2022年01月06日

853 伊川とは何か? “福岡県飯塚市 伊岐須に注ぐ伊川” A “陝西省渭水盆地”

853 伊川とは何か? “福岡県飯塚市 伊岐須に注ぐ伊川” A “陝西省渭水盆地”

20201205

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 無題.png前ブログから以下再掲載 

福岡県飯塚市の伊岐須に隣接して伊川という地名があり以前から気に掛けていました。

 この伊岐須には高宮八幡宮という大社がありその基底部には神武天皇(神武僭称贈る崇神ハツクニシラスではなく本物の初代天皇カムヤマトイワレヒコ)に弓を引いたとされる(想定)長脛彦(金山彦の孫)の居た最大拠点だったのではないかとして以前にも書いてきました(跡宮431)。

 しかも、この神社は境内入口の鳥居の神額が大山祗社と書かれており、八幡宮以前の祭祀の可能性を感じさせます。また、境内社として大山祗社が置かれている上に、何故か不釣り合いな事代主神社まであるのです。

 このことだけでも宇佐神宮の威光を受入れ贈る応神などの八幡神を受入れたものの、それ以前には大山祗、大国主の祭祀が存在し、その再基層部には、どなたも想像されていないはずの金山彦〜スサノウ〜ナガスネヒコ系の祭祀が存在していたのではないかと想像を膨らましてきました。高宮八幡宮とナガスネヒコ祭祀については以下をお読み下さい。


高宮八幡宮 カーナビ検索 福岡県飯塚市伊岐須886-2 пF0948-22-3491


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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485

天香香背男(アメノカガセオ)を祀る神社 大分県編 @ 佐伯市の星宮神社


ただ、いくら神社を見ようが境内を彷徨うが全く痕跡を拾えませんでした。

 しかし、この間のフィールド・ワークの結果、東関東の息栖(イギス)神社、餘部鉄橋正面の伊伎佐(イキサ)神社(兵庫県美方郡香美町香住区余部2746-2)、佐賀県唐津市の三光神社(佐賀県唐津市相知町伊岐佐2369番地)…が、どうみてもナガスネヒコ系とされている息栖神社のルーツとしか思えず、この高宮八幡宮を経由して九州を横断しさらに東に向かったとしか見えないのです。

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しかも、飯塚市の伊岐須は3文字表記であり「好字二字令」(和銅6年=713)以前の九州王朝以前に遡る物と考えても良さそうです。
無題.png

高宮八幡宮 カーナビ検索 福岡県飯塚市伊川171-12(伊岐須に伊川が隣接する)


ただ、地名と地形はぴったり対応しているものの、「福岡県神社誌」を見る限り、岐(クナト)の神と言われる長脛彦祭祀の記述はなければ境内にも痕跡は一切ありませんでした。強いて言えばナガスネヒコの父神であるスサノウとナガスネヒコの妹のオキツヨソ足彦の孫に当る足仲津彦(贈る仲哀天皇)が祀られている事ぐらいです。

