2021年09月01日

821 「古事記」中つ巻 孝安編 G “孝安は熊本県玉名市にいた景行の父神”

821 「古事記」中つ巻  孝安編 G “孝安は熊本県玉名市にいた景行の父神”

20200410

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


「古事記の95%は嘘…」と言った百嶋神社考古学を後世に託そうと考える私達にとって、「古事記」の内容を真に受ける事が無い事は言うまでもないことです。

 「古事記」が藤原にとって都合が良いように改竄と言うより最初から創りでかしたものであり、我々からは、どのような意図で本来の正統皇統を捻じ曲げ、自らの先祖に当る第10代とした神武僭称贈る崇神を権威ある者として描こうとしたかを少しずつでも説明したと思います。

たまたま非常に分かり易い口語訳がネット上に有りますので、そちらの意図に反するものになるかも知れませんが、古代史、神代史を考える上で非常に重要な事ですのでご理解ご容赦を頂く事として、今回は「古事記をそのまま読む」というサイトから引用させて頂きます。

こちらも非常に感謝しております。当方は、神代〜古代に掛けて最も重要な部分を百嶋神社考古学としてはどのように考えるかをお知らせしたいと思うものです。 

 今回取り上げるのは、これまた一般にはあまり知られていない第六代孝安天皇 大倭帶日子國押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシ)命についての話です。

これも実に短い文章で、近畿大和朝廷の領域などには居なかった事、「古事記」の編纂者達も現場を知らないで(始めは知って隠していたのでしょうが、今や皆が忘れてしまっている)奈良に無理やりあてはめた事を物語っています。

この孝安天皇も皆さん良くご存じの草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミの子でしかないのです。

つまり、周王朝後裔呉太伯系の正統皇統の中に後の藤原に続く一族を天皇扱いにし挿入しているのです(勿論やったのは後の話ですが…)。

ただ、このことを現状で証明する事はできません。

何故なら、証言できる人は当然にも口を噤むはずですし、直接聴き込んだ人、つまり、百嶋先生は鬼籍に移動されているからです。

百嶋先生は元々熊本県でお生まれになり、現在の玉名市にお住まいでした。一族からは五高〜東大が何人も出たし、戦前の全国納税者番付百傑の中に一族の者が三家入っていたとおっしゃっていました。

当然にも、地元の実力者、名士でしたから、神社だろうが寺院であろうが生の情報を得る事が出来たとおっしゃっていました。

それは、帝国大学の学者にも教えられない様な極秘の社伝、家伝…と言ったものであり、なおかつ、まだ、当時は優秀な宮司、禰宜による秘密の神社研究会が継続されておりその内容を得ていたという意味で語っておられました。

ただ、ペイペイの駆け出しである私達にはそれ以上の詳しい話をされる事はありませんでした。

このため、数年と言う短期間の接触の間にはとても真相はおろかその概略さえも聴き出す事はできませんでした。ただ、伝え聞いた話の断片からその研究会がどこで行われていたかだけは、最近になって見当が付きました。それはメンバーのブログ「ひろっぷ」さんの周辺から分かりました。熊本県人吉市でした。

以下、無題.pngによる


大倭帶日子國押人命坐葛城室之秋津嶋宮治天下也

此天皇娶姪忍鹿比賣命 生御子大吉備諸進命次大倭根子日子賦斗邇命【二柱 自賦下三字以音】

故大倭根子日子賦斗邇命者治天下也

天皇御年壹佰貳拾參御陵在玉手岡上也卅八年秋八月丙子朔己丑、葬觀松香殖稻天皇于掖上博多山上陵

大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおし)の命(みこと)、葛城(かつらき)の室(むろ)()秋津嶋(あきつしま)の宮(みや)に坐()し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[]
此の天皇(すめらみこと)(めひ)忍鹿比売(おしかひめ)の命を娶(めあは)せ、生()れましし御子(みこ)、大吉備(おほきび)の諸進(もろす)の命、次に大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)の命【二(ふた)柱なり。賦自()り下(しもつかた)三字(みじ)(こゑ)を以ゐる。】
(かれ)大倭根子日子賦斗邇の命者()天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[]
天皇の御年(みとし)壱佰弐拾参歳(ももとせあまりはたとせあまりみとせ)にて、御陵(みささき)は玉手(たまて)の岡上(をかのへ)に在り[]

