849 海幸山幸神話再考 「高良玉垂宮秘書」を巡って “宮原 誠一論文063の転載 A”
20201113
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「高良玉垂宮秘書」に関しては福岡県の筑後を中心に40年近く神社を調べてこられたメンバーの宮原 誠一(「宮原誠一の神社見聞諜」)氏の独壇場に近く、エリヤは広いものの浅い情報を回収している私のブログとは重厚さが全く違います。近稿で新たに触れておられますので今度は逆に遡る形でご紹介したいと思います。
2018年06月08日(金) 20時00分00秒 宮原誠一の神社見聞牒(063)
No.63 春日様を奉斎する海幸彦・山幸彦
春日(様)神についての追加版です。海幸彦と山幸彦を総合的にまとめました。
1.海幸彦と山幸彦の名前の取換え
海幸彦と山幸彦の物語は、古事記で語られる山幸彦と海幸彦の神話に登場する人物として有名であり、神話物語として良く知られている。
【海幸彦】
海幸彦は、熊本県南阿蘇の草部吉見神社の祭神・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が元宮とされ、その他にたくさんの名前を持っておられる。
天児屋根命(あめのこやねのみこと) 武甕槌命(たけみかつちのみこと) 大年神(おおとしかみ)
支那津彦(しなつひこ) 安日彦(あびひこ) 彦八井耳命(ひこはえのみこと) 風神 犬飼神(いぬかいしん・七夕の牛飼神) 等、他にまだ数多く持っておられる。
海幸彦は、山の幸(米、野菜、果物)を海岸の村々に持っていき、海の幸と交換する皇子様という意味であるが、出身地から言うと、「山幸彦」となる。
【山幸彦】
一方、山幸彦は、福岡県糸島の高祖神社(たかすじんじゃ)の祭神・天津日高彦火々出見命、略して彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)として鎮座されている。妃は豊玉彦の嫡女・高礒比(たかぎひめ)こと豊玉姫である。二人は竜宮(対馬)への新婚旅行に行かれた事で「山幸彦と海幸彦の神話」に登場される。対馬の竜宮の滞在は3年間、そこで鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を出産され、夫婦は和多都美神社 わたつみじんじゃ(対馬市豊玉町仁位字和宮)に祀られ、その子・鵜草葺不合命は和多都美御子神社(同)に祀られている。この神様も多彩な名前で出て来られる。
猿田彦(さるたひこ) 道祖神(どうそしん) 伊の大神(いのおおかみ) 五十猛命(いそたけるのみこと) 筑紫神社祭神 経津主(ふつぬし) 饒速日尊(にぎはやひのみこと)=天火明命(あめのほあかりのみこと)
上記の名を略しなければ、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこ
あめのほあかりくしだまにぎはやひのみこと)と長い名前である。
筑豊では、猿田彦は妃の天鈿女命(あめのうずめのみこと)と抱き合った微笑ましい姿で、道端に道祖神として祀られていらっしゃる。「猿田彦」は古事記によって貶(おとし)められた名前であり、筑豊では「猿田」の文字を忌み嫌い、「袁田彦」「援田彦」と「塩 えん」「袁 えん」「援 えん」を文字って使用されている。
山幸彦は、海の幸(塩、魚、海藻等)を内陸の村々に持っていき、山の幸と交換する皇子様という意味であ るが、出身地から言うと、「海幸彦」となる。
そして、ぶつぶつ交換から、名前まで交換されてしまった。
本来の山幸彦は海幸彦(天忍穂耳命)へ、本来の海幸彦は山幸彦(彦火々出見命)へと「海」と「山」が入れ替ってしまった。古事記神話編者のミスかどうかわかりません。
