2021年08月01日

661 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   草部吉見神社 数理編

661 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   草部吉見神社 数理編

20210701

太宰府地名研究会 古川 清久


 田尻(宮司)想定“阿蘇の「炎のピラミッド」”を形成する11の神社群への再リポートを始めましたが、ようやく峠が見える所までやってきました。既に田尻研究に遭遇して7〜8年は経過しています。

思えば、祇園神社の境内を踏んだ折、たまたま宮司とお会いする機会を得て(偶然掃除をされていた時だったのです)、ご著書を手にしたのですが、最近になってようやく“阿蘇の「炎のピラミッド」”とは、阿蘇山を中心とした神社群の意味であって、大方の皆さんのご理解であろう阿蘇系神社群の話との理解は、やはり正しくはないとの思いを深めています。

 冒頭から阿蘇の神社群の基層に侵入する話になりましたが、おいおいお話していく事にしましょう。

自前でも良いのですが誤りが無いように敬愛する「玄松子」氏のサイトに従います。


式内社 肥後國阿蘇郡健磐龍命神社名神大  肥後國阿蘇郡阿蘇比盗_社肥後國一宮旧官幣大社
御祭神 以下の十二宮を祀る


無題.png一の神殿左手男神四柱

一宮 健磐龍命 

三宮 國龍明神 

五宮 彦御子明神 

七宮 新彦明神 

九宮 若彦明神


二の神殿右手、妃神四柱

二宮 比当セ神 

四宮 比東芬q明神 

六宮 若比当セ神 

八宮 新比当セ神 

十宮 彌比当セ神






これが良く知られた「阿蘇十二神」と言われるものです。

右が古川作成の阿蘇12神ですが、続柄がなければ誰の事なのか全く分からないと思います。

一応、私が理解できる範囲でどなたなのかを書いておきますが、無論、同社や関係神社から異論が提出される可能性は十分に考えられます。

しかし、誤りを恐れていれば全く解明が進みませんので、ご批判は覚悟のうえで少し掘り下げて見ようと思います。

百嶋神代系譜でこれを解明するには56枚の神代系譜を読み解かなければなりません。

何分困難な課題であってここでは作業仮説としてご理解いただきたいと思います。


一の宮 健磐龍命 

二の宮 健磐龍のお妃(実体は阿蘇氏の高木大神一族への入婿)=天豊ツ姫(別名阿蘇ツ姫)であり 草部吉見神(父神)と高木大神の次女栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)(母神)の間に産れたプリンセス

三の宮 草部吉見神(健磐龍命の腹違いの実兄)=別名:国龍命 藤原が格上げし第6代贈る孝昭天皇(天足彦国押人命)としているが 勿論、第4代威徳天皇の実子などではない

四の宮 三の宮=草部吉見神のお妃(実体は阿蘇氏の高木大神一族への入婿)であり 高木大神の次女栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)

五の宮 これがかなり際どいのですが阿蘇家が惟人を初代としている事から 当然にも健磐龍系と草部吉見系との両方の流れを汲む(当然にも高木大神系でもある)雨宮姫と天忍日(アメノオシヒ)の子惟人

六の宮 五の宮=阿蘇惟人のお妃(自信はないのですが産山村の乙宮の主祭神かその娘ではないでしょうか)これについては ひぼろぎ逍遥(跡宮)をお読み下さい

363

「ひぼろぎ逍遥」 阿蘇の乙姫とは何か? “産山村乙宮神社のお姫さま”再考


七の宮新(乳)彦=草部吉見と栲幡千々姫の間に産れた天忍日=興ツ彦であり阿蘇ツ姫の弟

八の宮 新(乳)姫=健磐龍(一の宮)と天豊ツ姫(二の宮)の間に産れた雨宮姫であり阿蘇家初代惟人の母神

九の宮これが最も分かり難いのですが、一応、日中咋としておきます 草部吉見神社の検討と併せ再考したいと思います

十の宮 三の宮=草部吉見と市杵島姫の間に産れた興ツ姫で七の宮=新(乳)彦のお妃彌姫

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百嶋由一郎神代系譜 005アイラツ姫系譜(部分)

