2021年12月01日

ビアヘロ186 2022年1月23日(日) 2022年新春三社詣でトレッキング宗像〜宮若 (案)

ビアヘロ186 2022123日(日) 2022年新春三社詣でトレッキング宗像〜宮若 (案)

20211029

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)

今回は2022年新春三社詣でトレッキングの計画をお知らせします。

  オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円のみ 基本は各自車の用意を…


無題.png午前1030とれとれプラザかのこの里(福岡県宗像市原町153-1 0940-36-7665)に集合し、宗像市2社、

宮若市1の三社詣りを行います。

寒い時期ですので昼食は13時以降にファミレスなどで行います。

当日雨天の場合は、中止、若しくは2月に延期します(参加は要連絡)。

御杖代 古川 清久(太宰府地名研究会編集員)090-6298-3254

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集合:とれとれプラザ かのこの里( 福岡県宗像市原町153-1) お賽銭は各自ご用意下さい!

昼食(仮案ジョイフル福岡宮若店 福岡県宮若市本城664-2 0949-34-5855

1   光岡八幡宮  福岡県宗像市光岡949    集合地点からほど近い神社 異形の楠で著名 

2   八所宮    福岡県宗像市吉留3186   非常に難解な4組の夫婦神を祀る神社

昼食休憩   仮 案 ジョイフル福岡宮若店 福岡県宮若市本城664-2  0949-34-5855

3 若宮八幡宮  福岡県宮若市水原395    この若宮は本来高良玉垂命の若宮=仁徳を祀るものでは  

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1    光岡八幡宮

蛸足の如き異形の楠でとうとうパワー・スポット扱いされるまでに至った光岡八幡宮ですが、境内の造成の際に根の張った部分の土を後世に取り過ぎただけの事で御神木ではなかったことを意味しています。

光岡姓自体が岡山市と豊田市に集中する特異なものであるため以前調べたことがあったのですが、物部氏の匂いだけで終わってしまいました。

さて、八幡宮とはなっていますが、どうもそれ以前の祭祀が見え隠れしています。


御祭神神功皇后 誉田天皇(応神天皇) 武内大臣(宿禰) 闇龗神 市来島姫命 素盞鳴命 


赤間宿と言えば出光興産の出光佐三の生家があることでも知られるところですが、彼は宇佐八幡宮の宮司家の一つでもあったようで、その点から同社にもその影響が及んでいただろうことが容易に想像できそうです。

しかも、同社の祭神を見ると宇佐神宮が二の門に宗像三女神を置いていることに対して、市杵島姫だけが祀られていることからして、この地が市杵島姫の後裔氏族が住み着いていたのではないかと言う想いが馳せるのです。これについては出光佐三も…。かつて宇佐には出光村もあったのですが…。

ともあれ、市杵島姫は豊玉姫や鴨玉依姫(勿論腹違い従妹の関係もあるのですが)のように豊玉彦=ヤタガラスの娘ではなく、彼の兄であるアカルヒメ(実は細石神社の主神磐長姫)とスサノウの間に生まれた娘であり、スサノウが祭神とされていることに関連があるように思えます。

さらに追及すれば闇龗神(クラオカミ)がスサノウの姉であり、しかも蘇民将来伝承の巨旦将来の妻であったことまで考えれば、どうやら、この神社にはスサノウ=新羅の王子様に通じる人々が本来の宮司家だったのではないかとまで想いが一気に滑るのです。

蘇民将来伝承の真相については ひぼろぎ逍遥 スポット版 075蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 089蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜A鳥瞰 外数本公開していますの関心をお持ちの方は検索してください。

無題.png従って、本来の祭神は 闇龗神 市来島姫命 素盞鳴命だったはずであり、神功皇后 誉田天皇(応神天皇) 武内大臣(宿禰) は後世の追加された祭神で、何時しか六神体制になってしまったのではないかとの思考の暴走が止まらないのです。

そもそも集合場所のとれとれプラザ かのこの里「かのこ」自体が市杵島姫が熱烈に愛した「かのこゆり」にちなんで命名されているのです。このかのこの話を知っておられる事に感動を禁じえません。