大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしのみこと)は、葛城(かつらき)の室(むろ)の秋津嶋(あきつしま)宮にいらっしゃり、天下を治められました。

 この天皇は姪の忍鹿比売命(おしかひめのみこと)を娶り、皇子(みこ)大吉備(おおきび)の諸進命(もろすのみこと)、次に大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)の二柱を生みなされました。

そして、大倭根子日子賦斗邇命は、天下を治められました。

 天皇は御年百二十三歳にて、御陵は玉手(たまて)の岡の上にあります。

このため、我々百嶋神社考古学の者は既に結論を得ている事から証明とか論証を行なっている訳ではなく、ただの調査として百嶋由一郎が把握し考えていた神代史の真実を多少とも復元し、一般の方にも分かるように裏を取り、現地を踏みお伝えしているのです。

当然にも贈る天皇とされた後の孝安天皇についても、地元も地元の社伝としての生情報を秘密裏に直接聴き及び回収される立場に在られたのでした。何故ならば先生はこの玉名市の大地主の御曹司だったからです。本題です“大倭帶日子國押人命”ですが、この神を祀るのは熊本県玉名市の疋野神社です。


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疋野神社の由緒御案内

◎ 疋野神社は2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です ◎

・疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ、2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です。

・平安時代の六国史の一つ『続日本後紀』に
「仁明天皇承和77月庚子(西暦840年)肥後国玉名郡疋野神社を以って官社に預からしむ」と官社列格の年月日が銘記されている由緒深い神社「国史現在社」であり、また平安時代の国の法律書『延喜式』の神名帳にも記載されている、いわゆる「式内社」であり、県下でも特に貴重な存在です。

『延喜式』は延長5年(西暦927年)制定され、日本全国で当時すでに存在し、また著名であった神社が、国家守護の神社(官社=官幣社)として記載されています。

・現在熊本県下で宗教法人としての神社数は約1400社程ですが、式内社は阿蘇地方の阿蘇神社、国造神社、そして玉名地方の疋野神社の三社のみです。

 控えめに書かれてはいますが、疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられも正しく由緒のとおりであり、まさに紛れも無い 2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です。


◎ 疋野神社の御祭神は古来より、玉名の地に御鎮座・御守護の大神様です ◎

疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません。

大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です。

・御祭神、「波比岐神」は日本最古の著『古事記』記載の神様であり、日本建国の場づくりをなされた神代の時代の尊い神様です。

『延喜式』には、天皇御即位時の大嘗祭の八神殿に祀る神として、又祈年祭・月次祭の祝詞や、神明帳の宮中三十六座の中にもその御神号が見え、特に朝廷の御崇敬が深い神として記されています。

相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています。

大年神は、天照大御神と御姉弟であります素盞鳴尊の御子神様です。

・当神社は奈良平安時代、玉名地方の豪族日置氏の氏神神社として、はなやかに栄え、また鎮座地の立願寺という地名は、疋野神社の神護寺であった「立願寺」というお寺の名前が起源です。

これは玉名温泉からもほど近い、玉名市の中心部にある疋野神社のご由緒の一部ですが、愕くべきことに、“疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません”“ 大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です”相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています” と実に凄い事が書かれているのです。

そして、それは正しいようなのです。

 ところがこの事を認めると、奈良に始まったなどと大嘘をついている近畿大和朝廷の権威が崩れる事から、同社は阿蘇神社以上に極めて控えめに書かれておられるのです。心底敬意を表したいと思います。

 さすがに地元に精通されていた百嶋先生の神代系譜に狂いはありません。

 この御年神(日本足彦国押人天皇)こそは大歳神=草部吉見=贈る孝昭天皇=海幸彦の子であり同社の主神「波比岐神」なのです。さらに驚くべきは、第12代景行とされた 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)の父神でもあるのです。当然にも、「波比岐神」は疋野神社の「疋」であり、大阪の羽曳野市の「羽曳野」に転化しているのです。そして、全国の「比企」氏「日置」氏は、この一族の後裔だったはずです。

良くお考えください、少なくも第6代孝安天皇は熊本県玉名市に居た神なのです。これでも皆さんは欠史8代架空説とか「古事記」を、また、近畿大和朝廷奈良発生説を信じるのですか?欠史8代には何の根拠も痕跡もないなどと思われるのですか? ほとんど漫画の世界です。 少しは自分の頭で考え自分の足を使って調べて見られたら如何でしょう。


