2021年11月09日

844 大原八幡宮再考 北関東の大原神社から C 未知の駅 捄フサ が描く大原神社(習志野編)

844 大原八幡宮再考 北関東の大原神社から C 未知の駅 捄フサ が描く大原神社(習志野編)

20200820

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


未知の駅 捄フサ からの転載です


未知の駅 捄フサ


無題.png

B大原神社と大原足尼(習志野編) 習志野市実籾字葉抜1-30-1 2019/02/09/12:43

最後は習志野市の大原神社です。

大原大宮神社オオハラオオミヤジンジャ 習志野市実籾字葉抜1-30-1

無題.png

無題.png

神紋は左三つ巴ですね。                おっ幣束が4本だ!

無題.png

当神社は二つの神社が合併した神社となっています。その経緯は看板にも記載があります。

『大原大宮神社縁起

この神社は、伊勢神宮御祭神の天照大御神の親 イザナギ大宮父 イザナミ大原母 の二神が祀られている。天治元年(1124)実籾本郷に創立され、門前を通じる徳川家康公の御成街道完成と共に現在の場所に遷座されたのが、文禄元年(1592)である。

御祭神が男女二柱の為、遠い昔から縁結びの神として広く知られている。

この大原神社が全国八万神社の中から選ばれ、昭和51年秋に神社庁は第一次模範神社(各県12社)に指定した。』

大原神社は元は千葉郡幕張町実籾字葉抜という鎮座地になります。

幕張町ということは元々は現在の千葉市美浜区幕張町の地域であったことになります。この幕張エリアが開発で非常に発展した土地となり、市の境界が見直され現在の形になったため、元々のエリアを判別するのが難しい場所でもあります。

またこのエリアに鎮座する9社にて七年毎に行われる「七年祭り」が有名でして、中心になっている二宮神社を筆頭に役割があり、記載すると以下のようになります。

二宮神社(役割:父、夫)船橋市三山鎮座

菊田神社(役割:伯父)習志野市津田沼鎮座

八王子神社(役割:末息子)船橋市古和釜町鎮座

高津比盗_社(役割:姫君)八千代市高津鎮座

時平神社(役割:長男)八千代市大和田鎮座、八千代市萱田町鎮座

大宮大原神社(役割:叔母)習志野市実籾鎮座

三代王神社(役割:産婆)千葉市花見川区武石町鎮座

子安神社(役割:母、妻)千葉市花見川区畑町鎮座

子守神社(役割:子守)千葉市花見川区幕張町鎮座

なんの劇の配役なんですかという質問がきそうですが、この祭りの起源とされる伝承があります。諸説あるのでざっと大筋をご紹介します。

七年祭りの参加神社にも名前が見える藤原時平(891909)ですが、彼は菅原道真の左遷に加担し政権を掌握しましたが39歳という若さで亡くなり、道真の怨霊の祟りだと噂されました。そして伝承では治承4年(1180)その時平の子孫・諸常(または師経)が平清盛に都を追われて舟で東国へ下る途中、風雨が強くなり子守神社に避難しました。そこで奥方が安産で子を産み、夫婦は3年間隠れ住んだ後に深山(二宮神社の鎮座地である三山)に移り住みます。諸常の子は成長し子守神社の神を崇敬して三山に勧請、境内に祖先・時平の御霊を祀り神主となったといいます。

その後千葉一族の馬加康胤の奥方が臨月を過ぎても出産の気配がないため康胤が子守神社と二宮神社の神主に加持祈祷をさせたところ、満月の夜に両社の神影を重ね波に寄せて清め、磯辺に暫く祀れば無事に出産を迎える」と神託があったので早速祭事を行った所、海中から龍灯があがり子守神社に飛来。その翌日に男児が誕生した、というものです。