鹿児島県薩摩川内〜阿久根沖に浮かぶ甑島のかのこユリはつとに有名ですが、市杵島姫の夫である阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミと共に甑島とその周辺の阿多に暫く住んでいたと百嶋先生は語っておられました。このことはいずれ神武巡行伝承と甲府の天津司神社と天津司舞としてお話します。事実、甑島には鹿島町があり武鹿島の命こと後の鹿島大神(塚原卜伝が崇拝した)=武甕槌を祀る鹿島神社があるのです。これは後日の勧請はあるとしても起源はこちらにあります。この話の一部分でもご存じの方がかのこの里の命名者なのです。

それもこれも海賊と呼ばれた男こと 出光佐三 がパーレビ王朝崩壊後のモサデク政権下のイランに原油を直接買い付けに行ったという危険な行為を行ってまで石油メジャーに対抗したという人物だった事に触発されたからなのでしょう。思えば、佐世保港に日章丸が廻航した折、親父(陸軍航空士官学校出のポツダム中尉)に連れられ日章丸という巨大タンカーの甲板に上がった印象が今も残っていたからなのかも知れません。このため赤間の宿には実際に市杵島姫が住んでいた可能性さえ感じます。

彼女は新羅で生まれているはずですが、アカルヒメに抱えられ姫島〜国東(奈多)〜飯塚の鹿毛馬神籠石の厳島神社辺りで幼少期を過ごしたはずで、彼女の別名サイ、サエ、サヨの佐與がこの厳島神社の大字田島隣の大字なっているのです。

ついでにサイは中国語のユリを意味するとの話を聴いたことがあるのですがいまだ確認できていません。

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日章丸事件 (にっしょうまるじけん、 ペルシア語: حادثهکشتینیشومارو)は、 1953年 (昭和28年)に起きた 石油 の輸入とそれに付随した訴訟および国際的な衝突。 イギリス の影響下にあった イラン は 第二次世界大戦 後独立していたものの、当時世界最大と推測されていたその石油資源はイギリス資本たる 石油メジャー 「アングロ・イラニアン社」( BP の前身)の管理下に置かれ、イラン国民はもとより政府にもその利益がほとんど分配されない状況にあった。 その中で、イランは 1951年 に石油の国有化を宣言し、アングロ・イラニアン社の資産を接収する。 反発したイギリスは中東に軍艦を派遣、イランへ石油の買付に来たタンカーは撃沈すると国際社会に表明する。


1962年、当時世界最大のオイル・タンカーとなった日章丸(出光興産三隻目の油槽船)は旧佐世保海軍工廠で最後に完成した第七船渠(現第四ドック)で造られたもので、小学校低学年で出光興産の勃興期に一端を見たことになるのです。

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2      八所宮 

土煮尊(ういじにのみこと)沙土煮尊(すいじにのみこと)大戸道尊(おおとのじのみこと)大戸邊尊(おおとべのみこと)面足尊(おもたるのみこと)綾惶根尊(あやかしこねのみこと)伊弉諸尊(いざなぎのみこと)伊弉册尊(いざなみのみこと)の話から始めましょう。


天地開闢の神々の一柱。『古事記』では、国之常立神に続いて天地開闢の最初にあらわれた神世七代の第三の神。 宇比地邇神と須比智邇神は、最初の男女の神。『日本書紀』では、天地の最初に生まれた国常立尊、国狭槌尊、豐雲野尊に続いた 神世七代の第四代の神。宇比地は泥土、須比智は砂土で、土砂を神格化した神。大地を鎮める盛り土の神とする説もある。泥土根尊と書いて「ういじねのみこと」と読む場合も「すいじねのみこと」と読む場合もあるらしい。(「玄松子」より)

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何故か光岡八幡宮 若宮八幡宮については「神社誌」の無格社一覧にさえ搭載されていないようです。

 このため、現地情報にネット情報程度で解析せざるを得ません。

 八所宮としては幸いに神社誌に記述がありますが、通常このような神様が祀られているはずもなく、実在性(勿論何処かには居たはずですがここであったというものがあるわけではないのです)土煮尊、沙土煮尊、大戸道尊、大戸邊尊はたまに見かけます。

