2022年01月21日

858 新潟に鳥之子三宮神社があった

858 新潟に鳥之子三宮神社があった

20210108

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


新潟市の玄関口とも言うべき越前浜に鳥之子三宮神社(神明社)を見い出しました。

これまでこの神社に関心を寄せて来た者としてある種感動をさえ涌き立たせてくれたのでした。

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この思いはこれまで書いてきた以下の文書をお読みになればお分かり頂けるでしょう。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

857

鳥子三宮神社の基底部を探る A

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鳥子三宮神社の基底部を探る @

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熊本地震で被害を受けた西原村の阿蘇四ノ宮神社とは何か?

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鳥子三宮神社再考 “阿蘇系神社と思われている熊本県西原村鳥子神社”

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熊本地震で被害を受けた境内に雨宮姫を祀る神社 “熊本県西原村宮山の宮山神社”

617

南阿蘇への迂回路に鎮座する湧水池と塩井社をご存じですか?

604

西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛の逃亡ルート

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熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A

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鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @


それほどの思いがどこから来ているかと言うと、この鳥之子大神を祀る氏族の一つが鷲子山上神社と名を変えているものの、栃木県那須郡那珂川町という北関東の一角に鎮座している事を知り五年程前に参拝していたからです。

 当時から恐らく九州から対馬海流に乗り北上し柏崎刈羽辺りで上陸し山越えルートで北関東に入っているのではないかと考えていました。

 以前、新潟では弥彦神社周辺をかなり探索していたのですが、もう少し北に足を延ばしておけばこの神社に到達出来ていたかも知れません。

 再び、上越福井からさらに奥へと入る時があると思いますので、その際には必ず参拝させて頂きたいと思います。

 その意味では、多少先走りにはなりますが、中継地として想定していた神社を発見できたことは、望外の喜びになるのです。



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烏之子神社のある越前浜は400年以上前の姉川の合戦で敗れた朝倉義景の残党によって開かれたと言われています。つまり越前国から移住した人たちが開拓したことから越前浜と称されるようになったと伝えられています。


鳥之子神社のいわれ・歴史 鳥之子神社|越前浜-新潟県新潟市西蒲区 越前浜自治会による


少しご紹介したいので、もう少し他のサイトからご覧頂きます。


鳥之子神社 カーナビ検索 新潟県新潟市西蒲区越前浜4725

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越前浜の神明社は「鳥之子神社」と呼ばれて親しまれている。角田山の北,越前浜地区の南端に鎮座する。
「神社明細帳」(明治十六年)に「西蒲原郡越前濱村字上谷地 無格社・神明社」とある。
越前浜の集落は越前国から移住した人(姉川の合戦で敗れた朝倉義景の残党ともいう)によって慶長年間に開かれたと伝えられている。
移住のさい,荒天のため船が難破したが,岸から聞こえる鶏の声のおかげでこの浜辺にたどり着くことができ,以来,この地区では鶏をことのほか大切にしてきたという。鶏肉や卵を口にしない習慣も続いている。
伝承によると当社は,初め角田山の中腹に祀られて「トリノコサマ」「鳥の子明神」などと称したが,嘉永五年(1852)に現在地に遷したという。大正十年(1921)に村社に昇格した。祭神は天照大神である。

「にいがた百景」による

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「新潟県神社庁」のHPで検索しました扱いづらく、正確な神社名は確認できませんでした。

 ただ、以前、越前、越中についてはかなりの神社を実踏しましたのでこの天照大神を祀る神明社の祭祀には何度も出くわしていましたので、それで良いとしておきます。

 これが、鳥之子大神に先行するものか、並立するものかは未だ不明ですが、朝倉氏の残党が携えたものと言う話は極めてリアルです。

 そもそも、越後に越前浜なる地名がある事からして不思議でしたが、敦賀、大野の本拠地を失った朝倉氏の避退と共に持ち込まれたものとすると、神明社が先在神なのかも知れません。

 この朝倉氏については、全国に30前後の「朝倉」「朝来」地名が拾え、直接的には兵庫県養父市、朝来市(この地名そのものがアサクルと読めるのです)からの東方への展開であり、本拠地を弟に譲り発展的に敦賀以東辺に展開しているのです。