また別の伝承では鎌倉時代に藤原師資(師賢)が下総に船で流された時、海が荒れだし師資は習志野市鷺沼の畔に辿り着いたが姉を乗せた舟が見つからず、烽火を揚げさせたが見つからなかったといいます。烽火の跡は現在塚となり火の口と呼ばれ七年祭りで磯出祭の帰途に二宮神社の神輿をこの塚の上にあげて当時を偲ぶといいます。ざっとまとめましたが、出産した奥方は千葉常胤の娘だという伝承もあります。

また藤原師資の海上ではぐれた姉は市原市姉崎の姉埼神社まで流されたとも伝わり、過去には七年祭りに参加していました。姉埼神社には姉神が弟神を待っていたが、いつまでも来ないので待つことが嫌になったため、社地に「待つ」ことを連想させる松は植えないし氏子も松飾をしないという禁忌伝承が残っています。他にも現在は七年祭りに関係する神社が幾つかありますが、それはまた今度。さて、七年祭りをふまえて大原大宮神社の解析を始めましょう。まずは合祀された大宮神社ですが「千葉県神社明細帳」を見ると明治41年という割と近代に大原神社に合祀されていることがわかります。旧鎮座地は千葉郡幕張町実籾本郷字上宿。由緒不詳、御祭神は伊弉諾命になっております。ちなみに大宮神社跡地には小さなお社が祀られており、引き続きどなたかが奉仕されているようです。現住所は習志野市実籾本郷12です。さて大原神社です。御祭神は伊弉册命。神紋は神社にあったのは左三つ巴・右三つ巴。本殿を見てみましたが・・・

無題.png

うーん、見えない・・・            反対側も見えない・・・

神紋もありませんし千木もないのでわかりませんが、主神が伊弉册命であることから、こちらも女神様で間違いはないと思いたい。ですが拝殿に幣束が4本あったので伊弉册命・伊弉諾命の他にあと二柱おられるはず!手掛かりを探してウロウロしていて発見したのが、社務所の御守り等の中でした。

無題.png

神社のHPで確認したところ「竈三柱大御神」でした。宮司さんに確認したところ古くからお札は扱っているということでした。竈三柱大御神といえば火産霊命・奥津比古命・奥津比売命です。もしかしたら三柱の中の奥津比古命・奥津比売命が奉斎されているのかもしれません。境内社に関しては元々あった庚申社(猿田彦命)の他に明治43年に

三山神社(月読命・素盞嗚命・蛭子ノ命)

八幡神社(應神天皇)

第六神社(素盞嗚命)

八坂神社(素盞嗚命)

明治44年に弁財天社(伊都伎嶋大神)を合祀しています。

三山神社・・・ひっかかるなぁ〜

 無題.png

子安大明神2基と御嶽山大神

無題.png

小社と石祠                浅間大神

今回で大原神社の取材は終了ですが、大原足尼に関しては何一つわかりませんでした〜(汗)ただ三カ所に共通して言えるのは古代から開けた土地であったという点です。流山大原神社は三輪野山遺跡群の近くに鎮座しています。君津大原神社も久留里に近く、久留里は日本武尊に退治された阿久留王の本拠地だったんじゃないかな〜と勝手に推測している地です(久留里神社にも行ったので後日記事にします)そして習志野大原神社の付近にも、実は東鉄砲塚古墳を始め古代遺跡が点在しています。

本当はもっと遺跡があったと思うのですが、なにせ都市部は開発が激しく、古墳は削られてしまったと思います。三つの大原神社には「女神様を祀る」という共通点もあります。もし真の御祭神が大原足尼ならば「足尼」の表記は女性用ですから女神様を奉斎しているのは当然なのです、が・・・情報が・・・!千葉県には情報が足りないっ・・・!これ以上はお手上げです、すみません。では別の方向からということで、旧千葉県夷隅郡大原町の「大原」の由来について(旧大原町は現在はいすみ市に合併されていすみ市大原となっています)

