2021年10月01日

831 「古事記」中つ巻 孝霊編 H “卑弥呼宗女伊予=細姫を妃とした開化天皇の祖父神”

831 「古事記」中つ巻  孝霊編 H “卑弥呼宗女伊予=細姫を妃とした開化天皇の祖父神”

20200421

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

 「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代とした神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

たまたま非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「古事記をそのまま読む」というサイトから引用させて頂きます。

こちらも非常に感謝しております。当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。 

 今回取り上げるのは、これまた一般にはあまり知られていない第七代孝霊天皇 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)についての話です。

実は、交霊〜孝元〜開化という九州王朝(呉太伯)系の三代の人物に関する部分は我々内部でも非常に難解かつ重要で本当は敬遠したいところですが、今回、分かる部分だけでも書いておこうとしたものです。 

当然にも近畿大和朝廷の領域などには居なかった事、「古事記」の編纂者達も実際には現場を知らなかったはずで(始めは知って隠していたのでしょうが、今や皆が忘れてしまっている)奈良に無理やりあてはめ、同様の地名などを付してテーマ・パークとしたのでした。

百嶋由一郎氏の神代系譜に依れば、この孝霊天皇は初代神武の子である第4代懿徳天皇の子(つまり神武の孫)で、この懿徳が皆さん良くご存じの草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミの子の天豊ツ姫、阿蘇ツ姫=杉山姫=寒川姫…という人物です。勿論、孝昭和、孝安の子などではさらさらないのです。

つまり、周王朝後裔呉太伯系の正統皇統の中に後の藤原に続く一族を天皇扱いにし挿入しているのです(勿論やったのは後の藤原なのですが…)。

ただただ、謎の多い人物で、孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)と呼ばれる。 

以下、無題.pngによる


大倭根子日子賦斗邇命坐K田廬戸宮治天下也 此天皇娶十市縣主之祖大目之女名細比賣命 生御子大倭根子日子國玖琉命【一柱玖琉二字以音】 

又娶春日之千千速眞若比賣 生御子千千速比賣命【一柱】

又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命 生御子夜麻登登母母曾毘賣命

次日子刺肩別命 次比古伊佐勢理毘古命亦名大吉備津日子命 次倭飛羽矢若屋比賣【四柱】又娶其阿禮比賣命之弟蠅伊呂杼 生御子日子寤間命 次若日子建吉備津日子命【二柱】此天皇之御子等幷八柱【男王五女王三】故大倭根子日子國玖琉命者治天下也  大吉備津日子命與若建吉備津日子命二柱相副而 於針間氷河之前居忌瓮而針間爲道口 以言向和吉備國也 故此大吉備津日子命者【吉備上道臣之祖也】次若日子建吉備津日子命者【吉備下道臣笠臣祖】 次日子寤間命者【針間牛鹿臣之祖也】 次日子刺肩別命者【高志之利波臣 豐國之國前臣 五百原君 角鹿海直之祖也】天皇御年壹佰陸御陵在片岡馬坂上也

大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)の命(みこと)黒田(くるた)の廬戸宮(いほとのみや)に坐し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[]

此の天皇(すめらのみこと)十市(とほち)の県主(あがたぬし)()(おや)大目(おほめ)()(むすめ)、名は細比売(ほそひめ、くはしひめ)の命を娶(めあは)せ、

()れましし御子(みこ)、大倭根子日子国玖琉(おほやまとねこひこくにくる)の命【一柱(ひとはしら)なり。「玖琉」の二字(ふたじ)(こゑ)を以ゐる。】

(また)、春日(かすか)()千千速真若比売(ちちはやまわかひめ)を娶せ、

()れましし御子、千千速比売(ちちはやひめ)の命【一柱なり。】 


又、意富夜麻登玖邇阿礼比売(おほやまとくにあれひめ)の命を娶せ、 生()れましし御子、夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)の命、 次に日子刺肩別(ひこさしかたわけ)の命、次に比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ)の命、亦名(またのな)は大吉備津日子(おほきびつひこ)の命、次に倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)【四柱(よはしら)なり。】