 ただ、その但馬の養父以前にも起点があるのです。それは、福岡県朝倉市そのものであり、さらに熊本県益城町まで(朝来山=チョウライサン)さらには宮崎県西都市まで遡るのです。

 これについては、以下を、詳しくは、さらに追従ブログをお読み下さい。

 ひぼろぎ逍遥

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「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏”

145

「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” 

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「朝来」地名について @ “兵庫県朝来市の朝来山から”

 ひぼろぎ逍遥

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但馬に勅使門を持つ神社がある “兵庫県朝来市の粟鹿神社”

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朝来市の二つの若宮神社 “兵庫県朝来市の宮内と久田和の若宮神社”

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朝来市を望む標高800メートルの山上神社 “兵庫県朝来市の青倉神社”

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兵庫県養父市〜朝来市に掛けての若宮神社群 “兵庫県養父市大屋町の若宮神社”

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朝来地名とは何か?


話が逸れましたが、この朝倉氏の一派に鳥之子の氏族(ヤタガラスと阿蘇都比売によって生じた製鉄集団)に含まれていた可能性を新たに考えざるを得なくなりました。

 今のところ現地を踏む事もなく勝手な推定を続ける事は出来ないため、熊本空港に近いこの鳥之子三宮神社の秘密に関わる部分について発信して終わりとします。


@ 鳥之子とは豊玉彦(ヤタガラス)と阿蘇高森の草部吉見神社の娘=阿蘇都比売との間に生れた鳥之子大神を奉斎し製鉄に携わる氏族である。

A 三之宮の意味は阿蘇氏の祖とされる健磐龍の腹違いの兄である高森の草部吉見神(ヒコハエミミ)=事実上の藤原氏の祖を阿蘇神社の祭神としての三之宮として扱い、その娘の阿蘇都比売を正妃としている事から敬意を込めて三之宮としている。

B ただ、この草部吉見の娘の阿蘇都比売は健磐龍とそりが合わなかったか離れヤタガラスの妃となっている。このことによって生じた一流が鳥之子という氏族である。

C 念のためにもう一つの鳥之子と呼ばれた氏族についても説明を加えておく。

本物の神武天皇に弓を引いたとされるナガスネヒコ(金山彦の娘櫛稲田姫とスサノウとの間に生れる)の妹武内足尼=オキツヨソ足姫とヤタガラスとの間に生じた氏族=武夷鳥も鳥之子と呼ばれている。

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D これも未確認であるが、百嶋氏は“古代の大家(オオカ)郷、(現)大分県の中津市、大江八幡宮の祭神が天日鷲命の子(二重線であることから姻戚関係による義理の子)が天富命”とのメモを残している。

以下は、越後の同胞に対する案内になるが、遠く古代から中世に掛けて阿蘇の西麓から移動した人々への呼びかけになる。彼らにはこの西原村から移住していった者の一部が含まれているはずであり、全く同名の神社を奉斎するほどその密度凝集度は高いと考える。このブログを見掛けた人々からルーツを探る人々が出てくるかも知れない。


勿論、「神武天皇の子」という…との主張は、本物の初代神武天皇(神武僭称:贈崇神なのではない)の本物のお妃であったアイラツヒメが、藤原によって第二代贈綏靖とされた金凝彦(カナコリヒコ)=神沼河耳に下賜されその間に健磐龍命が産まれ無題.pngている事から阿蘇家が神武天皇との関係を宣伝しているのです。ただ、古代は母系制社会であり、むしろ女性の格式がかった(しかも金山彦と神大市姫の娘)事を考えれば、全く誤りとも言えない部分がある事は否定できないでしょう。

 こういった話を阿蘇神社や熊本県神社庁などが認めない事は言うまでもありません。

しかし、故)百嶋由一郎氏とも親交が深く「熊本県神社誌」を編纂された故)上米良純臣宮司なども実際には十分に理解されていたはずなのです。

 ともあれ、表向きの主祭神とされる三之宮とは阿蘇神社の三之宮の国龍神=草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神=海幸彦…の事である事は間違いないでしょう。