高祖神社(福岡県糸島市高祖1578)祭神 天津日高彦火々出見命・高礒比(豊玉姫)
天照大神宮 福岡県飯塚市蓮台寺375
2.海幸彦と山幸彦が奉斎する春日様
春日大神(かすがのおおかみ)といえば、一般の方々は奈良県三笠山の麓の春日大社の主祭神・天児屋根命(あめのこやねのみこと)ととらえられる頃行が強い。
春日大社の元々の本当の祭神は罔象女神様(みずはのめのかみ)、龍神様、水神様であり、罔象女神(神大市姫 かむおちひめ)を春日神(かすがのかみ)と称した。
罔象女神を祭神とする春日神社が本来の春日神社であるが、奈良の春日大社は、この春日神社に祭神三柱を追加したものとなっている。
祭神三柱とは海幸彦、山幸彦、姫大神(天鈿女命)である。しかも、海幸彦は天児屋根命と武甕槌命(たけみかつちのみこと)の二つの名前と社殿で祀られおり、四神殿が並ぶ。天児屋根命と武甕槌命は海幸彦の異名同神である。
当初の春日大社は罔象女神、海幸彦、山幸彦、天鈿女命の四神を祀るものであったが、罔象女神は消されてしまった。罔象女神は春日大社のもう一つ上の祭神とされる。
社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と枚岡(ひらおか)神社に祀られていた天児屋根命・比売神(ひめかみ)を併せ、奈良の御蓋山(みかさやま)の麓に四殿の社殿を造営した、となっている。
現在の春日大社の四神
武甕槌命 - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神 茨城県鹿嶋市宮中 鹿島神宮)天忍穂耳命
経津主命 - 同上(下総国香取の神 千葉県香取市 香取神宮) 彦火々出見命
天児屋根命- 藤原氏祖神(河内国平岡の神 大阪府東大阪市出雲井町枚岡神社) 天忍穂耳命
比売神 - 天児屋根命の妃(同上)天鈿女命
春日大社には、海幸彦、山幸彦のライバル同志が誤ってか、それとも香取神の神格を無視してか、二神が祀られている。共通にあるものは、かつて天鈿女命は海幸彦、山幸彦の夫であったということ。もちろん、格は天鈿女命こと伊勢外宮様が上である。その天鈿女命を今でも、海幸彦と山幸彦は取り合いの「けんか」をされている。その二人が現在の春日大社の中央の社殿に並んで祀られている。おもしろい配神の神社であり、見方によっては滑稽である。
その天鈿女命のお母様が、更に上格の罔象女神様である。天鈿女命は父・素戔嗚尊(すさのをのみこと)と母・罔象女神との間に誕生された神様である。その義母と言うべき罔象女神を、実母を差し置いて、ライバル海幸彦と山幸彦が共に奉斎されている。妃・天鈿女命以前の嫁さんは、海幸彦は市杵嶋姫、山幸彦は豊玉姫である。市杵嶋姫と豊玉姫は結婚当時、夫をしのぐ上格神であり、海幸彦も山幸彦も嫁の妃には頭が上がらなかったという。
さらに、海幸彦は義母・罔象女神を「大年御祖神 おおとしみおやのかみ」と格付けての力の入れようである。ここで、その力の入れようが、間違って理解されている神社がある。
浅間神社(せんげん神社、あさま神社)である。
3.浅間神社と大年御祖神
神社をあちこちと見て廻っているうちに、豊玉彦を祭神としない八龍神社に出会うことがある。闇龗神(くらおかみのかみ)=神俣姫(かみまたひめ)=素戔嗚尊の姉君を祭神とする八龍神社である。
八龍神社は豊玉彦(海神 わたつみ)が本当の祭神である。
闇龗神は難しい漢字なので当て字が「闇淤加美神」として使われている。
百嶋神代系譜(阿蘇ご一家)では (贈)綏靖天皇=神沼河耳命=金凝彦(かなこりひこ)=高龗神(たかおかみのかみ)の妃は神俣姫=闇龗神であり、その間に生まれた(贈)孝昭天皇こと草部吉見・天忍穂耳命の娘(阿蘇津姫)婿が健磐龍(たけいわたつ)こと手研耳命(たけしみみのみこと)とする。
神俣姫(かみまたひめ)は素戔嗚尊の姉となる神様である。