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統

※以下省略


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百嶋由一郎最終神代系譜


最期に、この玉名市に注ぐ一級河川の菊池川を遡ると山鹿市がありますが、同市の大宮神社で行われる山鹿灯籠祭は景行を迎える松明とされています。勿論、大宮神社の本来の神様は景行ではないのですが…。


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「熊本県神社誌」94p


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254

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2021年09月03日

822 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か @“消えた祭神を求めて”

822 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か @“消えた祭神を求めて”

20200412

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


前ブログを読まれた方はお分かりのように、このところ「古事記」(中つ巻)の神武天皇…条以下を書き続けてきました。

ただ、最も難敵の孝霊、孝元、開化を前に多少はタジロギ、書き続けるていることに多少は疲れ、一つのパターンに飽きたことから他の事も書きたいと言う思いもあり、頭の一角を占めている大分県姫島村の大帯八幡社を取り上げ、はっきりした目途も立たないまま書いて見る事にしました。

 勿論、姫島の大帯八幡社に参拝したのは九州王朝探究の狙いを秘めた地名研究会を幾つか創り手を広げ始めた15年以上も前の事でした。豊後高田市の真玉温泉に30人弱で泊まり訪問したのでした。

 その後、数回参拝を重ねるも頭に引っ掛っていた事がありました。

 それは、同社の名(大帯八幡社)と鎮座する祭神、さらに国東の東に浮かぶという風土や性格とが似つかわしくない…という違和感でした。

 このため神社の本質が把握できないままで、村興し町興し世界遺産登録に準え浮かれた客寄せブログを書く事はできないと棚上げにしていたのでした。しかし、今回改めて、百嶋由一郎の神社考古学の立場から「古事記」中つ巻の解読と百嶋神代系譜と摺り合わせる作業を行うと、国東の更なる沖に浮かぶ紛れもない古社「大帯八幡社」の性格が見えてきたのでした。


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国東半島の沖、周防灘の出口に浮かぶ孤島の姫島は九州から畿内へのいわば重要な接続水域だったのです


 この島が神代から古代へと繋がる重要な舞台であった事は、「古事記」「日本書紀」に各々異なったしかし、非常に似通った話として書き留められているという事実でもお分かり頂けるでしょう。

「古事記」では新羅の王子様のスサノウとアカルヒメの話として、「日本書紀」ではアカルヒメの名は都合が悪かったようで隠していますが、意富加羅国王の子であったとする都怒我阿羅斯等(実は贈る崇神)と童女の話として設えています。

それもこれも、藤原の祖である神武僭称贈る崇神=都怒我阿羅斯等とその父神である久麻加夫都阿良加志比古(熊本県甲佐町の甲佐神社の祭神)=大山咋親子が新羅と肥後〜出石〜敦賀を往来していた事から後の藤原がスサノウを排除し自らの事として描きたかった事が分かるのです。

このため、姫島(糸島半島西のもう一つの姫島も)、出石、敦賀、能登半島…と主人公に分裂が認められる事に悩まされ続けてきたのでした。これは後の藤原による捏造そのものなのです。

御用学者とその尻尾の買弁学芸員の方々も、何が“「日本書紀」に絶対誤りはない…だ!”文句があるなら御高説を賜わろうではないか。崇神を本物の神武天皇時代の人物として描く偽装であり、九州王朝を隠す思惑も潜んでいるのです。


阿加流比売神 姫島は、『古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっている。『日本書紀』では名前の記述がないが、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女のエピソードと同一である。『記紀』で国や夫や女の名は異なっているが、両者の説話の内容は大変似通っている。

20200413 08:14 無題.pngによる

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ここで、当会メンバーの ひとつあがりのカフェテラス (古代日本の真の姿が知りたくて、神社伝承を追い求めています)氏の27.アカル姫と比売語曽(ひめこそ)社(大分県姫島村)」をご紹介します。

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【比売語曽社について日本歴史地名体系から】

両瀬(ももせ)の明神様とよばれ、「姫島史」には「鉄漿村字両瀬の海岸にあり」と記される。祭神は比売許曾神で、同神は朝鮮南部の王子都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)の求めた女、新羅王の子・天之日矛アメノヒボコ)の妻、新羅王・波沙寝錦(ハサムキム)の妃、大己貴(オオナムチ)命の女・下照姫命、辛国気長大姫大目命などの諸説がある。… (中略)… 神体は白石とも木像とも土偶ともいうが、婦人像と伝える。神殿背後の岸壁に元宮とよばれる洞窟がある。境内に含鉄炭酸水の拍子水が湧き赤水明神の別称も生じた。