 しかし、それは阿蘇氏が権勢を振るい始めて以降の話であり、それ以前には別の神々が祀られていた事が十分に見えるのです。

それこそが本来の祭神であったはずの鳥子大神(天日鷲)を中心とする神々だったと考えられるのです。

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ヤタガラスはカミムスビという有力者のプリンスであったために多くの氏族 豊秋ツ姫(高木大神の長女)、罔象女命(大山祗の長女)、櫛稲田姫(金山彦の娘=イカコヤヒメ)、木花咲弥姫(大山祗の次女後に前玉姫)、武内足尼(スサノウとクシナダヒメの間に生れたナガスネヒコの妹オキツヨソ足姫)…と姻戚関係を結びます。ここまで確認できれば、次のステップに進むことができます。天日鷲=鳥子大神とは如何なる出自であるかです。そのためには杉山姫なるものが何かを知らねばなりません。

簡単に言えば、この杉山姫も阿蘇津比売(アソツヒメ)の別名でしかないのです。

ここら辺りからの話は現在の阿蘇宮司家(健磐龍系)が嫌がる話になるのですが、この阿蘇津比売は始め本物の神武天皇(後の藤原によって第10代とされた神武僭称贈る崇神ではない)の息子である第4代懿徳天皇(母は大山祗の姉大市姫=燕脂姫の娘アイラツヒメ)の妃になるのですが、後に別れ、阿蘇家の祖とされる健磐龍との変節を経て最終的にヤタガラスの妃となる時点では杉山姫と名を変えているのです。

これが神奈川県の川崎市などに集中する杉山神社なのです。要はかなり奔放な女神様だったのです。


天豊ツ姫⇒阿蘇津比売⇒天比理刀刀ヒ寒川姫⇒杉山姫


さらに説明を加えれば、“天豊ツ姫は第4代懿徳天皇の妃時代の名、阿蘇津比売は出戻り時代の復名、健磐龍による皇后陛下略奪、籠絡と応諾の結果の罵声が天比理刀刀i屁こき姫の意味)の名となり、最後は寒川姫、杉山姫は、しかたがなくヒコヤイミミがヤタガラスに頼み込み引き取ってもらって後の改名”と言った趣旨の話を百嶋氏はされていました。

百嶋由一郎氏は神社研究上は「熊本県神社誌」の編纂者であり人吉の青井阿蘇神社の宮司(神社長)でもあった上米良純臣の副官に近い存在だったのであり、神社中枢部では伝え知られた話だったようです。

ここまで解読した上で改めて西原村の性格を考えると、この地は阿蘇氏が熊本に進む出口のような場所であったと気づきます。今でこそ阿蘇谷に向かう白川右岸(北岸)ルートが主である事から錯覚しがちですが、地形から言っても阿蘇谷よりも南郷谷との関係、阿蘇神社よりも草部吉見系(年禰神社系)との関係が深い一帯であった事が見えてきます。そして、同村全域の祭神も解析すると単純に阿蘇系とは言えず、大幡主系=天御中主命=妙見=北辰の系統、とりわけ豊玉彦=ヤタガラス系の勢力が製鉄、製銅、冶金を行っていた事を強く意識するのです。

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百嶋由一郎お騒がせ姫神代系譜

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2022年01月22日

ビアヘロ189 グループの老メンバーから依頼のあった筑後の秋葉神社について

ビアヘロ189 グループの老メンバーから依頼のあった筑後の秋葉神社について

202111125

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当会のメンバーには若手(と言っても40代程度ですが)から八十歳前後の方までおられますが、今回のお話しは戦後80年を生き延びたご老人からのご依頼から始まった秋葉神社のお話になります。

秋葉神社、愛宕神社…と言った名で知られる筑後市(福岡県久留米市南隣の地方都市で岩戸山古墳石人山古墳のあるところと言う方が早いかも知れません)の秋葉神社の祭礼に参加された老メンバーがその神社の世話役でもある友人からこの神社の神様について「誰が祀られているかが分からない…」との話があったためご協力させていただく必要もあろうかと分かる範囲で小稿を纏た次第です。