健磐龍は阿蘇神社の主祭神であり、海幸彦の弟である。
浅間大社は、もとは大年御祖神社(おおとしみおや神社)であり、本当の祭神は大年神(天忍穂耳命)の義理の母君(罔象女神・罔象女は妃の天鈿女命の母にあたる)であった。
ほとんどの人は、大年御祖神社の祭神を天忍穂耳命(海幸彦)と勘違いされている。
山の上には、この大年御祖神社(罔象女神)が鎮座されており、山の下には豊玉彦が鎮座されている、という。
浅間大社は本来、罔象女神と豊玉彦を祀る神社であったが、大年御祖を天忍穂耳命の母・闇淤加美神と義理の母・罔象女神を取り違いしてしまった。そのため、闇淤加美神と豊玉彦が親子で祀られているかのような錯覚を与えてしまった。
そこが、豊玉彦を祀る八龍神社に闇淤加美神が祀られる一端となった。
これは大年御祖神社の神格を正確に判断できなかったことによる。
大年御祖神社は、大年神(海幸彦)の御母親、実母でなく、義理の妃の母・罔象女神を祀る神社であった。
浅間大社
所在地 静岡県富士宮市宮町1-1
主祭神 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)
別称:浅間大神(あさまのおおかみ)
相殿神 瓊々杵尊(ににぎのみこと)大山祗(おおやまつみ)
浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的である。浅間神社の祭神が木花之佐久夜毘売命となった経緯としては、木花之佐久夜毘売命の出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされる。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。木花之佐久夜毘売命は、大山祗神の息女にして、瓊々杵尊の妃となられる。ご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち出産する。しかし、いつ頃から富士山の神が木花咲耶姫命とされるようになったかは明らかではない。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祗神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。
富士山本宮浅間大社HPより編集
4.ライバル海幸彦と山幸彦が妃の天鈿女命をめぐって、今でも喧嘩
福岡県筑紫野市原田の筑紫神社では主祭神として白日別神、五十猛命が祀られている。五十猛命は筑前と筑後の境の山の荒ぶる神であった。この五十猛命は、若き日は彦火々出見命こと山幸彦である。
筑紫神社 福岡県筑紫野市原田大字2550
祭神 白日別神(大幡主)、五十猛命(饒速日命)、玉依姫命、坂上田村麿
かつて、天鈿女命は天忍穂耳命(海幸彦) の妃であった。天鈿女命が彦火々出見命(山幸彦)に奪われるきっかけとなったのは倭国大乱である。
かつて、天鈿女命は天忍穂耳命(海幸彦) の妃であった。天鈿女命が彦火々出見命(山幸彦)に奪われるきっかけとなったのは倭国大乱である。
【倭国大乱】
ことは素戔嗚尊が、わが姉・神俣姫(かみまたひめ)の処遇に腹を立てたのが発端である。
神俣姫は阿蘇の神様・神沼河耳命の妃であり、その間に天忍穂耳命の子があった。神沼河耳命(かみぬまかわみみのみこと)には兄の神八井耳命(かむはえみみのみこと)がいた。弟の神沼河耳命は高淤加美神(たかおかみのかみ)である。
当時、神武天皇の皇后は金山彦の姫・吾平津姫である。神武は皇后・吾平津姫を神沼河耳命に下賜され、間に生まれた子が建磐龍であり、吾平津姫は名を蒲池姫に変えられる。神沼河耳命は天皇家並の扱いとなる。そして、神俣姫は離縁され、丹生津姫と改められる。
