664 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 健軍神社 祭神編
20210704
太宰府地名研究会 古川 清久
健軍神社と言えば熊本では知らぬ人のない地名であり大社ですが、ここに鎮座する健軍神社(阿蘇四社)も今回のお話に絡む重要なものであり、その特異な位置関係から古代阿蘇氏なるものの一端が垣間見られるのです。

天彦命、天比当スはないものの、健軍神社の祭神は阿蘇神社ばかりではなく草部吉見神社とも非常に似通っている事が分かります 田尻研究で草部吉見神社と健軍神社とは東西ラインで繋がっているのです

まず、草壁吉見神社は「古事記」に基づいて祭神を並べておられます。なぜならば、「日本書紀」では彦(日子)八井命は神武(=初代カムヤマトイワレヒコ/第十代崇神天皇ハツクニシラススメラミコトは神武にあらず)は、神武の子にはその名がなく、『新撰姓氏録』・『阿蘇氏系図』で神八井耳命の子となっているからです。
明らかに、「古事記」の方が、この日子八井命=草壁吉見を高く(神武に近づけ)扱っています。
勿論、半世紀前の日本の農村でも、長女の私生児が親の末子とされることはよくあったことで、実の兄弟が親子となるぐらいのことはあたりまえでさえあったのです。
草壁神社縁起にある二の宮は、文字通り草壁吉見の妃ですが、この方が何者であるかはあまり取りざたされていません。
百嶋神社考古学では、草壁吉見神は中国の雲南省麗江から肥後に入り、有力氏族であった先住者の高木大神の入婿となったことにより、草壁=草部(草は茅のことであり朝鮮半島伽耶の意味)と称したとする。
つまり、伽耶ケ部(カヤカベ)ということになるのです。
従って、二の宮の姫は高木大神の娘と解釈するべきであり、事実、百嶋阿蘇系図では栲機千々姫(タクハタチヂヒメ)としています。
三の宮は、草壁吉見の嫡子となり、単に草壁吉見神の子というだけではなく、高木大神系の皇子となり当然にも格式は一の宮以上に上がることになるのです。
四の宮、五の宮は、阿蘇神社の健磐龍命と草壁吉見神の娘となり、阿蘇神社では一の宮と二の宮となる訳です。
神社探訪を続けていると、良く、「阿蘇三宮神社」と言ったものに出くわすことがありますが、実は、阿蘇神社にとっての三宮の意味であり、この場合は草壁吉見神社の一の宮と解釈して間違いないようです。
ちなみに、草壁吉見にとっての三宮神社は、草壁吉見神社の一キロほど先の天彦命を祀る三郎神社があります(長男なのに三郎としていることでそのことが分かります)。
注目すべきは九の宮の速瓶玉(ハヤミカタマ)を日子八井命の外孫としていることですが、速瓶玉とは阿蘇北宮=国造神社の祭神=大山咋=佐田大神=松尾神社=山王神社の祭神=日枝神社の祭神のことであり、百嶋阿蘇系図では、宗像神社の市杵島姫は草壁吉見の妃でもあったことから、その間に生まれた大山咋は子となっています。
草壁吉見神社縁起では神八井命と日子八井命は兄弟となっており、外孫となっているようです。
参考のために、阿蘇神社の祭神も出しておきます。
一の神殿(左手、いずれも男神)
三宮:國龍神 - 二宮の父。神武天皇の子で、『古事記』では「日子八井命」と記載
五宮:彦御子神 - 一宮の孫
七宮:新彦神 - 三宮の
九宮:若彦神 - 七宮の子
二の神殿(右手、いずれも女神)
二宮:阿蘇都比当ス - 一宮の妃
四宮:比東芬q神 - 三宮の妃
六宮:若比盗_ - 五宮の妃
八宮:新比盗_ - 七宮の娘
十宮:彌比盗_ - 七宮の妃
諸神殿(最奥、いずれも男神)
十一宮:國造速瓶玉神 - 一宮の子。阿蘇国造の祖
十二宮:金凝神 - 一宮の叔父。第2代綏靖天皇を指すとされる ウィキペディア
まず、いわば通説化されている草部吉見神社の祭神を敬愛する「玄松子」氏により確認しておきます。
日子八井命 ひこやゐのみこと
神武天皇の御子。第二代・綏靖天皇の兄。
『古事記』によると、神武天皇は即位して伊須気余理比売命と結婚され、 日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命(のちの綏靖天皇)の三柱の御子をもうけられた。
『日本書紀』には、日子八井命は登場せず、媛蹈鞴五十鈴媛との間に、神八井命、神渟名川耳尊のみが生まれたとある。 『先代旧事本紀』には、日子八井命は弟・神八井耳命の御子とある。
また『古事記』の、神八井耳命と神沼河耳命の兄弟が、腹違いの兄・多芸志美美命を殺し、 その時、神八井耳命は臆したため、弟の神沼河耳命が皇位を継いだ話に、日子八井命は登場しない。
邇邇芸命の子も三柱(火照命・火須勢理命・火遠理命)あり、末子が皇位を継承。
三柱の中の二柱だけが登場し、一柱は無視される形になっている。
日子八井命は、茨田連、手島連の祖。
熊本の阿蘇神社では、日子八井命を国龍明神(吉見神)とし、 神八井耳命の子・健磐龍命の妃である阿蘇津姫命の父神となっている。
敬愛する「玄松子」氏より
田尻研究で草部吉見神社と健軍神社とは東西ラインで繋がっていることは分かります。
このため草部吉見神社(伝ヒコヤイミミ陵)と雲仙岳山頂を直線で繋ぐ線上に健軍神社が乗りそうですが、私がやると200メートルほど南にずれてしまいました。(以下)


百嶋由一郎 阿蘇ご一家神代系譜(部分)


百嶋由一郎神代系譜 018阿蘇系譜@-2(部分)
由来はあるものの読めませんし、掲載しても読める状態にできませんので、ここでは雨宮姫社が健軍社にも置かれている事を確認し留めます。尚、この雨宮神社については当サイトでも数本書いておりますので興味をお持ちの方はアクセスを…。雨宮姫の母神=草部吉見の娘つまり阿蘇都比売は夫が変わる度に名を変えておられます。最期は神奈川県川崎市を中心に数十社確認できる杉山神社に繋がっているようです。
同社の祭神について草部吉見神社の12神を軸に考えれば、ある程度理解できるのですが、対して、健軍神社の主神を明らかにしようと考える時、武雄組命が誰なのかを理解する事が相当に難しい事に気付きます。今のところ消込作業を行うと、健軍大神(武雄組命)とは第二代綏靖天皇扱いにされている金擬彦(蘇民将来伝承の巨胆将来)ではなく、神八井耳(蘇民将来)しか該当しないのではないかと考えています。
さて、全ての境内社を取り上げることはできませんが、ここにも境内社として雨宮神社があります。
雨宮神社は人吉盆地の一角相良村の平地に浮かぶ小山の山上に祀られる非常に印象深い一社の外、熊本市内を中心に5〜6社確認できますが、草部吉見の娘=阿蘇都比売の娘として数奇な扱いを受けているようです。