2021年08月24日

669 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!  八坂神社+龍王社 数理編

669 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!  八坂神社+龍王社 数理編

20210712

太宰府地名研究会 古川 清久


本稿を書く切っ掛けとなった「炎のピラミッド」シリーズの最後に廻した南阿蘇村八坂神社(祇園社)の田尻盛永宮司でした。

このため、失礼になりそうなのを覚悟したうえで、分かる範囲で同社を位置づけしたいと思います。

無題.png

阿蘇神社と並んで「炎のピラミッド」に関して最も重要な神社がこの八坂神社なのです。

 それは、阿蘇中央五嶽を挟み、北の阿蘇谷に対して南の阿蘇谷には久木野神社=龍王社(八坂神社境外摂社)というピラミッドを構成する重要な神社が取り上げられていない事でも理解できるでしょう。

無題.png
無題.png

阿蘇五嶽を挟み22.7度傾いた平行四辺形を形成しているのが阿蘇神社と祇園神社の二(四)社なのです。


不思議にも、八坂神社と阿蘇神社とは阿蘇山を挟み標高が異なるにもかかわらず正確に22.7度の傾斜角で配置されているのです。では、22.7度とは何でしょう。

 地球物理学とか星座の研究といったものに関心を持たれている方にはほぼ常識に近いはずですが、一般的な神社探訪者といった方にはほとんど意味不明なものと言うべきでしょう。

私もこの数字が何かぐらいはなんとか見当がつきました。ミランコビッチ・サイクルを考えましょう。


ミランコビッチ・サイクルMilankovitch cycle)とは、地球の公転軌道の離心率の周期的変化、自転軸の傾きの周期的変化、自転軸の歳差運動という3つの要因により、日射量が変動する周期である。1920 - 1930年代に、セルビアの地球物理学者ミルティン・ミランコビッチ(Milutin Milanković)は、地球の離心率の周期的変化地軸の傾きの周期的変化自転軸の歳差運動の三つの要素が地球の気候に影響を与えると仮説をたて、実際に地球に入射する日射量の緯度分布と季節変化について当時得られる最高精度の公転軌道変化の理論を用いて非常に正確な日射量長周期変化を計算し、間もなくして放射性同位体を用いた海水温の調査で、その仮説を裏付けた。


現在までの沿革[編集]

ミランコビッチ・サイクルで表される日射量の変化は、北極南極氷床の規模の変化や氷期間氷期がおとずれたりする年代を求めるのに有効である。ただし、その計算は複雑であって理論と実際が異なる場合があるため常に再計算が要求される。ミランコビッチの算出した数値は、1960年代まで地質学者たちの間で用いられていたが、放射性同位体による測定法が発展し確実なものとなると、わざわざ計算の面倒なミランコビッチ・サイクルに頼ることはなくなってしまった。とはいえ、1970年代に、海洋底のボーリング調査が行われ、採取されたサンプルに遺された微生物(有孔虫)化石の酸素同位体比から得られる気候変動の周期は、ミランコビッチの算出した数値ないしは計算法で得られる値に近い値であり、彼が1920年代に行った計算は1970年代の最新鋭の測定法に匹敵する精度であることが分かった。


三つの要素[編集]

離心率の変化

地球は太陽を焦点の一つとする楕円軌道上を公転しているが(ケプラーの第一法則)、その楕円の形状は常に一定ではなく、約10万年をかけて横に伸びた楕円が円に近い楕円となり、そしてまた横に伸びた楕円となっている。楕円が最も伸びた形になる時と楕円が最も円に近い形になる時とでは太陽と地球との距離は最大で1827kmも変わる。この差が太陽からの光量に影響を与え、結果として地球の気候にも影響を与えることになる。

現在の氷期サイクルの周期は約10万年であり、離心率の変動周期と一致している。しかし、それらを関係づけるメカニズムについては完全に理解されていない(10万年問題)。

地軸の傾きの変化

地球の地軸の傾きは約21.5度から24.5の間の間を定期的に変化しており、その周期は4.1万年である。現在は極大となった約8,700年前から小さくなっている時期にあたる。現在は23.4度であり、約11,800年後に極小となる。地球の地軸の傾きは季節差に影響を与え(地軸の傾きが大きいほど季節差が大きい)、結果として地球の気候にも影響を与える。