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この神社は九州自動車道広川インターの西のエリアで3号線の渋滞を避けるために頻繁に通るところですから同社の存在は承知していましたし、秋葉神社とも確認していましたが、参拝はしておらず、さっそく現地踏査をして、リポートの裏採りをしたいと考えています。

 ただ、カーナビだけで秋葉神社だから金山彦系=カグツチで安心していたのは誤りだったようで、もっと重要な深い意味がありそうなのです。

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「福岡県神社誌」には筑後市の秋葉神社は二社とも搭載されていません(中巻 八女郡)。

仕方がなく、下巻最後尾の無各社一覧を見ると、同じく八女郡として搭載はされているものの記述はこれだけです。


秋葉神社 味耜高彦根神 羽犬塚字屋敷 419p

秋葉社  味耜高彦根神 下廣川村   422p


このため少し広いエリアで確認すると、最下段右の秋葉神社(福岡県八女市東唐人町1-214-2)は、火之迦具土神 として書かれており、味耜高彦根神 ではなくこれが(火之迦具土神)本来の祭神のはずなのです。

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福岡県八女市東唐人町の秋葉神社

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福岡県ではこれ以降の南では秋葉神社の分布が消えます。この金山彦系の祭祀は南の熊襲の領域には分布がないのでしょうか?また北九州でも消えます。

 そこで全国的な秋葉神社の祭神を考えることにします。出典はウィキペディア(20211125 19:24)ですが、学術書よりはよほど確実です。ご覧の通り上記の地図以南にはないのです。

 とりあえず、九州・沖縄地方のうち福岡県だけを考えます。

福岡県

徳力秋葉神社 - 福岡県北九州市小倉南区徳力5丁目にある神社。

秋葉神社 - 福岡県直方市大字上頓野にある神社。

秋葉神社 - 福岡県田川郡赤村大字赤にある神社。

秋葉神社 - 福岡県古賀市筵内にある神社。

秋葉宮 - 福岡県福岡市博多区吉塚1丁目にある神社。

秋葉社 - 福岡県福岡市中央区天神1丁目にある神社。

秋葉神社 - 福岡県福岡市中央区鳥飼3丁目にある神社。

秋葉神社 - 福岡県太宰府市にある神社。

秋葉大神 - 福岡県小郡市光行にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市櫛原町にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市田主丸町恵利にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市田主丸町菅原にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市京町にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市山本町豊田にある神社。

秋葉神社 - 福岡県久留米市草野町吉木にある神社。

秋葉神社 - 福岡県筑後市大字一条にある神社。

秋葉神社 - 福岡県筑後市大字羽犬塚にある神社。


 静岡県浜松市天竜区春野(はるの)町領家(りょうけ)、秋葉(あきは)山に鎮座。祭神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)で、古くは秋葉山三尺坊大権現(さんじゃくぼうだいごんげん)と称され親しまれた。現在は秋葉山本宮秋葉神社を正式名とする。起源は不詳であるが、『三代実録』の貞観(じょうがん)16年(8745月の昇叙の記事を当社のものとみる説もある。古くから仏教と習合、防火の神として朝野の信仰を集めた。明治の神仏分離後、社蔵の仏像類は同県袋井(ふくろい)市の可睡斎(かすいさい)(曹洞(そうとう)宗)に移った。旧県社。例祭は1216日で、夜半に行われる「秋葉の火まつり」は有名。[茂木貞純]


通常、秋葉権現は神仏混交の結果ではありますが、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)こそが秋葉様の本体で、愛宕神社も同様と思われて構いません。

 してみると、筑後市一條の秋葉神社は何故 味耜高彦根神 とされているのでしょうか?