無題.png

大原町の「大原」の地名由来は元々中魚落郷ナカイオチゴウと称していた当地の新田開発地であったとされており寛政2年(1790)には「大原宿」と呼ばれる宿場町が形成されていたといいます。大原という地名の歴史は浅いように見えますが、まだわかりませんよ〜!なぜなら旧称・中魚落郷は和名抄に載る「廬道郷イオチゴウ」の遺称地と考えられていて、その場所はいすみ市大原に否定されているのです。現在は失われているだけで往古は大原神社があったのかもしれません。なにせ旧大原町には違和感を感じるほど神社が乱立しています。元々あったのか、または大きな神社を壊した際に奉斎していた御祭神を別々に分けて新たにお祀りしたのか、それはわかりませんが土地の領域に対して神社数の多さは他地域には見られない状態ということは言えます。

無題.png

無題.png

FloodMapsにて13m海面を上昇させた場合

また当地は往古、伊甚国造が治めていた地で多くの謎に包まれている土地でもあります。不遇なあの伊甚国造です。玉の献上を強要されたあの伊甚国造ですよ。私見ではあの「珠」は真珠などではなく、一宮町の玉前神社の御靈代である「宝珠」のことだと思ってます。また伝承も神社も興味深い物がたくさん残っていて、私の鼻息を荒くさせる地でもあります。七十五座の神事とか、大原の裸祭りとかね〜(ワクワク)

当地に所縁の上総介広常に関しても、HP「ひぼろぎ逍遥」の古川さんとのお話していて閃いた事の裏付けを取らないとと(ママ)考えています。また資料調査してると房総の太平洋側は古いお社がかなり残っている感じなんですよ。夷隅周辺はまだまだ調査すれば新事実が出てくると思ってます、やるぞぅ!!

あ、あとから1つ気が付いたのは君津大原神社と同じ平山に鎮座している秋葉神社の事です。グーグルマップで見てみると道路に背を向けて鎮座しているので気になってお社が向いている方向を辿ってみると、なんと大原神社の方向だったのです!秋葉神社といえば御祭神は火産霊命か軻遇突智命ですが、百嶋神社考古学では金山彦のことです。ということは、金山彦に関係する女神様が真の御祭神・・・?謎は深まります。次回からは引き続き「下総七年祭り」について関係神社を紹介していこうと思います。あ、その前に赤城神社を!


 無題.png

関東ではカガセオと呼ばれているようですが、イザナギ、イザナミの子であるスサノウが金山彦の娘である櫛稲田姫を妃として産まれたナガスネヒコこそがカガセオであり、繋がりが掴めるかも知れません。

 大原の正体が直ぐに掴めるとは思っていませんが、基礎調査の段階を重ねているといつしか踊り場に遭遇し視野が一気に広がる時があるのです。リポート転載深謝!(古川)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年11月12日

845 景行記の八女津姫とは誰なのか? “八女津媛神社(福岡県八女市)”

845 景行記の八女津姫とは誰なのか? “八女津媛神社(福岡県八女市)”

20201106

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


福岡県の現八女市に八女津媛神社があります。それこそ急峻な大渓谷に造られた日向神ダムを越えさらに山中に分け入った場所にある神社であることから、景行記に登場する有名な神社であるにも拘わらず、実際に現地を踏んだ方はかなり少ないのではないかと思います。

無題.png

10年程前でしたか頻繁に足を向けていた時期がありました。しかし、最近はあまり入ってはいません。

また、この矢部村の地名について現地で講演した事さえもあったのですが、その頃まではこの神社の女神様がどのような素性の方であるかについて全くの見当が着いていませんでした。


「日本書紀」によると、景行天皇が八女の県(やめのあがた)に巡行されたとき、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい、あの山に誰か住んでいるか」と尋ねられました。

そのとき、水沼の県主猿大海(さるのおおあま)が、「山中に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にいる」と答えたことから八女の地名が起ったと記されています。