又、其()の阿礼比売(あれひめ)の命之()(おと)蠅伊呂杼(はへいろど)を娶せ、 生()れましし御子、日子寤間(ひこさめま)の命、 次に若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)の命【二柱(ふたはしら)なり。】

此の天皇之()御子等()(あは)せ八柱(やはしら)【男王(をのきみ)(いつはしら)女王(めのきみ)(みはしら)】なり。 

(かれ)、大倭根子日子国玖琉(おほやまとねこひこくにくる)の命者()天下を治(をさ)めたまふ[] 

大吉備津日子(おほきびつひこ)の命与()若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の命二柱(ふたはしら)(あひ)()けて[][]針間(はりま)の氷河(ひかは)()(さき)に忌瓮(いはひへ)を居()ゑて[]針間(はりま)を道(みち)の口(くち)と為()、以ちて言向(ことむ)け吉備の国を和(やは)しき[]

(かれ)、此の大吉備津日子の命者()【吉備の上道(かみつみち)の臣(おみ)()(おや)(なり)。】 

次に若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)の命者()【吉備の下道(しもつみち)の臣、笠(かさ)の臣の祖(おや)】、 次に日子寤間(ひこさめま)の命者()【針間の牛鹿(うじか)の臣之()(おや)(なり)】。

次に日子刺肩別(ひこさしかたわけ)の命者()【高志(こし)()利波(となみ)の臣、豊国(とよのくに)()国前(くにさき)の臣、五百原(いほはら)の君(きみ)、角鹿海(つぬかのあま)の直(あたひ)()(おや)(なり)。】

天皇の御年(みとし)壱佰陸歳(ももとせあまりむとせ)にて御陵(みささき)片岡馬坂上(かたをかのむまさかのへ)に在り[]

大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにみこと)は黒田(くるた)の廬戸宮(いおとのみや)に坐しまして、天下を治められました。この天皇は、十市(とおち)の県主(あがたぬし)の祖、大目(おおめ)の娘、名は細比売(ほそひめ、くわしひめ)の命を娶り、 御子、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)【一柱】を生みなされました。

 また、春日の千千速真若比売(ちちはやまわかひめ)を娶り、 御子、千千速比売命(ちちはやひめのみこと)【一柱】を生みなされました。

また、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)を娶り、 御子、夜麻登登母母曽毘売命(やまととももそびめのみこと)、 次に日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)、 次に比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりびこのみこと)、別名は大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)、 次に倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)【四柱】を生みなさりました。

また、その阿礼比売命の妹、蠅伊呂杼(はへいろど)を娶り、 御子、日子寤間命(ひこさめまのみこと)、 次に若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)【二柱】を生みなされました。

この天皇の御子らは、併せて八柱【男王は五柱、女王は三柱】です。

そして、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)は天下を治められました。 大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)の二柱は助け合って、針間(はりま)の氷河(ひかは)の先方に忌瓮(いみへ)を据え、針間を攻め口として制圧に向かい、吉備の国を服従させました。 そして、この大吉備津日子命は、吉備の上道(かみつみち)の臣(おみ)の先祖です。

次に若日子建吉備津日子命者は、吉備の下道(しもつみち)の臣、笠(かさ)の臣の先祖です。

次に日子寤間命(ひこさめまのみこと)は、針間の牛鹿(うじか)の臣の先祖です。

次に日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)は、高志(こし)の利波(となみ)の臣、豊国(とよのくに)の国前(くにさき)の臣、五百原(いほはら)の君(きみ)、角鹿海(つぬかのあま)の直(あたい)の先祖です。

 天皇は御年百六歳にて、御陵は片岡馬坂上(かたおかのうまさかのえ)に在ります。


後で触れる事になりますが、開化天皇は仲哀死後の神功皇后との間に五人の皇子をもうけており、非常に濃厚な筑後を中心に全国に高良大社+若宮神社(仁徳=オオササギ=シレカシ命)を祀る祭祀が残され多くの伝承がある事から(「高良玉垂宮神秘書」外)、開化に関しては九州島内に居た天皇であってそれ以前の、第7代孝霊(祖父)、孝元(親)は当然にも九州島に居た事は間違いないものと考えています。

