831 「古事記」中つ巻 孝霊編 H “卑弥呼宗女伊予=細姫を妃とした開化天皇の祖父神”
20200421
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。
「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代とした神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。
たまたま非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「古事記をそのまま読む」というサイトから引用させて頂きます。
こちらも非常に感謝しております。当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。
今回取り上げるのは、これまた一般にはあまり知られていない第七代孝霊天皇 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)についての話です。
実は、交霊〜孝元〜開化という九州王朝(呉太伯)系の三代の人物に関する部分は我々内部でも非常に難解かつ重要で本当は敬遠したいところですが、今回、分かる部分だけでも書いておこうとしたものです。
当然にも近畿大和朝廷の領域などには居なかった事、「古事記」の編纂者達も実際には現場を知らなかったはずで(始めは知って隠していたのでしょうが、今や皆が忘れてしまっている)奈良に無理やりあてはめ、同様の地名などを付してテーマ・パークとしたのでした。
百嶋由一郎氏の神代系譜に依れば、この孝霊天皇は初代神武の子である第4代懿徳天皇の子(つまり神武の孫)で、この懿徳が皆さん良くご存じの草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミの子の天豊ツ姫、阿蘇ツ姫=杉山姫=寒川姫…という人物です。勿論、孝昭和、孝安の子などではさらさらないのです。
つまり、周王朝後裔呉太伯系の正統皇統の中に後の藤原に続く一族を天皇扱いにし挿入しているのです(勿論やったのは後の藤原なのですが…)。
ただただ、謎の多い人物で、孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)と呼ばれる。
以下、による
大倭根子日子賦斗邇命坐K田廬戸宮治天下也 此天皇娶十市縣主之祖大目之女名細比賣命 生御子大倭根子日子國玖琉命【一柱玖琉二字以音】 又娶春日之千千速眞若比賣 生御子千千速比賣命【一柱】 又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命 生御子夜麻登登母母曾毘賣命 次日子刺肩別命 次比古伊佐勢理毘古命亦名大吉備津日子命 次倭飛羽矢若屋比賣【四柱】又娶其阿禮比賣命之弟蠅伊呂杼 生御子日子寤間命 次若日子建吉備津日子命【二柱】此天皇之御子等幷八柱【男王五女王三】故大倭根子日子國玖琉命者治天下也 大吉備津日子命與若建吉備津日子命二柱相副而 於針間氷河之前居忌瓮而針間爲道口 以言向和吉備國也 故此大吉備津日子命者【吉備上道臣之祖也】次若日子建吉備津日子命者【吉備下道臣笠臣祖】 次日子寤間命者【針間牛鹿臣之祖也】 次日子刺肩別命者【高志之利波臣 豐國之國前臣 五百原君 角鹿海直之祖也】天皇御年壹佰陸歲御陵在片岡馬坂上也 |
大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)の命(みこと)黒田(くるた)の廬戸宮(いほとのみや)に坐し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらのみこと)十市(とほち)の県主(あがたぬし)之(の)祖(おや)大目(おほめ)之(の)女(むすめ)、名は細比売(ほそひめ、くはしひめ)の命を娶(めあは)せ、 生(あ)れましし御子(みこ)、大倭根子日子国玖琉(おほやまとねこひこくにくる)の命【一柱(ひとはしら)なり。「玖琉」の二字(ふたじ)音(こゑ)を以ゐる。】 又(また)、春日(かすか)之(の)千千速真若比売(ちちはやまわかひめ)を娶せ、 生(あ)れましし御子、千千速比売(ちちはやひめ)の命【一柱なり。】 |
又、意富夜麻登玖邇阿礼比売(おほやまとくにあれひめ)の命を娶せ、 生(あ)れましし御子、夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)の命、 次に日子刺肩別(ひこさしかたわけ)の命、次に比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ)の命、亦名(またのな)は大吉備津日子(おほきびつひこ)の命、次に倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)【四柱(よはしら)なり。】 又、其(そ)の阿礼比売(あれひめ)の命之(の)弟(おと)蠅伊呂杼(はへいろど)を娶せ、 生(あ)れましし御子、日子寤間(ひこさめま)の命、 次に若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)の命【二柱(ふたはしら)なり。】 此の天皇之(の)御子等(ら)并(あは)せ八柱(やはしら)【男王(をのきみ)五(いつはしら)女王(めのきみ)三(みはしら)】なり。 故(かれ)、大倭根子日子国玖琉(おほやまとねこひこくにくる)の命者(は)天下を治(をさ)めたまふ[也]。 大吉備津日子(おほきびつひこ)の命与(と)若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の命二柱(ふたはしら)相(あひ)副(す)けて[而]、[於]針間(はりま)の氷河(ひかは)之(の)前(さき)に忌瓮(いはひへ)を居(す)ゑて[而]針間(はりま)を道(みち)の口(くち)と為(し)、以ちて言向(ことむ)け吉備の国を和(やは)しき[也]。 故(かれ)、此の大吉備津日子の命者(は)【吉備の上道(かみつみち)の臣(おみ)之(の)祖(おや)也(なり)。】 次に若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)の命者(は)【吉備の下道(しもつみち)の臣、笠(かさ)の臣の祖(おや)】、 次に日子寤間(ひこさめま)の命者(は)【針間の牛鹿(うじか)の臣之(の)祖(おや)也(なり)】。 次に日子刺肩別(ひこさしかたわけ)の命者(は)【高志(こし)之(の)利波(となみ)の臣、豊国(とよのくに)之(の)国前(くにさき)の臣、五百原(いほはら)の君(きみ)、角鹿海(つぬかのあま)の直(あたひ)之(の)祖(おや)也(なり)。】 天皇の御年(みとし)壱佰陸歳(ももとせあまりむとせ)にて御陵(みささき)片岡馬坂上(かたをかのむまさかのへ)に在り[也]。 |