 百嶋系図では、天之日矛アメノヒボコスサノヲ素戔男尊)のことであり、さらに新羅の第9代王・昔(ソク)氏 伐休尼師今(ばっきゅう にしきん)の太子骨正のことだとされています。

 この『スサノヲアメノヒボコ骨正』という解を導き出すためには、いろいろと難しい方程式を解いていく必要があるようですが、百嶋氏の資料の中に伐休尼師今について書かれているものがありました。


 「新羅第8代、阿達羅尼師今(あだつら にしきん)のAD154年時、延烏朗(よのらん)は49歳であったと思います。

延烏朗はその後、倭国に呼び返されて、イザナギの名前で国生みの大業を成しとげられました。

 後々、韓土で先代が他界された折は、皆に推されて第9代の新羅王、伐休尼師今とおなりになりました。それはAD184年、彼79歳の折のことでした。

イザナギの御祖父(新羅第4代)、脱解尼師今(だっかい にしきん)は元はタバナ国の王子でした。半島列島の多くの研究家は、熊本の「玉名」がそのタバナ国ではないかと考えています。

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以下(出典:ウイキペディア(一部加工))


 13世紀末に高麗の高僧一然によって書かれた『三国遺事(さんごくいじ)』によると、阿達羅王四年(西暦157年)、新羅の東海岸で延烏朗(よのらん=伐休尼師今)が海藻を採っていると大きな岩が現れ、延烏朗を日本まで運んでいってしまったと記されています。そして、延烏朗を捜しに海岸にやってきた妻の細烏女(せおにょ)も同じように大きな岩に乗って日本にたどり着いたということです。後に夫婦は日本の国王・王妃となったと伝えられています。大きな岩とはおそらく頑丈な船のことだと思うのですが、それにしても実に興味深い説話ですね。


次に、アレキサンダーに追われて逃げてきたイスラエル人及びユダヤ人の集団です。

 その頃になると、威張りすぎていたイスラエルのほうは先に落ちぶれていまして、それに仕えていたユダヤ人のほうが勢力があったので、その頃はイスラエル・ユダヤ人ではなく、ユダヤ・イスラエル人に逆転しておりました。従って、アレキサンダーに追われた時の名前はユダヤ・イスラエルでした。別の名前はヘブライですけれども、その頃はもうあまり、はやりませんでした。

 とにかく、アレキサンダーに追われて、ペルシャの王様たちと一緒に中国へ逃げ込みました。そして、中国においても、どうもうまく現地の人と溶け込めない人たちは、逃げて逃げてちいぱっぱ、朝鮮半島を経由していっそのこと、日本という天国があるので日本まで逃げようかとなりました。また、古い人たちは海南島経由で日本に入ります。

 アレキサンダーに追われた正統派の渡ってきたルートは朝鮮半島経由です。

 そして、イザナギという人物が登場します。現地では「ユーラン」といわれる人物が、場所はですね、釜山の上のほうを地図でご覧になりますと、「コハン」というところ、韓国No1の製鉄所があるところです。

 ここに「ユーラン」を大きな磐(船)が日本へ連れ去ったという神話、コハン神話が残っています。これが日本で言うイザナギのミコトだと私は思っています。なお、イザナギのミコトはもとは日本人だったのです。あの人の何代か前は、日本人であって、日本時代はどこに住んでいたかというと熊本玉名がもっとも有力です。これは朝鮮の学者もそのイザナギ・スサノヲの親子の先祖が新羅の国に定住されるまでにいたタバナ国とは熊本の玉名ではないかと、どうもその線が強いと考えているようです。これがコハン神話です。

 このコハンに相当する新羅の国に、日本のオオヒルメムチ(アマテラスオオミカミ)が後々に手紙を出して、何とか日本を取り仕切ってくれないか、手伝いしてくれないかという依頼状を送られました。これが新羅本紀にはっきりと書いてあります。

 今、曽根台地にアマテラスたちをお守り申し上げて、後々九州王朝親衛隊の指揮官となった金山彦のところまでお話しました。それが九州王朝前夜の一部分です。

 百嶋氏の講演記録からです(「肥後翁のblog」から転載)。


 一方、スサノヲの妻・アカルヒメについては、ブログNo.No.No.No.12でも触れていますが、新羅から但馬国(無題.png兵庫県)に入り、その後、大分県の姫島(比売語曽社:ひめこそしゃ)に移られ、国東半島を経て宇佐市安心院の妻垣神社に住まわれたということです。

