848 海幸山幸神話再考 「高良玉垂宮秘書」を巡って “宮原 誠一148論文の転載 @”
20201113
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「高良玉垂宮秘書」に関しては福岡県の筑後を中心に40年近く神社を調べてこられた宮原 誠一(「宮原誠一の神社見聞諜」)氏の独壇場に近く、エリヤは広いものの浅い情報を回収している私のブログとは重厚さが全く違います。近稿で新たに触れておられますので今度は逆に遡る形でご紹介したいと思います。
No.148 古代の製塩と糸島の塩土神社と大幡主 2020年07月26日(日) 10時00分00秒
宮原誠一の神社見聞牒(148)
令和2年(2020年)07月26日
No.148 古代の製塩と糸島の塩土神社と大幡主
全国に製塩の神様、塩土老翁(しおつちのおじ)を祭神とする鹽竈(塩釜)神社、塩土神社があります。福岡県糸島市では志摩芥屋に塩土神社(鹽土神社)が鎮座です。
『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁と表記されています。
1.塩土神社と塩土老翁
塩土老翁の神様は、山幸彦の神話に登場しますが、高良玉垂宮神秘書が山幸彦海幸彦の神話の原典と思っています。
高良玉垂宮神秘書 第1条(部分)
ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借り給いて、兄の彦火々出見尊は海原に出給いて、鉤を海に入れ給う。アカメクチというもの、この釣針を食い切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なれば、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れて立ち給う所に、塩土の翁と云う者、着たり曰く。我皇子にて、御身の御徳を忘れず。今現れ来たりなり。その御礼を申さんとて、メナシカゴ(目無籠)と云う者に、彦火々出見尊を連れ奉り、海中に招き入れれば、ほどなく竜宮界に着き給われる。
「神秘書」では、古事記で語られる山幸彦と海幸彦の神話に登場する人物が異なっていますが、話の筋は概ね同じです。恐らく、この「神秘書」の話が神話の原典でしょう。
神秘書では、天照大神には三人の御子がおられ、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊と述べています。天忍穂耳尊は実子でなく、養子になります。
また、彦火々出見尊(猿田彦)は塩土の翁(大幡主)の皇子と述べています。「塩土の翁」は大幡主です。大幡主は別名、神皇産霊神(かみむすびのかみ)であり、博多櫛田神社の主祭神・大若子です。「皇子」とあれば、妃は天照大神(ヒミコ)となります。大幡主と天照大神との間の皇子が彦火々出見尊と言っています。
塩土の翁(大幡主)と彦火々出見尊の出会いの竜宮物語は、福岡県糸島市志摩芥屋地方がイメージによく合います。糸島・志摩地方は大幡主と彦火々出見尊(猿田彦)を祀る神社が多数存在します。
その中で、志摩芥屋には塩土老翁を祀る塩土神社が鎮座です。
委奴の神=大幡主=国常立尊=神皇産霊尊=大地主神→奴国王(大若子・塩土老翁)
大幡主ご一統は海神族で、船航海には数日を要しますが、この長い日数の航海のなかで、発酵食品が発見されたと見ています。酒もその一つですが、事代主は薬の神様で有名で、酒造の神様でもあります。この技術を義兄弟の大山咋神に伝授しました。それで、大山咋神は松尾神社の酒造の神様として祀られています。また、大山祗ご一統は瓜、胡瓜、ブドウ、野菜等を列島に持ち込みました。
塩土神社 福岡県糸島市志摩芥屋370

塩土神社の屋根付き御潮井台 海砂が使用されていました
糸島の塩土神社
福岡県神社誌
住所 糸島郡芥屋村大字芥屋字東
祭神 塩土老翁、大山咋命
糸島郡誌
住所 糸島郡芥屋村