歳差運動の変化

地球の自転軸の向きは、公転しながら周期的に変化しており、これを歳差と呼ぶが、この周期は1.8万から2.3万年である。

これら三要素が地球の気候に影響を与えるが、実際には他にも様々な要因が関わるため、単純に計算出来るものでもない。(後述)また一般的に離心率の変化が地球の気候に影響を与えやすいが、地球史全体で見れば例外もある。実際、過去70万年の気候変動では10万年周期の離心率の変化ではなく、4万年周期の地軸の傾きの変化が重要な役割を果たしている。


ミランコビッチ・サイクル計算の難しさ[編集]

ミランコビッチ・サイクルを計算するための要素である公転運動や自転は、太陽をはじめとして様々な物理的な条件に影響される。たとえば、月の引力による海水の干満作用によって海水と海底の摩擦がおき、地球の自転速度が減速させられることも影響する。つまり自転周期が現在よりも短い約20時間であった20億年前の場合、1日を20時間のサイクルとして計算することになり、その数値の変化は現在と比べて短期間において明らかに激しくなることが予想されるということである。当時は理論上現在の1/4程度の周期であったと考えられている。


地質時代における気候変動との関連[編集]

最近100万年で見ると、公転軌道が正しい円に近づいた90万年前と75万年前と39 - 40万年前には、北緯65度における日射量が1m2あたり480W付近であり変化の少ない日射量の期間である事が表から見て取れる。

それと比べて、95 - 100万年前と60万年前及び20万年前には公転軌道が比較的ひしゃげて楕円になったこと、自転軸も安定的な80万年前には22.3 - 22.7前後の変動であったものが22.5 - 24度の間を激しくゆれ動くようになったことなどから日射量が440 - 540Wの間で激しく変化し、寒い氷期と温かい間氷期が繰り返された事が読み取れる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210712 18:58による

無題.png

まず、この4社がこの数字を意識して造られている事だけでも、11の神社の配置がただの偶然といったものではない、半端な配置ではない事がお分かり頂ける事でしょう。

 これらの11の神社は、標高が異なる大延長の場所に離れた場所に存在しているのです。

これは奈良の地名と九州の地名が対応しているなどといった他愛もない話では全くないのです。

無題.png
同社参拝殿壁面には炎のピラミッドのプレートが張ってあります。これが田尻研究との出会いでした。
無題.png

この図からは分かるのは、春秋分時点、夏至、冬至が完全に意識されて造られているのです。

 まだ、近畿大和朝廷、平城京の影も形もない時代の話なのです。少なくとも阿蘇神社―霜宮ライン〜

八坂神社―龍王社は黄道(太陽が通る天空の道)の観測上の幅を表しているようです。

そこで、この八坂神社の関係で面白い現象が明らかにされていますのでお知らせしたいと思います。

それは直線でも30キロ近く離れた2社、普通に車で移動しても一時間以上は掛かる上に、片方は外輪山の外に出するのです。その境内地が全くの相似形を成しているのです。その事実を常識で理解できますか?

 宮司のお考えでは千五百年以上も前に11の神社が造られていると言う事ですので、頭が狂ってしまいそうです。

無題.png
無題.png

これほどの研究をブログ如きの紙面ではとても書き尽くせません。講演データを公開し、全データをネット上にアップし、無視し続ける文化庁、神社本庁、県教育庁…を晒し者にしたいと思うばかりです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年08月25日

ビアヘロ182 8月8〜9日 阿蘇の高森町と阿蘇の産山村で平野虎丸氏と阿蘇の風Gが焼畑を行ないます

ビアヘロ182 889日 阿蘇の高森町と阿蘇の産山村で平野虎丸氏と阿蘇の風Gが焼畑を行ないます

太宰府地名研究会(神代史研究班) 古川 清久


焼畑と言えば、九州では宮崎県椎葉村上椎葉の椎葉クニ子さんが最も知られており、焼畑は元より、栽培種の管理、収穫物の保存や調理、栽培品種の種の保存…とあらゆる知識を蓄えた生きる図書館の様な方なのです。