元々、天王(てんのう)と云われた素戔嗚、神武天皇と同等の天子の資格を持つ出自の素戔嗚は姉・神俣姫の処遇に激怒した。
素戔嗚の激怒を知った天忍穂耳命の妻であり、素戔嗚の娘である瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)は、夫・天忍穂耳命に神沼河耳との親子を離縁して、兄・神八井耳命の養子になることを勧める。結果、天忍穂耳命は阿蘇の惣領を弟の建磐龍(阿蘇神社)に譲ってしまう。そして、名を彦八井耳命とされる。
かくして、素戔嗚は武塔神となり、神沼河耳命の討伐となる。
素戔嗚の暴挙の結果、妃の櫛稲田姫(くしなだひめ)と罔象女は素戔嗚の妃の座を捨てて、豊玉彦のところに助けを求められる。結果、櫛稲田姫と罔象女は豊玉彦の妃となられる。
「神武の失政」と言われるものである。
この状況下、父・素戔嗚、伯母・神俣姫の姿を見かねた息子・長髄彦がいた。素戔嗚と同様に怒りは心頭に達した。倭国大乱の前兆である。
これら一連の騒動の調整・沈静に努められたのが大幡主。
神武天皇・大伯太子は大幡主に庇護され(亀甲に大の紋)、素戔嗚命、金山彦、大山祗は大幡主の配下となり、天皇家の実権は姉のヒミコに移ることになる。
阿蘇では天忍穂耳命・草部吉見は阿蘇の南に下がられ、本拠地を豊前・筑豊の瀛津世襲足姫の故郷に移される。息子の建南方は南九州を本拠地とされ、長髄彦の乱に呼応して「建南方の乱」を起こされる。第一次倭国大乱の始まりである。
天鈿女命が火の国の天忍穂耳命(海幸彦)を去られ、筑紫の国瀬高に入られ時、待ち構えていたのが、彦火々出見命(山幸彦)であった。かくして、天鈿女命は彦火々出見命の妃となられる。大年御祖神と崇めた罔象女は豊玉彦のもとに、その娘さん天鈿女命は彦火々出見命のもとに奪われる形となった。
さらに、追い打ちをかけたのが、当初の妃・市杵島姫も高木大神によって離縁させられてしまう始末である。
天忍穂耳命の天鈿女命への思いは彦火々出見命への怒りと無念の心情に、市杵島姫への思いは悲しみの心情となった。
やがて、天忍穂耳命の市杵島姫への思いは、日本版七夕神話へと繋がっていく。犬飼神・天忍穂耳命は牛飼神に、市杵島姫は織姫神となって、大河遠賀川を挟んで年ごとに逢瀬を忍ぶこととなる。
一方、天忍穂耳命の天鈿女命への思いは彦火々出見命への怒りと無念の心情となり、天鈿女命をめぐって、今でも、年一回の喧嘩を祭りの形式で行われている。
福岡市西区西浦の白木神社と福岡市西区宮浦の大歳神社である。
福岡市西区西浦の白木神社の祭神は五十猛神であり、「ヒョウガリィライ、ピンホーリィライ」(黎族のくそ野郎来るなら来てみろ、この野郎来るなら来てみろ)といって、東の隣接地区・福岡市西区宮浦の大歳神社(祭神・大歳神こと海幸彦)と祭りで喧嘩をなさっている。かつての嫁さん・天鈿女命を中心とした争いである。
百嶋先生講演 宇佐神宮とは何か 2012年3月17日
祟神天皇の子供の一人、久留米の豊城入彦(元、田主丸の豊木におられた)が、大分から移ってきた。祟神が自分の息子のうちの一人を四道将軍として関東に派遣した。茨城県の神住町、鹿島神宮(海幸彦)の武の神様があるところである。
ところが、この阿蘇系統は子孫が威張るという悪い癖がある。福岡地区で、その威張るという例をみることができる。
福岡市の海岸沿いの西の果て、西浦に白木神社があり、ご祭神は山幸彦であるが、山幸彦の奥様(伊勢の外宮様)の元の旦那である海幸彦が手離さないので、山幸彦は頭にきている。
京都の伏見大社の構成は、本当は山幸彦のグループで、本当の実力者は山幸彦の奥さんの伊勢の外宮様・天鈿女命である。それを元のダンナが手離さない。
ヒョウガリィライ、ピンホーリィライ(黎族のくそ野郎、来るなら来てみろ)、西浦の白木神社が一年に一回、今でも、そのことを祭りでやっている。