ただ、開化+神功皇后の業績があまりにも大きい事からか、痕跡があってもおかしくはないのですが、  

通常、孝霊、孝元を単独で祀る祭祀にはそれほど遭遇した事はありません。その理由は、孝元も含め後の藤原が九州王朝系の人物であり神武以来の血筋の人物も天皇としている事に関係しているのかも知れません。

孝元については「聖」神として高知県では濃厚な祭祀を確認していますが…。

このため、我々百嶋神社考古学の者は既に結論を得ている事から証明とか論証を行なっている訳ではなく、ただの調査として百嶋由一郎が把握し考えていた神代史の真実を多少とも復元し、一般の方にも分かるように裏を取り、現地を踏みお伝えしているのです。

 寂しいので、玄松子氏の参拝リストで重なった3社(赤枠)から一社を紹介しておきます。

 松前町の伊豫神社です。なお、隣の伊予市にも同名の神社が存在します。敬愛する「玄松子」氏は 以下をリスト・アップされています。これらは、その皇別氏族の後の展開だと理解しています。


孝霊天皇 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)

二宮神社         広島県福山市神辺町八尋1203

三島神社         新潟県柏崎市剣野町2−18


伊豫神社         愛媛県伊予郡松前町神崎字小斎院193

吉備津彦神社       岡山県岡山市北区一宮1043

吉備津神社 境内 本宮   岡山県岡山市北区吉備津931

水主神社 境内 孝霊神社  香川県東かがわ市水主1418


無題.png

伊予神社 カーナビ検索 愛媛県伊予郡松前町神崎字小斎院193


御祭神 彦狹嶋命

配祀 愛比賣命 伊予津彦命 伊予津姫命 大日本根子彦太瓊尊 細媛命 速後神命 伊予親王 藤原吉子


しかし、主神の彦狹嶋命は孝霊天皇その人ではなく第三皇子(親王)です。このように孝霊天皇に関わる祭祀は少ないのです。


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統

※以下省略


 第4代懿徳天皇の子であり第8代孝元天皇の親神である孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)である、九州王朝の直系の人物なのですが、本当に天皇に就いていたかについては、後の藤原により格上げされた可能性もあり、この部分については今後の課題です。

 では、百嶋神代系譜をご覧頂きましょう。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜


百嶋神代系譜によれば、細姫=卑弥呼宗女伊予(卑弥呼の子という意味ではなく宗教的権威を引くの後継者)を正妃として次の孝元天皇を得ているのです。

 また、ウマシマジのの娘 蝿伊呂泥(ハイイロネ)=別名 意富夜麻登久邇阿札比売(オホヤマトクニアレヒメノミコト)、                                                         ハイイロチ姉妹)を


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年10月03日

832 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か I “国東の姫島から周防の柳井へ”(上)

832 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か I 国東の姫島から周防の柳井へ”(上)

20200430 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


大帯神社の社名に抱いた疑問から始まった探索は、とうとう福岡市西部から糸島半島の製鉄地帯、それを凌駕する九州島最大の菊池川流域から小岱山といった肥後の中〜北部の古代製鉄地帯を神社や神話から裏付けられる端緒を掴めるところまできました。そこで、この一帯と九州に於けるもう一つの古代製鉄地帯である姫島〜国東半島との関係があると考えて良いのかが最後のテーマとして残されました。

 一応、当初の構想は姫島に存在する大帯八幡社の呼称から、これには景行別天皇の氏族が関係していたのではないかとしました。しかも、姫島から周防の佐波(周芳の沙麼県)は目と鼻の先であり、景行(大帯日子淤斯呂和氣天皇、大足彦尊)による南九州への熊襲討伐神話の起点が佐波だったのですから、入口と出口とがこの辺りだった事を伝えていたのです。何の証拠も根拠も拾えない中、この一点だけでも説明は可能だと思うのですが(どうせ通説派とその尻尾のエピゴーネン共は「記」「紀」だけを唯一の根拠に強弁しているだけなのですから)、まずは、そのアウト・ラインを説明しますので確認して下さい。

今回は、この姫島と国東が周防(山口県東部)の柳井に鎮座する大帯姫八幡宮と関係があるのではないかを考えるのがテーマです。

無題.png

@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統

大帯タラシ比売命(古事記) 大足タラシ姫命(続日本後紀) 大帯タラシ日姫(日本三代実録).