ただ、そのクニ子様も齢100歳に近づいておられ、将来的にはいずれ終焉を迎えられるはずで、“焼畑の民宿”のために継続されてきた焼畑も、その後継者である息子さんが地場の土木業に頼っておられることから、いずれは消失する事になるはずなのです。

そこら辺の事情については、最近、足が遠のいている事からそれ以上の事情を知りません。

さて、平野虎丸氏のお話では上椎葉には同じく椎葉姓の方でもう一人焼畑をやっておられる方が残っておられるとの事、今回のイベントには何とか足を運びたいものと考えています。

無題.png

平野さんも子供の頃から焼畑を行ってこられた方ですが、この椎葉さんとその他の協力者、全国の平野虎丸ファン・クラブのメンバーも加わり焼畑の復活を行なわれる事になるでしょう。

しかも山の神への許しを請う唱え「火入れの唱え言」を唱えるのが、高千穂で売りに出されていた神社を買い取り半年で再生させた民間宗教者のF女史(ひのみこ社)と言うのですから、十分過ぎるほどの役者が揃っているのです。この方については、以下の230本のブログを拾い読みして下さい。

新ひぼろぎ逍遥

837

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(上)

843

高千穂町上野の下野八幡神社への下調べ B 

枳(ゲズ)とは何か?下“川口敦子論文から”

852

高千穂町西部の神社が面白い “ひのみこ社周辺の

神々下調べ 追補 @ 黒口神社”

863

高千穂町東部の神社も面白い “ひのみこ社周辺の神々

下調べ 追補 K ” 天孫降臨と槵觸神社”


無題.pngこのヤボに火を入れ申す  ヘビ、ワクドウ()、虫けらども、早々に立ち退きたまえ 山の神様、火の神様、お地蔵様、どうぞ火の余らぬよう  また、焼き残りのないよう、お守りやってたもうれ


 村ぐるみのような大規模な焼畑が行われる場合には山法師に頼む事もあったのでしょうが、数戸単位の焼畑の場合には、実際に火入れを行なう人と焼畑の地権者は同一である場合が多く、焼畑の実行者が唱えたのが上記の山の神への許しを請う火入れ言葉だったはずなのです。

 ともあれ、高森ではついぞ聞いた事のなかった焼畑が、宮崎ではなく熊本の阿蘇外輪山東麓の高森と産山で実現すると言う事実、それもその中心的人物が私の極近しい人であったことから心を揺さぶられないはずのない実に感動的な話が湧いてきたのです。

 私自身、椎葉クニ子さんの著書も読み、民宿「焼畑」にも何度か泊まりましたが、当時は、「稲作以前」(NHKブックス)佐々木高明著を読んだ直後でしたので、戦前から普通の畑で行われていた陸稲(おかぼ)栽培と、焼畑の関係が良く分からず、全く起源の異なる物なのか(事実宮崎の焼畑ではおかぼ栽培は行わない)、陸稲栽培が焼畑の延長上に成立した水田稲作に先行する物なのかを考えていたのでした。

ともあれ、以下の二著は実践的でその意味で興味深い本ではあったのです。


無題.png

 場所は高森町尾下(オクダリ)ですが、国道57号線波野村の笹岡交差点から大型広域農道が高千穂へと向かう325号線に向かって伸びており、その沿線に虎丸さんの本拠地である「花の森」が見えてきます


無題.pngひのみこ社グループは10時に草部吉見神社付近の奥阿蘇物産館から数キロ入ったストーン・サークル(物産館関係者もご存じです)に10時集合すると聞いています。平野虎丸さんについては当方のブログでも何度か取り上げていますが、一般には西日本新聞からご紹介しておきます。

とにかく、鉄人、プロの林業家、野鳥、野草Gメンとしても全国的に名の知られた方で、一応、海の本「有明海異変」を書いた私と、川を取り上げた堀田宣之ドクターと山のプロである平野虎丸氏…の三人会をこれまで続けてきたのでした。