八女津媛神社はこの八女津媛を祭った神社で、創建は養老三年三月(719)と伝えられています。

八女の地名の起こりにもなった八女津媛は、弥生時代から古墳時代まで各地の豪族が治めていたクニの、女首長であり祭祀を行なっていた巫女の一人だったと思われます。

この時代は、魏志倭人伝に記されている邪馬台国の女王卑弥呼の様に、巫女の力を持った各地の女首長が、鬼道や呪術といった宗教的な行いによってクニを治めていたのです。

「鬼道」の「鬼」とは、古代では「神」と同じ意味を持っていましたので、「鬼道」とは「神道」と同じことになります。

 無題.pngによる


 いわゆる邪馬台国ファンなどにも景行巡幸に関する話は結構知られており、八女ツ姫も山奥深く住む女神としてご存じの方は多いようです。

 ただ、八女ツ姫が居たから八女という地名が生れたのは如何にも乱暴な話で創られた話の類と言うべきでしょう。

 そもそも八女市の中心部にかなりの大型河川である矢部川が流れ、矢部村に八女津媛神社が在る訳で「矢部」と「八女」とは同一の固有名詞である事が推定されそうで、むしろそちらの方からアプローチをするべき問題であろうと考えています。

 これについてはかつて共に調査を行っていたN氏が「八女と矢部」としてこの二つは全く同一の地名であり、呉音、漢音に関わるM音とB音の入れ替わり現象を反映したものであるとの説を出しています。

 それについてはこれ以上触れませんが、何故、山奥に漢音系の「矢部」が地名として成立し、下流の平野部が古くから「八女」と呉音系の発音を残しているかについては、恐らく南北朝争乱期に宮方として蟠踞した五条家が漢音系の発音を好んだ(呉音は全く馴染みがない)ためではないかと考えています。

 今回、何故この神社を取り上げたかと言うと、熊本で神社トレッキングを行なっている2系統の一つのグループのメンバーからこの八女津姫がどのような素性の人であるかの問い合わせが来たからです。

無題.png

八女津媛神像


 一般的にはこの半磐座遺跡とも言うべき神社を訪ねられてもこの女神像が出迎えてくれるだけで、何の由緒書もなくなんとなくイメージだけを膨らませて見るものの、実体は掴めず空しく神社巡りをして帰るだけになるでしょう。この点については神社庁も公には具体的な情報を持っていないようで、「福岡県神社誌」にもほとんど記述といえるほどのものがないのです(下記)。

 つまり、八女津媛がこの一帯に住んで居たといったという伝承があるだけだったのだと思うのです。

 ところが、百嶋先生にはこの女神様の素性がお分かりだったようです。

無題.png

それは、百嶋家のご先祖が熊本県の玉名に移動する以前の本拠地が、福岡県八女市の黒木の一帯の相当に有力な家系の方(当然、津江神社:福岡県八女市黒木町今49の社家に近接する一族)であった事から、その内部に伝わる直接的な情報を得ておられたのだろうと思います。

無題.png

百嶋由一郎 八女ツ姫神代系譜(部分)

 お分かりでしょうか?皆さん良くご存じのニニギの命(タカミムスビの神の息子)とコノハナノサクヤ姫(大山祗の次女)の間に産まれた古計牟須姫(糸島にありますね)と、贈る孝安天皇(玉名の疋野神社の主神)の間に産まれた筑後(久留米)の三潴の君の祖武国凝別の娘宇佐ツ姫(ウサツヒメ:ウサツヒコと共に、開化の臣下でしかない崇神を神武として装い出迎えたとした)と贈る景行天皇の間に産まれたのが八女ツ姫なのです。

 さらに言えば、ウガヤフキアエズと市杵島姫の娘の下照姫(絶世の美女と言われた)の間に産まれた水沼の県主猿・大海姫(驚くことに女性なのです)こと八女津姫について景行に告げた随行者も描かれているのです。つまり、役者を全て描いておられたのでした。これは、氏が日本書記の景行天皇条の話に登場する人物について、地元の神社に伝わる本当の話を回収できる地位にあった家系の方だったからなのです。