※古川作成以下省略


無題.png

無題.png前ブログの冒頭部分を中心に概略を掲載しましたが、始まりは姫島の大帯八幡社に関する9本のブログを書き、どうせならあと1本書きたいと思っただけの事でした。

 そこで、数日前から気になっていた山口県柳井市の山奥(と言ってもかなりの耕地面積を持つ農業地帯ですが)にある大帯姫八幡宮を実見し、姫島の大帯八幡社との関係を考え記録に留めることにしました。

こうして、「山口県神社誌」を片手にただ一社を実見するためだけの大遠征が始まりました。

 周防と言えば、直ぐに周防大島が頭に浮かんで来ます。ここには過去何度か足を延ばしており(写真は大島から本土を望む)、敬愛する宮本常一の出身地であることが頭に浮かんで来ますが、五年ほど前にも全島の半分ほどの神社を実見しています。

その時にも高良神社や若宮神社も数社発見し、やはり橘一族=紀氏の領域であることを再確認した記憶が蘇ります。

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大帯姫八幡宮 カーナビ検索 山口県柳井市日積4182-2 0820-28-0296

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GWの始まる前の日曜日に北九州市の若松で極めて小規模な勉強会を行ない今後のコロナ対策を検討した後、夕方6時には東に向かいました。洞海湾を跨ぐ若戸大橋ならぬ若戸海底トンネルを抜け関門海峡を越え片道(若松の西〜)200キロを掛けて山口県の東の端、柳井市に向けてだだひたすら国道2号線を東に進みました。交通量は国民総自粛によるため普段の3割程度といったところでしたが、夕方6時には出発し夜10頃には徳山辺りに辿り着き車中泊しました。残念なことにタイミングが悪く2号線の周りにも幾つもある温泉には入りそびれましたが、翌朝8時頃には大帯姫八幡宮の境内地に到着していました。

 まずは、境内の大きさに圧倒されましたが、早朝から立派な社殿と手入れされた境内の素晴らしさに感銘し30分ほどじっくり社殿を見せて頂くことになります。

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冒頭には前ブログの一部をそのまま掲載いたしましたが、ここからが今回のお話となります。

まず、由緒です。“当社の創建は明らかでないが、社記によると天平宝字年中:756764(通常756765)といい、「玖珂郡志」にも当社の旧社地日積宮ケ原の「宮石」の図を載せ、その注に「按、寛正3年(1462)、大内左京太夫政弘ヨリ氏子境ノ証文アリ、勧請ハ 天平宝字也」とし、宮ケ原から現在の社地への遷座は、「大内ノ時代、八幡宮ヲ当山大里ニ勧請」という。あるように、八幡神の勧請は必ずしも古くはないのではないかとの思いが過ります。

当然、社殿も八幡造りではなく九州系の社殿を彷彿とさせています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年10月06日

833 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か J “国東の姫島から周防の柳井へ”(下)

833 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か J 国東の姫島から周防の柳井へ”(下)

20200430

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

832国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か I 国東の姫島から周防の柳井へ”(上)〜

何よりも驚いたのは僻陬の地にありながらも非常に大きな境内を持つ堂々たる大社だった事です。

 恐らく南北朝争乱期以前までは簡単に遡ると思うのですが、その財力を想像するに国東半島からの製鉄技術以外には考えようがありません(恐らく国東の古代製鉄の古さからから考え逆ではないでしょう)。

 それは上記の地図を見ても明らかです。神社の南の谷には「鍛冶屋原」という地名が残されており、冬場の北風を受けられる南北に向いた谷間で製鉄が行われていたことが良く分かるのです。

