856(前) 鳥子三宮神社の基底部を探る @
20210105
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
南阿蘇(南郷谷)の西麓西原村に鳥子三之宮神社があることについてはこれまで数本のブログで書いてきたので読まれた方も多いかも知れません。

鳥子三之宮神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡西原村鳥子2608
以下、主要には5本、関連で西原村の性格を切出すべく書いた3本のリポートがネット上に公開中です。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
634 | 熊本地震で被害を受けた西原村の阿蘇四ノ宮神社とは何か? |
632 | 鳥子三宮神社再考 “阿蘇系神社と思われている熊本県西原村鳥子神社” |
631 | 熊本地震で被害を受けた境内に雨宮姫を祀る神社 “熊本県西原村宮山の 宮山神社” |
617 | 南阿蘇への迂回路に鎮座する湧水池と塩井社をご存じですか? |
604 | 西原村復興のための「聖徳太子研究会」@〜Cに向けて “宇土の八兵衛の 逃亡ルート |
520 | 熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 |
359 | 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” A |
358 | 鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” @ |
今般、ある筋からの依頼がありました。“この神社が何なのかを調べているが、宮司に聴こうが神社庁に照会しようが全く見当が着かなかったので、仕方がなくネットで拾った情報から連絡を取った”ということから、改めて同社への解析と作業を進めることにしました。
まず、熊本県の西原村と言っても県外の方には全く見当の着かない土地ですが、熊本空港のある阿蘇外輪山の西側の裾野の村と言えば分かっていただけるかも知れません。
この地に鳥子三宮神社と言うあまり聞かない神社が鎮座しています。
この西原村は古代の溶鉱炉跡があるなど、古代に於いても製鉄冶金に関わる土地であったと思わせます。
まず、鳥子という土地は西に向いた阿蘇の大峡谷の南脇にあり北西方向に開いた谷を持っています。
古代に於いても製鉄冶金は農閑期の冬場を中心に作業が行われたのですが、鳥子の谷は地形的にも北西からの風を受け凝集する事ができる土地だったのです。
その中心に位置していたのが鳥子三宮神社の前を流れる鳥子川から山へと続く集落だったはずで、冬場に製鉄を行うには最適の土地だったのです。

では、改めてこの「鳥子」という地名とその意味から探る事にしましょう。
ただ、地域、神社関係者を始めとしてほとんどの人々がその意味を失ってしまっており、中には俘囚移配に伴う「虜」(トッコウ)説などを持ち出す方がおられる事も承知しています。
このため、「鳥子」とは何なのかを改めて説明する事から始めざるを得ないのです。
これについてはこれまで書いているものがありますので詳しくは先行ブログをお読み頂くことができます。
まず、神社研究者の中である程度知られているものに小烏(コガラス)神社と言うものがあります。、福岡市などに数社拾えいずれもヤタガラスを祀る神社と解されています。
……
子烏神社 福岡市中央区警固3丁目11-56
子烏神社 福岡県福津市中央6-9-7
子烏神社 福岡県古賀市筵内2182
子烏神社 福岡県行橋市大谷1726
……
これらは、直接ヤタガラス=豊玉彦を祀る神社と見て良いでしょう。
ただ、故)百嶋由一郎氏によれば、これだけでは十分ではなく、有力者であったヤタガラス(造化三神の一人であるカミムスビ神=大幡主の息子)は多くの政略結婚により多くの氏族が生れているのです。
その一流に「鳥子」と言う氏族がありヤタガラスの血を分けた子孫としていたと解されていたのです。
この鳥子と呼ばれる一族とは、阿蘇高森の草部吉見神(ヒコヤイミミ)と高木大神(造化三神のタカミムスビ)の次女であるタクハタチジヒメの間に生れた阿蘇都比売(アソツヒメ)と前述のヤタガラス=豊玉彦(造化三神のカミムスビの息子)の間に生れたのが天日鷲=鳥子神でありその後裔氏族が鳥子の一族になるのです。
この鳥子集落には、以前 鳥子(トリコ)“宇土の八兵衛の逃亡ルート”で取り上げた八兵衛さん(1600年代初頭に細川藩によって処刑…)が「鳥ノ子の方様」を頼って日向に逃亡しようとしていた事が記録されています(一応は「鳥ノ子の方様」が書かれた部分を掲載しておきます)。宇土市の周辺の出身であった八兵衛さんは、刃物産地である川尻町で手に入れた針などを対岸の島原辺りで行商する内にキリシタンに被れたものか、キリシタン禁制に狂奔する肥後藩に追われ逃亡の挙句、西原村から阿蘇の手前辺りで肥後の藩兵に捕らわれ殺害されているのです(詳しくは二本のブログをお読み下さい)。
この刃物製作集団の関係者と「鳥ノ子の方様」の関係ですから恐らく金属加工の頭領だったのでしょう。
少なくとも天草島原の乱前後までは鳥ノ子の方様なるヤタガラスと草部吉見の長女阿蘇津姫との後裔氏族がこの西原村の地に住みかつ製鉄に携わり阿蘇氏の鉄器製造への指揮も執っていた事までが見えてくるのです。

これは島原の乱前後の話なのですが、その時代に於いても金属加工集団の頭目と思えるとりのこの方様なるヤタガラスの後裔氏族が実際に存在していた事が確認できるのです。
また、この鳥子にある阿蘇三之宮神社の「三宮」の意味は、内牧の阿蘇神社の祭神から見た場合の三之宮=草部吉見(ヒコヤイミミ)を意味しているのです。以下、阿蘇神社の祭神の一部からご覧ください。
一の神殿(左手、いずれも男神)一宮:健磐龍命 - 初代神武天皇の孫という
三宮:國龍神 - 二宮の父で、神武天皇の子という 五宮:彦御子神 - 一宮の孫
七宮:新彦神 - 三宮の子 九宮:若彦神 - 七宮の子
二の神殿(右手、いずれも女神)二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃 四宮:比東芬q神 - 三宮の妃
六宮:若比盗_ - 五宮の妃 八宮:新比盗_ - 七宮の娘 十宮:彌比盗_ - 七宮の妃
下は草部吉見神社の祭神 五の宮 阿蘇都彦が健磐龍命に
六の宮が阿蘇都比当スに相当する
勿論、「神武天皇の子」という…との主張は、本物の初代神武天皇(神武僭称:贈崇神なのではない)の本物のお妃であったアイラツヒメが、藤原によって第二代贈綏靖とされた金凝彦(カナコリヒコ)=神沼河耳に下賜されその間に健磐龍命が産まれている事から阿蘇家が神武天皇との関係を宣伝しているのです。ただ、古代は母系制社会であり、むしろ女性方の格式がかった(しかも金山彦と神大市姫の娘)事を考えれば、全く誤りとも言えない部分がある事は否定できないかも知れません。
こういった話を阿蘇神社や熊本県神社庁などが認めない事は言うまでもありません。
しかし、故)百嶋由一郎氏とも親交が深く「熊本県神社誌」を編纂された故)上米良純臣宮司なども実際には十分に理解されていたはずなのです。
ともあれ、表向きの主祭神とされる三之宮とは阿蘇神社の三之宮の国龍神=草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神=海幸彦…の事である事は間違いないでしょう。
しかし、それは阿蘇が権勢を振るい始めて以降の話であり、それ以前には別の神々が祀られていた事が十分に見えるのです。
それこそが本来の祭神であったはずの鳥子大神(天日鷲)を中心とする神々だったと考えられるのです。