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一方、面足尊は実在性をかなり強く感じます。勿論、金山彦と考えて頂いて間違いないでしょう。

 イザナミ、イザナギは良くご存じですが、スサノウのご両親になります。

八所宮についてはこのぐらいにしますが、この造化三神などを中心とする祭神は「記」「紀」を押し付けるものとして採用されただけで、恐らくは最後尾の神こそが元々の同社の神々であったはずなのです。

 稲荷は伊勢の外宮様ですし、大歳は阿蘇の草部吉見=ヒコヤイミミ(藤原の祖)、菅公、闇龗(スサノウの姉)、須賀神社もスサノウになります。これらが赤間地区の本来の祭り神のはずなのです。

 一方、身内の摂社として藤原側の神が神直日、大直日として祀られています。分かり易いですね。

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さて、話を軌道に戻しましょう。宗像市の八所宮と同じ祭神を持つ神社が宮若市にも同名の八所宮として存在します。これも気づいたのは最近ですが、同社の由緒によれば、以下。


八所神社由緒当社ハ今ヲ去ル二百八十年前ノ靈元天皇延宝八年宮中守護神シテ八神田二祭祀セル八柱ノ大神等ヲ隣郡宗像ヨリ勧請シ八所神社ト称シ当村ノ鎮守トシ奉斎セルニ創マル明治五年村社ニ列シ大正八年神饌幣帛料供進神社二指定セラレ今日ニ及明治百年拾月吉日建立境内由緒碑村社 八所神社 鞍手郡宮田町大字長井鶴字奈喜野祭 神埿土煮命,大戸之道命,面足命,伊弉諾命,沙土煮命,大戸之邊命,惶根命,伊弉册命由 緒 延宝八年宗像郡八所神を勧請す,明治五年十一月三日村社に定めらる。

例祭日 十月二十五日神饌幣帛料供進指定 大正九年六月三日主なる建造物 本殿,弊殿,拜殿,社務所,籠社境内坪数 四百五十七坪氏子区域及戸数 長井鶴 戸数三百十八戸境内神社 須賀神社(素戔嗚命) 天満神社(菅原神) 大日霊貴社(埴安姫神,闇龗神,迦具土神) 高龗神,埴安姫,闇龗神は今宮神社,迦具土神は豊日別神社として祭祀ありしを合祀す。

福岡県神社誌 上巻本殿後境内社 貴船大神 佐夜の神 大日社 天満宮 祇園社。


とされており、寸分違わぬ祭神に驚いています。佐夜の神は市杵島姫でしょうね。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ただの別名ですが、大山咋(阿蘇国造神社)、鴨玉依姫(下賀茂大社)の大恋愛のお二人です。ただ、その現場は筑前山家の宝満宮二社とまでは百嶋先生から聴いています。


3  若宮八幡宮

最後に若宮八幡宮を考えます。御祭神は 応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・武内宿禰

宗像〜宮若に入ると猫のマスコット像が目立ちます。この猫が宮若市の名称にまで関係があるなどとまでは申し上げませんが、猫峠、猫宮…などとなると、非常に気に掛かるのです。

これについて百嶋先生は第7代孝霊天皇:大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとに)、第8代孝元天皇:大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)、第9代開化天皇:稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひび)の三代=宮地嶽神社の三階松に対応するネコ=根本の意味でだろうと語っておられました。私も実質的にはその痕跡ではないかと考えています。

ただ、もう一つの考え方ですが、仁徳天皇(シレカシノミコト)は仲哀亡き後の神功皇后を妃とした開化天皇=高良玉垂命の五人の皇子の長子でありその意味で若宮と呼ばれたのかも知れません。

事実、祭神には仁徳(一般にはオオササギの命とされる)が祀られ、論争のあった高良玉垂命とは武内宿禰と有馬の殿様が決めた武内宿祢と決められてしまったのでした。それを考えれば、応神という天皇でも何でもない贈る天皇が挿入されているも久留米の高良大社の祭神残っているという印象を受けます。

