2021年11月12日

845 景行記の八女津姫とは誰なのか? “八女津媛神社(福岡県八女市)”

845 景行記の八女津姫とは誰なのか? “八女津媛神社(福岡県八女市)”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県の現八女市に八女津媛神社があります。それこそ急峻な大渓谷に造られた日向神ダムを越えさらに山中に分け入った場所にある神社であることから、景行記に登場する有名な神社であるにも拘わらず、実際に現地を踏んだ方はかなり少ないのではないかと思います。

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10年程前でしたか頻繁に足を向けていた時期がありました。しかし、最近はあまり入ってはいません。

また、この矢部村の地名について現地で講演した事さえもあったのですが、その頃まではこの神社の女神様がどのような素性の方であるかについて全くの見当が着いていませんでした。


「日本書紀」によると、景行天皇が八女の県(やめのあがた)に巡行されたとき、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい、あの山に誰か住んでいるか」と尋ねられました。

そのとき、水沼の県主猿大海(さるのおおあま)が、「山中に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にいる」と答えたことから八女の地名が起ったと記されています。

八女津媛神社はこの八女津媛を祭った神社で、創建は養老三年三月(719)と伝えられています。

八女の地名の起こりにもなった八女津媛は、弥生時代から古墳時代まで各地の豪族が治めていたクニの、女首長であり祭祀を行なっていた巫女の一人だったと思われます。

この時代は、魏志倭人伝に記されている邪馬台国の女王卑弥呼の様に、巫女の力を持った各地の女首長が、鬼道や呪術といった宗教的な行いによってクニを治めていたのです。

「鬼道」の「鬼」とは、古代では「神」と同じ意味を持っていましたので、「鬼道」とは「神道」と同じことになります。

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 いわゆる邪馬台国ファンなどにも景行巡幸に関する話は結構知られており、八女ツ姫も山奥深く住む女神としてご存じの方は多いようです。

 ただ、八女ツ姫が居たから八女という地名が生れたのは如何にも乱暴な話で創られた話の類と言うべきでしょう。

 そもそも八女市の中心部にかなりの大型河川である矢部川が流れ、矢部村に八女津媛神社が在る訳で「矢部」と「八女」とは同一の固有名詞である事が推定されそうで、むしろそちらの方からアプローチをするべき問題であろうと考えています。

 これについてはかつて共に調査を行っていたN氏が「八女と矢部」としてこの二つは全く同一の地名であり、呉音、漢音に関わるM音とB音の入れ替わり現象を反映したものであるとの説を出しています。

 それについてはこれ以上触れませんが、何故、山奥に漢音系の「矢部」が地名として成立し、下流の平野部が古くから「八女」と呉音系の発音を残しているかについては、恐らく南北朝争乱期に宮方として蟠踞した五条家が漢音系の発音を好んだ(呉音は全く馴染みがない)ためではないかと考えています。

 今回、何故この神社を取り上げたかと言うと、熊本で神社トレッキングを行なっている2系統の一つのグループのメンバーからこの八女津姫がどのような素性の人であるかの問い合わせが来たからです。

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八女津媛神像


 一般的にはこの半磐座遺跡とも言うべき神社を訪ねられてもこの女神像が出迎えてくれるだけで、何の由緒書もなくなんとなくイメージだけを膨らませて見るものの、実体は掴めず空しく神社巡りをして帰るだけになるでしょう。この点については神社庁も公には具体的な情報を持っていないようで、「福岡県神社誌」にもほとんど記述といえるほどのものがないのです(下記)。

 つまり、八女津媛がこの一帯に住んで居たといったという伝承があるだけだったのだと思うのです。

 ところが、百嶋先生にはこの女神様の素性がお分かりだったようです。

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それは、百嶋家のご先祖が熊本県の玉名に移動する以前の本拠地が、福岡県八女市の黒木の一帯の相当に有力な家系の方(当然、津江神社:福岡県八女市黒木町今49の社家に近接する一族)であった事から、その内部に伝わる直接的な情報を得ておられたのだろうと思います。

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百嶋由一郎 八女ツ姫神代系譜(部分)

 お分かりでしょうか?皆さん良くご存じのニニギの命(タカミムスビの神の息子)とコノハナノサクヤ姫(大山祗の次女)の間に産まれた古計牟須姫(糸島にありますね)と、贈る孝安天皇(玉名の疋野神社の主神)の間に産まれた筑後(久留米)の三潴の君の祖武国凝別の娘宇佐ツ姫(ウサツヒメ:ウサツヒコと共に、開化の臣下でしかない崇神を神武として装い出迎えたとした)と贈る景行天皇の間に産まれたのが八女ツ姫なのです。

 さらに言えば、ウガヤフキアエズと市杵島姫の娘の下照姫(絶世の美女と言われた)の間に産まれた水沼の県主猿・大海姫(驚くことに女性なのです)こと八女津姫について景行に告げた随行者も描かれているのです。つまり、役者を全て描いておられたのでした。これは、氏が日本書記の景行天皇条の話に登場する人物について、地元の神社に伝わる本当の話を回収できる地位にあった家系の方だったからなのです。

 それは、百嶋由一郎氏の御先祖が女の黒木の有力者の家系であり、後に玉名に移動し大地主となった(明治の所得番付百傑)家系だったからこそ景行の血筋も、八女津姫の血筋も全て把握されておられた事が分かるのです。景行は玉名の疋野神社の主神である贈る(藤原が自らの勢力に取り込むために第5代天皇扱いにした)孝安天皇の子になるのですが、こう言った隠された生の情報を得られる立場にあったのです。

 従って、景行とは近畿大和朝廷が熊襲を退治するために送ったものなのではさらさらないのであって、未だにこんなことを信じているのが通説派の畿内説論者なのです。

殆ど漫画の世界ですね。勿論、八女津姫が卑弥呼などではない事も言うまでもないことです。

尚、先生のメモに在る八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1)の美奴売大神については長くなるため別稿とします。

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百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は090-6298-3254までご連絡ください。全時間対応です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記