百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書きスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで


このシリーズも研究会の活動が拡大し作文が中断し掲載も遅れていましたが、今回、再度新たに書き下ろし完了させる事にしました。11社ですので10本で6社を扱います。このためどこかで調整します。

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草部吉見神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡高森町草部2715 пF 0967-64-0355

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何度も訪れている神社ですが、宮司は同社について図表は一枚しか書かれていません(部分的な重複掲載はありますが)。これだけの数値構造でも何故このような境内地を造る必要性があったのか?何故そうしなければならなかったのか?全く不思議でなりません。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2021年08月03日

662 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   草部吉見神社 祭神編

662 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   草部吉見神社 祭神編

20210701


太宰府地名研究会 古川 清久

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五年前の夏の大祭前日の写真 雨でぬれた30段の階段は注意が必要です


草部吉見神社の祭神についてはこの間何度となく書いてきましたので(2030本)、バック・ナンバーを読まれるべきですが、タイトルだけは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)660番から検索して下さい。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

660

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! D 阿蘇神社 祭神編

659

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! D 阿蘇神社 数理編


 ここではこの神社が何なのかについて別の側面から簡潔に申し述べておこうと思います。ご参考になれば幸いです。

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まず、同社の位置をご確認下さい。阿蘇外輪山南東側の丘陵から大峡谷に遮られる要害の地に草部吉見ことヒコヤイミミの本拠地があったのです。

北東は祖母、傾山山系の最大級の障壁に守られ、南には見るべき人口集積地もなく五ヶ瀬川の大峡谷によって守られる九州山地でも厳しい難攻不落の地だったのです。

 この地に雲南省麗江から海南島を経由し九州に進出した黎族の一派がいたのですが、その最も戦闘力を持った集団のリーダーがヒコヤイ(ハエ)ミミだったのです。

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彼ら(多氏、宇治氏、阿蘇氏)こそが、大陸で最期まで漢族…と最期まで闘い、それでも帰順しなかった栄えある一族だったのです。黎族は雲南省麗江から怒江(チンドウィン河)を降りホーチミンへ、白族は昆明から紅河(ファン河)を降りハノイへ…正面は海南島だったのです。

その彼らが列島に入り、現日本人のかなり割合で御先祖となっているのです。この両民族は、雲南省以来の盟友として列島の開拓に乗り出すのです。この一族こそ天御中主命=白山姫に象徴される刺国大神=白川伯王〜大幡主〜豊国主=豊玉彦=ヤタガラスの一族で、熊本から移動し博多を拠点に船による開拓に乗り出すのです。彼らは、一時的に高木大神の配下に入り、豊玉彦は長女豊秋津姫を妃とします。

 一方、阿蘇に拠点を得た黎族は、先住者でもあり高千穂(三田井)に拠点を置いていた高木大神=タカミムスビの傘下に入り、ヒコヤイミミは次女タクハタチジヒメを妃とします。話を元に戻すと、この日子八井命(ヒコヤイミミ)は実は彦山の正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミミコト)であり、阿蘇を弟の健磐龍に任せ、北に向かい東に進出するのです。

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これが後の藤原(多氏=宇治氏)氏になっているのです。

対して、阿蘇氏は養子として健磐龍の血を受け続けますが、この一族は高木大神の一族でしかなく阿蘇氏とは高木大神系の氏族なのです。いずれにせよ、阿蘇氏とは高木大神と手を組んで列島を支配する事になるのです。彼ら黎族の血は列島に住む者の最低でも二割はあるだろうと考えています。

 恐らく、阿蘇氏(黎族)と天御中主の一族(白族)を併せれば三割ぐらいにはなるのではないかと思うのです。

 前掲のグーグル・マップをご覧ください。大峡谷に挟まれているとは言え、草部と高千穂=三田井とが如何に近いかがお分かり頂けるはずで、この雲南省から入って来た生きのいい若者が高木大神に見初められた事はお分かりになると思うのです。このため、草部吉見は高木大神系の傘下に入った事から草部=伽耶(高木大神の本拠地新羅の大邱)部の吉見さんと呼ばれたのでした。