2022年が良い年であればいいのですが、多分、国家の没落にまで突き進むようで不安でなりません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2021年12月03日

ビアヘロ187 太宰府地名研究会(神代史研究会)編集員 古川 清久

ビアヘロ187 太宰府地名研究会(神代史研究会)編集員 古川 清久
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熊本県下では既に何度かの神社トレッキングを行っています。色々なスタイルで試みましたが、なかなかパーマネントな形では定着せず、熊本県在住メンバーだけでは過去十回程度しか行っていません。

今般、車2台程度で動きやすい10人弱のトレッキング・メンバーが揃いましたので、23ケ月に一度程度の日程で継続したいと考えています。そこで取り上げたのが氷川町でした。既に201803月に太宰府地名研究会で20人規模のトレッキングを取り組みましたが、今回はその成果をご確認頂きたいと考えています。集合は下記の通りですが、できれば10時集合にして八代の霊符神社に向かいます。

集合場所 道の駅 うき サンサンうきっ子 宇城彩館 カーナビ検索 熊本県宇城市松橋町久具757-3

妙見宮   カーナビ検索 八代市妙見町405 0965-32-5350

霊符神社  カーナビ検索 八代市妙見町妙見宮東隣

霊符神社  宇城市小川町西海東1395-1海東郵便局先から川沿いに右折 途中に湧水地あり

宮原三神宮 カーナビ検索 熊本県八代郡氷川町宮原491 492の三神宮前 パス可能銀杏が秀麗

香取神社2社  下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)上有佐(氷川町上有佐)の香取神社で  

す。町村合併で有佐は分かれたのでしょうか?

香取神社  カーナビ検索 熊本県上天草市大矢野町登立1238 外1社(こちらはご自分で…)

鹿嶋神社  カーナビ検索 八代郡氷川町鹿島773  余裕があれば廻ります

無題.png熊本県現氷川町は旧八代郡の龍北町と宮原町によって成立した主として氷川の南側に成立した町です。古来、この地こそ火の国であり、火の君の中心地であったと考えられてきた土地であり、古代史、特に九州王朝論者にとっても極めて重要なテーマでもあったのです。勿論、この地の大半は自然陸化と干拓によって産みだされた土地であり(国道3号線や旧薩摩街道以西)、古代の中心は山際から山間の小平地だったはずですが、阿蘇や熊本や菊池山鹿などではなくこの地こそ火の君の地とされてきた理由にはそれなりの理由があったはずなのです。ところがそれが何なのかが分からずにこれまで前進を阻まれてきました。特に重要なのは、肥前国と肥後国とは連続せず、筑紫に貫入を許しています。つまり、連続していないのです。このため古代国名は単なる符合でしかないのかと考えたこともあったのですが、長年神社を調べているとようやくその縺れた糸が解れてきました。きっかけは霊符神社と呼ばれる奇妙な名の神社の存在でした。この氷川の北にある「霊符神社」と同名の神社が八代市の妙見宮(八代神社)の東隣にもあるのですが、この妙見宮の分身とも言える神社の由緒には、対岸の佐賀県白石町の稲佐神社直下の掲示板にも有名な武寧王の子である百済の聖明王の阿佐太子(肥後側では第三王子淋聖太子)が王族数十人を引き連れ、火の君の世話で亡命している事が書かれているのです。肥前の杵島、肥後の氷川の北岸の泉地区の霊符神社一帯、八代の霊符神社の三ケ所に等しくこの話が伝えられている事は極めて重要で、@天御中主命を祀る八代の妙見宮に隣接する霊符神社と氷川の北の霊符神社(宇城市小川町)が同系統のものである事。A火の国の大王である火の君とは百済からの王族の亡命記事から鑑み6世紀初頭(完全な九州王朝の全盛期)に君臨した妙見宮を奉斎する一族=雲南省昆明から進出した白族=白川伯王〜大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の一族である事。B宇城市の豊崎、豊野、豊福…地名もヤタガラスと関係がある事(西の豊の国)。C宇城市の旧小川町の海東地区(元寇の竹崎季長の恩賞地)という奇妙な地名も百済の王族の一部が亡命後定着した地名(「海東諸国記」)である事。D橘氏の後裔の本流の一派である宮原一族が故地としていた事からも、この橘一族こそ妙見宮の流れを汲む古代九州王朝の本体とも言うべき最重要氏族であったこと。これらの事が一気に分かり、ようやく火の君がどのような人々であったのかが分かるようになったのでした。今年の初夏にはこの火の国を探るトレッキングを行ないます。次の課題は野津〜大野古墳群の主と火の君との関係になりそうです。この火の君は百済滅亡の時期まではいたと考えられており、有明海を挟んだ肥前、肥後の両岸に火の君の伝承が書き留められていた事を考えると、九州王朝の全盛期を支えていた人々こそこの妙見宮=天御中主命=白山姫(北辰信仰)を持つ一族であり、博多の櫛田神社の大幡主、ヤタガラス、熊野、上賀茂、下賀茂に繋がる一族であった事が一気に分かったのでした。火の君の伝承が等しく三か所で確認できます。