 そして、それを司った人々も「宮ケ原」という地名から国東の紀氏(姫氏)=橘一族だったと推定できるのです。

そもそも、姫島の「姫」もアカルヒメの姫(博多の櫛田神社の大幡主の娘=豊玉彦の姉)と言う事は可能でしょうが、国東半島の沖の島である以上、姫島と紀氏(周王朝の流れを汲む呉の太伯の裔 中国表記「姫氏」の姫以外には考えようがないのです)は濃厚な関係(橘 諸兄の後裔の一派は後に宮原を名乗る)があるはずなのです。                         以下は「山口県神社誌」130

さて、神社誌、社伝によれば 神功皇后、応神別天皇 誉田別尊(ホムタワケノミコト)、仲哀天皇 を祀る神社です。このため大帯姫(普通は神功皇后でも良いのですが)神社ですから千木は女神を表していても一向におかしくはないのですが、予想に反し千木が男神を示していたのです。

勿論、主神に、応神、仲哀を配しているのですからその千木を表すと言えばそれまでですが、では、何故、ことさら大帯姫八幡宮と称しているのでしょうか?それが、見た時に最初に抱いた疑問でした。

 もし、仲哀、応神を意味しているのならば、神功が神殿の中殿に置かれている事と整合性がなくなりますし、千木が昔の形を残しているとしたのならば、元は仲哀、神功、応神を祀る八幡宮ではなかったのではないかとの思いが過りました。

一方、宇佐八幡宮の祭神を勧請し大元宮と呼んだとの話にも疑問を感じるのです。つまり、香椎宮は仲哀を主神として祀っており、宇佐八幡宮は仲哀を三神としては祀っていないのです。

このため神社誌に言う香椎宮の祭神と同体との記述には信憑性を感じるのです。



 宇佐神宮(仲哀天皇を祀ってはいない また 一之殿を応神とするも勅使が通過する正面は二之殿であり宗像三女神が祀られているのです)。

一之御殿:八幡大神  - 誉田別尊(応神天皇)、二之御殿:比売大神  - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)、三之御殿:神功皇后  - 別名として息長足姫命とも

 香椎宮(ご覧のとおり主祭神 中

仲哀天皇 神功皇后 配祀 応神天皇 住吉大神


無題.png

無題.png境内を見せて頂くと神殿背後地に住吉神社が置かれていました。

 まず、神殿背後に神がいるとすれば、その神は神殿に納められた神よりも上位であることは常識であり、瞬間、謎が解けた思いがしました。

我々百嶋神社考古学の者には良く分かるのですが、百嶋先生は住吉神社の祭神は兄弟ではないと言われていました。以下のとおりです。

 上筒男命:ウガヤフキアエズ(下関住吉神社)、中筒男命:神武僭称贈る崇神=ツヌガノアラシト(福岡市住吉神社)、底筒男命 高良玉垂命=開化天皇=仲哀死後の神功皇后を妃とした仁徳天皇の父神 (大阪住吉大社)…正しく代表例たる大阪の住吉であるとされているのでした。

 また、神功皇后と開化とは夫婦であったと久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」はこの事を伝えており、それ以外にも九州王朝の真実を解くヒントが数多く書かれているのです。

 とすると、本来、この神社の神殿には高良玉垂命と神功皇后が祀られていたと考えられるのです。

宮神秘書には高良大社は749年に九州の宗廟を失うと書かれています。

それ以降のいつの時代かにこの大帯八幡姫宮の祭神の入替えが行われたと考えられそうなのです。

 これだけではお分かり頂けないと思いますが、当会のメンバーの宮原誠一氏のブログで高良玉垂命=開化天皇の神紋について詳しく書いておられます。一部をお読み下さい。

無題.png

【高良大社の神紋】
高良大社の神紋は、案内パンフレットには下記のように載っている。
中央の木瓜紋は門光紋でないと奉斎氏族(彦火々出見命・ニギハヤヒ)の紋となる。

無題.png

玉垂命の紋章は五七桐紋、武内宿禰の紋章も五七桐紋、二人は孝元天皇の異母兄弟であるが故に、高良大社の祭神について、「高良玉垂命は武内宿禰」という間違った話が一人歩きして来た。武内宿禰は高良玉垂命(開化天皇)の臣下であり、「記紀」では、神功皇后の臣下として目立った働きをされるが、高良玉垂命が「記紀」から消されているために、結果的にそう見えるだけで、本当は「高良玉垂命(開化天皇)と神功皇后」の臣下として働いておられる。
 「記紀」から高良玉垂命の主語が抜けているだけで、「神功皇后」を「高良玉垂命(開化天皇)と神功皇后」と置き換えると、話の展開が現実性を増す。
 「高良玉垂宮縁起」では、高良玉垂命と神功皇后が共に新羅海戦で戦っておられる姿が描かれている。  