 そこでメンバーで筑前筑後の神社のエキスパートである宮原誠一氏(「宮原誠一の神社見聞諜」管理者)に尋ねててみると、実は久留米水天宮の神殿背後の立派な境内摂社も、秋葉神社の祭神を味耜高彦根神としており、それ以来、神社が誤っておられるのではないかと思っているとのお話だったのです。

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久留米水天宮、従って有馬藩の権威とを合わせ考えると理解できないのですが、本来、金山彦=火之迦具土神であるべきものを何故か味耜高彦根神にしているとしか考えようがなく、その影響が廣川周辺まで及んでいたと見るべきなのでしょう。今のところここまでしか言えません。

 一応、裏付けのために、佐賀県や福岡市周辺の秋葉神社を見てみましたが、間違いなく金山彦=火之迦具土神としており、何故か筑後久留米班一帯だけが味耜高彦根神にしているようなのです。以下二例を。


佐賀県鳥栖市の秋葉神社 秋葉神社縁起 火防・火伏の神、火之迦具土神を祭神


≪御祭神≫火産霊命(ほむすびのみこと)【火之迦具土神】軻遇槌神(かぐつちのかみ)

秋葉山本宮秋葉神社御祭神は、火之迦具土大神ヒノカグツチノオオミカミと申し上げ、伊邪那岐・伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神です。火の光は時間的、空間的に人間の活動範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源になると共に、その威力は総ての罪穢れを祓い去ります。光と・熱と強いエネルギーを与えられたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇められてまいりしました。


全国的にも神社を大切にした有馬家には特別な伝承が残っていたのでしょうか?

 それとも、味耜高彦根神を秋葉神社の名で守るべき必要があると考えておられたのでしょうか?

これ以上の追及は困難ですが、金山彦と味耜高彦根神を簡単に説明して将来へ託したいと考えるものです。

 時間的制約がなければ、最低でも九州全域の秋葉神社、愛宕神社…をネット検索でも続け、全体的傾向を把握し、何故、筑後にこの様な現象が生じたかを調べることもできますが、当面は不可能です。

 では、分かるところから作業を進めましょう。

秋葉、愛宕は通常火の神様として扱われ、百嶋神社考古学でも火之迦具土神として扱い、製鉄、冶金、瓦製造、陶磁器関係者で奉られることが多い神様です。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


福岡県下で最も知られた愛宕神社をご紹介しておきましょう。

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愛宕神社 カーナビ検索 福岡県福岡市西区愛宕2丁目7-1


古くは鷲尾神社といい、景行天皇の代に、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)の2神を祭ったという。寛永11年(1634)黒田忠之が京都愛宕神社から火産霊神(ほむすびのかみ、かぐつちのかみ)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)の2神を勧請し、愛宕神社を作った。明治34年(1901)両社が合併し、現在鷲尾愛宕神社として4神が祭られている。開運・長寿・商売繁盛・鎮火、また禁酒・禁煙などにも霊験があるとされ、「愛宕さん参り」の習俗が今も続く。

「福岡市の文化財」より

 百嶋神社考古学ではイザナミは金山彦の妹、スサノウのお妃となるクシナダヒメ(母神:埴安姫)も本物の神武天皇のお妃であるアイラツ姫も金山彦の娘となります(母神:大市姫)。

難敵なのは味耜高彦根神です。


『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神阿治志貴高日子根神と表記し、別名に迦毛大御神(かものおおみかみ)、『日本書紀』では味耜高彦根命、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神とも。

大国主神と宗像三女神の多紀理毘売命の間の子。同母の妹に高比売命(シタテルヒメ)がいる。農業の神、雷神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、阿遅速雄神社 (大阪府大阪市鶴見区)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)などに祀られている。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祀っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある

『ウィキペディア(Wikipedia)』20211127 15:44による


ところが我が百嶋神社考古学ではかなり異なる見解を採っています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


通説が大国主神と宗像三女神の多紀理毘売命の間の子とするのに対し、百嶋神社考古学では豊玉姫(タゴリ姫=タギリ姫)は良いとして、父神を彦火々出見命=山幸彦との間に生まれているのがウガヤフキアエズ命であるとします。

宗像三女神の市杵島姫と大国主命との間に生まれた下照姫を、この山幸彦と豊玉姫との間に生まれたウガヤフキアエズこと味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)が妃としているのです。