これらの事から白村江の戦いを持って百済と心中した形となった九州王朝の中枢部にこの一族が関与していた事までもが見えて来るのです。詳細についてはblog「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)外をダブル検索して下さい。

熊本県現氷川町は旧八代郡の龍北町と宮原町によって成立した主として氷川の南側に成立した町です。古来、こここそが火の国であり、火の君の中心地であったと考えられてきたのであり、古代史、特に九州王朝論者にとっても極めて重要なテーマでもあったのです。勿論、この地の大半は自然陸化と干拓によって産みだされた土地であり(国道3号線や旧薩摩街道以西)、古代の中心は山際から山間の小平地だったはずですが、阿蘇や熊本や菊池山鹿などではなくこの地こそ火の君の地とされてきた理由にはそれなりの意味があったはずなのです。ところがそれが何なのかが分からずに、これまで前進を阻まれてきました。特に重要なのは、肥前国と肥後国とは連続せず、筑紫に貫入を許しています。つまり、分断されているのです。このため古代国名は単なる符合でしかないのかと考えたこともあったのですが、多くの神社を調べているとようやくその縺れた糸が解れてきました。きっかけは霊符神社と呼ばれる奇妙な名の神社の存在でした。この氷川の北にある「霊符神社」と同名の神社が八代市の妙見宮(八代神社)の東隣にもあるのですが、この妙見宮の分身とも言える神社の由緒には、対岸の佐賀県白石町の稲佐神社直下の掲示板にも有名な武寧王の子である百済の聖明王の阿佐太子(肥後側では第三王子淋聖太子)が王族数十人を引き連れ、火の君の世話で亡命している事が書かれているのです。そして、肥前の杵島、肥後の氷川の北岸の泉地区の霊符神社一帯、八代の霊符神社の三ケ所に等しくこの話が伝えられている事は極めて重要で、@天御中主命を祀る八代の妙見宮に隣接する霊符神社と氷川の北の霊符神社(宇城市小川町)が同系統のものである事。A火の国の大王である火の君とは百済からの王族の亡命記事から鑑み6世紀初頭(完全な九州王朝の全盛期)に君臨した妙見宮を奉斎する一族=雲南省昆明から進出した白族=白川伯王〜大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の一族である事。B宇城市の豊崎、豊野、豊福…地名もヤタガラス=豊玉彦と関係がある事(西の豊の国)。C宇城市の旧小川町の海東地区(元寇の竹崎季長の恩賞地)という奇妙な地名も百済の王族の一部が亡命後定着した地名(「海東諸国記」)である事。D橘氏の後裔の本流の一派である宮原一族が故地としていた事からも、この橘一族こそ妙見宮の流れを汲む古代九州王朝の本体とも言うべき最重要氏族であったこと。これらの事が一気に分かり、ようやく火の君がどのような人々であったのかが分かるようになったのでした。今年の秋にはこの火の国を探るトレッキングを行ないます。次の課題は野津〜大野古墳群の主と火の君との関係になりそうです。