海幸彦は中国大陸にいた頃は黎族といっていた。
5000年前、黎族の一部が通称、漢民族に追われて、3000年かかって追いこめられた場所が雲南省で、そこにシナ城(シナ族)を作った。そこも追われて、二つのグループにわかれる。
一つのグループは櫛田神社の大幡主白族グループで、大半は紅河が流れるベトナムのハノイに到着する。また、一つのグループはシナ城の黎族グループで、メコン河を利用して南ベトナムの方に流れ込んだ。そして、二つのグループとも海南島で態勢を整えて、日本に移住しようということを打ち合わせた。日本に来て、天草・苓北に上陸した。そこにしばらくとどまった。
日本にきてからは黎族とはいわず耳族(天忍穂耳命)とも称した、そして、阿蘇に移動した。
そのころ阿蘇には既に高木大神系の「たくはたちぢ姫」、ヘブライ人が勢力をもっていた。高木の大神の一族は、日本の皇室と縁組をしていた。皇室の太祖は日本の怡土に住んで居られて 中国の漢民族が派遣していた日本統治のための事務所が糸島にあった、そういう尊い方と縁組をしていたので高木大神は威張るだけの力があった。
その威張ったあとの面影がどこに残っているかというと、熊本荒尾の虚空蔵山、草部吉見神社(かやべよしみ:朝鮮半島の伽耶、糸島にもある伽耶・可也)、今は雲仙市になっているが、もとの地名は雲仙市ではなかった諫早に大変近い有明海側の方、ここに高木の一族の古い古い遺産が残っている。ここに高木の紋章と鍋島の紋章が合体した独特の紋章(つたの紋章)をみることができる。

5.天忍穂耳命の市杵島姫への思いは、日本版七夕神話へと続く
日本版七夕神話の起源について前節で触りを述べた。各地の有名な七夕関連神社をみてみる。
(1) 福岡県小郡市の七夕神社
福岡県小郡市稲吉(いなよし)に老松神社の境内社、犬飼神を祀る牽牛社と宝満川を天の川に例えて、西岸の大崎(おおさき)の媛社(ひめこそ)神社があり、小郡市の七夕神社として街興しに紹介されている。
媛社神社 福岡県小郡市大崎1番地
小郡市大崎の媛社神社の祭神。
主祭神 媛社(ひめこそ)神=天鈿女命 磐船大明神=饒速日命(彦火々出見命) 天鈿女命の夫
織女神 七夕姫=市杵嶋姫
小郡市稲吉の老松神社の合祀境内社・牽牛社 犬飼神=天忍穂耳命
ここで、稲吉の牽牛社の祭神が牽牛神でなく、犬飼神となっている。
日本版の七夕祭りは、牽牛神と織女神の物語ではなく、犬飼神(天忍穂耳命)と七夕姫(市杵嶋姫)の物語であり、この物語を中国版七夕祭(牽牛神と織女神)の物語に置き換えている。
日本版七夕祭りは庶民の民俗的な行事でなく、日本の神社の七夕祭(たなばた、しちせき)であって、神社の神事とされる。
稲吉の牽牛社の祭神・犬飼神のご神体をみると、猟犬を連れていなくて、牛を連れておられる。犬飼神のご神体を作成する時、猟犬を共にすることは、行事の趣旨に向かず、犬を牛に無理に置き換えて、ご神体を作られたと推察する。さすがに、犬飼神の名前は変更できなかったのであろう。神様の名前を変更したのであれば、神事になりません。
(2) 佐賀県鳥栖市の姫古曽神社
佐賀県鳥栖市姫方町189 に小郡市大崎の媛社神社の起源となった神社・姫古曽(ひめこそ)神社がある。祭神は明治になるまでは、八幡大神が主祭神で、武内宿禰 住吉大神が祀られていた。主祭神は市杵島姫であったが、後に宇佐八幡宮より八幡神を分祀し、更に住吉高良の二神(玉垂命、住吉大神)を合祀して八幡宮と称して来た。主祭神の織女神(たなばた姫)=市杵島姫は、八幡宮の勧請の折、「たなばた屋敷」に遷され、明治維新後、主祭神を戻し、「姫古曽神社」と改称した。さらに無格社、祭神彦火々出見命、国常立神を追加合祀している。
しかし、残念ながら、2014年6月6日深夜、火災にあい、全焼焼失している。