 そんなことなどを思い返しながら、『大分神代史研究会』(当会の事ですが:古川)のメンバーとともに姫島の比売語曽社に伊美港からフェリーで向かったのは、昨年の夏のことでした。

 姫島港には約20分ほどで到着です。夏シーズンを迎えて人の行き来も多く、穏やかに活気づいている港。港では比売語曽社の江原宮司が忙しい中、出迎えてくれていました。江原宮司にはその後、島内を案内していただいたのですが、天気にも恵まれ、空と海の青いキャンバスに抱かれた美しい島の豊かな魅力をしっかり感じることができました。


なお、糸島半島の姫島〜比売語曽神社(大分姫島)については、当会のメンバーである「事代主のブログ」氏も姫島@〜B 比売語曽神社(大分姫島)を書かれています。

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2021年09月06日

823 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か A “仲哀を祀る八幡宮群”

823 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か A “仲哀を祀る八幡宮群”

20200412

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


822 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か “消えた祭神を求めて”@ から続く


無題.png

まず、この神社を踏んだ当初から「大帯八幡社」という表記が気になっていました。

 それは、大帯の「帯」が「足」と書かれていない事から、「古事記」に沿った社名、従って祭神が絡んでいる事が分かるからでした。


足と帯 かなり知られた話ですが「古事記」には妙なフレーズが登場します。

“ニチゲ「日下」をクサカと謂ひ、名におきてタイ「帯」の字をタラシと謂ふ。かくの如き類は、本のまにまに改めず” です。

どう考えても読めない「日下」「日下部」を「クサカ」「クサカベ」と読ませるのは藤原の遠祖であるヒコヤイミミ=草部吉見の「草部」を「日下部」とする置換えで、お妃の栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ=高木大神の次女)の父高木大の神本拠地である新羅(伽耶)の大邱を隠す事が目的だったのです。

ある意味で高木大神の本国である伽耶(カヤ)部=草部を表面上消す意図があっての事だったと考えています(故百嶋由一郎氏がそう言われていたからですが)。

また、「帯」と書いてタラシと読むといった類のものは、従来通りに用いたとともしています。

ここでも、また、孝安、景行、成務、仲哀…の和風諡号を見れば分かるように、「日本書紀」の「足」が「古事記」では「帯」へと置き換えられているのです(勿論、「古事記」が先行編纂であるのですが)。 

この事も本物の初代神武に敵対したナガスネヒコの妹、オキツヨソ足姫の「足」を隠すための擬装と考えれば上手く理解できそうです(「古事記」の時代はナガスネヒコ系を取り込もうとしていたのかも…)。

関連して先行ブログ ひぼろぎ逍遥(跡宮)820 「古事記」中つ巻  孝昭編 F “孝昭は阿蘇高森の草部吉見ことヒコヤイ(ハエ)ミミ” 20200409 を参照のこと。

 そこでお考えください。大帯八幡社という名称も「帯」という表記となっていることから、「古事記」に準えたその時代に付された社名であるとも言えるでしょう。

これはそのニュワンスを僅かに残している事から、この大帯八幡社を創設した一族は今は八幡神を受入れてはいるものの元は、阿加流比売神神話を新羅王の子である天之日矛の妻と認識していたであろうと推定できるのではないかと考えます。

 姫島の阿加流比売神について、『古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっている。『日本書紀』では名前の記述がないが、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女のエピソードと同一である。『記紀』で国や夫や女の名は異なっているが、両者の説話の内容は大変似通っている。”…(再掲載)

 勿論、これは単に社名の表記から推定しただけのものでしかありませんが、何の情報もない中であれば、仮に違うと主張されるとしても利(理)はこちらに在ると思います。

 始めはその祭神から普通の八幡社と見て興味を持たなかったのですが、その基層に別の祭神を見出し同社の性格を推定すべきと考えたのです。

 さらに踏み込めば、八幡社、八幡神社、八幡宮、(特別に系統が異なるものに正八幡神社、正八幡宮があるのですが)…と数多ある上に、同社は贈る仲哀天皇(帯仲彦)を含むどちらかと言えば少数派の八幡社なのです。