この火の君は百済滅亡の時期まではいたと考えられます。有明海を挟んだ肥前、肥後の両岸に火の君の伝承が書き留められていた事を考えると九州王朝の全盛期を支えていた人々こそこの妙見宮=天御中主命=白山姫(北辰信仰)を持つ一族であり、博多の櫛田神社の大幡主、ヤタガラス、熊野、上賀茂、下賀茂に繋がる一族であった事が一気に分かったのでした。火の君の伝承が等しく三か所で確認できるのです。

これらの事から白村江の戦いを持って百済と心中した形となった九州王朝の中枢部にこの一族が関与していた事までもが見えて来るのです。詳細についてはblog「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)外をダブル検索して下さい。

 火の君を頼り百済の王族が亡命してきたとの神社伝承が肥前の稲佐神社と肥後の二つの霊符神社に残り、その亡命地と見られる場所に東海東、西海東という朝鮮風(「海東諸国記」)の地名が認められる事から、やはり氷川流域に火の君の拠点が存在したと考えられそうです。

 当然にも、この一帯に阿蘇系神社が少ない事からこの「火の君」は阿蘇氏が勢力を拡大して以降に「火の君」との表記に変えられ阿蘇氏の先祖神と描いたものと理解していますが、ここでは、一応、「氷ノ君」(これも冷水が注ぐ氷の川の意か)、「日ノ君」、「肥ノ君」(貶めた表記かも)、「干ノ君」「櫃ノ君」(樋島)の可能性もあるとしておきます(上代特殊カナはせせら笑っています)。ただ、右の画像をご覧ください、今回取り上げた三社もこの円内に入っているのです。もしかしたら、雲仙普賢岳をシンボルとしているのかも知れません。というより、それ以外にはありあえないとさえ思うのです。

火の君とは歴代の橘一族だった 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

 九州の古代史には火の君が横たわっています。

九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。

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ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。

世界大百科事典 第2版の解説

 まず、@橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、A考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、Bもう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、C当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、D熊本県の女性メンバーF女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、E古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びついて、ようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。

 そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそが橘一族であり「火の君」の後裔でもあったのです。

 まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。

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佐賀県白石町稲佐神社(万葉の杵島山東麓) 県道傍の境内地に置かれた解説文

稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる

 十分にお読み頂けると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。同社の伝承によると百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。

 ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域〜八代市に掛けて存在していたのでした。蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を好い加減な所で纏めるために折半したものであり、当然、糸島半島の「志摩」に決まっているのです。学者、教委、学芸員は馬鹿か嘘つきか!?

 一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。

466

杵 島 A 2/2

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杵 島 @ 1/2

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熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

508

八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった

詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした。


阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]

『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。

日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。

このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。

ウィキペディア(20171225 0114による

聖明王 朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502 - 523年)

        日本大百科全書(ニッポニカ)による

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 霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。

 その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと考えられるのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2021年12月22日

ビアヘロ188 太宰府地名研究会(神代史研究会)編集員 古川 清久

ビアヘロ188 太宰府地名研究会(神代史研究会)編集員 古川 清久
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熊本県下では既に何度かの神社トレッキングを行っています。色々なスタイルで試みましたが、なかな


無題.png兼川 晋 小松洋二いずれも不知火書房092-781-6963の名著

そこで、故)百嶋由一郎氏の最終神代系譜をご覧頂きたいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

そこで、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。

ここでは通常話されるありきたりの内容から離れ最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。

言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

 この間、八代の妙見宮の重要性に関しては十分に理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスのご先祖の一族(白族)は、直接、熊本に入っていると思っていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうといった程度で考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と氷川の北宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明するや肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 実は、最終神代系譜(上)の鴨玉依姫こそが、表向き玉依姫を祭神としている京都の下賀茂大社に繋がっているのであり、豊玉彦(ヤタガラス)とは賀茂建角身命も鴨玉依姫の父神になるのです。

もう十分にお分かり頂いたと思います。大雑把に言えば、妙見宮こそ下上鴨神社のルーツであり、九州の古代史に於いて重要な位置を占める火の君とはこの下鴨神社に繋がる一族だったのです。