 それは、百嶋由一郎氏の御先祖が女の黒木の有力者の家系であり、後に玉名に移動し大地主となった(明治の所得番付百傑)家系だったからこそ景行の血筋も、八女津姫の血筋も全て把握されておられた事が分かるのです。景行は玉名の疋野神社の主神である贈る(藤原が自らの勢力に取り込むために第5代天皇扱いにした)孝安天皇の子になるのですが、こう言った隠された生の情報を得られる立場にあったのです。

 従って、景行とは近畿大和朝廷が熊襲を退治するために送ったものなのではさらさらないのであって、未だにこんなことを信じているのが通説派の畿内説論者なのです。

殆ど漫画の世界ですね。勿論、八女津姫が卑弥呼などではない事も言うまでもないことです。

尚、先生のメモに在る八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1)の美奴売大神については長くなるため別稿とします。

無題.png

百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は090-6298-3254までご連絡ください。全時間対応です。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年11月15日

846 熊本県御船町の神武天皇祭祀を求めて “御船町宮崎神社”

846 熊本県御船町の神武天皇祭祀を求めて “御船町宮崎神社”

20201107

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊本市の南に御船町があります。熊本地震で酷い被害を受けた益城町を含め、嘉島町、甲佐町など平成の大合併に乗らなかったまさに肥後もっこすとも言うべき町々が残っている地域です。

 通常、喧騒を避けて田舎の神社を巡る事が多いため殆ど初見の神社が多い地域です。

 中でも御船町は小さな町にも拘わらず100社近い神社が並び(下の地図には一部しか表示されていません)、古い時代に陸化が進み多くの民族、氏族が入って来た事が想像できます。

 あまり気は進みませんでしたが、熊本の小さな方のトレッキング・グループからの依頼があり、この一帯の神社を巡る事にしました。

 それぞれ関心を寄せる神社を選び出し訪問するだけのことですが、グーグル検索と「熊本県神社誌」に頼るだけの企画で機動性重視のトレッキングが始まりました。

 最後まで雨の悪天候を押して参加される数名の女性神社探訪メンバーは有難い限りです。

無題.png
無題.png

さて、関係の有無は不明ですが、御船町には「天君」と言う奇妙な地名が存在し天君ダムも存在します。


無題.png天君 鉄の王 キム・スロ : 狗邪国の天君(チョングン、祭司長のこと)。封神演義 (漫画) ◦封神演義の登場人物一覧 古代馬韓の国邑で各一人を天神の祭の司祭に立て、これを天君と呼ぶ。天軍(천군 : 大韓民国の映画。


まさしく熊本市の南は狗奴国の領域のはずで天君ダムがあってもおかしくないのです。

また、百嶋先生はこの一帯に暫く神武僭称崇神(ハツクニシラス…)ではなく本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)もおられた時期があったとの話もされていたように思います。

そこで、個人的には御船町に神武天皇に関わる祭祀を探すと、御船町陣640の宮崎神社と御船町水越2557(現地番167?)の水越神社(神武外4神)を見たいと考えていました。

無題.png

先に水越神社を見たかったのですが、道路工事による通行止めで次回に廻すも宮崎神社に行くと中々見つからず、グーグル・マップにも表示が出ないという困難を越え、漸く神社に辿り着きました。

無題.png
無題.png

ぼやけていますが、何故か鶴丸の紋章でどう見てもニギハヤヒ、ウマシマジ…系の神紋なのです

無題.png

確かに宮崎神社は存在しました


 村社扱いにもなっていますが、どうも神武天皇を祀る神社だったかは疑問に感じています。

 明治期の村社昇格のために神武天皇を祀った事にした可能性もあるのではないかとの印象を持ちました。

 水越神社を再訪し改めて考えたいと思います。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記