844 大原八幡宮再考 北関東の大原神社から C 未知の駅 捄フサ が描く大原神社(習志野編)
20200820
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
未知の駅 捄フサ からの転載です
未知の駅 捄フサ

B大原神社と大原足尼(習志野編) 習志野市実籾字葉抜1-30-1 2019/02/09/12:43
最後は習志野市の大原神社です。
大原大宮神社オオハラオオミヤジンジャ 習志野市実籾字葉抜1-30-1
神紋は左三つ巴ですね。 おっ幣束が4本だ!
当神社は二つの神社が合併した神社となっています。その経緯は看板にも記載があります。
『大原大宮神社縁起
この神社は、伊勢神宮御祭神の天照大御神の親 イザナギ大宮父 イザナミ大原母 の二神が祀られている。天治元年(1124)実籾本郷に創立され、門前を通じる徳川家康公の御成街道完成と共に現在の場所に遷座されたのが、文禄元年(1592)である。
御祭神が男女二柱の為、遠い昔から縁結びの神として広く知られている。
この大原神社が全国八万神社の中から選ばれ、昭和51年秋に神社庁は第一次模範神社(各県1〜2社)に指定した。』
大原神社は元は千葉郡幕張町実籾字葉抜という鎮座地になります。
幕張町ということは元々は現在の千葉市美浜区幕張町の地域であったことになります。この幕張エリアが開発で非常に発展した土地となり、市の境界が見直され現在の形になったため、元々のエリアを判別するのが難しい場所でもあります。
またこのエリアに鎮座する9社にて七年毎に行われる「七年祭り」が有名でして、中心になっている二宮神社を筆頭に役割があり、記載すると以下のようになります。
二宮神社(役割:父、夫)船橋市三山鎮座
菊田神社(役割:伯父)習志野市津田沼鎮座
八王子神社(役割:末息子)船橋市古和釜町鎮座
高津比盗_社(役割:姫君)八千代市高津鎮座
時平神社(役割:長男)八千代市大和田鎮座、八千代市萱田町鎮座
大宮大原神社(役割:叔母)習志野市実籾鎮座
三代王神社(役割:産婆)千葉市花見川区武石町鎮座
子安神社(役割:母、妻)千葉市花見川区畑町鎮座
子守神社(役割:子守)千葉市花見川区幕張町鎮座
なんの劇の配役なんですかという質問がきそうですが、この祭りの起源とされる伝承があります。諸説あるのでざっと大筋をご紹介します。
七年祭りの参加神社にも名前が見える藤原時平(891〜909)ですが、彼は菅原道真の左遷に加担し政権を掌握しましたが39歳という若さで亡くなり、道真の怨霊の祟りだと噂されました。そして伝承では治承4年(1180)その時平の子孫・諸常(または師経)が平清盛に都を追われて舟で東国へ下る途中、風雨が強くなり子守神社に避難しました。そこで奥方が安産で子を産み、夫婦は3年間隠れ住んだ後に深山(二宮神社の鎮座地である三山)に移り住みます。諸常の子は成長し子守神社の神を崇敬して三山に勧請、境内に祖先・時平の御霊を祀り神主となったといいます。
その後千葉一族の馬加康胤の奥方が臨月を過ぎても出産の気配がないため康胤が子守神社と二宮神社の神主に加持祈祷をさせたところ、満月の夜に両社の神影を重ね波に寄せて清め、磯辺に暫く祀れば無事に出産を迎える」と神託があったので早速祭事を行った所、海中から龍灯があがり子守神社に飛来。その翌日に男児が誕生した、というものです。
また別の伝承では鎌倉時代に藤原師資(師賢)が下総に船で流された時、海が荒れだし師資は習志野市鷺沼の畔に辿り着いたが姉を乗せた舟が見つからず、烽火を揚げさせたが見つからなかったといいます。烽火の跡は現在塚となり火の口と呼ばれ七年祭りで磯出祭の帰途に二宮神社の神輿をこの塚の上にあげて当時を偲ぶといいます。ざっとまとめましたが、出産した奥方は千葉常胤の娘だという伝承もあります。
また藤原師資の海上ではぐれた姉は市原市姉崎の姉埼神社まで流されたとも伝わり、過去には七年祭りに参加していました。姉埼神社には姉神が弟神を待っていたが、いつまでも来ないので待つことが嫌になったため、社地に「待つ」ことを連想させる松は植えないし氏子も松飾をしないという禁忌伝承が残っています。他にも現在は七年祭りに関係する神社が幾つかありますが、それはまた今度。さて、七年祭りをふまえて大原大宮神社の解析を始めましょう。まずは合祀された大宮神社ですが「千葉県神社明細帳」を見ると明治41年という割と近代に大原神社に合祀されていることがわかります。旧鎮座地は千葉郡幕張町実籾本郷字上宿。由緒不詳、御祭神は伊弉諾命になっております。ちなみに大宮神社跡地には小さなお社が祀られており、引き続きどなたかが奉仕されているようです。現住所は習志野市実籾本郷12です。さて大原神社です。御祭神は伊弉册命。神紋は神社にあったのは左三つ巴・右三つ巴。本殿を見てみましたが・・・