 皆さん良くご存じの宇佐八幡宮は一社三殿の正面に向かう 左の一の殿 応神天皇(別王)、正面 二の殿

姫大神(同社は宗像三女神とする)右の三の殿 神功皇后…という配神となっているのです。

 これ以外にも妻垣神社の様に異なる祭神を持つ八幡神社はあるのですが話が逸れますのでここまでとします。

 このように仲哀天皇(帯仲彦)を含む神社とは、はっきり言えば特殊な傾向を持つ八幡社なのです。

 では、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇という祭神を抱く神社とはどのようなものでしょうか。

 単純には断定できませんが、元々は一般的に言うところの物部系の神社ではないかと考えています。

 勿論、大分県の一の宮の一つである柞原八幡宮、宇佐神宮の境外摂社の鷹居神社(不思議ですが) も含まれている様に、表面的には贈る仲哀天皇を含む八幡神社なのですが、その基層に違うものを見るのです。


仲哀天皇 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)

香椎宮  福岡県福岡市東区香椎

御勢大靈石神社  福岡県小郡市大保1032

忌宮神社  山口県下関市長府宮ノ内1−18

氣比神宮  福井県敦賀市曙町11−68

久度神社  兵庫県南あわじ市神代國衙字久戸1417

鹿児島神宮  鹿児島県霧島市隼人町内2496

鶴谷八幡宮  千葉県館山市八幡68

羽浦神社  徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32

八幡神社  徳島県三好市三野町清水1077

湊口神社 境内 仲哀天皇社  兵庫県南あわじ市湊里字大神ヶ内1287

穴門山神社  岡山県高梁市川上町高山市1035

穴門山神社  岡山県倉敷市真備町妹字諏訪下895

神神社  岡山県総社市八代宮山918

八幡神社  広島県福山市駅家町上山守1183

八幡神社  広島県世羅郡世羅町寺町1378

天野八幡宮  岡山県岡山市北区青江3−2−1

廣幡八幡宮  岡山県岡山市南区阿津2104

鴨神社  岡山県玉野市長尾1173

神根神社  岡山県備前市吉永町神根本1147

國神社  岡山県岡山市北区三門中町5−1

御崎宮 境内 八幡宮  岡山県岡山市北区北方4−2−29

美和神社  岡山県瀬戸内市長船町東須恵字広高山1064

柞原八幡宮  大分県大分市大字八幡987

郡瀬神社  大分県宇佐市樋田字瀬社187−1

泉神社  大分県宇佐市辛島泉1

乙盗_社  大分県宇佐市下乙女宮本1343

惣社八幡神社  福岡県京都郡みやこ町国作字惣社

鷹居神社  大分県宇佐市上田字1435

八幡神社  山形県酒田市市条字水上壱番ノ内1

西奈彌羽黒神社  新潟県村上市羽黒町6−16

八幡宮  新潟県南魚沼市八幡113

荒樫神社  福井県越前市西樫尾町28−5

八幡神社  福井県福井市大丹生町46−2

大塩八幡宮  福井県越前市国兼町字榊山22−2

常宮神社  福井県敦賀市常宮字西ノ前13−16

劔神社 境内 織田神社  福井県丹生郡越前町織田113−1

鞍居神社  兵庫県赤穂郡上郡町金出地910

千栗八幡宮  佐賀県三養基郡みやき町大字白壁字千栗

葦神社  三重県伊賀市上阿波2665

箱崎八幡神社  長崎県壱岐市芦辺町箱崎釘の尾触823

白沙八幡神社  長崎県壱岐市石田町筒城仲触1012

興神社  長崎県壱岐市芦辺町湯岳興触676

聖母宮  長崎県壱岐市勝本町勝本浦553

天手長男神社  長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730

角上神社  長崎県壱岐市石田町湯岳射手吉触トカミ山

都波只知上神社  鳥取県鳥取市河原町佐貫511

和田八幡宮  島根県浜田市旭町和田字八色山1739

神楽岡八幡宮  島根県大田市仁摩町仁万1436

敬川八幡宮  島根県江津市敬川町1768−1

保内八幡神社  愛媛県西条市円海寺172

伊佐爾波神社  愛媛県松山市桜谷町173

八幡神社  東京都利島村

阿禰神社  島根県出雲市湖陵町二部5

阿須利神社  島根県出雲市大津町龍王山3668

斐伊神社 境内 日宮八幡宮  島根県雲南市木次町里方字宮崎463

狩山八幡宮  島根県雲南市大東町下佐世狩山837

河邊神社  島根県雲南市木次町上熊谷字中ノ段1462−1

久武神社 境内 若宮社  島根県出雲市斐川町出西字随心1834

佐世神社  島根県雲南市大東町下佐世1202

多倍神社  島根県出雲市佐田町反辺字横塚1064

神田神社  石川県白山市吉田町8

熱那神社  山梨県北杜市高根町村山西割1714

大井俣窪八幡神社  山梨県山梨市北654

松尾神社  山梨県甲州市塩山小屋敷2256

宇波刀神社  山梨県甲府市宮原町1265

日枝神社  東京都千代田区永田町2−10−5

磐井神社  東京都大田区大森北2−10−8

筑土八幡神社  東京都新宿区筑土八幡町2−1

亀山八幡宮  山口県下関市中之町1−1

杜屋神社  山口県下関市豊浦町黒井杜屋町1541

龍王神社 境内 尾崎神社  山口県下関市大字吉見下1726

