821 「古事記」中つ巻 孝安編 G “孝安は熊本県玉名市にいた景行の父神”
20200410
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。
「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代とした神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。
たまたま非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「古事記をそのまま読む」というサイトから引用させて頂きます。
こちらも非常に感謝しております。当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。
今回取り上げるのは、これまた一般にはあまり知られていない第六代孝安天皇 大倭帶日子國押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシ)命についての話です。
これも実に短い文章で、近畿大和朝廷の領域などには居なかった事、「古事記」の編纂者達も現場を知らないで(始めは知って隠していたのでしょうが、今や皆が忘れてしまっている)奈良に無理やりあてはめた事を物語っています。
この孝安天皇も皆さん良くご存じの草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミの子でしかないのです。
つまり、周王朝後裔呉太伯系の正統皇統の中に後の藤原に続く一族を天皇扱いにし挿入しているのです(勿論やったのは後の話ですが…)。
ただ、このことを現状で証明する事はできません。
何故なら、証言できる人は当然にも口を噤むはずですし、直接聴き込んだ人、つまり、百嶋先生は鬼籍に移動されているからです。
百嶋先生は元々熊本県でお生まれになり、現在の玉名市にお住まいでした。一族からは五高〜東大が何人も出たし、戦前の全国納税者番付百傑の中に一族の者が三家入っていたとおっしゃっていました。
当然にも、地元の実力者、名士でしたから、神社だろうが寺院であろうが生の情報を得る事が出来たとおっしゃっていました。
それは、帝国大学の学者にも教えられない様な極秘の社伝、家伝…と言ったものであり、なおかつ、まだ、当時は優秀な宮司、禰宜による秘密の神社研究会が継続されておりその内容を得ていたという意味で語っておられました。
ただ、ペイペイの駆け出しである私達にはそれ以上の詳しい話をされる事はありませんでした。
このため、数年と言う短期間の接触の間にはとても真相はおろかその概略さえも聴き出す事はできませんでした。ただ、伝え聞いた話の断片からその研究会がどこで行われていたかだけは、最近になって見当が付きました。それはメンバーのブログ「ひろっぷ」さんの周辺から分かりました。熊本県人吉市でした。
以下、による
大倭帶日子國押人命坐葛城室之秋津嶋宮治天下也 此天皇娶姪忍鹿比賣命 生御子大吉備諸進命次大倭根子日子賦斗邇命【二柱 自賦下三字以音】 故大倭根子日子賦斗邇命者治天下也 天皇御年壹佰貳拾參歲御陵在玉手岡上也卅八年秋八月丙子朔己丑、葬觀松彥香殖稻天皇于掖上博多山上陵 |
大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおし)の命(みこと)、葛城(かつらき)の室(むろ)之(の)秋津嶋(あきつしま)の宮(みや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)姪(めひ)忍鹿比売(おしかひめ)の命を娶(めあは)せ、生(あ)れましし御子(みこ)、大吉備(おほきび)の諸進(もろす)の命、次に大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)の命【二(ふた)柱なり。賦自(よ)り下(しもつかた)三字(みじ)音(こゑ)を以ゐる。】 故(かれ)大倭根子日子賦斗邇の命者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 天皇の御年(みとし)壱佰弐拾参歳(ももとせあまりはたとせあまりみとせ)にて、御陵(みささき)は玉手(たまて)の岡上(をかのへ)に在り[也]。 |
大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしのみこと)は、葛城(かつらき)の室(むろ)の秋津嶋(あきつしま)宮にいらっしゃり、天下を治められました。 この天皇は姪の忍鹿比売命(おしかひめのみこと)を娶り、皇子(みこ)大吉備(おおきび)の諸進命(もろすのみこと)、次に大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)の二柱を生みなされました。 そして、大倭根子日子賦斗邇命は、天下を治められました。 天皇は御年百二十三歳にて、御陵は玉手(たまて)の岡の上にあります。 |
このため、我々百嶋神社考古学の者は既に結論を得ている事から証明とか論証を行なっている訳ではなく、ただの調査として百嶋由一郎が把握し考えていた神代史の真実を多少とも復元し、一般の方にも分かるように裏を取り、現地を踏みお伝えしているのです。
当然にも贈る天皇とされた後の孝安天皇についても、地元も地元の社伝としての生情報を秘密裏に直接聴き及び回収される立場に在られたのでした。何故ならば先生はこの玉名市の大地主の御曹司だったからです。本題です“大倭帶日子國押人命”ですが、この神を祀るのは熊本県玉名市の疋野神社です。