鳥栖市姫方町の姫古曽神社は奈良時代に編纂された肥前国風土記に記述が残されているおよそ1300年の歴史を持つ神社で、社殿が全焼後、地元住民や企業からの寄付金、災害保険などをあわせ、3800万円をかけ社殿を再建されている。2017年8月6日、竣工式がなされた。
再建された姫古曽神社 佐賀県鳥栖市姫方町189、古墳の上に立つ
当時の神社境内由来碑によると、祭神は市杵島姫命、八幡大神、住吉大神、高良大神、管原道真(1810年追祀)となっている。
肥前風土記(730年頃)に、鳥栖市の姫古曽神社と小郡市大崎の媛社神社の関係を示す記述が。「筑後国三井郡小郡村大字大崎 郷社 媛社神社境内の図・銅版画」に書かれている。
(3) 宗像大社の大島中津宮の七夕祭
宗像市の大島は七夕伝説発祥の地と云われ、七夕祭は鎌倉時代から行われている。宗像大社中津宮の境内に流れる「天の川」をはさんで牽牛神社・織女神社が祀られ、旧暦の7月7日に近い8月7日に島内にて七夕祭りが行われている。
宗像大社(福岡県宗像市)は宗像三女神を祀る神社で、田心姫は宗像三女神のなかでも道主貴(みちぬしのむち)と呼ばれ、玄界灘に浮かぶ沖ノ島には沖津宮があり、田心姫を祀っている。中津宮の大島では湍津姫神(たぎつひめ・鴨玉依姫)が祀られ、本土の辺津宮では市杵島姫が祀られている。
大島中津宮では七夕姫の市杵嶋姫を祀る七夕祭がある。
ここの祭りでは牽牛神社・織女神社の名前は出ても、祭神の名前があがってこない。祭神が明確でないと、魂の抜けた祭りとなりかねなく、観光イベント色の強い行事と受けとめられそうです。
(4) 大阪北東部の枚方市・交野市
平安の往古、枚方市(ひらかた)、交野市(かたの)一帯は、交野ヶ原と呼ばれ、天野川が流れ、このあたりには七夕や星に関わる地名が多くあり、七夕伝説発祥の地と伝わる。右岸の交野市倉治には織姫(天棚機比売大神・あめのたなばたひめおおかみ)を祀る機物神社が、対岸の枚方市香里団地の中山観音寺跡には「牽牛石」と呼ばれる石があり、天野川を挟んで織姫と牽牛が対面するように位置する。また天野川上流の磐船渓谷にはニギハヤヒ命を祀った磐船神社がある。形式としては小郡市の七夕神社と似通っている。
庶民の民俗的な行事としての中国版「七夕祭り」が始まったのは江戸時代中頃といわれている。日本版神社の「七夕祭り」と庶民の民俗的な行事としての中国版「七夕祭り」は区別して考える必要がある。
庶民の民俗的な中国版「七夕祭り」とは七夕笹に願い事を架ける短冊等を伴うものであり、神事としての「七夕祭り」は元夫婦であった天忍穂耳命と市杵嶋姫が大河の遠賀川を挟んでの逢瀬を偲ぶものである。
神事としての「七夕祭り」は「肥前国風土記」に始まり、かなり古い。祭神の体裁が整っているのは福岡県小郡市大崎の媛社神社であろう。ここでは、織女神の七夕姫と牽牛社の犬飼神の祭神名がはっきりしており、ご神体を公表されている点は強い。
6.伊香色謎(イカシコメ)と伊香色雄(イカシコオ)
先代旧事本紀の物部氏系図に伊香色謎命と伊香色雄命が、天火明命(あめのほあかりのみこと)を初代として、孝元開化天皇時代に六世として記載されている。
しかし、高良玉垂宮神秘書の「高良記の事」では、天神七代の第5の神・大戸辺尊(おおとべのみこと)女性神として記載されている。伊香色謎命は山幸彦の妹で、長髄彦の妃となっている。伊香色謎命が山幸彦の妹であるならば、伊香色雄命は、山幸彦・ニギハヤヒその人となってしまう。
先代旧事本紀の物部氏系図が本物か、高良玉垂宮神秘書の「高良記の事」が本物か。
私は高良玉垂宮神秘書の記載を採りたい。
すると、伊香色雄命が罔象女神を奉斎されることが理解できる。また、物部族が九州から四国、中国地方へ展開していったことも理解できる。
長髄彦 伊香色謎 → 彦太忍信(ひこふつおし) → 屋主忍男武雄心(うづおしおたけおごり)
天神七代の第4から第7の8柱の神を祀る神社が八所宮(福岡県宗像市吉留3186)である。