高森町に「山野草の森」 50ヘクタール整備、折々に観賞会 環境保護団体代表の平野さん

2019/5/15 6:00 

ヤブデマリの白い花を指す平野さん。夏には赤い実を付けるという

 山野草希少種の宝庫として知られる高森町で、自生する四季の山野草を楽しむ森づくりが進んでいる。環境保護団体「エコシステム協会」(熊本市)の代表理事を務める平野虎丸さん(81)が、4年前に個人で購入した山林50ヘクタールを整備。折々に観賞会を開き、自然愛好家を案内している。今月初めにサクラソウが見頃を迎えたほか、6月中旬にはベニバナヤマシャクヤクの観賞会が予定されている。

 県警事務職員だった平野さんは1980年代、野鳥の捕獲や売買、山野草の盗掘に危機感を募らせ、有志で保護団体を設立。針葉樹の伐採地に多様な広葉樹を植えたり、荒廃が進む牧野を賃借・購入したりする「トラスト運動」を進めるなど、山野草の保全に取り組んできた。

 山林は、阿蘇市波野地区と宮崎県高千穂町を結ぶ道路沿いの高森町尾下(おくだり)地区にある。熊本市の自宅を売却して購入した。「日本一花の森」と銘打ち、住居や休憩施設を建て、自ら重機を動かして遊歩道を整備している。

 「昔から変わり者でね。山野草や野鳥を『買う』『飼う』ではなく、ありのままの姿を楽しめる森にしたいと思った」と平野さん。サクラやモミジを植えた以外は、間伐して適度な日照を増やし、山野草の自生地を広げている。

 山を案内してもらうと、薄紫色の小花を咲かせたケルリソウ、ヤブデマリの白い花などに出合った。ウグイスや渡り鳥の鳴き声、キツツキが木を打つ音も聞かれた。サクラソウは、かつて野焼き後の牧野を広く彩ったが、愛好家や業者による乱獲が進み、自生地が少なくなっているという。

 平野さんは、スギやヒノキの植林ではなく、適度に伐採して自然木の自生を待つ「植えない森づくり」を提唱している。整備を進める「花の森」は、その実践の場。「多様な木々や草花、野鳥や虫が生息する森づくりは、豪雨災害にも強い森づくりにもつながる」と考える。

 森では7月、朱色の花を咲かせるツクシマツモトが見頃を迎え、8月にはヒメユリがオレンジ色の星形の花を咲かせる。「山野草を楽しみながら守るモデルの場所を作って、私も一生を終えたいと思っているんですよ」と話した。

 観賞会以外でも、来訪者を無料で案内してくれる。       =2019/05/15付 西日本新聞朝刊=


焼畑と言えば、徳島県東祖谷村や山梨県の早川町とかが良く知られていますが、椎葉村も名だたる焼畑地帯であった事は言うまでも有りません。しかしその椎葉もその火が消えようとしているのです。

 ただ、ブラジルのアマゾンとかインドネシア〜ニューギニアなどの失火を装った山への火入れが横行していることを森林破壊と併せて略奪農業、自然破壊…といった罵声が浴びせられている事も事実です。

 ただ、日本の伝統的な循環型の焼畑が古来森林を破壊していない事は言うまでもなく、急峻な地形からそもそも政治的逃亡者、敗残者しか住み着かない様な環境が破壊的略奪を妨げてもいたのです。

 本来、焼畑は畑作の延長上に陸稲栽培も行なわれるのですが、九州では陸稲を植える話はあまり聴いていないのでそれが何故なのかが未だに謎なのです。

 それが繋がるのであれば、かつて照葉樹林文化論者が主張した焼畑〜恒畑〜陸稲栽培〜水稲移行として納得できるのです。

 妙な話を持ち出し混乱させたかも知れませんが、いずれにせよ消失直前になると逆に郷愁や希少価値が見直されロウソクの最後の輝きが見られるのかも知れません。鉄人平野虎丸も齢80を超えていますので、 恐らく、阿蘇の風のグループが焼畑の文化を残してくれるのではないかと思っているところです。