このため、妃の下照姫を介してその義理の父神はと言えば大国主になる訳で、その意味で言えば、アジスキタカヒコネは大国主命の義理の子とまでは言えるのです。

そして、下照姫は母神が大国主命のもう一人のお妃である市杵島姫であることから、混乱が生じているのです。宗像三女神に関しては当の宗像大社でも、また、「古事記」と「日本書紀」とでも混乱が生じていることからしても分かるように、500年は降る時代に近畿大和政権の藤原系官僚(阿蘇系多氏)が不正確な理解をしたとしてもおかしくはないのかも知れません。宗像大社の本来の祭神が大国主命であり、そのお妃が市杵島姫(キサガイ)と豊玉姫(ウムガイヒメ)でもあるのですが、記紀の編者が二階から目薬を注すようなことをするから訳が分からなくなっているのかも知れません。

ちなみに久留米市中心部の櫛原天満宮(秋葉神社)も大火の教訓からか火産靈神 味耜高彦根神 を祭り神としており、重々承知の上で味耜高彦根神を祭神としているのです。

これで味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)のアウトラインがご理解頂けたのではないでしょうか?

最後に残された問題は、何故、金山彦であるべき秋葉神社が味耜高彦根神を祀っているかです。

そこで考えるべきはこの場所が久留米の高良大社のお膝元であるという事であろうと思うのです。

実は、高良大社に残された貴重極まりない「高良玉垂宮神秘書同紙背」ではニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=五十猛の子であるウガヤフキアエズが高良玉垂命(第9代開化天皇)と同等それ以上の存在として描かれている部分が多々見られるのです。

この点は、故)百嶋由一郎氏が特に強調されていたのですが、必要以上にウガヤを格上げして書いている部分があるので其の部分は割引いて読みなさいとの話を聴かされていました。

このウガヤフキアエズの出自についてはかなり興味深い話があるのです。ただここでそこに触れるの混乱するため避けますが、そういう意味もありその息子である味耜高彦根神が高良玉垂宮にとっては極めて重要であることから祭神としては消し去ることができず、高良大社の裏紋木瓜紋を所有する金山彦に関わる秋葉神社として神社を残し、密かに味耜高彦根神が守られていると見る事もできるかも知れません。

実は、金山彦は九州王朝の初期を支えたイスラエル系の重要氏族であり、次の第二期は我々がトルコ系匈奴と考える大国主命に替わるのです。

その意味では九州王朝の中心部での政治的な転換に対応する問題なのかも知れませんし、非常に重要な祭神であったことから、秋葉神社という比較的問題の生じない神社名で味耜高彦根神が祀られたのかも知れません。勿論、その逆もありうるのです。つまり、秋葉神社=金山彦を奉斎する一族に対し、押し売り的にウガヤフキアエズが祭神として捩じ込まれたのかも知れないのです。

何れにせよ、全国区の神社である久留米水天宮の境内摂社が金山彦として味耜高彦根神を祀っている以上ですからただ事ではないのです。

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上の紋章は久留米高良大社のものですが右端の左三つ巴紋が表紋で、右端が本来高良大社の裏紋で実際には初期の九州王朝を支えた金山彦系の臣下としての神紋なのです。そして唐花紋とも花菱紋とも呼ばれる真ん中の紋章こそが高良玉垂命の神紋でこの点も理解しておいて頂きたいと思います。

無題.png 九州全域でも満遍なく秋葉神社が拾えますが、佐賀県だけが秋葉の名では空白地帯となります。

 実際、佐賀県では秋葉では遭遇したことがありません。

 ただ、これは別の神社名で名乗られているためで、佐賀県では、ほぼ八天宮、八天社、八天神社という名で展開しているからです。瞬間ぎょっとしましたが、こういうことがあるから神社探求は難しいのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2022年01月24日

859 もう一つの鳥之子 武夷鳥 を祀る神社を探る “周防の防府天満宮”

859 もう一つの鳥之子 武夷鳥 を祀る神社を探る “周防の防府天満宮”