うーん、見えない・・・ 反対側も見えない・・・
神紋もありませんし千木もないのでわかりませんが、主神が伊弉册命であることから、こちらも女神様で間違いはないと思いたい。ですが拝殿に幣束が4本あったので伊弉册命・伊弉諾命の他にあと二柱おられるはず!手掛かりを探してウロウロしていて発見したのが、社務所の御守り等の中でした。
神社のHPで確認したところ「竈三柱大御神」でした。宮司さんに確認したところ古くからお札は扱っているということでした。竈三柱大御神といえば火産霊命・奥津比古命・奥津比売命です。もしかしたら三柱の中の奥津比古命・奥津比売命が奉斎されているのかもしれません。境内社に関しては元々あった庚申社(猿田彦命)の他に明治43年に
三山神社(月読命・素盞嗚命・蛭子ノ命)
八幡神社(應神天皇)
第六神社(素盞嗚命)
八坂神社(素盞嗚命)
明治44年に弁財天社(伊都伎嶋大神)を合祀しています。
三山神社・・・ひっかかるなぁ〜♪
子安大明神2基と御嶽山大神
小社と石祠 浅間大神
今回で大原神社の取材は終了ですが、大原足尼に関しては何一つわかりませんでした〜(汗)ただ三カ所に共通して言えるのは古代から開けた土地であったという点です。流山大原神社は三輪野山遺跡群の近くに鎮座しています。君津大原神社も久留里に近く、久留里は日本武尊に退治された阿久留王の本拠地だったんじゃないかな〜と勝手に推測している地です(久留里神社にも行ったので後日記事にします)そして習志野大原神社の付近にも、実は東鉄砲塚古墳を始め古代遺跡が点在しています。
本当はもっと遺跡があったと思うのですが、なにせ都市部は開発が激しく、古墳は削られてしまったと思います。三つの大原神社には「女神様を祀る」という共通点もあります。もし真の御祭神が大原足尼ならば「足尼」の表記は女性用ですから女神様を奉斎しているのは当然なのです、が・・・情報が・・・!千葉県には情報が足りないっ・・・!これ以上はお手上げです、すみません。では別の方向からということで、旧千葉県夷隅郡大原町の「大原」の由来について(旧大原町は現在はいすみ市に合併されていすみ市大原となっています)
大原町の「大原」の地名由来は元々中魚落郷ナカイオチゴウと称していた当地の新田開発地であったとされており寛政2年(1790)には「大原宿」と呼ばれる宿場町が形成されていたといいます。大原という地名の歴史は浅いように見えますが、まだわかりませんよ〜!なぜなら旧称・中魚落郷は和名抄に載る「廬道郷イオチゴウ」の遺称地と考えられていて、その場所はいすみ市大原に否定されているのです。現在は失われているだけで往古は大原神社があったのかもしれません。なにせ旧大原町には違和感を感じるほど神社が乱立しています。元々あったのか、または大きな神社を壊した際に奉斎していた御祭神を別々に分けて新たにお祀りしたのか、それはわかりませんが土地の領域に対して神社数の多さは他地域には見られない状態ということは言えます。
FloodMapsにて13m海面を上昇させた場合
また当地は往古、伊甚国造が治めていた地で多くの謎に包まれている土地でもあります。不遇なあの伊甚国造です。玉の献上を強要されたあの伊甚国造ですよ。私見ではあの「珠」は真珠などではなく、一宮町の玉前神社の御靈代である「宝珠」のことだと思ってます。また伝承も神社も興味深い物がたくさん残っていて、私の鼻息を荒くさせる地でもあります。七十五座の神事とか、大原の裸祭りとかね〜(ワクワク)
当地に所縁の上総介広常に関しても、HP「ひぼろぎ逍遥」の古川さんとのお話していて閃いた事の裏付けを取らないとと(ママ)考えています。また資料調査してると房総の太平洋側は古いお社がかなり残っている感じなんですよ。夷隅周辺はまだまだ調査すれば新事実が出てくると思ってます、やるぞぅ!!
あ、あとから1つ気が付いたのは君津大原神社と同じ平山に鎮座している秋葉神社の事です。グーグルマップで見てみると道路に背を向けて鎮座しているので気になってお社が向いている方向を辿ってみると、なんと大原神社の方向だったのです!秋葉神社といえば御祭神は火産霊命か軻遇突智命ですが、百嶋神社考古学では金山彦のことです。ということは、金山彦に関係する女神様が真の御祭神・・・?謎は深まります。次回からは引き続き「下総七年祭り」について関係神社を紹介していこうと思います。あ、その前に赤城神社を!
関東ではカガセオと呼ばれているようですが、イザナギ、イザナミの子であるスサノウが金山彦の娘である櫛稲田姫を妃として産まれたナガスネヒコこそがカガセオであり、繋がりが掴めるかも知れません。
大原の正体が直ぐに掴めるとは思っていませんが、基礎調査の段階を重ねているといつしか踊り場に遭遇し視野が一気に広がる時があるのです。リポート転載深謝!(古川)