神様の八神の名前からして、八所宮は素盞嗚系の神社と言える。
高良玉垂宮神秘書の「高良記の事」 天神七代
第1 国常立尊 くにのとこたちのみこと 男神 大幡主
第2 国狭槌尊 くにのさつちのみこと 男神 金山彦
第3 豊斟渟尊 とよぐもぬのみこと 男神 豊玉彦
第4 泥土煮尊 ういじにのみこと 男神 素盞嗚尊
沙土煮尊 すいじにのみこと 陰神 櫛稲田姫
第5 大戸之道尊 おおとのじのみこと 男神 長髄彦
大戸門辺尊 おおとまべのみこと 陰神 伊香色謎
第6 面足尊 おもだるのみこと 男神 金山彦
惶根尊 かしこねのみこと 陰神 埴安姫
第7 伊弉諾尊 いざなぎのみこと 男神
伊弉冉尊 いざなみのみこと 陰神
『先代旧事本紀』の物部氏系図 古田史学会報1999年10月11日 No.3

7.春日(かすが)と滓鹿(かすが)
春日が「かすが」と詠まれる。
飛鳥が「あすか」、長谷が「はせ」、日下が「くさか」と詠まれる。漢字の読みとしては理解できないが、和歌の枕詞的修辞句であって、それを地名の訓(よみ)とみると理解できる。
「春日(はるのひ)の滓鹿(かすが)」→ 春日(かすが)
「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」→ 飛鳥(あすか)
「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」→ 長谷(はせ)
飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」(『日本書紀』の天武朱鳥元年の条に、飛鳥浄御原宮の名から)が、飛鳥と書いてアスカと詠ませている。
また「春日(はるのひ)の滓鹿(かすが)」(春の日の霞む)が春日と記してカスガと詠ませている。
さらに「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」が「長谷」と記してハセと詠ませている。このように枕詞的に用いられた修辞句が、やがて地名表記にそのまま使われるようになった。例は、長谷、春日、飛鳥に見られるが、それを日下(くさか)に及ぼして、「日下(ひのした)の草香」という枕詞的修辞句があって、それが地名の訓(よみ)とみることができないか。
『白鳥伝説』谷川健一著 集英社
奈良県の東大寺や春日大社のある周辺を「滓鹿」(かすが)」と言った。
その滓鹿の枕詞が「春の日の」で、「春日」を「かすが」と読むようになった。春の日は霞が多く見られるからという。
【滓】(かす)は 液体などの底にたまるもの、と辞書に載っている。
奈良市の三笠山(御蓋山)の麓を滓鹿(かすが)と言った起源は私にはわからない。
滓鹿(かすが)
私の思いつきの想像であるが、古代製鉄所の産業廃棄物処理場のことではなかろうか。「滓」は製鉄の際にできた鉄滓(てっさい、てつかす、スラッグ)、「鹿」は「ふいご」に使用する鹿の皮をとった後に出た不要物(肉は食用にするから、皮と肉以外の物)であり、それらを処理し捨てた場所という意味かもしれない。要は古代製鉄所の跡地という意味と思っている。
「春日」という綺麗なイメージに反するような提起をしてしまいました(謝)。
因みに,福岡県筑紫国の飛鳥は小郡市の松崎・井上一帯を指し、大分自動車道井上PAと国道500号の間に上岩田・井上の老松神社(主祭神・開化天皇)が鎮座する。
筑紫国の春日は、現在でも同じ春日市であり、旧那珂郡にあり、春日神社が鎮座するが、旧那珂川町の南の脊振の南畑ダムの下流の市ノ瀬には、若き開化天皇の住まいがあったという。(その下流には、ゆかりの伏見神社、裂田神社が鎮座する) その宮を春日之伊邪河宮(かすがのいざかわのみや 春日率川宮)という。記録として初めて「春日」が登場する。