妃とした開化天皇の祖父神”

830

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か H

“肥後から姫島、国東へ”

829

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か G

“櫛稲田姫は山鹿の稲田村で生れた”

828

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か F

“大宮神社の境内摂社”

827

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か E

“大宮神社の本来の祭神は金山彦”

826

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か D

“玉名、山鹿から国東、姫島へ”

825

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か C

“では大帯八幡社とは何なのか”

824

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か B

“何故仲哀を祀るのか”

823

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か A

"仲哀を祀る八幡宮群”

822

国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か @

“消えた祭神を求めて”

821

「古事記」中つ巻  孝安編 G“孝安は熊本県玉名市に

いた景行の父神”

820

「古事記」中つ巻  孝昭編 F“孝昭は阿蘇高森の

草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミ”

819

「古事記」中つ巻  懿徳編 E“懿徳は安寧の子でなく神武の

で僅かに倭人伝にも登場する”

818

「古事記」 中つ巻  安寧編 D“謎だった安寧天皇とは博多の

櫛田神社の大幡主=カミムスビだった”

817

「古事記」 中つ巻  綏靖編 C“阿蘇氏の祖には神武の血統が

継承されているとは言えないのだが…”

816

「古事記」中つ巻  神武編 B“槁根津日古とは神武僭称贈る

崇神の弟だった”

815

「古事記」中つ巻  神武編 A“神武巡幸と神武僭称贈る崇神

の神武東征とを分離しよう”

814

「古事記」中つ巻  神武編 @“笑ってしまいますが…宇沙都

比古が神武を迎えたと言うのです”


勢いだけで書いてきたこの玉名から姫島までの古代史のドラマでも最も面白い誰も取り上げないテーマが疋野神社の奥深く祀られているはずの第6代孝安天皇だったという話の再構成です。

以下一部再掲載


821 「古事記」中つ巻  孝安編 G “孝安は熊本県玉名市にいた景行の父神”


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

 「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代とした神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

たまたま非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「古事記をそのまま読む」というサイトから引用させて頂きます。

こちらも非常に感謝しております。当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。 

 今回取り上げるのは、これまた一般にはあまり知られていない第六代孝安天皇 大倭帶日子國押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシ)命についての話です。

これも実に短い文章で、近畿大和朝廷の領域などには居なかった事、「古事記」の編纂者達も現場を知らないで(始めは知って隠していたのでしょうが、今や皆が忘れてしまっている)奈良に無理やりあてはめた事を物語っています。

この孝安天皇も皆さん良くご存じの草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミの子でしかないのです。

つまり、周王朝後裔呉太伯系の正統皇統の中に後の藤原に続く一族を天皇扱いにし挿入しているのです(勿論やったのは後の話ですが…)。ただ、このことを現状で証明する事はできません。

何故なら、証言できる人は当然にも口を噤むはずですし、直接聴き込んだ人、つまり、百嶋先生は鬼籍に移動されているからです。

百嶋先生は元々熊本県でお生まれになり、現在の玉名市にお住まいでした。一族からは五高〜東大が何人も出たし、戦前の全国納税者番付百傑の中に一族の者が三家入っていたとおっしゃっていました。

当然にも、地元の実力者、名士でしたから、神社だろうが寺院であろうが生の情報を得る事が出来たとおっしゃっていました。それは、帝国大学の学者にも教えられない様な極秘の社伝、家伝…と言ったものであり、なおかつ、まだ、当時は優秀な宮司、禰宜による秘密の神社研究会が継続されておりその内容を得ていたという意味で語っておられました。

ただ、ペイペイの駆け出しである私達にはそれ以上の詳しい話をされる事はありませんでした。

このため、数年と言う短期間の接触の間にはとても真相はおろかその概略さえも聴き出す事はできませんでした。ただ、伝え聞いた話の断片からその研究会がどこで行われていたかだけは、最近になって見当が付きました。それはメンバーのブログ「ひろっぷ」さんの周辺から分かりました。熊本県人吉市でした。

以下、無題.pngによる


大倭帶日子國押人命坐葛城室之秋津嶋宮治天下也

此天皇娶姪忍鹿比賣命 生御子大吉備諸進命次大倭根子日子賦斗邇命【二柱 自賦下三字以音】

故大倭根子日子賦斗邇命者治天下也

天皇御年壹佰貳拾參御陵在玉手岡上也卅八年秋八月丙子朔己丑、葬觀松香殖稻天皇于掖上博多山上陵

大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおし)の命(みこと)、葛城(かつらき)の室(むろ)()秋津嶋(あきつしま)の宮(みや)に坐()し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[]
此の天皇(すめらみこと)(めひ)忍鹿比売(おしかひめ)の命を娶(めあは)せ、生()れましし御子(みこ)、大吉備(おほきび)の諸進(もろす)の命、次に大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)の命【二(ふた)柱なり。賦自()り下(しもつかた)三字(みじ)(こゑ)を以ゐる。】
(かれ)大倭根子日子賦斗邇の命者()天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[]
天皇の御年(みとし)壱佰弐拾参歳(ももとせあまりはたとせあまりみとせ)にて、御陵(みささき)は玉手(たまて)の岡上(をかのへ)に在り[]

大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしのみこと)は、葛城(かつらき)の室(むろ)の秋津嶋(あきつしま)宮にいらっしゃり、天下を治められました。

この天皇は姪の忍鹿比売命(おしかひめのみこと)を娶り、皇子(みこ)大吉備(おおきび)の諸進命(もろすのみこと)、次に大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)の二柱を生みなされました。

そして、大倭根子日子賦斗邇命は、天下を治められました。

 天皇は御年百二十三歳にて、御陵は玉手(たまて)の岡の上にあります。  



このため、我々百嶋神社考古学の者は既に結論を得ている事から証明とか論証を行なっている訳ではなく、ただの調査として百嶋由一郎が把握し考えていた神代史の真実を多少とも復元し、一般の方にも分かるように裏を取り、現地を踏みお伝えしているのです。

当然にも贈る天皇とされた後の孝安天皇についても、地元も地元の社伝としての生情報を秘密裏に直接聴き及び回収される立場に在られたのでした。何故ならば先生はこの玉名市の大地主の御曹司だったからです。本題です“大倭帶日子國押人命”ですが、この神を祀るのは熊本県玉名市の疋野神社です。


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