由緒 大字芥屋に在り。祭神は塩土老翁命にして、祭日は2月23日及び7月23日なり。四方よりの崇敬篤く、特に農作の守護神として害虫除けの神札を受けんが為、隣地は勿論、肥前地方よりの参拝者はなはだ多し。昔は藩主国主の尊敬最も深かりしを知るに足る古書類等多く、毎年正六月両度の大祭には郡内神職は更なり大庄屋等の臨席ありて祭典を執行しけり。したがって本社従来の建設物は悉く怡土志摩早良及肥前地方の寄附に成りたると云ふ。
福岡県の塩土神社
塩竃神社 京都郡苅田町下新津1542(京都郡小波瀬村大字興原字石塚)
塩竈神社 宗像市稲元一丁目11-43(宗像郡河東村大字稲元字野添)
塩竈神社 福津市津屋崎末広東竪川(宗像郡津屋崎町大字津屋崎字東竪川)
伊豆神社 遠賀郡水巻町頃末北二丁目9番1号(遠賀郡水巻町大字頃末字国定)
2.志波彦=天太玉命(豊玉彦)
福岡県朝倉市杷木の志波の入り口に国道386号と大分自動車道が交差し、その筑後川の辺の宮原の丘に鎮座されるのが志波の宝満宮です。神社由緒から、祭神は鴨玉依姫で、後に、神功皇后、応神天皇が追祀されていますが、本来の主祭神は天太玉命(豊玉彦 あめのふとだま)のようです。豊玉彦(龍王)に因み、拝殿の向拝の梁には荘厳な龍の彫刻です。
志波の宝満宮 福岡県朝倉市杷木志波字宮原5011
志波の宝満宮の社殿形式は豊玉彦(龍王)を祀る神社といえます。
境内社に天日鷲命(あめのひわし)を祀る神社があります。
天日鷲命は天太玉命(豊玉彦)と阿蘇津姫(天比理刀当ス あめのひりとめ)の御子です。別名、鳥子大神です。
鴨玉依姫を祀る志波の宝満宮は、その昔、本殿の古宮は豊玉彦を祀る神社ではなかったのか。この志波に因む「志波彦」という神名があります。
「志波彦=豊玉彦」を祀る神社が宮城県塩竈市に鹽竈(塩釜)神社があり、その境内に志波彦神社があります。祭神は志波彦大神=豊玉彦です。神紋は「流れ三巴」紋で、豊玉彦の紋章です。
鹽竈(塩釜)神社と言えば、熊本県天草の製塩の神様、塩土老翁(しおつちのおじ)が祭神となりますが、塩土老翁は大幡主であり、神皇産霊尊(かみむすびのかみ)で、豊玉彦の父となります。
猿田彦(彦穂々出見命)は塩土老翁の御子となります。豊玉彦と猿田彦は兄弟です。
3.志波彦神社・鹽竈神社
宮城県塩竈市に二社が同一境内に鎮座です。
住所:宮城県塩竈市一森山1番1号
志波彦神社(しわひこじんじゃ)
祭神:志波彦大神=豊玉彦(龍王)
鹽竈(塩釜)神社(しおがまじんじゃ)
塩土老翁神(別宮 大幡主、博多櫛田神社の祭神で那国の王様)
武甕槌神(左宮 たけみかつち 鹿島の神=海幸彦、天忍穂耳命)
経津主神(右宮 ふつぬし 香取の神=山幸彦、彦穂々出見命)
神紋「塩竈桜」「流れ三巴」
神社社説では、塩土老翁神(大幡主)は別宮扱いになっています。本殿の拝殿前の右に別宮社殿が西向きにあります。本来の主祭神を祀る鹽竈神社です。
志波彦神社の神額は豊玉彦の神紋「流れ三巴」が打ってあり、額縁の形は、豊玉彦→彦穂々出見命→ウマシマジ命の物部の流れを示す額縁です。
志波彦神社は明治7年、岩切(現仙台市宮城野区)にあったのが現在地に遷宮されている。
志波姫神社
住所:宮城県栗原市志波姫八樟新田126 祭神:木花開耶姫命(このさくやひめ)
志波姫は木花開耶姫(前玉姫)であり、志波彦大神は豊玉彦(龍王 小若子 こわくこ)
であり、この二神は夫婦神であり、その御子は神主玉命で橘一族の祖となります。
4.古代の塩分補給方法
古代の塩分補給方法として、簡単な方法は、塩分が含まれる温泉水(鉱泉)を採集する方法がありました。
佐賀県佐賀市の嘉瀬川上流の富士町下無津呂・上無津呂では神水川が流れており、「おしおいかわ」と呼んでいます。この地域一体は、古湯の温泉があり、鉱泉が沸き、水温も谷水としては少々高く、塩分、ミネラルが含まれています。
下無津呂には乳母神社(めのとじんじゃ)があり、傍を神水川が流れています。