このため再考し、新たに思いつくことがありました。それは以前から気にしていた伊岐須に隣接する「伊川」という奇妙な地名でした。

実はこの地名は福岡県北九州市門司区にもあり、それと対応させて考えると徐々に見えてきました。

さらに前の話になりますが、先行して兵庫県の明石海峡大橋の付け根にある「舞子」は大分市の「舞子」の海人族の移動によって生じたものではないかと考えていました。

そう言えばこの「伊川」が兵庫県の垂水だか明石にもあったなあ…などと考えていると、少し違ったイメージが湧いてきました。

それは、伊川は「イセン」と呼べば謎が解けるかも知れないというアイデアでした。以上再掲載終了


イセンと言えば始めに頭を過るのは秦の始皇帝が本拠地とした陝西省渭水盆地しか有ません。無題.png

渭城の朝雨は軽塵を潤す

客舎青青柳色を新たにす

君更に一杯の酒尽くすを勧む

西のかた陽関をいでれば故人なからん

渭水は甘粛省渭源県の西にある烏鼠同穴山を源流とします。陝西省咸陽市の南、西安市の北を流れて黄河中流の潼関で合流します。全長818km、 流域の盆地は渭河平原(関中)と呼ばれています。現代中国では「渭水」よりも「渭河」(いが)という呼び方が一般的です。支流に白居易が元稹と別れた灃水(ほうすい、灃河)などもあります。渭水に望む渭城は都を離れる旅人を見送る地として有名で、また関中の地には古くから多くの王朝がここに都を定めたため、渭水は交通運輸に使用され、特に唐代には副都洛陽との活発な往来と南方からの食料の輸送を担っていました。後に黄河の氾濫により運輸に支障が出始め、又時代と共に陸運より海運が主流となると都も沿岸部に移り、渭水の役割は次第に失われていきました。


まず、私も王維が友人の送別に際して詠んだ七言絶句が頭に過りました。「渭城の朝雨、軽塵をうるおし客舎青々柳色新たなり…」が出ていますので重複ながら思わず引用させて頂きました。

無題.png

渭水

中国の地域。黄河の支流で周以来、中国各王朝の拠点となった中心部。

 渭水(いすい)は現在は渭河(ウェイホウ)といい、黄河が南流から東流するあたりで合流するその支流。渭水流域は現在の陝西省の中心部にあたり、新石器時代から開け、周(西周)はこの地に起こり、東方の殷を滅ぼして全土を支配し、この地に都として鎬京を造営した。その後、秦の 咸陽、漢と隋・唐の都長安(現在の西安)が築かれ、長く中国の権力の中心地であり、その時代には関中と言われた。

 無題.pngによる


敬愛する宮脇淳子先生に従えば、そもそも中国という国は無いのであって、北方、西方の多くの民族の流入、避退、侵略の結果、強者が総取りし、その強者も入れ替わりながら収縮を繰り返してきました。

一般的には漢民族の国と理解されてはいますが、それも怪しく、本来の漢民族は、三国志の時代を経て、随、唐までには民族も半ば入れ入れ替わり、上層部中枢部は北方系鮮卑族に征服され、言語も呉音から少し遅れながら漢音へと変ってしまったようです。では河川の呼称はどうでしょうか?

 大雑把に言えば、川の呼称も代表的には「河」「水」「江」があり、…最大版図の中にはアムダリア、シルダリア…などのトルコ系川の呼称も存在したのです。

 同じくモンゴル語では小河川「ゴル」(チンギスハンのオノンゲル、ケルレンゲル)と大河川「ムレン」と呼ばれており(勿論、中国本土で元の時代にそう呼ばれていたという訳ではありません)、多くの民族が鬩ぎ合う中国大陸には、現在でも川の呼称が複数あるように多少の痕跡を留めているのです。

これ以上の説明は不要かと思いますが、この陝西省渭水盆地は周王朝から始皇帝の秦王朝とヘブライ系の王朝が消え又生まれたのでした。

 この川の呼称が古くは渭水(渭水→渭河)だったのですから、周、秦からしばらくは「水」と呼んでいたのかも知れません。

 中国ナンバー1周王朝の一流が南下し呉国(句呉)を造っている事を考えれば南に「水」がある事も理解できるのです。つまり民族の逃避、避退です。

章水、頁水、修水、灄水、灄水、漣水、瀟水、溳水、漣水、水、耒水、蒸水、祁水、漊水、富水、湟水…きりがない。湖南省、江西省など山奥が多く、背後に敗残が見て取れます。

この話も、いずれ簡単に纏めて見たいと思っています。

まあ、遠い国の事、半島も含め行きたくもない国の事にこれ以上の想像は届きません。

 ともかく、ただの「伊川」という地名もが中国の河川呼称「渭水」が日本語化されたものであるあくまでも可能性がある事はお分かり頂けたのではないでしょうか。

 この飯塚市の高宮八幡宮が伊岐須という非常に稀な呼称の地にある事に端に発した思考の暴走は、とうとう秦の始皇帝の陝西省渭水盆地に到りました。

 しかし、単なる夢想ではなく、百嶋神社考古学の立場からは非常に良く説明が着くのです。

 まず、ナガスネヒコは金山彦(カグツチ)の子とします。

 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)が近畿大和のどこかに居て神武天皇に刃向ったなどと本気で思い込んでおられる方はどうしようもないのですが(こいつらはただの紙屑)、そもそも、東征を行なったのは神武(カムヤマトイワレヒコ)ではなく、彼らは神武巡幸を行なっているのです。