20210110

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これも熊本県西原村の鳥子三之宮神社の底流にある鳥之子(父神ヤタガラス、母神阿蘇都比売)氏族に対し、もう一つの鳥之子(父神ヤタガラス、母神瀛津世襲足姫=武内足尼)と呼ばれる氏族を祀る神社をご紹介する事にします。

 ところが、九州島において「武夷鳥」なる祭神に遭遇する事はありません。

 例外は対馬の一社(小牧宿禰神社:敬愛する玄松子氏による)ですが、当方が訪問した近郊の神社としては山口県防府市の防府天満宮がありました。

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防府天満宮 カーナビ検索 山口県防府市松崎町14-1

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防府と言えば同市に34社ある周防国一宮 玉祖神社 (タマノオヤ)神社及びその分社が頭に浮かびます。

 4年ほど前になかなか良い出来の「山口県神社誌」を手に神社探査を行いましたが、この防府ではこの玉祖神社の主祭神が謎だとされており神社関係者では等しく正体不明な神とされているのです。

 我々百嶋神社考古学の者から見れば、この玉祖とは豊玉彦の親=博多の櫛田神社の主神大幡主=造化三神のカミムスビであることは一目でありその神紋もそれに準じているのです。

 結局、能天気な事に同社もたまたま遭遇したその宮○殿もご存じなかったのです。

それについては、以下をお読み下さい。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

366

熊本県産山村で遭遇した神社探訪者から問われた玉祖神社と

八女津媛神社について B

365

熊本県産山村で遭遇した神社探訪者から問われた玉祖神社と

八女津媛神社について A

364

熊本県産山村で遭遇した神社探訪者から問われた玉祖神社と

八女津媛神社について @


 この玉祖神社に従うかのように鎮座しているのが、防府天満宮なのです。

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祭 神:菅原道真

配 祀:天穗日命  武夷鳥命 野見宿禰


 この菅公が祭神とされたのは藤原氏が雷に撃たれて以降の事でしょうが、それ以前には祭祀が存在しなかったとは思われず、それ以前の祭神は天穗日命  武夷鳥命  野見宿禰 系の神々だったはずなのです。

 ただ、菅公はと言えば、金山彦の孫にあたるナガスネヒコ後裔の本家とヤタガラスの後裔の本家同志によって成立した新氏族だったのです。全て理由が揃っていることがお分かり頂けるでしょう。

まず、菅公については説明不要でしょう。天穂日命は「古事記」の大国主命の国譲りでも出てくるので知られているでしょうが、それが誰なのかはあまり知られていないでしょう。

結論を急げば皆さん良くご存じのヤタガラス(豊玉彦)なのです。

「古事記」天照大神と素盞嗚尊の誓約で生まれた神などとされていますが、それは藤原が勝手に造ったそれこそお伽話に過ぎず、実体は博多の櫛田神社の主祭神のプリンセスなのです(大幡主 豊玉彦)。

 良く考えれば、意外と近い所に鳥子の一派である武夷鳥の一族がいたのです。

 以下「玄松子」氏の公表に依れば、天夷鳥命 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)があります。

天日名鳥命神社  鳥取県鳥取市大畑字森崎874  比那神社  島根県出雲市姫原町394 野見神社  愛知県豊田市榊野町見切53  小牧宿禰神社  長崎県対馬市峰町三根字寺の内959 阿須伎神社  島根県出雲市大社町遙堪1473  馬見岡綿向神社  滋賀県蒲生郡日野町村井705 防府天満宮  山口県防府市松崎町14−1  神門神社  兵庫県豊岡市日高町荒川字村上309 出雲大神宮  京都府亀岡市千歳町千歳出雲  射手神社  三重県伊賀市長田2691−1        西日本が多いですね。

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百嶋由一郎 神代系譜 017阿蘇系譜@(部分)


 これで、二つ鳥之子の一族の中の天日鷲の一族と武夷鳥の二例をお示しする事ができました。

 この二つは阿蘇系と金山彦系という本来相入れない氏族であり分からない事が多いのです。

ただ、こうして新たに派生した氏族が後の日本という国の骨太い骨格を支えていったのだと思うのです。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記