乳母神社は、(鴨)玉依姫が姉(豊玉姫)の子(甥)・鵜草葺不合尊(うがやふきあえず)の乳母となり、育てたという、伝承があります。後に夫婦となり、間の子が安曇磯良(あずみいそら)です。
「おしおい」といえば筥崎八幡宮の御塩井汲みの神事を思い浮かべますが、元は大分八幡宮の潮汲みの場でしかなかったといいます。
御潮井(おしおい)汲みは、古代の山奥の集落では母子に安定した塩分とミネラルを供給する重要な行事で、これが後の神事となったのでしょう。
乳母神社(めのとじんじゃ)
所在地 佐賀県佐賀市富士町下無津呂 祭神 (鴨)玉依姫、大海祗(鵜草葺不合尊)

また、熊本県球磨郡湯前町には潮神社があります。通称「おっぱい神社」と呼ばれる。
乳房を型どったものに祈願して奉納すると子宝や安産、子育てにご利益があるとされる。
潮神社(うしおじんじゃ) 熊本県球磨郡湯前町野中田1598 祭神 鵜草葺不合尊

湯前町観光物産協会ゆのまえ便「潮神社」から https://yunomaenet.com/
ここの地名が「潮山」で、神社の名前が「潮神社」なのは、湧き水がしょっぱくて山の中なのに塩が出ると珍しがられたからだといわれています。
鉱泉が湧き、塩分、ミネラルが含まれ、佐賀県佐賀市富士町の神水川と同様に子育てに適した地だったのでしょう。
5.古代の製塩法・藻塩焼き
木桶みたいな容器がない古代は、海水を運ぶのは大変でした。
比較的容易に海水のかん水(こし水)を作る方法に藻塩焼きがありました。
海草のホンダワラを刈り取り、乾燥させて燃やすのです。その灰を水に溶かし布で濾(こ)すと、濃縮塩水の出来上がりです。灰は抗菌作用、澄み水を作り易く、理に適っています。
後の時代に平釜が出来れば、煮て蒸発させ、塩の結晶の出来上がりです。
しかし、この方法は面倒であり、効率がよくなく、後の時代まで続きません。
藻塩焼きを歌った歌碑を志賀島海岸で見かけます。
志賀島の北部に志賀海神社の沖津宮と仲津宮があり、その両宮間の海岸に万葉歌碑(志賀島10号碑)があります。※かん水(濃縮塩水)
志賀海神社 沖津宮 福岡県福岡市東区勝馬1789

万葉歌碑(志賀島10号碑)
「志賀の海人(あま)は 藻刈り塩焼き いとまなみ 髪梳(けつり)の小櫛 取りも見なくに」
志賀の海人は海藻を刈り取り、藻塩焼きをして暇がないので、髪を梳(す)く櫛を手にとっても見ないことよ 2000年3月 福岡市教育委員会
6.神社境内の御潮井台に見る古代の製塩法
福岡県北部の神社の拝殿前に御潮井台(おしおいだい)が置いてある神社があります。
ただ御潮井台が置いてあるだけの神社、御潮井台に塩を一握り置いてある神社、御潮井台に海砂を盛ってある神社と見かけます。この御潮井台も海水のかん水(こし水)を作る装置(台)です。
この装置は入浜式塩田法のミニ版で、神社の手洗い水盤を想像させるものです。
海水を大量に運ぶのは大変でしたが、一回の海砂と少量の海水を運ぶのは楽でした。
この台にテボ(竹かご)で運んでき海砂を置きます。この砂に運んできた海水をかけ乾燥させます。乾いたら、また、運んできた海水をかけ乾燥させ、繰り返します。
すると、御潮井台の砂は塩が大量に付着しています。そこに水を大量にかけて、台を傾けて、塩水を布に流し濾(こ)すと、濃縮塩水(かん水)の出来上がりです。
平釜がある時代になれば、煮て蒸発させ、塩の結晶の出来上がりです。
入浜式塩田法
塩田は海面より高い所の地面を平坦にならし固め、海砂を撒き、人力で海水を汲み塩田砂にかけ、水分を蒸発させ砂に塩分を付着させます。砂が乾いたら、また海水を塩田砂にかけ水分を蒸発させます。これを繰り返し、砂に大量の塩分が付着します。この砂を容器に集めて海水を注いで砂についた塩分を溶かし、かん水を取り出す。塩を取り出した砂は塩田に戻すことになります。
砥上神社(とかみじんじゃ)福岡県朝倉郡筑前町砥上980

御潮井台(鉢)
大山祗神社 福岡県筑紫野市大字本道寺340

鷂天神社 福岡県朝倉市上上浦230

鷂天神社の単なる御潮井台
塩筒老翁