結果、神功皇后=女傑英雄 のイメージが薄れてくる。


 詳細は同ブログをお読み下さい。

 高良大社の表紋は左三つ巴、裏紋が木瓜紋とされています。

 ただ、普通は宝物殿に収められている神輿が年に一度引き出されますが、その際に神輿の神紋を見ると唐花紋=大阪の住吉と同様の紋章と同様であることが分かるのです。

 では、左三つ巴と木瓜紋とは何なのでしょうか?

 木瓜紋は初期の九州王朝を支えた金山彦の臣下としての神紋で、三つ巴は良く分かりませんが、恐らく住吉の神のもので、今のところ初代住吉であるウガヤフキアエズが開化に返還したものが反映されているものと考えています。

無題.png

 今のところここまでしか言えませんが、「山口県神社誌」130pに掲載されている若宮社の祭神イザナミ+イザナギ外7神の祭神名と大国主命の背景が分かればもう少し解析が進むものと考えています。

 とりあえず、作業はここまでとさせて頂きます。

 最後に、姫島の大帯八幡社と柳井の大帯八幡宮との祭神で共通するものを下線で表しておきます。以下。


祭神については、直接的なHPがない事から、 無題.pngを借用させて頂きました。


御祭神[八幡社]

 ・帶中日子命(たらしなかつひこのみこと)    【仲哀天皇】

 ・息長帶比賣命(おきながたらしひめのみこと) 【神功皇后】

 ・品陀和氣命(ほむだわけのみこと)           【應神天皇】
                   [元宮社](脇殿)

 ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産靈神(たかみむすひのかみ)・神皇産靈神(かむむすひのかみ)


【岩土社】・石土毘古神(いはつちびこのかみ)
【貴船社】・高淤加美神(たかおかみのかみ)・闇淤加美神(くらおかみのかみ)
【住吉社】・表箇之男神(うはつつのをのかみ)・中箇之男神(なかつつのをのかみ)・底箇之男神(そこつつのをのかみ)
【秋葉社】・火産靈神(ほむすひのかみ)
【多賀社】・伊弉諾神(いざなぎのかみ)・伊弉册神(いざなみのかみ)
【惠美須社】・八重事代主神(やへことしろぬしのかみ)
【杵崎社】・志那津比子神(しなつひこのかみ)・志那津比賣神(しなつひめのかみ)
【山神社】・大山津見神(おほやまつみのかみ)
【猿田彦社】・猿田彦神(さるたひこのかみ)
【稻荷社】・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
【鹽竈社】・鹽土老翁神(しほつちをぢのかみ)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・經津主神(ふつぬしのかみ)
【生目社】・藤原景清命(ふぢわらのかげきよのみこと)
【赤崎社】・素戔嗚神(すさのをのかみ)
【若宮社】・大雀天皇(おほさざきのすめらみこと)[仁徳天皇]
【八坂社】・須佐之男神(すさのをのかみ)・櫛稻田比賣神(くしいなだひめのかみ)
【天満社】・菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと)
【金比羅社】・大物主神(おほものぬしのかみ)
【祓戸社】・瀬織津比賣神(せおりつひめのかみ)・速開津比賣神(はやあきつひめのかみ)・氣吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)・速佐須良比賣神(はやさすらひめのかみ)          (引用以上)


 無題.png大国主命、少彦名命、ニニギノミコト…を入れれば、ほとんどの神代のスターが揃い踏みといったところですが、それでも、多少、多過ぎると言った印象を受けてしまいます。