そこで、氷川の北に「豊」地名がかなり拾えることもお考えいただきたいと思います。

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熊本県宇城市豊野町(旧豊野町)地理院地図

氷川町から宇城市に掛けては「豊」地名が拾えます。代表的なのが旧豊野町であり、旧松橋町にも豊福(現宇城市豊福)、豊川、豊崎…が拾えるのです。

一般的には秦の一族と豊国(大分県)ばかりが取り上げられますが、それ以前からこの一帯には豊玉彦の一族の居留地を思わせる初期の豊の国が存在した事が分かるのです。

ついでに言えば、宇城市には「東海東」「西海東」という奇妙な地名があるのです。

これも主として百済系の人々が住み着いた半島系の人々の亡命地だったのではないかと考えています。

「海東諸国紀」は、李氏朝鮮の日本国と琉球国について記述された歴史書ですね。

とにかく不知火海北部の東岸は白族(妙見宮に象徴されるヤタガラスの一族)の国だったのです。

この一帯には、有名な東北三社の鹿島神社(武甕槌)1社と香取神社(経津主)3社が拾えます(香取1社は上天草市)。当然にも常陸からの勧請とはされていますが、良くお考えください、佐賀県の稲佐神社がある杵島(古代には宇土半島と同様に有明海に浮かぶ島)の南には佐賀県鹿島市があり熊本県には嘉島がある事は皆さんご存じの通りです。そして、香取神社の経津主の「布津」(フツ)が島原市の南にもあるのです(旧布津町=現南島原市)。これらのことから常陸、房総も不知火海、有明海一帯の人々が展開した可能性を否定できないのです。詳しくはひぼろぎ逍遥(跡宮)を参照下さい。

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関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない?

A ”氷川以北の鹿島神社”

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関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない?

@ ”氷川以南の香取神社”

鹿嶋神社 カーナビ検索 八代郡氷川町鹿島773 香取神社 カーナビ検索 熊本県上天草市大矢野町登立1238 外1社 下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)上有佐(氷川町上有佐)の香取神社です。町村合併で有佐は分かれたのでしょうか?

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509 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? @”氷川以南の香取神社”

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

そこで、今回の氷川左岸の香取神社の発見です。

 それほど大きな神社でない事は始めから見当が着いていました。

それなりの大社であればこれまでのフィールド・ワークで気づかないはずはないからです。現在、宮原誠一氏と共に肥後は氷川流域の神社調査を進めていますが、最も関心を持っていたのは、氷川町の西隣の八代市鏡(旧鏡町)に鎮座する二つの香取神社でした。香取神社については、既に、ひぼろぎ逍遥 370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主 という奇妙なタイトルで妙な話を公開しています。百嶋神社考古学では、千葉県から茨城県に掛けて展開する鹿島神社と香取神社とは、各々、海幸彦(阿蘇高森の草部吉見神=ヒコヤイミミ…)、山幸彦(ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛…)と考えています。当然にも、塚原卜伝が信奉した鹿島大神=武甕槌こそ阿蘇の草部吉見神と理解していましたが、香取神社の経津主がニギハヤヒなら彼らも九州のどこからか移動したのだろうと考えていました。ところが、11月に熊本県上天草市の大矢野島に二つの香取神社を発見したに留まらず、相次いで、宮原誠一氏から熊本県氷川町の南の旧鏡町に香取神社が二社ある事を告げられたのでした。この天草の二つの香取神社(香取社)は千葉県からの勧請と考える事はできるのですが、九州では香取社を見ない上に、醤油の醸造でも絡んでいれば別ですが、何故、この地へ香取社が勧請されたかが不明なのです。ただ、醤油の醸造には塩が欠かせない事から、最大の生産地であった天草との関係はあるかも知れません。 これについても ひぼろぎ逍遥(跡宮) 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説 外を併せてお読み頂きたいと思います。が下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)で、が上有佐(氷川町上有佐)の香取神社です。町村合併の折、有佐は分かれたのでしょうか良く分かりません。