疋野神社の由緒御案内 ◎ 疋野神社は2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です ◎ ・疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ、2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です。 ・平安時代の六国史の一つ『続日本後紀』に 『延喜式』は延長5年(西暦927年)制定され、日本全国で当時すでに存在し、また著名であった神社が、国家守護の神社(官社=官幣社)として記載されています。 ・現在熊本県下で宗教法人としての神社数は約1400社程ですが、式内社は阿蘇地方の阿蘇神社、国造神社、そして玉名地方の疋野神社の三社のみです。 |
控えめに書かれてはいますが、疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられも正しく由緒のとおりであり、まさに紛れも無い 2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です。
◎ 疋野神社の御祭神は古来より、玉名の地に御鎮座・御守護の大神様です ◎ ・疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません。 大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です。 ・御祭神、「波比岐神」は日本最古の著『古事記』記載の神様であり、日本建国の場づくりをなされた神代の時代の尊い神様です。 『延喜式』には、天皇御即位時の大嘗祭の八神殿に祀る神として、又祈年祭・月次祭の祝詞や、神明帳の宮中三十六座の中にもその御神号が見え、特に朝廷の御崇敬が深い神として記されています。 相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています。 大年神は、天照大御神と御姉弟であります素盞鳴尊の御子神様です。 ・当神社は奈良平安時代、玉名地方の豪族日置氏の氏神神社として、はなやかに栄え、また鎮座地の立願寺という地名は、疋野神社の神護寺であった「立願寺」というお寺の名前が起源です。 |
これは玉名温泉からもほど近い、玉名市の中心部にある疋野神社のご由緒の一部ですが、愕くべきことに、“疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません”“ 大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です”“相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています” と実に凄い事が書かれているのです。
そして、それは正しいようなのです。
ところがこの事を認めると、奈良に始まったなどと大嘘をついている近畿大和朝廷の権威が崩れる事から、同社は阿蘇神社以上に極めて控えめに書かれておられるのです。心底敬意を表したいと思います。
さすがに地元に精通されていた百嶋先生の神代系譜に狂いはありません。
この御年神(日本足彦国押人天皇)こそは大歳神=草部吉見=贈る孝昭天皇=海幸彦の子であり同社の主神「波比岐神」なのです。さらに驚くべきは、第12代景行とされた 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)の父神でもあるのです。当然にも、「波比岐神」は疋野神社の「疋」であり、大阪の羽曳野市の「羽曳野」に転化しているのです。そして、全国の「比企」氏「日置」氏は、この一族の後裔だったはずです。
良くお考えください、少なくも第6代孝安天皇は熊本県玉名市に居た神なのです。これでも皆さんは欠史8代架空説とか「古事記」を、また、近畿大和朝廷奈良発生説を信じるのですか?欠史8代には何の根拠も痕跡もないなどと思われるのですか? ほとんど漫画の世界です。 少しは自分の頭で考え自分の足を使って調べて見られたら如何でしょう。
@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト) 阿蘇系(黎族)
B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト) 大幡主(白族)
C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト) 阿蘇系(黎族)
E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族) |
F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト) 黎族+白族
J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト) 宮崎生目神社主神
K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)
L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト) 素性系統不明
M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト) 九州、山口に痕跡
N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト) 宇佐素性系統不明
O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト) 九州王朝正統皇統
※以下省略

百嶋由一郎最終神代系譜
最期に、この玉名市に注ぐ一級河川の菊池川を遡ると山鹿市がありますが、同市の大宮神社で行われる山鹿灯籠祭は景行を迎える松明とされています。勿論、大宮神社の本来の神様は景行ではないのですが…。

「熊本県神社誌」94p
百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254