 それは、古代、畿内と九州を繋ぐ大動脈である瀬戸内海航路の要衝と言える場所に鎮座する神社である事から致し方ないのかも知れません。

分かり難い神様に関して多少コメントすべきものがあろうかと思います。                 元宮社(脇殿)

@  【岩土社】 石土毘古神=スサノウ イザナギとイザナミの間に産まれたこの神が筆頭に掲げられていることから、アカルヒメを追い掛けてきたのはツヌガノアラシト(崇神)ではなくスサノウであろうと考えたいところです。

A  【秋葉社】 火産靈神=金山彦 これもスサノウのお妃となった櫛稲田姫の父神であることからこの順位となっているのかも知れません。

B  【多賀社】伊弉諾神 伊弉册神=スサノウの祖神

C  【杵崎社】志那津比子神 志那津比賣神=阿蘇高森の草部吉見神と妃神

D  【猿田彦社】猿田彦神【稻荷社】宇迦之御魂神=実は山幸彦と伊勢外宮の豊受大神

E  【鹽竈社】鹽土老翁神=博多櫛田神社の大幡主でありヤタガラスの父神

F  【生目社】藤原景清命とされているのは後付で贈)垂仁天皇=実は宇佐ツ彦

G  【赤崎社】素戔嗚神=石土毘古神がスサノウであれば【八坂社】と併せ重複となります。

H  【若宮社】大雀天皇[仁徳天皇]=これこそ九州王朝の高良玉垂命と神功皇后との間に産まれた(「高良玉垂宮神秘書」)長子シレカシノミコト(九躰皇子)宇佐神宮の若宮神社の五神中一神

I  【金比羅社】大物主神=恐らく大山咋

J  【祓戸社】瀬織津比賣神、速開津比賣神、氣吹戸主神、速佐須良比賣神=百嶋由一郎最終神代系譜によれば、この一群の神々は以下が参考になるでしょう。

無題.png

姫大神(宗像三女神or玉依姫)を外し帶中日子命【仲哀天皇】を祀る一群の神社があります。

 この神社群から姫島の大帯八幡社の正確が解析できれば良いのですが今のところ見えません。

香椎宮  福岡県福岡市東区香椎

御勢大靈石神社  福岡県小郡市大保1032

忌宮神社  山口県下関市長府宮ノ内1-18

氣比神宮  福井県敦賀市曙町11-68

鹿児島神宮  鹿児島県霧島市隼人町内2496

柞原八幡宮  大分県大分市大字八幡987

郡瀬神社  大分県宇佐市樋田字瀬社187-1

泉神社  大分県宇佐市辛島泉1

乙盗_社  大分県宇佐市下乙女宮本1343

惣社八幡神社  福岡県京都郡みやこ町国作字惣社

鷹居神社  大分県宇佐市上田字1435

千栗八幡宮  佐賀県三養基郡みやき町大字白壁字千栗

葦神社  三重県伊賀市上阿波2665

箱崎八幡神社  長崎県壱岐市芦辺町箱崎釘の尾触823

白沙八幡神社  長崎県壱岐市石田町筒城仲触1012

興神社  長崎県壱岐市芦辺町湯岳興触676

聖母宮  長崎県壱岐市勝本町勝本浦553

天手長男神社  長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730

角上神社  長崎県壱岐市石田町湯岳射手吉触トカミ山…   敬愛するHP「玄松子」による(九州のみ)

では、タラシとは何なのでしょうか…?神功皇后紀(33)には、比自・南加羅・㖨国・安羅・多羅・卓淳・加羅七国を平定 とあります。当然にも、帯、足 の人々とは、半島の伽耶国の=タラシ(多羅国の「多羅」+アンシ、コンシ、オナゴシ…の「シ」)の人だった…でも良さそうですが、まだ、自信がありません。そもそも、スサノウは新羅の皇子様でした。その血を注がれた二流の人々(母神:辛国息長…、母神:櫛稲田姫…)は伽耶も呑み込む新羅の領域でしたから、タラシ系とは多羅人で良いのかも知れません。


研究目的で百嶋由一郎神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記