香取神宮の御神体で経津主=山幸彦と豊受大神となるのですが…一方、旧宮原町の香取神社はピカピカの真新しい社殿でした。「熊本県神社誌」によれば上有佐の香取神社の祭神は「経津主神」(宮原町有佐303)とされています。経津主とは布津主であり、山幸彦の根拠地を思わせます。島原市に吸収前の布津町ですね。

終戦直後のそれこそ安直な千葉県佐倉市からの勧請神社説においそれと乗るつもりはありませんが、ここでは、不知火海を中心に香取神社が4社ほど確認できる事をお知らせして、以前から気にしている事が幾つかあるため、ここではそれをお話しする事にしましょう。

 まず、常陸国〜上総(カヅサ)国の「上総」はいかにも読めない地名であり、カヅサと呼ばれている土地を無理やり、上総、下総との文字を充て、そのまま読ませたようにしか思えません。

一方、房総半島は上総の国、下総の国と呼ばれています。

さて、上総(カズサ)で思い描くのは長崎県南島原市の南の加津佐です。

上総国 上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。

下総国 現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。ウィキペディア(20171121 18:59

『古語拾遺』の調子はともかくとして、この鹿島、香取に関しては九州からの進出である事は確信しています。何故そう考えるかと言うと、上総(カヅサ)とはどう考えても読めない表記の地名であり、元々「カヅサ」と呼ばれていたところに無理やり漢字表記が振られたとしか思えないからでした。

この鹿島、香取のルーツが有明海沿岸であったとすると思い当たる事があるのです。

有明海の西への出口 加津佐(上)口之津(下)をご紹介しましたが、海幸彦、山幸彦の震源地である有明海沿岸から瀬戸内海、勝浦、東海、房総へと進出するとした場合、口之津、加津佐に集結し、有明海からの海流を利用し自然に吸い出され対馬海流に乗るのが最上策であり、恐らく、玄海灘、関門、瀬戸内海、南紀、東海、房総へと進出したと考えています。思えば口之津とは海員学校が置かれ、明治期から始まる初期の上海への石炭の積出し港として税関が置かれた国際貿易港でもあった場所であ無題.pngり、現在でも口之津港の湾奥には高良山神社が置かれているので あう。つまり、九州王朝の軍港であった可能性さえも考えられる場所なのであって、この西隣の加津佐が房総の地名として振られたのではないかと思うのです。太宰府地名研究会のHPには「苧扱川(オコンゴウ)」を掲載していますが、これこそが九州王朝の最重要港湾であったと考えています。詳しくは「苧扱川」を読まれるとして、上の地図には野田浜という地名がある事にお気付き頂けると思います。そうです。キッコーマンは香取神社の氏子の一族であり、だからこそ大幡主の神紋である亀甲を使い、共に「主」(大幡主、経津主)という称号を使っているのです。

経津は島原市に編入された旧布津町ですし、千葉と言えば野田の醤油ですね!上総=加津佐も、野田という地名も持ち出されたのです。だからこそ大幡主の神紋亀甲紋章がキッコーマンになっているのです。

猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒが大幡主と組んで天草で日本最大規模の製塩事業をやっていたことは何度となく書いてきました。

その延長上に廻船業、倉庫業、醸造業…に入ることは極めてリーズナブルです。

 しかも、彼の別名として五十猛があります。その名を冠された神社が島原市の猛嶋神社であり、布津、島原、加津佐、天草…を拠点に彼らが大活躍していた事が分かってきました。

上総の国の「上総」はどう読んでも読めませんね。でも加津佐町の故地名の持ち出しとすればよく理解できますし、このには野田浜まであるのです。

これで違うと言うのならば、どういう場合が整合すると言うのでしょうか。

そうすると有明海沿岸の香取神社が九州起源だと分かるはずです。

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上総、下総の鹿島神社(海幸彦=猿田彦)、香取神社(山幸彦)、息栖神社(長脛彦=カガセオ)       上総(カズサ)は南島原の加津佐であり千葉の野田も加津佐の野田浜なのです!  

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:24| Comment(0) | ビアヘロ