 当日は、ひのみこ社の「婦人会」の皆さんがお煮しめなどを中心に手弁当を準備し、焼畑の実働部隊への補給してくれる事でしょう。

 そもそも、今回の焼畑が何故行なわれる事になったのかをお話して終わります。今回、火入れの際に大山祗の神への許しを受ける高千穂のひのみこ社のリーダーの女性のお父様が虎丸さんと話をしていて、“戦後、一生を掛けて自分がやって来た野菜(キャベツ)の栽培と販売の仕事は、その年商からも十分に成功したが、一つだけやり残した事がある。それが焼畑だった…”と言われた事から、人吉盆地の水上村の山奥で食うや食わずで生きてきた虎丸さんは子供の時から焼畑に勤しんできた事から、私がやりましょうと思い立ったことが始まりだったのです。正しく、戦後を生延びた男同士の友情を垣間見た気持ちがするのですが、満州から帰ってきて阿蘇外輪山の開拓農家で高原野菜の走りであるキャベツに目を着け、当時高額の給与を受けていた宮崎の旭化成延岡工場の従業員に売るというスタイルを確立し新たなビジネス・モデルを切り開いたお父様の思いに答えようと立ち上がった虎丸さんに、阿蘇の風のGが連動し焼畑をやろうとしている事に私も心が動かされてしまったのでした。

 いずれ、現地リポートをお伝えしたいと思っているところです。もう889日は目前です。

 武漢肺炎ウイルスなど心配は無用ですが、皆さん安全に間違っても火に巻き込まれない様に…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2021年08月27日

670(前) “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!  八坂神社+龍王社 祭神編

670(前) “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!  八坂神社+龍王社 祭神編

20210712

太宰府地名研究会 古川 清久

無題.png

当然ながら、田尻宮司の著書(縮刷版も含め)では祭神についても書かれています。

そこで私達の特殊な神社解析を書くことが憚られることは言うまでもありません。

 ただ、だからと言って田尻見解をそのままお知らせするのは本ブログの任務ではありませんので、当方は恥を意識しながらも百嶋神社考古学の立場から書かせて頂きます。

このため、恐れ多い気持ちを抱きですから、多少は抑制し、多少のコメントを提出させて頂くことに致します。祭神ですが、この二社の祭神は以下の通りです。


 八坂神社:スサノウ+櫛稲田姫+大国主命 

 龍王社 :豊玉姫(説明は不要かと思いますが、龍王は大幡主の子豊玉彦=ヤタガラスでありその娘が山幸彦のお妃となる豊玉姫です)

無題.png
無題.png

以前から多少は気づいていた事ですが、阿蘇五嶽の南北では祭神が全く異なり、特に南阿蘇でも南阿蘇村の祭神は際立っており、阿蘇系神社が極端に少なく、大山祗系(大山祗+埴安姫=大幡主の妹の間に産まれたミズハノメも含む)と大幡主系と金山彦系(櫛稲田姫を通じてスサノウが反映されている)が圧倒している。

 極端に言えば、南阿蘇=南郷谷とは阿蘇ではない!と言うべきで、恐らく、民族的にもかなり異なっているはずです。

 まず、八坂神社から考えましょう。

八坂神社:スサノウ+櫛稲田姫+大国主命 

 八坂とは弥栄(イヤサカ)であり、「ヤハエ」祇園社もシオンの丘のシオンでありイスラエルのシオンを意味しているなどと言われている事は皆様も良くご存じだと思います。

 加えて、スサノウは新羅の王子様であり、ヤマタノオロチ神話でご存じの通り、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだイスラエル系金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の妹埴安姫をお妃にして生まれた櫛稲田姫とは、イスラエル系金山彦と白族系(南阿蘇村には白川源流が流れ熊本に降っていますね)により生まれた新たな氏族が展開している事になります。

 このことについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)281300までの20本で不十分ながらも書いておりますのでお読み頂ければ、ヤマタノオロチ退治の現場が熊本県山鹿市の大宮神社を中心に起こった事であるとお分かり頂けると思います。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?

 

              〜

300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”



posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記