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麗江支那 手書きデータ 百嶋神社考古学初期03230121

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上)通信文(黎族)下)多大将軍と百嶋先生 手書きデータ 百嶋神社考古学初期05(不明)

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2011夏の大祭

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:15| Comment(0) | 日記

2021年08月06日

663 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   健軍神社 数理編

663 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!   健軍神社 数理編

20210703

太宰府地名研究会 古川 清久


健軍神社と言えば熊本では知らぬ者のない大社です。早速、田尻宮司の提案をご覧頂きます。

 この鳥居が何故このようにひしゃげた形になっているかについては、まだ、禰宜にも社務所にも問い合わせしていません。日吉神社ではかなり異形の鳥居もありますが、ここでは取上げません。


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健軍神社について、本誌はあまり触れておられません。熊本市の中心部にある大社だけにそれが何故かは分かりませんが、私も以前から気付いていたのですが、同社参道が雲仙普賢岳山頂にぴったり向けられていると言う現象だけははっきりしていますので、この問題を指摘されているブログをご紹介しておきます。

 無題.pngという熊本の地場のブログがあります。今回のテーマにとって関係がありますし、それ以上に貴重かつ重要な内容ですので、勝手ながら掲載させて頂きます。全文を掲載するのは失礼に当たりますので残りは直接お読み下さい。


2018630 () 健軍神社(熊本市)

熊本市東区健軍本町にある健軍(けんぐん)神社には、神社から266.5度方向、43kmにある雲仙普賢岳(今は平成新山に隠れている)に向かって一直線に伸びている長さ1.2kmの参道があります。その風景は43kmの見えない参道が普賢岳まで続いているようでもあります。

奥にうっすらと普賢岳(平成新山)が見えます。

さすがに43kmも離れていると間に有明海を挟んでいることもあって、晴れた日でもいつも霞んで一日中見えていることはほとんどありません。この神社を紹介した様々な記事でも参道が普賢岳方向に向いていることについては殆ど触れられていないようです。


画像1.健軍神社楼門前から見た参道。

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さすがに43kmも離れていると間に有明海を挟んでいることもあって、晴れた日でもいつも霞んで一日中見えていることはほとんどありません。この神社を紹介した様々な記事でも参道が普賢岳方向に向いていることについては殆ど触れられていないようです。


画像2.参道越しの雲仙普賢岳(平成新山)。

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しかし、境内にある国造社の祖(火国造)ともされる健緒組は健軍大神としてこの大きな神社の祭神筆頭にあります。これはこの地域での健緒組の強い影響力が長きにわたっていたことの表れと思われます。このことと雲仙普賢岳に向かう参道は無関係ではないように思えます。肥後国風土記逸文によれば土蜘蛛の討伐報告を受けた崇神天皇が健緒組に“海の民であるにも関わらずよく山の賊を討った”と言って功績を称えたといいます。健緒組は海洋渡来人だと言っているのです。(由緒書の影行天皇と時代が相違)

健軍神社の周辺は縄文時代からの遺跡が継続して出土し、いつの時代も何世代も人々の営みが続いていたことがわかります。画像の地図は藍色の部分が現在の有明海、青い部分が標高10m以下で古代の海・汽水域だった区域です。健軍神社の場所は入江になっていて天然の良港であったように見えます。弥生時代の始まり頃、或はそれ以前から、海を渡って来た多くの人達がこの神社の地を前進拠点とし、九州内陸を目指していったのだろうと思います。以下も貴重な話をかかれていますがここでは省略させて頂きます。

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本誌61


多少の疑問、健軍神社は北緯32475″(32p)であるのに対し、草部吉見神社は北緯324650″(49p)であるが(当方の好い加減な推定値)これを東西線と言って良いか?勿論、15”と少ない差ではあるが?

根子岳標高1408mに何故0.618を掛けまた何故20で割る必要性があるのか?

 グーグル・マップで健軍神社と草部吉見神社の距離を測定すると43.30kmでした。宮司は43.50kmとされています。これはどこで計測するかでこの程度の差は直ぐに出てくるでしょう。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記