後に藤原が第9代などと扱った本物の天皇(呉の流れを汲む正統皇統)の開化の指揮下に行なわれた神武僭称贈る崇神(恐らく四道将軍の総指揮)による畿内の征服が神武東征なのです。

ナガスネヒコとの衝突が畿内で起こったのか、九州で起こった衝突の話を畿内で起こった事にして記紀に描いたのかは不明ですが、九州王朝論の延長に考えれば元々はナガスネヒコも九州のどこかにいたはずであり、その最も大きな拠点がこの伊岐須だったのではないかと考えるのです。だからこそ痕跡が完全に消されているのです。まず、百嶋由一郎氏が残した最終神代系譜をご覧ください。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


まず、通説では金山彦を以下の様に説明します。


金山彦『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)と対になるともされる。神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。

ウィキペディア20201121 14:16 による


勿論、我々は違う見解を持っていますので、以下、百嶋由一郎最終神代系譜に沿ってご説明致します。

 まず、イザナミは金山彦の妹ですが、イザナギとの間にスサノウが生まれます。

 ヤマタノオロチ退治のスサノウですが、良くご存じの通り、アシナヅチ、テナズチの娘の櫛稲田姫を救いお妃にするのですが、実はその子が神武に弓を引いたとされ朝敵とされたナガスネヒコとオキツヨソ足姫の兄妹になるのです。

 この金山彦の一族の血を父方からも母方からも受け継いだたナガスネヒコの一族とは、金山彦の時代に秦の始皇帝と姻戚関係を結んでいるのです。詳しくは以下をお読み頂ければなりませんが、簡略化して言えば、同じヘブライ系でもイスラエル系の一族として姻戚関係を結び、先行して列島に移動して来たのが金山彦の一族だったのです。

 勿論、鉄を求めてやってきているのです。

その部分を「秦の始皇帝と市杵島姫」(159)から引用させて頂きます。

 このイチキシマヒメを祀る神社が同じく飯塚市の鹿毛馬に厳島神社神社としてあり、なおかつ、安芸の宮島の厳島神社よりも高格式の神社だった事を知れば、この同じ飯塚にナガスネヒコを祀る祭祀を想像が可能であり、尚且つ、伊川=渭水が隣接しているとすれば、伊川には古くは金山彦系そのものか秦滅亡後に半島経由で入って来た秦の始皇帝の一族がいたのではないかと考えるのです。


 ひぼろぎ逍遥

159

秦の始皇帝と市杵島姫

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

106

白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

263

東瀛遊

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金山彦系 市杵島姫も正式にはこの文字を使う 秦の始皇帝の姓名は臝政(エイセイ:インチョン) 

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文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(福岡県朝倉市佐田町高木神社の境内摂社)


神代系譜をご覧になればこの市杵島姫(瀛津嶋比賣命)もスサノウとアカルヒメの間に生れており、金山彦の血を引いている事が分かるのです。


  1. 無題.png【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ) または秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した

と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。


無題.png市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ。

転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方にある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃまぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイスラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというところです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレキサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。

相良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをもらって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれたうちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さんも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というのは日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなったかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わないのですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。

以上、元のメンバー牛島稔太のHPより


お分かりいただけたでしょうか?

百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。

紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。

その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し瀛」を姓としたのでしょう。

ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。

この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。

ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこのイン族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。

 ただ、瀛氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉姫(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。

 一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5、6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。

 日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。

 政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。


 では、ここで本題に戻りましょう。

 1800年も遡る神代の事これ以上の追及は不可能ですが、仮に現在は完全に消されているものの、飯塚市「伊岐須」の高宮八幡宮がその特異な地名によってナガスネヒコを祀るものだったとして、その上流に伊川があるとすれば、そこには金山彦系か秦の始皇帝の人が住んでいた可能性を否定できないのです、



852 伊川とは何か? “福岡県飯塚市 伊岐須に注ぐ伊川” @ を読まれていない方は前ブログをお読み下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記