日吉大社 境内 気比社  滋賀県大津市坂本5−1−1

三重生神社 境内 気比神社  滋賀県高島市安曇川町常磐木1239

引宮神社  香川県木田郡三木町井上字池上2035

雲氣八幡宮  香川県仲多度郡まんのう町西高篠269−1

男山神社  香川県さぬき市寒川町神前寺尾3967

大野原八幡宮  香川県観音寺市大野原町大野原1913

多和神社  香川県さぬき市志度126

造田神社  香川県さぬき市造田1969

墨坂神社  長野県須坂市墨坂1−8

今八幡宮  山口県山口市上宇野令828−1

岩隈八幡宮  山口県岩国市周東町祖生7184

熊毛神社  山口県周南市大字呼坂字勝間1322

佐波神社  山口県防府市惣社町

奄我神社 境内 奥森神社  京都府福知山市中字立戸2114

加茂神社  高知県幡多郡黒潮町入野6930

府八幡宮  静岡県磐田市中泉112−1

厳原八幡宮神社  長崎県対馬市厳原町中村字清水山645

御香宮神社  京都府京都市伏見区御香宮門前町174

平野神社  京都府京都市北区平野宮本町1

八幡菅田比賣神社  奈良県大和郡山市筒井町1322

坂本神社八幡宮  岐阜県中津川市千旦林字鍛冶平642

武田八幡神社  山梨県韮崎市神山町北宮地1185

井波八幡宮  富山県南砺市松島3057

仲哀天皇 敬愛する「玄松子」氏による


ここで一例ご紹介します。実は「玄松子」氏が参拝されていないない(掲載当時)中に、徳佐八幡があります(当時敬愛する「玄松子」氏は訪問されていません)。山口県山口市から島根県益田市に向かう国道9号線沿いに鎮座するしだれ梅の美しい八幡神社です。

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祭神 應神天皇 仲哀天皇 神功皇后 (配祀) 多紀理毘女命 市寸嶋比女命 多岐津比女命 天兒屋根命 天太玉命 天鈿女命 興玉命 鹽土老翁命 手力雄命 大己貴命 少彦名命


当然にも 配祀として残された 天鈿女命 興玉命 手力雄命 大己貴命 少彦名命 も本来の祭神でも強硬派の物部氏の祭神でありシンボルだったのです。

 上は、同社が鎮座する山口市阿東町の地図ですが、何かお気付きになりませんか?

 物部と言えば「先代旧事本紀」に言う十種神宝が頭に浮かびます。饒速日命(ニギハヤヒ)が降臨時に天神御祖から授けられたとするもので、「天孫本紀(巻3)」に天璽瑞宝十種として登場します。

剣、玉を始めとする10種類の宝物です。

もう一度、地図をご覧ください。十種(クサ)岳の麓に徳佐町があるのです。徳佐は十種の置換えであり、大森も物部氏の最重要氏族です。多分、仲哀(帯仲彦)も広義の物部氏繋がる一族だったのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


@ 神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A 綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B 安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C 懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D 孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E 孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト) 玉名半阿蘇系(黎族)

F 孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G 孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H 開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J 垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K 景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L 成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M 仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N 応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O 仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統

※以下省略

百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254


824 国東半島沖に浮かぶ姫島の古社「大帯八幡社」とは何か B“何故仲哀を祀るのか”に続く

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記