『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁と表記されています。塩筒老翁の「筒」は塩水のかん水を入れる竹製の筒ではなかった、と思うのです。竹製品の製造も大幡主ご一統の伝統技術であり、それに因み、神紋はカゴメ紋です。
住吉三神は表筒男尊、中筒男尊、底筒男尊と表記しますが、表筒男尊は安曇磯良であり、下関住吉神社の主祭神です。安曇磯良は大幡主の直系で、大幡主の四世の孫・玄孫となります。
「高良玉垂宮神秘書」によれば、神功皇后は開化天皇(底筒男尊)に答えて、安曇磯良を天照大神の「玄孫」の間柄であるが故、玄孫大臣・物部大連(もののべおおつら)と申し奉るが、玄孫大臣と書いては、「ひまご(曽孫)大臣」と読め、とあります。
また、安曇磯良は志賀大明神であり、豊姫(ゆたひめ)は川上大明神であり、志賀海神社の夫婦祭神です。安曇磯良と豊姫の子・日往子(ひゆきこ)は、神功皇后が亡くなると、開化天皇(安曇磯良とは義兄弟)に甥として連れられて高良山に上がり、高良大社の大宮司家・鏡山家の祖となるのです。
安曇磯良は表筒男尊、大幡主の玄孫、大幡主・塩筒老翁と繋がってきます。
中筒男尊は贈崇神天皇で、神功皇后の審神者(さにわ)です。
表筒男尊 安曇磯良 下関住吉神社の主祭神
中筒男尊 (贈)崇神天皇 博多住吉神社の主祭神
底筒男尊 開化天皇(玉垂命) 摂津住吉大社の主祭神
オリオン座の三ツ星
古事記(岩波文庫1963年)の注釈の蘭「筒は星の借字で底・中・上の三筒之男はオリオン座の中央にあるカラスキ星(三ツ星)を指し、これを目標として航海したところから、航海を掌る神と考えられる」倉野憲司(注釈) カラスキ(唐鋤)とはオリオンの三ツ星の和名です。
福岡県鞍手の剣神社の配置はオリオン座であった「まにまに。」佐月管理人
ブログ「まにまに。」剣神社8シリーズ 2017年4月30日〜5月5日
福岡県鞍手郡鞍手町の剣神社の配置はオリオン座の星座の位置と同じであると言われる。神社の配置を星座と結びつける視点は、私には新しい観点です。佐月さんは妹さんの産土神を調査中に剣神社配置とオリオン座の関係を見出したと言われています。
その7社の神社名です。
@剣神社【木月】福岡県鞍手郡鞍手町木月(きづき)1349
A剣神社【新延】福岡県鞍手郡鞍手町新延(にのぶ)1998
B剣神社【龍徳】福岡県宮若市龍徳(りゅうとく)1639
C劔神社【新入】福岡県直方市下新入(しんにゅう)2565
カラスキ星(三ツ星)
(1)八釼神社【中山】福岡県鞍手町大字中山(なかやま)1588
(2)剣岳の八釼神社上宮
(3)熱田神社【新北】福岡県鞍手町大字新北(にぎた)1565
剣神社、八釼神社の論考は留め置き、鞍手は筑豊物部の中心地です。星読みは物部の伝統的技術と思えば、神社の星座配置は意図的かもしれません。
剣神社の祭神をヤマトタケルととらえれば、剣は草薙剣となりますが、剣神社を物部神社とみれば、剣は七枝刀となります。
神社由緒はヤマトタケルのクマソ征伐を強調しますが、そうであれば、実際は筑豊物部征討となります。しかし、筑豊物部は物部守屋まで続き、物部征討はないことになります。ヤマトタケルと草薙剣と筑豊はどのような関係があるのでしょうか?また、草薙剣は三種神器の神剣です。
「八釼 やつるぎ」は八本の剣という解釈が主流をなしているようですが、八釼は神剣という意味です。ヤマトタケルは神剣をどうして外の実戦に持ち出すことができたのでしょうか?今後の課題です。
祭神
@剣神社【木月】素盞鳴尊、日本武尊、宮須姫
A剣神社【新延】素盞鳴尊、宮簀姫、日本武尊
B剣神社【龍徳】日本武尊
C劔神社【新入】伊弉諾尊、日本武尊
(1)八釼神社【中山】日本武尊、素盞鳴尊、宮簀媛
(3)熱田神社【新北】熱田大神(草薙神剣、代天照大神)、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛
7.博多櫛田神社の祇園祭のお汐井取りと舁(か)き山
草創期の筥崎八幡宮は大分(だいぶ)八幡宮の潮汲みの場でしかなかった。その筥崎八幡宮前の浜で、櫛田神社の祇園祭の神事の一つである竹籠に海砂を採る「お汐井取り(おしおいとり)」の神事があります。
古代は竹籠で海砂を採り、運び、海水を砂にかけ、また乾いて海水を砂にかけ濃縮して、濃縮塩水を作った。それが神社の境内に「お汐井鉢(台)」として残っているという。
現在の櫛田神社の「お汐井取り」の神事は祇園祭の行事の一つですが、古代製塩法を祭りの形として残すものではないか、と思うのです。
博多櫛田神社の主祭神は那(奴)国の王様・大幡主(大若子)で、別名・塩土老翁(しおつちのおじ)です。製塩の神様の神事が「お汐井取り」の神事としての名残ではないか。
お汐井とりが終わると、舁き山が動き始めます。
お汐井取り
7月1日は各流(ながれ)の当番町が「お汐井とり」を行い、7月9日に全ての流が総出で「お汐井とり」を行う。水法被に締め込み姿の集団がお汐井道を駆け、一番山笠が石堂橋を午後5時半に渡り、その後、各流が順に石堂橋を渡って、午後6時頃から箱崎浜に到着。安全を祈願し、清めのお汐井(海砂)を竹製のテボに入れて持ち帰ります。この時の海砂「お汐井」は「清め」の意味があり、舁き手の体や山笠台に振り掛けたり、舁き山(かきやま)に吊したりして使用される。
お汐井とりが終わると、翌日10日から舁き山が動き始める。
舁き山と山車(だし)
舁き山(かきやま)と山車(だし)は祇園祭の出し物です。山車は曳山(ひきやま)です。
このモデル起源は「船越 ふなこし」の船担ぎ、船引にある、と私は考えています。
二つの川が接近する所、船を横の川に移動させる時、船を担いでいきました。これが舁き山のモデル起源です。大型帆船は台車を船底に当て、引いて移動しました。これが山車・曳山のモデル起源です。山車の山矛は帆柱に相当します。
舁き山と山車は素盞鳴尊の祇園祭として定着していますが、祭りの形態は日頃の生活の何かを参考にしているはずです。突然に空想的に思い浮かぶものではありません。
その参考にされたものが、櫛田神社の主祭神・大幡主の船の陸上の移動にあった、と想定するのです。
船の陸上移動の場所が「船越 ふなこし」の地名として残っています。
私の田主丸町では筑後川と巨瀬川の間に「船越」の地名があります。
菅原道真公が九重日田から下流の北野に船で移動する時、ここの船越を通り移動し筑後川から巨瀬川へ乗り換えています。後に、この地域が配下の小川氏の領地となり、「小川」の地名になっています。
また、海岸部において、長い岬がある所、半島の付け根も同様に、船を担いだり、引いて移動し、船移動の時間を短縮させました。その付け根の場所も「船越」の地名が残っています。
参考資料 船越
ひぼろぎ逍遥 2014年06月14日
415 苧扱川(オコンゴウ)B 太宰府地名研究会 古川清久 管理人
諫早の船越、小船越
非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
ひぼろぎ逍遥 2019年09月21日
687 船越 太宰府地名研究会 古川清久 管理人
船越という地名があります。インターネットで検索したところ、北から青森、岩手、宮城、秋田、福島、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、鳥取、広島、山口、愛媛、福岡、長崎、沖縄の各県に単、複数あり、県単位ではほぼ半数の23県に存在が確認できました(マピオン)。もちろんこれは極めて荒い現行の字単位の検索であり、木目細かく調べれば、まだまだ多くの船越地名を拾うことができるでしょう。それほど目だった傾向は見出せませんが、九州に関しては、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、大分にはなく、一応"南九州には存在しないのではないか"とまでは言えそうです。