大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにみこと)は黒田(くるた)の廬戸宮(いおとのみや)に坐しまして、天下を治められました。この天皇は、十市(とおち)の県主(あがたぬし)の祖、大目(おおめ)の娘、名は細比売(ほそひめ、くわしひめ)の命を娶り、 御子、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)【一柱】を生みなされました。 また、春日の千千速真若比売(ちちはやまわかひめ)を娶り、 御子、千千速比売命(ちちはやひめのみこと)【一柱】を生みなされました。 また、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)を娶り、 御子、夜麻登登母母曽毘売命(やまととももそびめのみこと)、 次に日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)、 次に比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりびこのみこと)、別名は大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)、 次に倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)【四柱】を生みなさりました。 また、その阿礼比売命の妹、蠅伊呂杼(はへいろど)を娶り、 御子、日子寤間命(ひこさめまのみこと)、 次に若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)【二柱】を生みなされました。 この天皇の御子らは、併せて八柱【男王は五柱、女王は三柱】です。 そして、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)は天下を治められました。 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)の二柱は助け合って、針間(はりま)の氷河(ひかは)の先方に忌瓮(いみへ)を据え、針間を攻め口として制圧に向かい、吉備の国を服従させました。 そして、この大吉備津日子命は、吉備の上道(かみつみち)の臣(おみ)の先祖です。 次に若日子建吉備津日子命者は、吉備の下道(しもつみち)の臣、笠(かさ)の臣の先祖です。 次に日子寤間命(ひこさめまのみこと)は、針間の牛鹿(うじか)の臣の先祖です。 次に日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)は、高志(こし)の利波(となみ)の臣、豊国(とよのくに)の国前(くにさき)の臣、五百原(いほはら)の君(きみ)、角鹿海(つぬかのあま)の直(あたい)の先祖です。 天皇は御年百六歳にて、御陵は片岡馬坂上(かたおかのうまさかのえ)に在ります。 |
後で触れる事になりますが、開化天皇は仲哀死後の神功皇后との間に五人の皇子をもうけており、非常に濃厚な筑後を中心に全国に高良大社+若宮神社(仁徳=オオササギ=シレカシ命)を祀る祭祀が残され多くの伝承がある事から(「高良玉垂宮神秘書」外)、開化に関しては九州島内に居た天皇であってそれ以前の、第7代孝霊(祖父)、孝元(親)は当然にも九州島に居た事は間違いないものと考えています。
ただ、開化+神功皇后の業績があまりにも大きい事からか、痕跡があってもおかしくはないのですが、
通常、孝霊、孝元を単独で祀る祭祀にはそれほど遭遇した事はありません。その理由は、孝元も含め後の藤原が九州王朝系の人物であり神武以来の血筋の人物も天皇としている事に関係しているのかも知れません。
孝元については「聖」神として高知県では濃厚な祭祀を確認していますが…。
このため、我々百嶋神社考古学の者は既に結論を得ている事から証明とか論証を行なっている訳ではなく、ただの調査として百嶋由一郎が把握し考えていた神代史の真実を多少とも復元し、一般の方にも分かるように裏を取り、現地を踏みお伝えしているのです。
寂しいので、玄松子氏の参拝リストで重なった3社(赤枠)から一社を紹介しておきます。
松前町の伊豫神社です。なお、隣の伊予市にも同名の神社が存在します。敬愛する「玄松子」氏は 以下をリスト・アップされています。これらは、その皇別氏族の後の展開だと理解しています。
孝霊天皇 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)
二宮神社 広島県福山市神辺町八尋1203
三島神社 新潟県柏崎市剣野町2−18
伊豫神社 愛媛県伊予郡松前町神崎字小斎院193 吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043 吉備津神社 境内 本宮 岡山県岡山市北区吉備津931 |
水主神社 境内 孝霊神社 香川県東かがわ市水主1418

伊予神社 カーナビ検索 愛媛県伊予郡松前町神崎字小斎院193
御祭神 彦狹嶋命
配祀 愛比賣命 伊予津彦命 伊予津姫命 大日本根子彦太瓊尊 細媛命 速後神命 伊予親王 藤原吉子
しかし、主神の彦狹嶋命は孝霊天皇その人ではなく第三皇子(親王)です。このように孝霊天皇に関わる祭祀は少ないのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト) 阿蘇系(黎族)
B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト) 大幡主(白族)
C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト) 阿蘇系(黎族)
E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)
F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト) 九州王朝正統皇統 |
G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト) 黎族+白族
J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト) 宮崎生目神社主神
K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)
L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト) 素性系統不明
M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト) 九州、山口に痕跡
N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト) 宇佐素性系統不明
O 仁徳大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
※以下省略
第4代懿徳天皇の子であり第8代孝元天皇の親神である孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)である、九州王朝の直系の人物なのですが、本当に天皇に就いていたかについては、後の藤原により格上げされた可能性もあり、この部分については今後の課題です。
では、百嶋神代系譜をご覧頂きましょう。

百嶋由一郎最終神代系譜
百嶋神代系譜によれば、細姫=卑弥呼宗女伊予(卑弥呼の子という意味ではなく宗教的権威を引くの後継者)を正妃として次の孝元天皇を得ているのです。
また、ウマシマジのの娘 蝿伊呂泥(ハイイロネ)=別名 意富夜麻登久邇阿札比売(オホヤマトクニアレヒメノミコト)、 ハイイロチ姉妹)を
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